夏休みにたまたま学校のベンチで会ったとき、日野は頭をぐるぐるさせていると言っていた。日野と同じく私も寝る前に頭を酷使していたら、気づいたときには夏休みが終わっていた。
四時間目が終わって、昼休み。
私はあの日以来、外のベンチに行くことはやめた。日野から風邪をひくと心配されたからだ。
教室で昼ご飯を食べるのは何年ぶりだろう。あまりに久しぶりだったので、その空気感に居心地の悪さを感じ、箸を握る手が少し震えていた。
でも、隣で黙々と食べる日野を見つめていたらそんな気分もどこかへと消えた。隣に日野がいるという安心感が、私を満たしてくれた。
「日野」
話さない方が不自然だったから、日野を呼んだ。
「なに? 八幡さん」
「良かったらこれ、食べてよ。ベーコンレタス」
「え、くれるの?」
「うん。お腹いっぱいだから」
私は弁当を日野に渡した。名付けて、タンパク質を与えて日野を太らせよう計画、だ。
「わっ、めっちゃ美味しい。ありがとう」
「良かった」
日野から弁当を受け取る。
「美味しそうな弁当だね」
「自分で作った」
「えー、すご」
大体が冷凍だ。誰でも作れる弁当に、なぜか日野は目をきらきらさせていた。
「八幡さんって自分で弁当作ってたんだ」
「毎日じゃないけどね」
「へぇー」
「あれっ、まさか意外とか思ってる?」
早起きしてる時点でまあまあしっかりしてるのは伝わってたはずなのに、え、ズボラ女認定されてた?
「違う違う。僕料理出来ないから本当にすごいなって」
「あ、そういう」
「意外なんて、そんな失礼なこと思わないよ」
「そっか、ありがと」
そこで会話はぷつんと途切れた。箸をご飯に向かわせたとき、しまった、と思った。
忘れていた。ここは教室だ。
後ろで固まって弁当を食べている女子たちや、日野とよくつるんでいる男子たちが、ざわざわと話し始める。勘違いをされたに違いない。
でも、なぜか私はそれが気にならなかった。最も避けていた事態なのに、いざ目の前にすると、案外冷静でいられた。
理由を語れば、それは多分、簡単な話じゃない。
寝る前の夜に頭をぐるぐるさせていたときに気づいたことがある。
私は、日野と「小説」という秘密を共有しているだけと思っていたけれど、そもそも私たちの関係自体、秘密の関係だった。友だちとも恋人とも言えないあの関係は、名前なんてつけられない関係だった。
それに、私は日野との秘密の共有がわりと嫌いじゃなかった。小説を書いていることを知られたのは、最初はもちろん嫌だったけれど、最近は特に何も思っていない。日野は私の熱狂的なファンである故、秘密をばらしたりしないから。私は日野を信頼している。もうありえないと思っていたけれど、信頼できる人を見つけてしまった。日野なら、信頼していいと、思った。
秘密と嘘は違う。本当は言いたいけど言えないのが秘密で、自分の都合のいいように誤魔化しているのが嘘だ。
考えを巡らせていたら、弁当箱は空になっていた。
手早く弁当を片付け、携帯を出す。夏休みにあのベンチで書いていた小説の続きを書くことにした。
さっきからずっと、皆の声が鳴り止まない。何を話しているのかは、微妙に聞き取れない。私たちのこと、だろうか。私と、日野。
別に話してくれていい。好きなだけ噂したらいいさ。
隣を見れば、日野もたった今食べ終わったらしい。日野はどう思っているだろう。聞こえているのだろうか。聞こえていないのだろうか。
弁当をバンダナで結んだ日野と、目が合った。反射的に逸らしてしまう。
私が携帯を握り締めていることに気づいて、日野が近づいてくる。
「何書いてるの?」
皆に聞こえないような小声で、日野が訊ねてきた。
「え」
「小説書いてたんでしょ?」
「まあ、うん」
事ある毎に日野は私のことを見抜いてくるなぁ、と思った。
「指の動き見たらわかる」
「バレてたか」
「バレバレ」
たしかに、私は迷うことなく指を動かしていた。この小説は、書くのが楽しい。
外のベンチで昼ご飯を食べなくなったこと以外に変わったことがあるとすれば、これかもしれない。
自他ともに認めるように、私には友だちがいない。それは今も昔も変わらない。
だから、小説を書いてきた。誰ともカラオケに行かないし、愚痴を言い合うこともないし、慰め合うこともない。蝉が鳴き始める時間まで起き続けて、ぐちゃぐちゃになった頭を酷使して、炎天下に晒され続けたチョコレートのように苦くどろりと溶けた感情を紡いできた。私にとって小説を書くことは、ある種の救いだった。
でも最近は、もう書かなくてもいいのかな、ということを考えるようになった。
隣にいる日野が原因になっていたのは明らかだった。
日野とは、なにかと一緒に出掛けることが多い。そういう時間の使い方をしていると、小説を書く時間など、なくなったのだ。
吐きそうになりながら吐き出すような感情も、近頃はすっかり私の中から消失していた。その根源を言語化しようとすると、私と日野の関係や、今までの出来事、その他諸々が形骸化されてしまうような予感がする。それが嫌で、私は、ずっと嘘をつき続けてきた。無意識のうちに、この関係を保とうと必死になっていたのかもしれない。
でも、この際、気持ちを整理してみるのもいいんじゃないか。私の内情をしっかり見破って上機嫌になった日野を見ていると、そんな誘惑が、暖かい湯けむりのように緩やかに立ち上ってきた。
「ねえ日野。まだ日野に教えてないこと、教えてあげようか」
共有なんてことは出来ないから、ずっと隠してた秘密。そんなの、山ほどある。
暴露してやろう。
夏休みに私の頭をぐるぐるさせていた内容とは、日野のことである。
私は日野との関係についてあれこれと考えを整理しようとした。でも出来なかった。整理なんてことが出来るほど、私は落ち着いてはいなかった。
そして、私の小説を介した秘密の共有について、最近は特に何も思っていないなんて嘘。
嬉しかった。褒めてもらえて、素直な気持ちを伝えてくれることが嬉しかった。日野に私の小説が読まれていることが。日野が私の小説を読んでくれていることが。とても嬉しかった。
ゲーセンに誘ってくれた昼休みは、今も鮮明に覚えている。私はあのとき、昼休み後の五限の授業は好きではないことを理由にした。けど、本当は。本当は、五限なんてどうでもよかった。五限が嫌だから抜け出したんじゃなかった。
ゲーセンに着いたあとは、結局メダルゲームしかやらなかった。一番奥の位置だったから、静かで居心地が良いって思ったけど。居心地が良かったのはゲーセンが静かだったからじゃない。
かき氷屋さんで、日野の意外な食の好みを知った。酸っぱいのが好きな人が珍しいというのを理由にして訊いたけれど、本当の理由はそうじゃなかった。
海にも行った。普通に過ごしてたら海に行くことがないからって理由を話した。でも違った。日野と同じ時間をもっと共有していたかった。方向音痴な私は、電車に慣れている日野が一緒だと助かるって言った。でも、それも、ほんとはそうじゃない。隣にいるのは日野が良かった。
こんな私を見て、後ろで噂をされてる。日野と付き合ってるんじゃないかとか、両思いなんじゃないかとか。
もう噂されてもいいって、思っちゃってる。ううん。噂してほしいって、思っちゃってる。
日野は立ったまま、猫背のままで、私を見下ろしている。
その猫背なところも好き。眼鏡がずれているところも好き。
もう教えちゃおうか、日野。
ゲーセンで、日野のことを友だちだ、って思おうとした。やっと友だちが出来た、って。
でも、想いが募れば募るほど、友だちという名前をつけたくなくなった。友だちじゃだめだった。私はこの関係に違う名前をつけたくなってしまった。
今までは、話せる相手がいないせいで溜まりまくった、どうしようもない感情を、小説に書き起こしてた。それはとてつもなくつらかった。でも、変わった。日野と出会ってから、小説を書くのが、好きになった。もう書かなくても生きていけるって思って、やめることも考えたけど、そうじゃなかった。書きたかった。
私はこの関係を文字に起こしたかったんだ、って、気づいた。
「大丈夫だよ」
またそうやって優しくするから。唇が変な形になってしまう。
「何を言われても大丈夫だよ」
日野が好きなんだ。
恋愛なんてよくわからないと思っていたけれど、それでも。
この気持ちだけは、嘘じゃない。
「日野」
君が何も言わずに私の言葉を待っていてくれるから。たった一つの真実を、確かめ合いたいから。
「実はね、この小説──」
私は今日、名前のないこの関係を、卒業する。
四時間目が終わって、昼休み。
私はあの日以来、外のベンチに行くことはやめた。日野から風邪をひくと心配されたからだ。
教室で昼ご飯を食べるのは何年ぶりだろう。あまりに久しぶりだったので、その空気感に居心地の悪さを感じ、箸を握る手が少し震えていた。
でも、隣で黙々と食べる日野を見つめていたらそんな気分もどこかへと消えた。隣に日野がいるという安心感が、私を満たしてくれた。
「日野」
話さない方が不自然だったから、日野を呼んだ。
「なに? 八幡さん」
「良かったらこれ、食べてよ。ベーコンレタス」
「え、くれるの?」
「うん。お腹いっぱいだから」
私は弁当を日野に渡した。名付けて、タンパク質を与えて日野を太らせよう計画、だ。
「わっ、めっちゃ美味しい。ありがとう」
「良かった」
日野から弁当を受け取る。
「美味しそうな弁当だね」
「自分で作った」
「えー、すご」
大体が冷凍だ。誰でも作れる弁当に、なぜか日野は目をきらきらさせていた。
「八幡さんって自分で弁当作ってたんだ」
「毎日じゃないけどね」
「へぇー」
「あれっ、まさか意外とか思ってる?」
早起きしてる時点でまあまあしっかりしてるのは伝わってたはずなのに、え、ズボラ女認定されてた?
「違う違う。僕料理出来ないから本当にすごいなって」
「あ、そういう」
「意外なんて、そんな失礼なこと思わないよ」
「そっか、ありがと」
そこで会話はぷつんと途切れた。箸をご飯に向かわせたとき、しまった、と思った。
忘れていた。ここは教室だ。
後ろで固まって弁当を食べている女子たちや、日野とよくつるんでいる男子たちが、ざわざわと話し始める。勘違いをされたに違いない。
でも、なぜか私はそれが気にならなかった。最も避けていた事態なのに、いざ目の前にすると、案外冷静でいられた。
理由を語れば、それは多分、簡単な話じゃない。
寝る前の夜に頭をぐるぐるさせていたときに気づいたことがある。
私は、日野と「小説」という秘密を共有しているだけと思っていたけれど、そもそも私たちの関係自体、秘密の関係だった。友だちとも恋人とも言えないあの関係は、名前なんてつけられない関係だった。
それに、私は日野との秘密の共有がわりと嫌いじゃなかった。小説を書いていることを知られたのは、最初はもちろん嫌だったけれど、最近は特に何も思っていない。日野は私の熱狂的なファンである故、秘密をばらしたりしないから。私は日野を信頼している。もうありえないと思っていたけれど、信頼できる人を見つけてしまった。日野なら、信頼していいと、思った。
秘密と嘘は違う。本当は言いたいけど言えないのが秘密で、自分の都合のいいように誤魔化しているのが嘘だ。
考えを巡らせていたら、弁当箱は空になっていた。
手早く弁当を片付け、携帯を出す。夏休みにあのベンチで書いていた小説の続きを書くことにした。
さっきからずっと、皆の声が鳴り止まない。何を話しているのかは、微妙に聞き取れない。私たちのこと、だろうか。私と、日野。
別に話してくれていい。好きなだけ噂したらいいさ。
隣を見れば、日野もたった今食べ終わったらしい。日野はどう思っているだろう。聞こえているのだろうか。聞こえていないのだろうか。
弁当をバンダナで結んだ日野と、目が合った。反射的に逸らしてしまう。
私が携帯を握り締めていることに気づいて、日野が近づいてくる。
「何書いてるの?」
皆に聞こえないような小声で、日野が訊ねてきた。
「え」
「小説書いてたんでしょ?」
「まあ、うん」
事ある毎に日野は私のことを見抜いてくるなぁ、と思った。
「指の動き見たらわかる」
「バレてたか」
「バレバレ」
たしかに、私は迷うことなく指を動かしていた。この小説は、書くのが楽しい。
外のベンチで昼ご飯を食べなくなったこと以外に変わったことがあるとすれば、これかもしれない。
自他ともに認めるように、私には友だちがいない。それは今も昔も変わらない。
だから、小説を書いてきた。誰ともカラオケに行かないし、愚痴を言い合うこともないし、慰め合うこともない。蝉が鳴き始める時間まで起き続けて、ぐちゃぐちゃになった頭を酷使して、炎天下に晒され続けたチョコレートのように苦くどろりと溶けた感情を紡いできた。私にとって小説を書くことは、ある種の救いだった。
でも最近は、もう書かなくてもいいのかな、ということを考えるようになった。
隣にいる日野が原因になっていたのは明らかだった。
日野とは、なにかと一緒に出掛けることが多い。そういう時間の使い方をしていると、小説を書く時間など、なくなったのだ。
吐きそうになりながら吐き出すような感情も、近頃はすっかり私の中から消失していた。その根源を言語化しようとすると、私と日野の関係や、今までの出来事、その他諸々が形骸化されてしまうような予感がする。それが嫌で、私は、ずっと嘘をつき続けてきた。無意識のうちに、この関係を保とうと必死になっていたのかもしれない。
でも、この際、気持ちを整理してみるのもいいんじゃないか。私の内情をしっかり見破って上機嫌になった日野を見ていると、そんな誘惑が、暖かい湯けむりのように緩やかに立ち上ってきた。
「ねえ日野。まだ日野に教えてないこと、教えてあげようか」
共有なんてことは出来ないから、ずっと隠してた秘密。そんなの、山ほどある。
暴露してやろう。
夏休みに私の頭をぐるぐるさせていた内容とは、日野のことである。
私は日野との関係についてあれこれと考えを整理しようとした。でも出来なかった。整理なんてことが出来るほど、私は落ち着いてはいなかった。
そして、私の小説を介した秘密の共有について、最近は特に何も思っていないなんて嘘。
嬉しかった。褒めてもらえて、素直な気持ちを伝えてくれることが嬉しかった。日野に私の小説が読まれていることが。日野が私の小説を読んでくれていることが。とても嬉しかった。
ゲーセンに誘ってくれた昼休みは、今も鮮明に覚えている。私はあのとき、昼休み後の五限の授業は好きではないことを理由にした。けど、本当は。本当は、五限なんてどうでもよかった。五限が嫌だから抜け出したんじゃなかった。
ゲーセンに着いたあとは、結局メダルゲームしかやらなかった。一番奥の位置だったから、静かで居心地が良いって思ったけど。居心地が良かったのはゲーセンが静かだったからじゃない。
かき氷屋さんで、日野の意外な食の好みを知った。酸っぱいのが好きな人が珍しいというのを理由にして訊いたけれど、本当の理由はそうじゃなかった。
海にも行った。普通に過ごしてたら海に行くことがないからって理由を話した。でも違った。日野と同じ時間をもっと共有していたかった。方向音痴な私は、電車に慣れている日野が一緒だと助かるって言った。でも、それも、ほんとはそうじゃない。隣にいるのは日野が良かった。
こんな私を見て、後ろで噂をされてる。日野と付き合ってるんじゃないかとか、両思いなんじゃないかとか。
もう噂されてもいいって、思っちゃってる。ううん。噂してほしいって、思っちゃってる。
日野は立ったまま、猫背のままで、私を見下ろしている。
その猫背なところも好き。眼鏡がずれているところも好き。
もう教えちゃおうか、日野。
ゲーセンで、日野のことを友だちだ、って思おうとした。やっと友だちが出来た、って。
でも、想いが募れば募るほど、友だちという名前をつけたくなくなった。友だちじゃだめだった。私はこの関係に違う名前をつけたくなってしまった。
今までは、話せる相手がいないせいで溜まりまくった、どうしようもない感情を、小説に書き起こしてた。それはとてつもなくつらかった。でも、変わった。日野と出会ってから、小説を書くのが、好きになった。もう書かなくても生きていけるって思って、やめることも考えたけど、そうじゃなかった。書きたかった。
私はこの関係を文字に起こしたかったんだ、って、気づいた。
「大丈夫だよ」
またそうやって優しくするから。唇が変な形になってしまう。
「何を言われても大丈夫だよ」
日野が好きなんだ。
恋愛なんてよくわからないと思っていたけれど、それでも。
この気持ちだけは、嘘じゃない。
「日野」
君が何も言わずに私の言葉を待っていてくれるから。たった一つの真実を、確かめ合いたいから。
「実はね、この小説──」
私は今日、名前のないこの関係を、卒業する。