「八幡さん……」
 不意に名前を呼ばれた。一瞬びくっとしてしまう。高校に入ってからは、授業中の名指し以外で名前を呼ばれることがなかった。
 誰かと思って声のしたドアの方を見たら、立っていたのはクラスメイトの日野だった。私と同じ理由により、隣の席で授業を受けている人だ。
 反射的に窓の外を見る。夕焼けが薄らと街を灼いていた。
 腕時計を確認すれば、ちょうど、五時。授業が終わってから三十分以上経っていた。
「えっと、そろそろ、帰る?」
 なぜか半歩下がってから、日野が聞いてきた。そんなに私が恐ろしく映っているのだろうか。
「あ、うん」
 それだけ言って、私は机の上に広げてあったノートやらシャープペンシルやら、持っていた携帯やらをカバンにしまった。
 日野の手に鍵が見えた。教室を閉めるつもりなんだろう。野洲先生に頼まれたのか。
 がたがたになっていた机をさっと直して、小走りで日野の元へ向かう。ついでに冷房を消した。
 教室を出ると、むわっと暖かい空気に包まれて、心なしかさっきより蝉の声が大きくなった気がした。
「八幡さん、遅いんだね」
 日野が、少しずれた丸メガネを直し、苦笑いをしながら言う。
「なにが?」
「いや、その、時間……」
 笑みが崩れた。もしかして、私と同じく人と話すのに慣れていないのだろうか。あまり、知らないけれど。もしくは、私が原因か? 日野の微妙に引きつった口を見て、なんだか申し訳ないなと思った。
「わりと、いつもこういう感じ」
 今日は日野に声をかけられたため、むしろ早めの帰宅かもしれない。集中していると時間を忘れてしまう。
「そうなんだ……先生の手伝い終わったから僕も帰るし、鍵、職員室に返しておくよ」
 日野は教室を閉め、鍵をちらつかせる。
「私って、そんなに緊張する?」
「え?」
 何気にプライベートで日野と話すのは初めてな気がした。もう三年生なのに、しかも隣の席なのに初めてというのは、おかしいかもしれない。でも、私は基本的にクラスメイトと話さないから、隣の席にいても日野と話すことはなかった。
「いや、怒ってるとかじゃないんだけど。日野って、そんな感じなんだ」
 日野の少し弱気な雰囲気が意外だった。
「そんな感じって?」
「そんな感じはそんな感じだよ」
 こういうところで具体的な言葉が出てこない辺り、受験生としては致命的かもしれない。
 日野は私と鍵を交互に見つめている。
「そうだったね。鍵、私が返すよ」
 教室を最後まで使っていたのは私だし、野洲先生の手伝いで疲弊しているであろう日野に申し訳なかった。
「え、いいの」
「いいよ」
「ありがとう……」
 日野がゆっくりと鍵を差し出す。夕陽を受けてぎらついたそれを受け取った。少し、眩しかった。
 私たちは、自然とそろって歩き始めた。日野も玄関までは一緒の道だから、自然というより必然のような気もする。気まずいとかは、なかった。
「あとさ、」
 階段を下りながら、本当は私より頭一つ分くらいは高いであろう日野を見つめて、言った。
「猫背すぎ。もっとしゃきっとしなよ」
 やっと言えた。最初に話したときからずっと気持ち悪かった。日野の猫背が気持ち悪いんじゃなくて、それを指摘できない蟠りが、もやもやと気持ち悪かった。
 日野は、はっとしたように目を大きく見開いて立ち止まり、胸を張る。恥ずかしいのか、戸惑っているのか、口が変な形をしていた。
「そうそう。そっちのほうがいい」
「よく、言われる」
「猫背?」
「そう」
 やっぱりさっきより高くなった。私の目線が上がった。
「いつからなの?」
「小学生からかも」
「ふーん。勉強の影響?」
「わからない。ゲームかも」
 日野が、ゲーム?
「日野もゲームするんだ」
「まあ……」
 放課後に理科の教師と実験を嗜んでいる日野が?
「へえー意外。ちょっと親近感」
「八幡さんもするの?」
「それなりに好きよ」
「そうだったんだ」
 ゲームもそれなりにするし、アニメもそれなりに見るし、アニメイトにもそれなりに行く。って考えたらアニメは「それなり」のレベルに収まらないか。
 日野は特に話を掘ってこなかった。そのまま無言の状態で、私たちは職員室の前に着いた。
「じゃあ、返してくる。先に帰ってくれていいよ。またね」
「うん、また」
 職員室には、担任の野洲先生がいた。授業中の雑談によると、日野と不定期で放課後に実験を楽しんでいるらしい。良い先生だ。
 私はぼーっと野洲先生を見ていた。すると、当然野洲先生は私に気がついた。しまった、と思った。
「おお、八幡じゃないか」
 腰に手を当てて話しかけてきた。少し出たお腹が強調される。白衣は薄く汚れていた。
「あ、どうも……」
 野州先生は私の左手に握られた鍵に視線をやって聞いた。
「あれっ? 戸締りしてくれたのか。日野に言ったんだけどな」
「私が最後まで残っていたので」
「そうか」
「はい」
 振り返っていつもの位置に鍵を掛けた。放課後、頻繁に教室に残っている私としては、慣れたものだ。
「日野とよく話すのか?」
 よく話すかと問われれば、そもそもプライベートでは、今日初めて話した。日野の、ちょっと弱気な感じは、知らなかった。名前は知っていた。それくらいの仲だ。
「いえ、まあ」
 誤魔化すしかない。もっと深掘りされて友だちがいないなんて悟られたら、優しい野洲先生は何をしてくるかわからない。
「仲良くしてやってくれよ? 良い奴だから」
「あ、はい」
 周りに沢山の教師がいるせいで、言いようのない恥ずかしさが私を襲った。
「人見知りだけど、良い奴なんだ」
「はい」
 完全に先生に好かれているではないか。まあでも、日野はそういうタイプではあるかもしれない。媚びを売っている訳ではないけど、教師たちに好かれる。そういうタイプ。
「もう少しで日が落ちるから、気をつけて帰れよぉ」
「ありがとうございます」
 日野と実験をした後だからか、野洲先生は機嫌がよさそうだった。授業に興味を示してくれる生徒というのは、教師から見て貴重なのだろう。
 お辞儀をして、職員室を出た。
「あ、八幡さん」
「あれっ、日野」
 日野がいた。猫背だった。そこにずっといたということは、野洲先生と話している間、待たせていたということだ。申し訳なさを感じた。
「先に帰っていいって言ったのに」
「なんとなく、先に帰るの嫌で」
「待ったでしょ。ありがとね」
「ううん」
 日野に、伝えておこう。
「野洲先生と話したよ」
「あ、そうなの」
 私は、こういうのは伝えるべきだと考えている。
「日野のこと褒めてた。いい奴って」
「そんな。ど、どうも……?」
 日野は、照れくさいような、むずがゆいような表情をした。視線が泳いでいる。ちょっと楽しかった。
「なんか、よく話すのかって聞かれたよ」
「え」
「私と、日野」
「んー……日直が一緒のときくらい?」
「そうね」
 八幡と日野。ハ行同士、日直はよく一緒になる。でも、話すのはそういうときだけ。日々の業務連絡だ。
「なんて答えたの?」
「テキトーに濁したよ」
 日野はふっ、と微笑んだ。そういえば、普段の高校生活でも、日野が笑うのを見たことはあまりなかった気がする。
「話したことほとんどなかったのに、よく名前覚えてたね」
「だって日野は……学年首席だし」
 そう。日野は、頭がいい。校内でも有名で、たしか高校一年の頃からずっと首席だ。
 日野の猫背を指摘したとき、私が勉強の影響を問うたのは、そのせいだった。
 でも、しっかり首席なところは、日野らしいと思う。野洲先生と放課後に実験を楽しんでいることは知っていたし、勉強が好きなんだなと、話したことがない私でもわかっていた。授業中に携帯を出す奴らとは大違い。ほんと、日野はすごい。
 俯いて項を掻くから、余計に猫背になった。
「日野が私を覚えてるほうが、すごくない?」
 私は、別に有名でもなんでもなくて。クラスメイトの一人のはずで。
「そんなことないよ」
 軽い気持ちで聞いた。だから、日野がぱっと見せてきた携帯の画面を見て、私は。
「これって、八幡さんの小説だよね」
 言葉を、失った。