「それじゃあ、そろそろ始めようか」

 言うなり、御影は狐の面をそっと外す。
 そうして現れた美しい顔の表面には、彼自身の血で書かれた文字が連なっていた。
 さらに着物の襟をはだけさせると、その胸元にもびっしりと血文字が綴られている。

「これより私の体は、結界の呪符となる。この警視庁舎の敷地の内外は、何人(なんびと)たりとも出入りすることは許されない」

 御影が胸の前で両手を組むと、途端に全身の血文字が青い光を放ち、それは敷地全体を包み込むように広がっていく。
 そうして薄闇に包まれた夕暮れの景色は、一瞬にして赤から青へと塗り替えられた。

「来るよ!」

 マツリカが空を見上げ、栗丘と絢永も同じように頭上を仰ぐ。
 すると、それまであやかしの気配すらなかった冬の空気がぐにゃりと歪んで、今まで感じたことのない、身のすくむような重苦しい霊気が二人を包んだ。

 この世ならざるモノ。
 それも、(おびただ)しい数を凝縮させた濃厚な気配。

 やがて太陽の沈んだ西の空の雲間から、ぞろぞろと迫り来る百鬼夜行が見えた。

「いくぞ、絢永!」

「言われなくても!」

 二人はそう掛け合いながら前に出る。
 懐の銃に手をかけるが、まだ抜きはしない。

 あやかしの大半は、素手で触れればたちまち消えてしまうようなひ弱なものである。
 銃を抜くのは最終手段。
 それまでは、出来る限り体術での応戦を試みる。

「ガアアアアァァッ!!」

 有象無象の物の怪は、そのほとんどが栗丘に牙を向けた。
 あやかしにとって有益な血。
 それを求めて、彼らは栗丘の小さな体を四方八方から取り囲む。

「よし、来い! まとめて返り討ちにしてやる!!」

 その宣言通り、栗丘があやかしの群れに回し蹴りをお見舞いすると、足先に触れたモノからたちまち蒸発するようにして消えていく。

「なんだ。思った以上に楽勝じゃねーか」

「調子に乗らないでくださいよ。あやかしはまだまだ襲ってきます。できるだけ体力を温存させておかないと、年明けまで保ちませんよ」

「わかってるって!」

 『門』が閉じるのは大晦日の終わり——新年の明ける午前零時ちょうどである。
 それまでの約七時間、あるいは栗丘瑛太の体を奪還するまで、二人は戦闘を続けなければならない。

 と、さっそく油断した栗丘の右脚に、どこからともなく伸びてきた細長いものが絡みついた。
 そのまま勢いよく引っ張られて、栗丘はたまらず尻餅をつく。

 見ると、その細長いものは束になった黒い髪の毛だった。
 それはあやかしの群れの奥から伸びており、本体の居場所までは目で確認することはできない。

「わっ……。あ、絢永、助けてくれ!!」

 ずるずると足を引っ張られ、転んだままあやかしの群れに吸い込まれていく栗丘を見て、絢永はチッと舌打ちする。

「言ってるそばから、あなたって人は……!」

 すかさず髪の根元がある方へと走り、絢永は大きく腕をしならせてあやかしの群れを払う。
 しかしその正体を暴く前に、さらに奥から伸びてきた髪の束が絢永の上半身に絡みついた。