彼女の言う『あっちの世界』というのがどんな所なのかは知らない。
 けれど、あやかしが力ずくで引きずり込もうとしているその場所が安全であるとは到底思えなかった。

 栗丘の抵抗もむなしく、指はどんどんドア枠から外されていく。
 さらには暗がりの先からもう一本の白い腕が伸びてきて、栗丘の肩をがっしりと掴んだ。

 もうだめだ、と本能が告げる。
 ドア枠から全ての指が離れたその瞬間、マツリカは嬉しそうに栗丘の上半身に抱きついた。
 そのまま二人そろって闇の中へと引きずり込まれていく。

 もう助からない。
 自分はなんて浅はかな行動を取ってしまったのか——そう後悔する頭の片隅で、栗丘はつい、起こるはずのない奇跡を期待してしまう。

 誰も助けに来るはずはない。
 それでも、

「助けてくれ……——絢永!」

 彼なら何とかしてくれるのではないか、と。
 極限状態で咄嗟に浮かんだのは、あの生意気な後輩の顔だった。

 バシュッ! と何かが勢いよく発射される音が聞こえたのは、その時だった。

 直後、それまで栗丘の体を引っ張っていた二本の腕が急激に力を失っていった。

「二人とも、今のうちに早く逃げてください!」

 続けて聞こえてきたその声に、栗丘はハッとする。
 見ると、部屋の前の廊下にはいつのまにか、見慣れた黒スーツの青年が銃を構えて立っていた。
 すらりとした長身に、嫌味なほど整った顔と美しい銀髪を持つその人物は、まさに栗丘がつい今しがた求めた人物で間違いなかった。

「絢永、来てくれたのか!? でもどうして……」

「説明は後です! とにかく今は一刻も早くその場から離れてください!」

 絢永はそう言いながら部屋の前を離れ、廊下の端にある非常階段を目指す。
 栗丘も、肩と足に絡みついた白い腕を払い除けながら廊下へと這い出る。

 その際、白い腕の手首の辺りに、見覚えのある札が貼り付いているのが見えた。
 おそらくは絢永が放ったものだろう。
 しかし、札はやがてじりじりと煙を立ち上らせたかと思うと、みるみるうちに表面が焼け焦げていく。

(まずい……!)

 このまま札が焼けて完全に剥がれてしまえば、二本の腕は再び暴れ出すだろう。
 栗丘は未だ自分の体にしがみついているマツリカを無理やり引き剥がすと、半ば体当たりするようにして彼女を絢永とは反対の方向へ突き飛ばす。

「きゃっ!」

 彼女が短い悲鳴を上げて廊下に倒れ込んだのと、札が完全に焼き尽くされたのはほぼ同時だった。

「やい、あやかし! 俺はこっちだぞ!」

 栗丘は挑発するように声を掛けると、そのまま踵を返して絢永のいる方角へと駆け出す。
 二本の腕は再び動き出すと、手首の長さを何倍にも伸ばして、迷わず栗丘の後を追った。