「私、ちゃんと失恋できるかな?」
「う、うーん……」
ああ、こういうときに、はっきりした言葉を返せる男になりたかったなあ。
奈々子。
おまえにはずっと俺がいただろ、ってさ。俺、長いあいだ、奈々子だけを見てきたからさ……と、瞳を見つめてセリフを言えば、100パーセント正解なんだろうなあ。
俺と奈々子は、どちらも酒が苦手だ。
ノンアルコール専門の店もあるけれど、今夜は周りの騒ぎにまぎれて、ふたりで話をしたかった。
飲んではしゃぐ人々の雰囲気に、俺たちの気持ちも引っ張られて、来週のあのイベントまで精神が安定するのを期待した。
期待したんだけどなあ。
俺のあいまいな返しは、奈々子に追い討ちをかけたのだろう。
奈々子は烏龍茶が入ったジョッキを置くと、鼻をすすった。
少しずつ、少しずつ、奈々子の目元と鼻が赤くなってきた。
「泣いていいよ。ここなら泣き上戸だと思われるから」
「あ、ありがとう、薫……せっかく、せっかく、化粧した、のに……マスカラ、塗って、新しいカラーのアイライナーも使ったのに……みんな、ダメに、なっちゃうー」
「俺に会うためにかわいくなったのか? 奈々子はちゃんとしてるなあ。ほら。いま泣いておけば、あいつの結婚式に笑って出られるから」
俺は、テーブルにある紙ナプキンを数枚まとめて取ると、膝立ちになり向かいに座る彼女へ手を伸ばす。
「薫、痛いよー」
「……こうやって、こすったらさ、奈々子のあいつへの想いも消えないかなあ」
「え、何?」
「……あのさ、こすったら、目の周りがどんどん黒くなってきて……」
「やだ! やめてよー!」
「冗談だよ。おしぼり当てたほうがいいのかなあ。新しいのもらうか?」
「いいよ、いいよ。もうおさまった。ありがとう」
俺は紙ナプキンを丸めると、畳の上に再びあぐらをかいた。
烏龍茶を飲むと、焼き鳥を取る。
「薫、それ、私のつくね!」
食べ終わった串を皿に置いた。
「ああ、わるい。またやったな」
「あの日と同じだね」
「……そうだな」
「お兄ちゃんのことが好きだったって、この店で私が話して……でも、結婚しちゃうんだって、泣いて、やっぱり泣いて……」
「……俺が、あーとか、うーとか返事しながら、焼き鳥ぜんぶ食べてしまったんだよなあ」
「そんなおかしい返事はしてないよ、薫。途中から、「俺のキャパを超えた! すまん、飲まないと聞けない!」って、ハイボール頼んでた」
「あー、それは覚えてないわー」
嘘だ。酔った勢いで告白しようとしたんだ。
しかし、ハイボールというのはマズいチョイスだった。CMでカッコよく俳優が飲んでたから、オーダーすれば俺もイケてる男になれると思ったんだけどなあ。
「ねえ、あの日のこと、覚えてない?」
「覚えてる。焼き鳥うまかった」
「もう!じゃあ、思い出させてあげる。あのね、薫はね……」
奈々子は言葉を切り、タコわさびをひとくち食べた。
わさびが効いたのか、一瞬、顔をしかめると烏龍茶を飲む。ジョッキを置いた。
「初恋は正義の勲章だ、俺にとって。そう言ったの」
「んー。悪いけれど、焼き鳥うまかったしか思い出せないわー」
「えー、薫! 本気で言ってんの? 私、ちゃんとその意味……」
「すみません、ラストオーダーなんですが追加のご注文はありますか?」
店員の声に、俺たちは顔を上げた。店内を見渡すと、空席がいくつかあった。
「じゃあ、焼き鳥セットください」
「薫!」
「奈々子、今度は俺の分のつくねも食べていいよ。烏龍茶どうする?」
「欲しい」
「烏龍茶もお願いします。ふたつ」
店員が去ると、奈々子は静かに言った。
「インフルエンザ、今年は流行ったね。思い出しちゃった。小学生の頃」
「ああ、一年のときだろ? 奈々子も俺もかかったよな?」
「そう。お兄ちゃん、薫、私の順で。
そのことを考えていたらね、あれがきっかけなんだって気づいたの。私がお兄ちゃんを好きって思ったきっかけ。名前はなんだったかなあ。ほら、いたでしょ。髪を短くして茶色く染めていた女子。「れんあいノート」をつけて、クラスの好きな相手を聞いてまわっていた子」
「うーん。いたような……」
嘘だ。名前も顔も覚えている。
はじめて、憎んだ異性だ。
「いたんだよ。その子から聞かれたの。好きな子いるよね? いないのはおかしいんだよ。いるんでしょ、って」
そうだ。あいつは、「おかしい」とよく口にしていた。
あいつの型にはまらない、モノ、ヒトはみんな「おかしい」だった。
「私ね、困ったの。お父さんはマズいような気がしたから、お兄ちゃんって答えたの。あの子、ノートの表紙に「みたやつはなぐる」って書いていたけれど、机の上に置きっぱなしなの。だから、噂になったんだね。私、ずーっと、ずーっと、友達に「お兄ちゃんが好きなあぶない妹」って思われてきた。友達とバラバラになる大学まで」
「ちょっと待て。おまえがインフルエンザ治ってから、誰も言わなくなっただろ?」
「……表向きはね。でもね、会話のはしばしに出てくるの。『奈々子は恋しないもんねー』、『奈々子はちょっと変な子だもんね……』、『奈々子は……』、『奈々子は……』って」
奈々子は、うつむいた。
「私、そういう周りの言葉に引きずられて、お兄ちゃんを好きになったんじゃないかなって思い始めたの。そしたら、お兄ちゃんが結婚することになって、薫と食事して……あのね、薫!」
こちらを見つめてくる奈々子の顔は、驚くほど晴れやかだった。
「ありがとう、薫!」
「なんだ、急に?」
「初恋は正義の勲章、なんでしょ?」
「あ、ああ! そうだよ!」
そうか……酔っていたけれど、俺はちゃんと奈々子に……。
居酒屋を出た。まだ春は来ず、風が冷たい。俺は奈々子をタクシー乗り場まで見送った。
「薫。同窓会のハガキ、届いた?」
「きたけど行かない。奈々子も行かないだろ?」
「うん! 当日にさ、またこうやってふたりで会おうよ」
「そうだなあ。そのときはちがう場所にするかあ」
「同じでいいよ。薫、焼き鳥好きでしょ?」
「もう、人のつくねを食べてる場合じゃないんだよ。奈々子が前へ進めるってわかったから、俺にはすることがある。……楽しみにしておけよ」
「うん。じゃあ、またね」
奈々子がタクシーに乗る。
タクシーが走り出しても、律儀に振り返って手を振っちゃって。
そういう、おまえの無邪気なところに惚れてるんだよ、奈々子。
まっさらな人ほど、他人に踏みつけられてしまう。
奈々子は、クラスで噂になった数日後にインフルエンザになった。入れ違うように元気になった俺が登校した。
あいつの机にあった、「れんあいノート」
俺も見てしまったんだ。
奈々子、ごめん。
俺は、奈々子のいちばんじゃなかった。ずっとそう思ってきた。
ノートを見た日も、奈々子の気持ちを否定したかった。奈々子の噂も消し去りたかった。
だからさ、俺。
あのノートを切り刻んだよ。
みんなの前で。工作用ばさみを使って。
奈々子への想い、初恋のために俺は正義を振りかざしたんだ。生まれてはじめて。
人に言わせれば、ゆがんだ理由かもしれない。
ノートがただの無数の紙切れになったとき、俺は奈々子を守れると思った。
……全然、守れなかったんだな。
ごめん、奈々子。
あの日から、クラスメイトたちの俺を見る目は変わった。
それでも俺は、おまえへの想いが正義と信じて生きてきた。
……俺、やっと奈々子に自分の想いを伝えられたのか。
ああ、ハイボールなんて飲まなければよかったな。
奈々子がどんな顔で俺の言葉を受け止めたか、覚えていられたのに。
でも、きっとこれから……。
奈々子は、俺にいろんな表情を見せてくれるだろう。
その度に、俺は奈々子を笑わせたり、抱きしめたりするんだろう。
この手で、奈々子を守っていく。
あの頃と変わらず、守っていく。
【了】
「う、うーん……」
ああ、こういうときに、はっきりした言葉を返せる男になりたかったなあ。
奈々子。
おまえにはずっと俺がいただろ、ってさ。俺、長いあいだ、奈々子だけを見てきたからさ……と、瞳を見つめてセリフを言えば、100パーセント正解なんだろうなあ。
俺と奈々子は、どちらも酒が苦手だ。
ノンアルコール専門の店もあるけれど、今夜は周りの騒ぎにまぎれて、ふたりで話をしたかった。
飲んではしゃぐ人々の雰囲気に、俺たちの気持ちも引っ張られて、来週のあのイベントまで精神が安定するのを期待した。
期待したんだけどなあ。
俺のあいまいな返しは、奈々子に追い討ちをかけたのだろう。
奈々子は烏龍茶が入ったジョッキを置くと、鼻をすすった。
少しずつ、少しずつ、奈々子の目元と鼻が赤くなってきた。
「泣いていいよ。ここなら泣き上戸だと思われるから」
「あ、ありがとう、薫……せっかく、せっかく、化粧した、のに……マスカラ、塗って、新しいカラーのアイライナーも使ったのに……みんな、ダメに、なっちゃうー」
「俺に会うためにかわいくなったのか? 奈々子はちゃんとしてるなあ。ほら。いま泣いておけば、あいつの結婚式に笑って出られるから」
俺は、テーブルにある紙ナプキンを数枚まとめて取ると、膝立ちになり向かいに座る彼女へ手を伸ばす。
「薫、痛いよー」
「……こうやって、こすったらさ、奈々子のあいつへの想いも消えないかなあ」
「え、何?」
「……あのさ、こすったら、目の周りがどんどん黒くなってきて……」
「やだ! やめてよー!」
「冗談だよ。おしぼり当てたほうがいいのかなあ。新しいのもらうか?」
「いいよ、いいよ。もうおさまった。ありがとう」
俺は紙ナプキンを丸めると、畳の上に再びあぐらをかいた。
烏龍茶を飲むと、焼き鳥を取る。
「薫、それ、私のつくね!」
食べ終わった串を皿に置いた。
「ああ、わるい。またやったな」
「あの日と同じだね」
「……そうだな」
「お兄ちゃんのことが好きだったって、この店で私が話して……でも、結婚しちゃうんだって、泣いて、やっぱり泣いて……」
「……俺が、あーとか、うーとか返事しながら、焼き鳥ぜんぶ食べてしまったんだよなあ」
「そんなおかしい返事はしてないよ、薫。途中から、「俺のキャパを超えた! すまん、飲まないと聞けない!」って、ハイボール頼んでた」
「あー、それは覚えてないわー」
嘘だ。酔った勢いで告白しようとしたんだ。
しかし、ハイボールというのはマズいチョイスだった。CMでカッコよく俳優が飲んでたから、オーダーすれば俺もイケてる男になれると思ったんだけどなあ。
「ねえ、あの日のこと、覚えてない?」
「覚えてる。焼き鳥うまかった」
「もう!じゃあ、思い出させてあげる。あのね、薫はね……」
奈々子は言葉を切り、タコわさびをひとくち食べた。
わさびが効いたのか、一瞬、顔をしかめると烏龍茶を飲む。ジョッキを置いた。
「初恋は正義の勲章だ、俺にとって。そう言ったの」
「んー。悪いけれど、焼き鳥うまかったしか思い出せないわー」
「えー、薫! 本気で言ってんの? 私、ちゃんとその意味……」
「すみません、ラストオーダーなんですが追加のご注文はありますか?」
店員の声に、俺たちは顔を上げた。店内を見渡すと、空席がいくつかあった。
「じゃあ、焼き鳥セットください」
「薫!」
「奈々子、今度は俺の分のつくねも食べていいよ。烏龍茶どうする?」
「欲しい」
「烏龍茶もお願いします。ふたつ」
店員が去ると、奈々子は静かに言った。
「インフルエンザ、今年は流行ったね。思い出しちゃった。小学生の頃」
「ああ、一年のときだろ? 奈々子も俺もかかったよな?」
「そう。お兄ちゃん、薫、私の順で。
そのことを考えていたらね、あれがきっかけなんだって気づいたの。私がお兄ちゃんを好きって思ったきっかけ。名前はなんだったかなあ。ほら、いたでしょ。髪を短くして茶色く染めていた女子。「れんあいノート」をつけて、クラスの好きな相手を聞いてまわっていた子」
「うーん。いたような……」
嘘だ。名前も顔も覚えている。
はじめて、憎んだ異性だ。
「いたんだよ。その子から聞かれたの。好きな子いるよね? いないのはおかしいんだよ。いるんでしょ、って」
そうだ。あいつは、「おかしい」とよく口にしていた。
あいつの型にはまらない、モノ、ヒトはみんな「おかしい」だった。
「私ね、困ったの。お父さんはマズいような気がしたから、お兄ちゃんって答えたの。あの子、ノートの表紙に「みたやつはなぐる」って書いていたけれど、机の上に置きっぱなしなの。だから、噂になったんだね。私、ずーっと、ずーっと、友達に「お兄ちゃんが好きなあぶない妹」って思われてきた。友達とバラバラになる大学まで」
「ちょっと待て。おまえがインフルエンザ治ってから、誰も言わなくなっただろ?」
「……表向きはね。でもね、会話のはしばしに出てくるの。『奈々子は恋しないもんねー』、『奈々子はちょっと変な子だもんね……』、『奈々子は……』、『奈々子は……』って」
奈々子は、うつむいた。
「私、そういう周りの言葉に引きずられて、お兄ちゃんを好きになったんじゃないかなって思い始めたの。そしたら、お兄ちゃんが結婚することになって、薫と食事して……あのね、薫!」
こちらを見つめてくる奈々子の顔は、驚くほど晴れやかだった。
「ありがとう、薫!」
「なんだ、急に?」
「初恋は正義の勲章、なんでしょ?」
「あ、ああ! そうだよ!」
そうか……酔っていたけれど、俺はちゃんと奈々子に……。
居酒屋を出た。まだ春は来ず、風が冷たい。俺は奈々子をタクシー乗り場まで見送った。
「薫。同窓会のハガキ、届いた?」
「きたけど行かない。奈々子も行かないだろ?」
「うん! 当日にさ、またこうやってふたりで会おうよ」
「そうだなあ。そのときはちがう場所にするかあ」
「同じでいいよ。薫、焼き鳥好きでしょ?」
「もう、人のつくねを食べてる場合じゃないんだよ。奈々子が前へ進めるってわかったから、俺にはすることがある。……楽しみにしておけよ」
「うん。じゃあ、またね」
奈々子がタクシーに乗る。
タクシーが走り出しても、律儀に振り返って手を振っちゃって。
そういう、おまえの無邪気なところに惚れてるんだよ、奈々子。
まっさらな人ほど、他人に踏みつけられてしまう。
奈々子は、クラスで噂になった数日後にインフルエンザになった。入れ違うように元気になった俺が登校した。
あいつの机にあった、「れんあいノート」
俺も見てしまったんだ。
奈々子、ごめん。
俺は、奈々子のいちばんじゃなかった。ずっとそう思ってきた。
ノートを見た日も、奈々子の気持ちを否定したかった。奈々子の噂も消し去りたかった。
だからさ、俺。
あのノートを切り刻んだよ。
みんなの前で。工作用ばさみを使って。
奈々子への想い、初恋のために俺は正義を振りかざしたんだ。生まれてはじめて。
人に言わせれば、ゆがんだ理由かもしれない。
ノートがただの無数の紙切れになったとき、俺は奈々子を守れると思った。
……全然、守れなかったんだな。
ごめん、奈々子。
あの日から、クラスメイトたちの俺を見る目は変わった。
それでも俺は、おまえへの想いが正義と信じて生きてきた。
……俺、やっと奈々子に自分の想いを伝えられたのか。
ああ、ハイボールなんて飲まなければよかったな。
奈々子がどんな顔で俺の言葉を受け止めたか、覚えていられたのに。
でも、きっとこれから……。
奈々子は、俺にいろんな表情を見せてくれるだろう。
その度に、俺は奈々子を笑わせたり、抱きしめたりするんだろう。
この手で、奈々子を守っていく。
あの頃と変わらず、守っていく。
【了】