穂香(ほのか)?まだ起きないの?学校遅刻するわよ」
下から母の声が聞こえる。ゆっくり顔を上げると、時計が七時半を回っていた。足先から這ってくる寒さを感じて、もう冬なんだなと実感する。ベッドを降りてスリッパを履き、一階に降りていく。
「おはよう穂香。お味噌汁飲む?コーンスープもあるわよ。」
「コーンスープがいい。」
「分かったわ。温めるから、顔洗ってきなさい。」
「うん、ありがとう」
リビングを出て、洗面台に向かう。洗面所の鏡の前に立って、自分の顔を鏡越しに見る。小さな唇に、若干の丸顔はあまり好きではない。顔をバシャバシャと適当に洗い、タオルで水分をふき取ると色つきのリップを塗る。血色感のなかった顔より、だいぶましになった気がする。深呼吸をした後に、洗面台を後にする。
「ちょうどいいわね、できたわよ」
ほかほかと湯気をのぞかせる先には、大きい粒のコーンが入っているコーンスープが入っていた。
「おいしそう。いただきます。」
「熱いから、気を付けてね。」
木製のスプーンを握って、一口飲む。冷えた体に、温かいコーンスープがじわっと広がっていく。
「今日も一段と冷えるわね。穂香、暖かくしていきなさいよ。」
「うん。昨日出したコート上から着てっていい?」
「いいわよ。風邪引かないようにね」
母は昔から心配性だ。これはきっと、私のせいだ。
一年前。私は近所に住んでいた桜井隼瀬(さくらいはやせ)と付き合っていた。告白してきたのは向こうからで、私は断ることができずに付き合った。もともと仲が良かったのもあって、気まずいとか恥ずかしいとかいう感情は全くなく、ずっと仲良く過ごしていた。しかし、ある日私たちは電車に乗っていける距離の動物園に来ていた。そんな時に言われた、彼の言葉。なんだったろうか。そのあとの出来事のほうが衝撃的すぎて、全く覚えていない。
「穂香?行かなくていいの?」
「ああ、行く。行ってくるね」
「えぇ。...穂香、大丈夫?しんどいなら、無理せず休んだ方が、」
「え...あ、大丈夫。ごめんね、心配かけて。寒くてぼーっとしてたみたい。」
「そう?それならいいけど...」
母は私が家を出る瞬間まで心配する目を向けていた。申し訳ないな、と思いながらも家を出た。
 外はすっかり秋模様から姿を変えて、枯葉がカラカラと音を立てて駆けていく。枯葉を踏めばパリッと潰れる。その感覚ですら、彼のことを連想させる。
「はぁ」
重いため息を吐けば、心配してくれた彼はもう隣にはいない。この事実からこの気持ちはもう捨てきったと思ったのに、実際は全くそんなことはなかった。
「穂香?」
唯奈(ゆいな)。おはよう」
後ろから声をかけたのは、昔からの友人、竹早(たけはや)唯奈だった。私が幼いころから仲良くしていて、心を許せる唯一の友人と言っても過言ではない。
「最近寒くない?今日の朝もなかなか布団から出れなくてさぁ」
彼女はそういってケラケラ笑った。
「分かる。私も寒くて布団から出れずにいたらお母さんにたたき起こされちゃってさぁ」
笑いながら、そんな話をする。
「そういえば、彼とはどうなの?彼とは」
はて、彼...?私は思わず唯奈の顔を眺めてしまう。
「彼って、なんの...?」
恐る恐るそう尋ねてみると、唯奈は笑いながら言った。
「何言ってんの?隼瀬のことだよ。」
唯奈は、私が一番恐れていた名前を口にした。何言ってんの、とはこちらのセリフだ。隼瀬は、一年前に亡くなったというのに。
「だって、もういないんじゃ...」
「えー?本当に何言ってんの?そんなこと言ったらさすがの隼瀬も泣いちゃうぞ?」
開いた口がふさがらないとはこのことを言うんだと、改めて実感する。
「唯奈、忘れちゃったの?」
「え、何のこと?今日提出する課題なんてあったっけ?」
何を言っているんだ、本当に。私は彼の名前を口にしようとした瞬間に、胸がひどく痛んで言葉にできなかった。
「早くいかないと、遅刻するよ?走る?」
「あ、うん」
もやもやした気持ちを心にとめたまま、私たちは走り出した。
朝学校に着くと、後ろの方に男子の大群があった。私は邪魔だなと思い間を通ろうとした。しかし、聞き覚えのある声を聴いて足が沼にはまったように動かなくなった。
──隼瀬...??
私は男子の大群の真ん中を見た。
「うそ...」
バサッと、足元に鞄を落としてしまった。
「お、穂香。」
彼が、私の名前を呼んだ。
「どうした?そんな鳩が豆鉄砲を食ったような顔して」
「い、いや...なにも、ない。」
拾ってくれた鞄を受け取り、動揺をこれ以上見せないようにそそくさと自席に座った。
何でだろう、私は夢でも見ているのだろうか。もし夢なら、こんな気味の悪い夢から早く覚めさせてほしい。
震える手を握って温める。これは夢だ、と何度も心の中で何度も唱える。
「大丈夫か?俺、なんかした?」
隼瀬が心配そうな目でこちらを見てくる。私はすぐに大丈夫と答えたが内心ちっとも大丈夫じゃなくて。
「悪いな、最近一緒に帰れなくて。部活が忙しくて」
「全然、平気。」
もう居ないはずなのに、自然と言葉が口に出る。
「また今度お前が好きって言ってたクレープ奢る。なあ、いつ空いてる?」
「いつでも...」
きっと彼は、暖かい視線を向けて話してくれているだろうけれど、私は怖くて彼の目を見て話せない。もしこれが実は偽物で、唯奈のドッキリでしたなんて言われたら私はきっと体の力が抜けて立っていられないだろう。
「ねぇ」
「ん?なんだ?」
「変なこと、聞いてもいい?」
隼瀬はさっきまでトーンの落ちた声で会話をしていたが、私がそう聞くと彼は声のトーンがぐっと上がった。
「もちろんだ。何が聞きたい?」
「失礼かもしれないけど⋯⋯隼瀬、本物?」
突拍子過ぎただろうか。隼瀬も口を開けて驚いている。先程隼瀬が言っていた鳩が豆鉄砲を食らったような顔とはまさにこの事なんだろうと、身に染みて実感した。
「なんだ穂香、新しい映画でも見たのか?」
「ち、違う...ねぇ、隼瀬。実は⋯⋯」
話を続けようとしたが、チャイムが鳴った。私と隼瀬の席は離れているため話すことが出来ない。私はおとなしく席に座ると、未だバクバクと鳴る心臓を落ち着かせるように胸を抑える。これから始まる授業に集中できる気がしなくて、カバンから教科書を取り出す手が止まっていく。
「特に今日は連絡はありません。今日も一日、頑張っていきましょう」
担任の先生の言葉を聞いて、私は気持ちに決意をつけて騒がしい教室をかき分けて先生のもとに行く。
「すみません。ちょっと気分が優れないので保健室に行ってきます。」
「大丈夫か?誰かに、ついて行ってもらうか?」
「いいえ、大丈夫です。ひとりで行けます。」
「そうか。もしなんかあれば、先生に言いなさい。」
先生は優しい顔を見せてから、忙しそうに教室を出て行ってしまった。
「穂香?どこ行くの?」
「ちょっと気分がすぐれなくて。保健室に」
「大丈夫?ついていこうか?」
「ううん、平気。授業も始まっちゃうし、唯奈も席に座っといて。」
気を遣ってくれた唯奈に断りを入れて、私は保健室に向かう。
「失礼します」
「あら、どうしたの?」
「少し気分が悪くて。休ませてもらってもいいですか?」
「もちろんよ。ベッド使う?」
「はい」
少しひとりになりたくて、保健室のベッドを借りる。制服を緩めるとベッドに潜る。保健医の先生はベッドを囲うカーテンを全て閉めてくれる。私はベッドから体を上半身のみ起こし、今さっきまで目の前で起きていた状況を整理する。
一年前、隼瀬が亡くなったのは嘘だった?
否、そんなはずがない。なぜなら、私はこの目で隼瀬の亡くなる瞬間を見たからだ。それは今でも私の心の記憶に貼り付いていて離れない。だからこそ、あんなふうに元気に笑う隼瀬の姿を見て信じられないのだ。
チャイムが鳴る。一時間目のスタートだ。
色んなことを考えていると、本当に頭が痛くなってくる。なにより、今目の前で起きている事が信じられなくて苦しい。そりゃ勿論隼瀬が亡くなったのは嘘で、あの日私が見たのは悪い夢だった、なんて言われたら心から喜ぶだろう。
(みなもと)さん、休んでるところ悪いんだけど⋯⋯記録書いてもらってもいいかな?」
「あ、はい。今出ます」
保健室に来たからには、来た理由や自分の体調などを記入しなければならない。私はベッドから降りて、カーテンを開けて椅子に座る。
「少し顔色も悪いわね。今朝熱測った?」
「いえ、少し悩み事があって。でももう、大丈夫です。解決したので」
つい口が滑ってしまい、私は後半早口でまくし立てた。保健医の先生も少し驚いたような表情になったが、「解決したなら良かったわ」と言ってパソコンに向かった。
私は芯の短くなった鉛筆で、自分の体調や睡眠時間などを記入していく。まだ震える手を、もう片方の手でゆっくり抑えた。
「先生、書けました。」
「ありがとう。もう休んでいいわ」
先生は記録を受け取ると、優しくベッドまで案内してくれた。再び一人の時間が戻ってきたが、これ以上考えるのは辞めて目を瞑った。

「穂香?」
「しーっ!寝てるでしょ?」
2人の騒がしい声で目が覚め、私はゆっくり2人の方を向いた。
「あれま、起こしちゃったかな」
「うん、騒がしいふたりが来たなぁと」
「穂香が体調崩したって唯奈から聞いて、すっ飛んできた」
隼瀬はそう言ってへへっと笑った。唯奈もこちらを心配する様子も見られたが、いつものようにおどけている。
「もう教室戻れるよ。心配かけてごめんね」
「まだ休んでた方がいいんじゃない?顔色悪いよ」
「ほんとだ。そういや穂香が3ヶ月くらい前にめっちゃ体調崩したとき、お前の母親から俺言われてんだよ。「もし穂香が無理してたら止めてあげてね」ってな」
「うーん、余計なことを⋯⋯」
確か、私は三ヶ月前に本当に具合を悪くさせて1週間ほど寝込んだ。しかし、その時にも近くに隼瀬はいなかった。なのにこのことを知っていると言うことは、最早その場に隼瀬が居たと認めるしかないのだろう。逆に冷静になってきた私は、隼瀬との再会を心で喜びながらも会話を続けた。
「そういや今日の朝穂香がさ、隼瀬はもう居ないとか言ってて凄く面白かった。穂香って普段はあんまり冗談とか言わないからすごいビビった」
「はぁ?穂香、酷くね?」
「ごめんって。あのほら、不可抗力って言うの?」
私は慌てて出来事を否定して、どうにか笑いに変える。
「ほら、最近一緒に居てくれないからその仕返し?って言うか、なんと言うか⋯⋯」
「分かったって、俺も悪かったな。また今度クレープ奢るから許せって」
「じゃあ私の分もね?」
唯奈がそう言い、みんなで控え気味で笑った。こんな日が、また味わえるなんて思ってもいなかった。私は小さなしあわせを噛み締めた。

      ︎✿

「お兄ちゃん」
「ん、どうした?」
隼瀬が戻ってきてから数日後。私はどうしても気になり意外と物知りな兄に、この出来事をオブラートに包み伝えてみることに決めた。
「死者が生き返るっていうか、実は死んでなかったみたいな出来事って過去にあった?」
「⋯⋯興味深い話だね。でも残念だけど、俺は知らないな」
「そっか。理論上、それは有り得る?」
「ある⋯⋯って言いたいところだけど、物理的には無理。全身に電流を流せば生き返るとか言うウワサがあったけど、それはただの噂だったしね」
「そうなんだ⋯⋯」
やっぱり、あの隼瀬は私が見せている幻なのだろうか。でも、幻だとしたら唯奈もクラスメイトもおかしい。
「どうしたの?だいぶ変な顔してるけど」
「失礼な、これでも悩み事があるんです」
「ふぅん」
所詮、兄は兄だ。私は少し残念な気持ちを抱えながら部屋に戻ろうとした。
「⋯⋯生き返った?」
「え⋯⋯」
一瞬そんな声が聞こえた。私は咄嗟に振り返ると、ふふっと笑った兄の姿が。
「突然そんなこと聞いてくるから、一体何事かと思ってね。」
「い、生き返るって、誰が⋯⋯」
「⋯⋯隼瀬くん、とか?」
私は酷い衝撃を受けたように動けなくなる。言葉にしようとしても音にならず、口をパクパクさせる。
「ない話ではないよ。まぁ、本の中の話だけど。どう?聞きたい?」
「⋯⋯うん」
私は自室に帰りかけた足を戻し、兄の元に歩く。ベッドに腰をかけ、椅子に座っている兄の方を向く。
「この本。軽い内容は、死んだはずの恋人が突然生き返る⋯⋯と言うか死んだと言う記録が全く無くなったって言う方が正しいかな」
「ちょっと、貸して」
私は震える手を抑えて、兄から本を受け取る。内容をパララっと覗くと、有り得ないけど納得せざる得ない内容が書かれていた。まさに、自分と全く同じ現象。
「これ、終わり方はどうなの?」
「さぁ。でも一般論で言うとメリーバッドエンドだね。」
「メリーバッドエンド?」
「そう。読者の受け取り方で、終わり方が違うやつ。例えば⋯⋯飛び降りたカップルが、生き残るエンドかそのまま死ぬエンドか、どちらとも受け取れる終わり方のこと」
「な、なるほど⋯⋯」
曖昧な返事で返すと、兄は笑って「難しいよね」と言った。
「お兄ちゃんはどっちだと思う?ハッピーエンドか、バッドエンド」
「俺はハッピーエンドだと思うよ。読んでみないと分からないかもしれないけど、2人だけの世界が幸せか不幸せかっていう問いかけなの。俺は2人だけの世界とか割とエモくて好き」
「批評文だと零点だねその回答」
「いいの、そんなこと。俺の回答なんだから」
「傲慢だな」
信じてくれたのか否かは分からないけど、とにかく似たような事を話せて少しすっきりした。私は兄に軽く礼を告げて部屋を出た。

良く考えれば、隼瀬が本物だろうと偽物だろうと近くに居てくれるだけで幸せだ。それに、突然起こった現象に慌てているのは私だけだ。つまり、私だけが対応すればいい。そんなに難しい話ではなかった。
「なーんだ」
無駄に入っていた力を抜き、深呼吸をする。新鮮な空気が入ってくる感覚があって、ゆっくり目を開けた。
「穂香ー?隼瀬くんが来てるわよー」
「え、分かったー!」
一階から母親がそう叫び、私も返事をする。階段を駆け下り、玄関に向かう。
「どうしたの?」
「少し話したいことがあって」
私は少し不思議に思い、なんでと尋ねる前に隼瀬の目の圧を感じて、靴を履いて外に出た。
「話って?」
「穂香、なんでここに俺がいる?って思ってるでしょ」
兄と言い隼瀬と言い、何故みんな察しがいいのか。
「な、なんで?」
今度は、しっかり聞いた。この緊張感を分からせないために、隼瀬とは顔を合わせられなかった。
「俺が過去に一度、死んだって言ったら信じられる?」
全身に力を込めても無駄だった。膝から崩れ落ちる感覚は、隼瀬が亡くなった瞬間と同じ感覚だ。
「そりゃ、信じるよ⋯⋯信じたくないけど」
「だよな。と言うか、穂香には辛い思いをさせたな」
「本当だよ!あんなに辛かったのに、またケロッと現れるんだから」
「はは、そうだな」
そう言って笑った彼は、笑ったと思っているだけで実際は全く笑っていなかった。
「⋯⋯ねぇ、本当に生き返ったの?」
「生き返ったって⋯⋯まぁ、周りから見たらそうかもしれない」
「でも、唯奈たちは何にも言わなかったよ?」
私がそう言うと、隼瀬はむず痒そうに口を結んだ。
「俺が死んだって言う記憶は、穂香しか持ってない」
当たり前のことなのに、なんだか胸が痛くて言葉を声に出せなかった。
「そっか。⋯⋯隼瀬は、これからもずっと一緒に居られるの?」
ただ、単純に気になった。もしこれから一緒に居られるのならば、亡くなったと言う記憶は無くして新しい記憶を作っていけばいい。
「⋯⋯それは、無理かもしれない」
「え⋯⋯ど、どうして?」
聞くのが怖かった。でも、咄嗟に聞いてしまった。怖い。次の言葉を聞くのが。
「俺が、穂香を愛したから」
なんとも言えない虚無感とは、この事なんだなと実感した。
「なに、それ⋯⋯私が隼瀬を好きにならなければ良かったってこと?」
「そんなこと言ってない」
「でも、結局はそういう意味なんでしょう?」
「だから違うって⋯⋯」
昔から言葉足らずで、日本語もぐちゃぐちゃで何言っているのか分からない隼瀬だったけど、今日の出来事は全て頭にすんなり入ってくる。私が隼瀬を好きになって、隼瀬が私を好きになったから今のような不思議な現象が起こっていると、隼瀬は言った。つまり、私が隼瀬のことをしっかり忘れられれば隼瀬もきっと楽なんだろう。私は一方的な思考を走らせてその場から逃げ出した。
「穂香!」
隼瀬は、私を追い掛けては来なかった。

「穂香?どうしたの」
「⋯⋯ちょっと、喧嘩しちゃって」
私は偶然近くにあった唯奈の家に逃げ込んだ。唯奈は驚きながらも家に案内してくれ、私は唯奈の部屋で一呼吸した。
「ごめん、突然押しかけて。」
「いや、それは全然いいんだけど⋯⋯喧嘩って、隼瀬と?」
唯奈はとても珍しそうにそう聞いた。私と隼瀬は全く喧嘩せず過ごしていた。からこそ、私と隼瀬が喧嘩をしたと聞いて唯奈は驚いているのだろう。
「まぁ、喧嘩って言っても私が一方的に怒っちゃったんだけど⋯⋯」
「ははーん、穂香もまだまだ子供だねぇ」
「うっ。わ、分かってるよ⋯⋯」
イタイ所を突かれ、私は言い訳もできず素直に認めた。
「まぁまぁ、私の話を聞きなさい」
唯奈が突然そう言い出したので、私は座り直して唯奈の方を向いた。
「⋯⋯これから話す内容は、少し難しいかも?だから、理解できなかったら言ってね」
「う、うん。」
唯奈はコップに入っていた麦茶を一口飲むと、話し始めた。
「私が中学二年生の頃かな?初めて恋人っていう存在ができたの」
唯奈の恋バナだった。普段は聞くことがなかったので、少し新鮮だなと思いつつ話に耳を傾ける。
「その恋人は、女の子だったんだけど。重い病気を持っててね」
「うん」
「それで、その子は毎日死にたいって言ってた。私はもちろん止めたし、自分なりにも最適な言葉をかけてた」
「⋯⋯でも、その子は私たちの3ヶ月記念日の一日前に自殺で亡くなった」
「え⋯⋯」
言葉を、かけられなかった。なんて言ったらいいのか、なんて声を掛けてあげれるべきなんだろう。
「ああ、そんなに気に病まないで。悲しむのは私とその子の親だけでいいし、穂香がそんな思いになる必要は無い」
唯奈が、そう言ってくれた。私はなんとも言えずただ頷いた。
「言いたいことが言えるのは、いつでもとは限らないよ。大事な人がいるなら、その人は大事な人のままでいいんだよ」
心が、すとんと着地する。
「変われるのは、関係じゃなくて心じゃないかな?」
そこで、やっと私は隼瀬の気持ちと自分自身の気持ちに気がついた。私が隼瀬を好きになったからこの現象が起きていることには変わりないけど、何故こんな現象が起きてしまったのか、たった今理解した。
「唯奈」
「うん、分かってるよ。早く行ってあげな、恋人の元に」
我ながら、優しくて空気の読める良い友達を持ったなと思った。私は感謝の言葉を告げると、靴を乱暴に履いて唯奈の家を飛び出した。

「隼瀬⋯⋯ッ!」
「穂香⋯⋯」
隼瀬を探し回ること20分後。私は家の近くにある公園に訪れていた。そこには隼瀬がいて、ブランコに座っていた。
「ごめんな、俺変なこと言って。昔から癖なんだ、言葉をひとつ付け足すのを忘れちまう」
「違う」
私が咄嗟に否定の言葉を入れると、隼瀬は驚いたように目を丸くさせてこちらを向いた。
「私が、一人で勘違いしてた」
「⋯⋯と言うと?」
「この現象が起きてるのは間違いなく私が隼瀬を好きになって、隼瀬が私を好きになったから。これは間違いなく事実」
「うん。」
私がそこまで言うと、隼瀬の顔はどんどん暗くなっていく。
「でも、隼瀬がここに戻ってきてくれたのは⋯⋯私と、別れ話をしたかったからでしょう?」
ヒュッと、隼瀬が息を飲む音が聞こえた。それでも私は止まらなかった。
「あの日、私は学校から帰ってた。部活の先輩と一緒に。」
そう、あの日。私は同じ部活にいる異性の先輩と無理やりという形で一緒に帰っていた。
「隼瀬はそれを見て、私の間に入り込んだ。」
浮気と勘違いしたのかは知らないけど、あの時は隼瀬が来てくれて嬉しかった。
「でも、隼瀬は私に軽蔑の目を向けた」
私は否定したかった。でも、その否定の言葉が逆効果だったようで。
「私も、勝手に勘違いされた隼瀬に怒った。」
あの時、隼瀬に「俺のことは好きじゃなかったんだな」って言われて、私も怒ってしまった。こんなに隼瀬が好きなのに、なにも伝わっていないんだな、と。
「逃げ出した私の真横に、スピードを出したトラックがいた」
「辞めろ」
ここでやっと、隼瀬が制止の言葉を入れた。
「⋯⋯今、ここで言わないと私が持たない」
「いい。穂香が、今幸せでいてくれるなら」
「幸せじゃない!私が、ここで『成長』しない限り⋯⋯私がここで、昔の自分と『卒業』しない限り!」
そう、叫んだ。お腹の奥から、そう叫んだ。
「⋯⋯穂香はもう、昔の穂香じゃない」
「そうやって、私を甘やかすのも昔からの癖じゃないの?」
「甘やかしてなんかないよ。俺が知ってる昔の穂香は泣き虫で、自分から意見も何も言えなくて、無口で。でも今の穂香は?滅多に泣かないし、さっきだって自分の言葉をしっかり言えていた。十分だと思わないか?」
ぐっと、堪えた。
でも、無駄だった。
ポロポロと零れる涙は、ダムが決壊したように止まらなくて。
「⋯⋯はは、滅多に泣かないは嘘だったみたいだな」
ずび、と鼻を鳴らす私の頭を隼瀬は撫でた。
「私、成長できた?私は、1人でも生きていける?」
「大丈夫。穂香はちゃんと成長したよ。一人で生きていけるかは分からないけど⋯⋯悔しいけど、俺よりいい人を見つけろ。そうすれば、俺も安心出来る」
「やだ。隼瀬よりいい人なんていない」
「じゃあ忘れるな、俺を」
「当たり前じゃん」
ようやく涙の止まった私と、隼瀬は目を合わせて笑った。

      ︎✿

翌日。いつもより腫れぼったい目をした私が鏡の向こうにいた。その姿を見た母親は驚いていたが、何も言わず朝ごはんを出してくれた。
「穂香」
「なに?」
「お母さんは、いつだって穂香の味方だからね」
「ふふ、なに突然。ありがとう、嬉しいよ」
お母さんは、それだけを言うとキッチンに戻っていった。私はそれを見ると、隙を見てリビングを出た。
部屋に戻ると、メッセージが二件入っていた。どちらも、隼瀬からだった。
『今夜、暇?』
『もし暇だったら、穂香の家の近くにある河川敷公園に来て』
もう、終わりなんだと実感した。私はオッケーと書かれた犬のスタンプを送り、ボスンとベッドにダイブした。
「今日、何着ていこう」
ポソ、と出た言葉が服装だった。何を言おうとか、何か持っていこうって言うのはきっと私たちには似合わない。手ぶらで、髪もまともにセットせず服装だけは気合い入れて。それが私たちの形だ。
私は再びリビングに戻った。
「お母さん、今から服屋に連れて行ってくれない?」
「えぇ、いいけど⋯⋯どうしたの?突然」
「ちょっと、新しい服が欲しくなって」
「分かったわ。すぐ準備して行くわよ」
私は自室に戻り、適当に私服を上下着る。下に行き、母親と合流して車に乗った。
「珍しいわね。どういう服が欲しいの?」
「それは言ってみてからのお楽しみかな?」
「ふふ、そうね」
母親はこれ以上私に聞くのをやめ、運転に集中し出す。私も携帯を取りだし、男子高校生に人気な服装を調べる。
こんな派手な格好はきっと隼瀬は好きじゃないし、これはこれで質素過ぎる。服選びというのは難しいものだ。
「着いたわよ」
案外すぐ着き、私は車から降りて服屋に入った。
「お母さんも服見てるから、欲しい服があったらカゴに入れていきなさい」
「うん。ありがとう」
カゴを受けとり、早速店内を歩いて回る。
会うのは夜だし、あまり黒色を選んでしまうと見えにくくて最期の別れには向いてなさそうだ。逆に白だと、私っぽくなくて隼瀬は気に入らないだろう。
「じゃあ⋯⋯」
自分の持っているのと全く同じ服を、手に取る。
「やっぱりこれかな」
隼瀬が好きと言ってくれた服で。
私はカゴに服を入れた。
「一着でいいの?」
「うん」
レジを通して、車に乗り込む。
「同じ服持ってるんじゃない?」
「持ってるけど、汚れちゃって」
変な言い訳をして、何とか通した。
家に到着すると、服をハンガーに掛けた。

気がつけばもう月が顔を出していて、私はゆっくり起き上がって新品の服に手を取る。
しかし、考えて辞めた。
既に使用している服の方に手を取り、腕を通す。お母さん、せっかく買ってくれたのにごめんなさいと心の中で謝って。
髪の毛もろくにしないし、メイクだってさっぱり。色つきリップを適当に塗って。
「どこへ行くの?」
「少し友達と約束があって。夜ご飯は用意しておいて欲しいな」
「分かったわ。気をつけてね」
お母さんはあっさりそう言うと、テレビの方を向いた。私は少し高めのヒールを履いて、家を出た。
冷たい風が頬を撫でる。でも、不思議と寒くはなかった。前に進む足が少し重くて、時々立ち止まる。
でも、ダメだ。立ち止まっては。私は止めたばかりの足を引きずって歩いた。
「遅かったな」
「バカ。」
公園に着くと、隼瀬がブランコに乗っていた。私もその隣に座る。
「寒くなかった?」
「うん。何故かね」
ギィ、とブランコが音を鳴らす。
「じゃあ俺、もう行かなきゃ」
「もう戻って来れない?」
「⋯⋯俺は、一度死んだ人間だからね」
きゅ、と唇を結ぶ。
「幸せになれよ」
今度は、唇を強く噛んでも無駄だった。目から溢れる涙は止まることを知らないように次から次へと流れてくる。
泣いちゃだめだ、今は隼瀬を笑顔で見送らなければ。
「うん。絶対、幸せになる」
「もしならなかったら、俺がここ(前世)に戻ってきた意味がなくなっちまう」
「分かってるよ。」
私がそこまで言うと、隼瀬は安心したように笑った。
「まぁ、お前なら何とかなるな。」
ならないよ、と叫びたかった。
「うん。」
ざり、と砂の地面を靴で擦る。
隼瀬が行ってしまうのがわかった。
「ねぇ」
最後に、つい呼び止める。
「抱きしめて」
ぼそり、と呟いた言葉は隼瀬に届いているか分からなかったけど、十分届いていたようだ。隼瀬はゆっくり私の方に歩いてきて、ぎゅうっと力強く私を抱きしめた。
「穂香の匂いする」
「新しいの買ったんだけど、やっぱり古い方を着てきたの」
「うん、いい判断。」
隼瀬の胸元に鼻を埋めるが、隼瀬の匂いはもうしない。
「本当に、そろそろ行かないと」
「うん、わかった。」
お互い離れると、隼瀬は私から距離を取っていく。
「幸せになるから。隼瀬よりもいい男を見つけるから!!」
「はは、それは何だか悔しいな」
お互い、目を合わせる。
「またな」
ぐっ、と喉の奥が痛くなる。
「またね」
隼瀬はどんどん奥に歩いていって、暗闇に飲み込まれていく。私は咄嗟に追いかけたが、もう隼瀬の姿はなかった。私は隼瀬の抱きしめてくれた微かに残る暖かさを胸に抱きしめて、静かに泣いた。

ぱたん、と自室の部屋の扉を閉める。何とも言えない虚無感を胸に抱いて、ベッドにダイブした。
なぜ、隼瀬がこの世界に戻ってきてくれたのか詳しいことは分からないけど、きっと昔の出来事を引きずっている私を変えるために、帰ってきてくれたんだろう。隼瀬の優しさを素直に受け止めるとともに、隼瀬に宣言したようにいい男を見つけて、幸せになってやろう。私には、それが許されている。たまにでもいいから、隼瀬のことを思い出そう。それで、きっといい。私が変わるため、昔の気持ちから卒業するために起きた出来事。私は絶対忘れない。