※※
「美波、また明日ね!」
「美波ー、まったね〜」
「うん、千幸も一花もまた明日」
放課後、いつものように私達は教室で挨拶を交わすとそれぞれの場所に向かっていく。
千幸はバレエのレッスン、一花はカラオケボックスへバイト。そして私は教室から二つ上の階に上がり、さらに隣の旧校舎にある図書館へと向かう。
(今日も空いてるな……)
私は元々読書が好きでピアノのレッスンの日以外は図書館で日が暮れるまで本を読んでいた。
主に読むのはミステリー一択だったが、いまは口話の本ばかりだ。耳が不自由になってからは読書を楽しむためというよりも学ぶためにここに来るようになった。
私は読みかけの口話の本を言語の棚から取り出すと、いつものように一番奥の席に座る。図書室の目の前はガラス張りになっており、運動場と背の高い時計が見える。
(えっと……前回は七六ページまで読んだっけ)
本当なら借りることさえできれば、持ち帰って家で学ぶことができるのだが、耳が不自由なことを周りに隠している私はこの本を借りる勇気がどうしても出なかった。
もし誰かに借りるところを見られたりしたら、不自由なことがバレて変な噂を立てられるかも知れない。皆んなから哀れまれたり、変に同情されるのはどうしても嫌だった。
耳が不自由になってから、そんなまだ起こってもない悪い想像ばかりをしては、私は暗い気持ちになって、以前よりもさらに内向的になった。
「やっぱ……ラとレの音が読み取りづらいんだよね……」
私は本を眺めながら、静かにため息を吐きだした。
(今度……お母さんが帰ってきたらもう一回聞いてみよ……)
私の母はピアニストをしており今も講演があれば三百六十五日、日本中を飛び回っている。私が幼い頃から音楽とピアノが大好きなのは母の影響だろう。
幼い頃、初めて観に行った母のコンサートで、母が煌びやかなドレスを身に纏い、母の指先から紡ぎだされる繊細なメロディーに観客たちが心を震わせ涙し、歓喜の拍手を送る景色は幼かった私にとって衝撃的で自慢の母になった瞬間だった。
──いつか私も。
そんな風に夢見てピアノに励み音大を目指していた私だったが、もう夢見た世界を実現することは難しいだろう。今まで思い描いてきた未来の景色は意図せず変わってしまった。
「……音大行きたかったな……」
母は聴力回復を信じてあらゆる病院に私を連れて行ってくれた。そして自分ができる限りサポートするから大学もこのまま音大へと言ってくれたが、私はどうしても頷くことができなかった。
耳が不自由になった私が音大へ行けば、音楽の世界では少し名が知れているピアニストの母の顔に泥を塗るような気がしたし、他の未来の音楽家を目指して入学してくる同級生たちより自分がスタート時点からはるかに劣っている気がして前向きになれなかった。
「……最後に卒業式の伴奏だけは……完璧に弾きたい……」
私が卒業式で弾く卒業ソングはは数年前に流行ったJ-POPで男性ボーカルが優しいメロディーに合わせて伸びやかに歌い上げているのだが、今度の卒業式では男女にパートを分けて主に女子生徒が高音のハモリをいれることになっている。
春に卒業式でのピアノ伴奏という大役を任されたときは嬉しくてしょうがなかったのに、今は重圧に押しつぶされそうだ。聴力が完璧じゃない故に音を外さないか、歌詞と歌詞の間の微妙な間を上手く空けて、歌いだしに合わせて弾くことができるか、不安を数え上げたらキリがない。
「はぁあ……」
私は口話の本を更に数ページ捲ったが、何だか気持ちが沈んできてそっと本を閉じた。その時、頭上から知っている声が聞こえてくる。
「……やっぱ聴こえてないんだ」
──え?
聞き覚えのある低い声に身体がビクンと跳ねる。
私がゆっくり振り返るとそこには橋本くんが立っていた。
「え……」
すぐに橋本くんは真後ろから、私の右側へと移動すると席に腰かけた。
「こっちなら聴こえるんだよね?」
私は目を見開いたまま硬直した。だって卒業式まであと一週間……ここまできたら誰にも知られずに黙って卒業したかったのに。
「あ、里田ごめん。いきなり……こんなこと言われて気に障ったってゆうか驚かせたよな」
「……お願い……言わないで」
「え?」
橋本くんが今度は目を丸くしてからすぐに大きく頷いた。
「別に……俺、誰かに言おうとか思ってないから」
その言葉が本当かどうかなんてわからないのに、私はとりあえずその言葉を聞けてほっとする。
「じゃあ……これで」
「え! ちょっと待てよっ」
グイと大きな手のひらで手首を掴まれて私は勝手に顔が熱くなる。
「な……に、離してっ」
「ちょ……」
橋本くんが何を言おうとしているのかは分からない。でも私は今すぐにでもこの場を逃げ出したくてしょうがなかった。
私がこの半年間、誰にも知られないように必死に隠してきたことを、まさか橋本くんに気づかれてしまうなんて。橋本くんは困ったように眉をさげると、さっきよりもゆっくりとした口調で私に向かって口を開く。
「なんで耳、不自由なの隠してんの?」
(──不自由)
不自由。自由じゃない。自由がきかない。
それはどれも『普通』を持ってる人が何気なく使いがちな言葉じゃないだろうか。そしてその言葉こそ、無意識に『普通』である人たちが私達、不自由な者たちをどこか見下しているような気がして、私はそれらの言葉を目にするだけで心に蓋をしたくなってくる。
(何にもしらないくせに……当たり前に普通を持ってるからって)
私は今まで誰にも見られないように知られないように、必死に隠してきた心の大事な部分に土足で踏み込まれた気がして、目の奥が熱くなってくる。
(泣くもんか)
「橋本くんに関係ないじゃないっ!」
私は強い口調でそう言い放つと、その場から逃げるようにして立ち去った。
──翌朝、私はいつもより重い気分で下足ホールから教室への階段を登っていく。昨日はあまり寝られなかったせいもあり、いつもより三十分も早く登校してしまった。
(あ……あとで図書館行かなきゃ)
橋本くんに耳のことがバレて逃げるように帰ったため、読んでいた口話の本を本棚に戻すのを忘れてしまったからだ。私はまだ電気がついていない教室の扉をガラリと開けた。
「……おは……う」
「え……っ」
直ぐに橋本くんと目が合って橋本くんが私に向かって挨拶したのが分かった。
私は蚊の鳴くような声で「おはよう」と答えると黙って席にすわる。
(なんで……橋本くん……いつも来るの遅い癖に……)
私が机に教科書を仕舞って行くのを橋本くんはただじっと眺めている。そして私が全ての教科書を仕舞い終えたのを見計らって、橋本くんが隣から一冊の本を差し出した。
それは私が昨日図書室で読んでいた口話の本だ。
「え、これ……」
「昨日はごめん。あと違ったらごめん。里田、この本借りたいけど、みんなにあのコト内緒にしてるから借りれなかったであってる?」
私は橋本くんの行動の意図がわからず困惑する。橋本くんが困ったように眉を下げた。
「あ、俺さ。昨日その本、徹夜して読破して……ゆっくり口の形に気を付けてなるべく里田の右耳に向かって発声するようにやってみたつもり……だけど、ごめん。急にできる訳ないよな」
「どうして……」
橋本くんが二重瞼をにこりと細めた。
「あ、やった。ちゃんと伝わってたんだ」
「あ、うん……聞き取りやすいし口の動きも大きくてゆっくりだから……」
「そっか」
橋本くんが照れたように頭を掻くと椅子の背もたれに背中を預けて、うんと伸びをした。
「当たり前ってさ……いつもそばにあるからその有難みとかってわかんねぇよな」
「……それはどういう意味? 同情?」
私はより正確に声を拾おうと橋本くんの方に座ったまま向き直る。
「同情? そんなわけないじゃん。共感」
(……共感……)
橋本くんもふいに真面目な顔になると、私の方に身体を向けた。そして私の目としっかり目を合わせた。その綺麗な顔立ちに、鼓動がひとつトクンと跳ねる。
「それも、純粋な共感だから。もし俺もそうだったらとかの想像からの共感とも違うし、家族にそういう人がいるとかで自分の事のように錯覚している人とも違うから。そんなんは混ざりモノのない純粋な共感とは言えないと俺は思ってて」
「えと……もう少し……分かりやすく言ってくれないと橋本くんが何いってるのかわかんない」
「あー、ごめん……何て言ったら里田が気を遣わないかなって思ってさ」
「私が橋本くんに気を遣う?」
怪訝な顔をした私を見ながら、橋本くんは暫く視線を膝の上に落とすと黙った。
私は訳が分からなくなってくる。でも橋本くんとこうして少しだが会話をしてみると、私の抱いていた何でも持ってる無愛想なイケメンという、表面的なイメージとは全然違う。
もしかしたら私と同じで特別好意がなくとも異性と話すのが苦手なのかもしれないな、なんてなんとなくそう思った。
「あの……ありがと」
下唇を噛んで考え事をしている橋本くんに向かって私は小さな勇気を出した。
「えっ? 俺なんかお礼言われるような事したっけ?」
「あ、あの……図書館で本借りてきてくれたし……その口話も勉強してくれて……」
「あ、いや。それは俺が昨日突然あんなこと言って、その……気を悪くさせただろ。そのお返しっていうのもあるけど、俺の自身の為でもあるからさ」
やっぱりますます意味が分からない。だって橋本くんは、間違いなく音のある、普通の世界に住んでいるのだから。
「里田……俺さ……」
「なに?」
下唇を湿らせながら橋本くんが意を決したように口を開いた、その時だった。
──ガラリッ
「橋……ー、おは……う、って早……じゃん……」
私が振り向けば、橋本くんとよくつるんでいる宇野くんが教室に入ってきた。
宇野くんは自分の机に鞄を置くとニカっと笑いながら橋本くんに向かって手を挙げた。
「おっす、宇野早いじゃん」
すぐに橋本くんも手を挙げると宇野くんに誘われるように二人で教室から出ていく。
(……橋本くん……何を言いかけてたんだろう)
私は首を傾げながら千幸達が教室に来る前に口話の本を仕舞おうと手に取った。
(あ……これ……)
見れば本には、ところどころに付箋が張り付けてある。そっと広げれば、男の子らしい大きな文字で『ここポイント』とメモが書いてある。
(橋本くん……)
私は思わずふっと笑うと大事に本を仕舞った。
「美波、また明日ね!」
「美波ー、まったね〜」
「うん、千幸も一花もまた明日」
放課後、いつものように私達は教室で挨拶を交わすとそれぞれの場所に向かっていく。
千幸はバレエのレッスン、一花はカラオケボックスへバイト。そして私は教室から二つ上の階に上がり、さらに隣の旧校舎にある図書館へと向かう。
(今日も空いてるな……)
私は元々読書が好きでピアノのレッスンの日以外は図書館で日が暮れるまで本を読んでいた。
主に読むのはミステリー一択だったが、いまは口話の本ばかりだ。耳が不自由になってからは読書を楽しむためというよりも学ぶためにここに来るようになった。
私は読みかけの口話の本を言語の棚から取り出すと、いつものように一番奥の席に座る。図書室の目の前はガラス張りになっており、運動場と背の高い時計が見える。
(えっと……前回は七六ページまで読んだっけ)
本当なら借りることさえできれば、持ち帰って家で学ぶことができるのだが、耳が不自由なことを周りに隠している私はこの本を借りる勇気がどうしても出なかった。
もし誰かに借りるところを見られたりしたら、不自由なことがバレて変な噂を立てられるかも知れない。皆んなから哀れまれたり、変に同情されるのはどうしても嫌だった。
耳が不自由になってから、そんなまだ起こってもない悪い想像ばかりをしては、私は暗い気持ちになって、以前よりもさらに内向的になった。
「やっぱ……ラとレの音が読み取りづらいんだよね……」
私は本を眺めながら、静かにため息を吐きだした。
(今度……お母さんが帰ってきたらもう一回聞いてみよ……)
私の母はピアニストをしており今も講演があれば三百六十五日、日本中を飛び回っている。私が幼い頃から音楽とピアノが大好きなのは母の影響だろう。
幼い頃、初めて観に行った母のコンサートで、母が煌びやかなドレスを身に纏い、母の指先から紡ぎだされる繊細なメロディーに観客たちが心を震わせ涙し、歓喜の拍手を送る景色は幼かった私にとって衝撃的で自慢の母になった瞬間だった。
──いつか私も。
そんな風に夢見てピアノに励み音大を目指していた私だったが、もう夢見た世界を実現することは難しいだろう。今まで思い描いてきた未来の景色は意図せず変わってしまった。
「……音大行きたかったな……」
母は聴力回復を信じてあらゆる病院に私を連れて行ってくれた。そして自分ができる限りサポートするから大学もこのまま音大へと言ってくれたが、私はどうしても頷くことができなかった。
耳が不自由になった私が音大へ行けば、音楽の世界では少し名が知れているピアニストの母の顔に泥を塗るような気がしたし、他の未来の音楽家を目指して入学してくる同級生たちより自分がスタート時点からはるかに劣っている気がして前向きになれなかった。
「……最後に卒業式の伴奏だけは……完璧に弾きたい……」
私が卒業式で弾く卒業ソングはは数年前に流行ったJ-POPで男性ボーカルが優しいメロディーに合わせて伸びやかに歌い上げているのだが、今度の卒業式では男女にパートを分けて主に女子生徒が高音のハモリをいれることになっている。
春に卒業式でのピアノ伴奏という大役を任されたときは嬉しくてしょうがなかったのに、今は重圧に押しつぶされそうだ。聴力が完璧じゃない故に音を外さないか、歌詞と歌詞の間の微妙な間を上手く空けて、歌いだしに合わせて弾くことができるか、不安を数え上げたらキリがない。
「はぁあ……」
私は口話の本を更に数ページ捲ったが、何だか気持ちが沈んできてそっと本を閉じた。その時、頭上から知っている声が聞こえてくる。
「……やっぱ聴こえてないんだ」
──え?
聞き覚えのある低い声に身体がビクンと跳ねる。
私がゆっくり振り返るとそこには橋本くんが立っていた。
「え……」
すぐに橋本くんは真後ろから、私の右側へと移動すると席に腰かけた。
「こっちなら聴こえるんだよね?」
私は目を見開いたまま硬直した。だって卒業式まであと一週間……ここまできたら誰にも知られずに黙って卒業したかったのに。
「あ、里田ごめん。いきなり……こんなこと言われて気に障ったってゆうか驚かせたよな」
「……お願い……言わないで」
「え?」
橋本くんが今度は目を丸くしてからすぐに大きく頷いた。
「別に……俺、誰かに言おうとか思ってないから」
その言葉が本当かどうかなんてわからないのに、私はとりあえずその言葉を聞けてほっとする。
「じゃあ……これで」
「え! ちょっと待てよっ」
グイと大きな手のひらで手首を掴まれて私は勝手に顔が熱くなる。
「な……に、離してっ」
「ちょ……」
橋本くんが何を言おうとしているのかは分からない。でも私は今すぐにでもこの場を逃げ出したくてしょうがなかった。
私がこの半年間、誰にも知られないように必死に隠してきたことを、まさか橋本くんに気づかれてしまうなんて。橋本くんは困ったように眉をさげると、さっきよりもゆっくりとした口調で私に向かって口を開く。
「なんで耳、不自由なの隠してんの?」
(──不自由)
不自由。自由じゃない。自由がきかない。
それはどれも『普通』を持ってる人が何気なく使いがちな言葉じゃないだろうか。そしてその言葉こそ、無意識に『普通』である人たちが私達、不自由な者たちをどこか見下しているような気がして、私はそれらの言葉を目にするだけで心に蓋をしたくなってくる。
(何にもしらないくせに……当たり前に普通を持ってるからって)
私は今まで誰にも見られないように知られないように、必死に隠してきた心の大事な部分に土足で踏み込まれた気がして、目の奥が熱くなってくる。
(泣くもんか)
「橋本くんに関係ないじゃないっ!」
私は強い口調でそう言い放つと、その場から逃げるようにして立ち去った。
──翌朝、私はいつもより重い気分で下足ホールから教室への階段を登っていく。昨日はあまり寝られなかったせいもあり、いつもより三十分も早く登校してしまった。
(あ……あとで図書館行かなきゃ)
橋本くんに耳のことがバレて逃げるように帰ったため、読んでいた口話の本を本棚に戻すのを忘れてしまったからだ。私はまだ電気がついていない教室の扉をガラリと開けた。
「……おは……う」
「え……っ」
直ぐに橋本くんと目が合って橋本くんが私に向かって挨拶したのが分かった。
私は蚊の鳴くような声で「おはよう」と答えると黙って席にすわる。
(なんで……橋本くん……いつも来るの遅い癖に……)
私が机に教科書を仕舞って行くのを橋本くんはただじっと眺めている。そして私が全ての教科書を仕舞い終えたのを見計らって、橋本くんが隣から一冊の本を差し出した。
それは私が昨日図書室で読んでいた口話の本だ。
「え、これ……」
「昨日はごめん。あと違ったらごめん。里田、この本借りたいけど、みんなにあのコト内緒にしてるから借りれなかったであってる?」
私は橋本くんの行動の意図がわからず困惑する。橋本くんが困ったように眉を下げた。
「あ、俺さ。昨日その本、徹夜して読破して……ゆっくり口の形に気を付けてなるべく里田の右耳に向かって発声するようにやってみたつもり……だけど、ごめん。急にできる訳ないよな」
「どうして……」
橋本くんが二重瞼をにこりと細めた。
「あ、やった。ちゃんと伝わってたんだ」
「あ、うん……聞き取りやすいし口の動きも大きくてゆっくりだから……」
「そっか」
橋本くんが照れたように頭を掻くと椅子の背もたれに背中を預けて、うんと伸びをした。
「当たり前ってさ……いつもそばにあるからその有難みとかってわかんねぇよな」
「……それはどういう意味? 同情?」
私はより正確に声を拾おうと橋本くんの方に座ったまま向き直る。
「同情? そんなわけないじゃん。共感」
(……共感……)
橋本くんもふいに真面目な顔になると、私の方に身体を向けた。そして私の目としっかり目を合わせた。その綺麗な顔立ちに、鼓動がひとつトクンと跳ねる。
「それも、純粋な共感だから。もし俺もそうだったらとかの想像からの共感とも違うし、家族にそういう人がいるとかで自分の事のように錯覚している人とも違うから。そんなんは混ざりモノのない純粋な共感とは言えないと俺は思ってて」
「えと……もう少し……分かりやすく言ってくれないと橋本くんが何いってるのかわかんない」
「あー、ごめん……何て言ったら里田が気を遣わないかなって思ってさ」
「私が橋本くんに気を遣う?」
怪訝な顔をした私を見ながら、橋本くんは暫く視線を膝の上に落とすと黙った。
私は訳が分からなくなってくる。でも橋本くんとこうして少しだが会話をしてみると、私の抱いていた何でも持ってる無愛想なイケメンという、表面的なイメージとは全然違う。
もしかしたら私と同じで特別好意がなくとも異性と話すのが苦手なのかもしれないな、なんてなんとなくそう思った。
「あの……ありがと」
下唇を噛んで考え事をしている橋本くんに向かって私は小さな勇気を出した。
「えっ? 俺なんかお礼言われるような事したっけ?」
「あ、あの……図書館で本借りてきてくれたし……その口話も勉強してくれて……」
「あ、いや。それは俺が昨日突然あんなこと言って、その……気を悪くさせただろ。そのお返しっていうのもあるけど、俺の自身の為でもあるからさ」
やっぱりますます意味が分からない。だって橋本くんは、間違いなく音のある、普通の世界に住んでいるのだから。
「里田……俺さ……」
「なに?」
下唇を湿らせながら橋本くんが意を決したように口を開いた、その時だった。
──ガラリッ
「橋……ー、おは……う、って早……じゃん……」
私が振り向けば、橋本くんとよくつるんでいる宇野くんが教室に入ってきた。
宇野くんは自分の机に鞄を置くとニカっと笑いながら橋本くんに向かって手を挙げた。
「おっす、宇野早いじゃん」
すぐに橋本くんも手を挙げると宇野くんに誘われるように二人で教室から出ていく。
(……橋本くん……何を言いかけてたんだろう)
私は首を傾げながら千幸達が教室に来る前に口話の本を仕舞おうと手に取った。
(あ……これ……)
見れば本には、ところどころに付箋が張り付けてある。そっと広げれば、男の子らしい大きな文字で『ここポイント』とメモが書いてある。
(橋本くん……)
私は思わずふっと笑うと大事に本を仕舞った。