「すみません。俺、病院に行かないといけないんです」

「病院? どこか具合でも悪いのかい」

「いや、俺じゃなくて……身内のお見舞いです。面会時間が午後八時までなんです」

 そのやり取りを隣で眺めていた絢永は、はぁ……と溜息を吐いて栗丘を睨む。

「どうしても今日じゃないといけないんですか? お見舞いなんて、別に明日でもいいでしょう。明日はあなた休みなんですから。御影さんはあなたと違って暇じゃないんですよ」

「俺、毎日お見舞いに行ってるんです。仕事の都合で間に合わない日もあるけど……でも、行ける日はできるだけ行きたくて」

 必死に訴えかけてくる栗丘を見て、御影はうーんと唸りながら夜空を見上げた後、やがて腕時計を確認した。
 時刻は午後七時前である。

「ま、それじゃあ仕方がないね。歓迎会はまた日を改めてからにしよう」

「御影さん!」

 栗丘は嬉しそうに、絢永は不服そうに同時にその名を呼ぶ。

「ほら、早く行っておいで。もともと今日は退勤時間も過ぎてたしね。無理を言って悪かったよ」

「ありがとうございます。それじゃ、お先に失礼します!」

 栗丘は潔く敬礼すると、そのまま駅に向かって駆け出した。
 後方からは「御影さん、甘やかしすぎですよ」という絢永の棘のある声が聞こえてくる。
 まあいいじゃないか、と宥める御影は理解ある上司だな、と栗丘は思った。
 
「というわけで絢永くん、適当にお店を予約しといてくれる? 人数はとりあえず四人で……」

 最後の方はあまり聞こえなかった。
 けれど、『四人』という言葉が確かに聞こえて、栗丘は走りながら疑問に思う。

(特例ナントカって部署には、もう一人誰かいるのか?)



          ◯



「ばあちゃん! 遅くなってごめん!」

 ガラリと病室の扉を開けるやいなや、栗丘は叫んだ。

「ああ、おかえり『瑛太(えいた)』。あんまり遅いから、またどこかで羽目を外してるんじゃないかと思ったよ」

 白い清潔なベッドの上には、病衣姿で腰掛けている祖母の姿があった。
 ここに入院してからというもの、毛染めを怠った髪は真っ白になり、もともと細身だった体はさらに痩せこけたように見える。

「ばあちゃん。俺は瑛太じゃなくてみつきだって。孫のみつき。わかんない?」

 言いながら、栗丘が祖母の隣に腰を下ろすと、祖母は「ふふふ」と愉快そうに笑って言う。

「また冗談ばかり言って、この子は。私はまだそんな年じゃありませんよ」

 祖母は認知症である。
 七年前に脳梗塞で倒れたのをきっかけに、急激な記憶力の低下が始まった。
 当時はまだ高校生だった栗丘が、大学進学を諦めて警察官になることを決めたのもその頃である。

「ご飯はどこかで食べてきたの? もしお腹が空いてるなら、すぐに支度するわよ」

「いいから座ってなって。そんなに世話を焼こうとしなくても大丈夫だよ。俺ももう立派な大人なんだから」

「あらあら、背伸びしちゃって」

 小柄で童顔である栗丘の姿は、今は亡き父・栗丘瑛太の中学時代の姿に生き写しだった。
 そのため、祖母は栗丘のことを自分の息子と勘違いしたまま、孫の存在を完全に忘れてしまっているのである。