「えっ?」
半ば放心していた栗丘はその声にハッと我に返り、尻ポケットを探ると確かにそこにあったはずの財布がない。
青ざめる栗丘の脇を、斉藤は目にも止まらぬ速さで駆け抜け、あろうことか前方を走っていた少女の髪を引っ掴んだ。
「きゃあああッ!?」
「この泥棒め! 観念しろッ!!」
華奢な少女を後ろから羽交締めにした斉藤は、彼女の細い首をギリギリと締め上げる。
「ちょちょ、斉藤さん! やりすぎですって!」
慌てて止めに入った栗丘の腕を、斉藤は片手で払いのけた。
「邪魔するな! この女は極悪人だ。多少は痛い目に遭わせないと、この先も何度も同じことを繰り返す!」
その剣幕は、先ほどの彼とはまるで別人だった。
両目を見開き、歯茎を剥き出しにして、抑えきれない怒りを全身で表している。
「斉藤さん……?」
尋常ではない、と思った。
それこそ先ほど本人が言っていた通り、まるで何か悪いモノに取り憑かれているようにしか見えない。
(それに、この感じ……)
微かに感じる、この世ならざる者の気配。
栗丘の第六感が告げるそれは、幽霊や妖怪といった類のモノが今この場に存在していることを示していた。
(でも、一体どこに……?)
辺りを見回しても、それらしきモノの影は見当たらない。
まさかこの斉藤という男がそうなのか、と考えてみるが、目の前にいる彼はどう見ても普通の人間だった。
もしも彼がそういう存在なら、彼のことは栗丘以外の誰にも認知されないはずである。
と、栗丘があれこれ思案している内に、盗人の少女は斉藤の腕をすり抜け、再びその場から逃走を図った。
「くたばれ! このクソ親父!」
「あっ……こら待て! まだ裁きは終わってないぞ!!」
「斉藤さん、一旦落ち着いてください!」
少女の後を追おうとする斉藤を、栗丘は今度こそ引き留める。
途端、それまで鬼のような形相だった斉藤は、ふっと全身の力を抜いたように急に大人しくなった。
「……あ、いや。すみません。私……また、どうかしてたみたいです」
一瞬前までとは打って変わって、急にしおらしくなった彼の様子に、栗丘も戸惑う。
もしかしたらこの男性は、想像以上に厄介な人物かもしれない。