はらりはらり、とピンク色の桜の花びらが踊るように軽やかに舞っていった。
私はふと立ち止まって満開を少し過ぎた、桜を眺めた。
特に春や春が好きなわけではない。
大嫌いだけれど、たまにはゆったりとこの暖かい日差しを浴びたくなったのだ。
そのとき、前方から八十代くらいの二人の老人が桜に向かって歩いてきた。
私は迷惑にならないように、と桜の木によけた。
ありがとうねえ、と二人に頭を下げられて、私も無言でぺこりと頭を下げ返した。
「もうそろそろこの桜も終わりかしら、寂しいわねえ」
「ええ、本当に寂しくなりますねえ」
にこにこと笑顔で、仲睦まじげに話しながら去っていく老人の丸まった背中を見送る。
私もいつかこうなるのか、と思うとなぜだか居住まいを正した。
ホーホケキョ、ホーホケキキョ。
うぐいすと思しき鳥の鳴き声がどこからともなく聞こえてきて、私は桜の方にいるんじゃないか、と視線を桜に戻した。
きょろきょろと私はうぐいすを探し出そうと視線を右往左往させる。
この月に、うぐいすが鳴くのは珍しい。
三月中旬ごろに、私の家であるアパートのベランダから鳴き声を聞くのは、しょっちゅうあったのだけれど。
はたと私の目の端の方で、渋い緑色の何者かが動く気配があった。
私は反射的に動きを止めて、息を殺して気配のした方を見る。
桜の細い枝の先の方に、すずめとさほど変わらない大きさのうぐいすが止まっていた。
私は、ホーホケキョ、と繰り返し鳴くうぐいすの声に耳を委ね、桜の木の根元に腰をかけ、もたれかかって目を瞑った。
木のでこぼことした歪なところが背にちょうどいい。
ふいにこのまま眠ってしまいたい衝動に駆られた。
そよそよと穏やかで暖かい風に吹かれて、私の長くのばしたロングヘアを左右に揺らす。
本当に眠るつもりはないのに、このままだと眠ってしまいそうだった。
でも、このまま眠ってしまってもいいのかもしれない、とふと思ったけれど、すぐに考え直す。
ここで眠っていて、もしも通りすがりの人に不審者だ、とでも思われたら困ってしまう。
なんとか私は重たい瞼をこじ開けて、木の根元から立ち上がる。
しばらく目を瞑っていたせいか、少しだけ視界がちかちかして、よろけてしまった。
うぐいすはまだ、高い声で鳴いている。
「またね」
さっきと同じ場所にまだ止まっている、うぐいすに向かって私は手を振って言った。
この辺りには人気がなく、この通りに立っているのは私ひとりだけだった。



眩い日差しが私の部屋を明るく照らす。
薄い素材の毛布の上に寝転がって、私は手のひらを太陽に透かしてみる。
さっきの満開を少し過ぎた桜をなぜだか思い出した。
太陽の色と私の手のひらの色が重なり合い、淡い橙色を生み出していた。
日差しの暖かさが、薄い手のひら越しに伝わってくる。
冷たく冷めていた手のひらがじんわりと暖まっていくような気がした。
暖かくなった手の甲を額に当てるけれど、額までは暖かくならない。
今は、太陽も真ん中に佇む真昼間。
普段ならこんな時間まで家にいるなんて、有り得ないことなのだけれど、今日は私の通っている高校が創立記念日で休みだったのだ。
そのため、さっきからずっと浮かれっぱなしだ。
逆に、学校の休みを喜ばない生徒などいるのだろうか。
いいや、いるわけがない。
もし仮にいたとしても、私にとっては高校なんて、憂鬱で憂鬱で仕方がない。
もしも誰かに、嫌われてしまったらどうすればいいのだろう。
人間関係だって、絶対に上手くいくなんて誰も保証してくれないから、辛い。
授業のときも、先生が偉そうに話すのを退屈だと思いながら聞いて、静かに黙って板書を写すだけ。
高校なんて、退屈で、窮屈で、苦しくて、もやもやとした思いに支配されて、胸が満たされない。
そんな高校に比べて、家は気軽で自由で苦しいことなんてひとつもなくて、落ち着く。
私はすうっと息を吸い込んだ。
はあーっと息を吐き出す。
目を瞑って、私は寝返りを打ちながらあのときのことを思い出した。
誰ひとりも本当の真実なんて知ろうとしないことを。
自分の納得する偏見と常識で、真実はこうなんだ、と決めつける。
私のことなんか、誰もなにも知らないくせに。
――海上(みかみ)さんってさあ、陰で絶対にうちらのこと見下してるよね。
このたった一言が、私をこんなにも縛り付けて苦しめているなんてあの子たちは知りもしない。
それでも、私にもいけないところはある。
私がなにも言うことができずに、怖気づいてばかりいるから、あの子たちはあんなことを言うのだ。
なにも伝えられない、そのことが、すごくもどかしい。
私の胸を強く強く縛り付けるものの正体は、一体なんなのだろう。
どうしてもその正体が知りたくて、いつまでも、私は何も見えない暗闇を彷徨い続ける。
答えなんて、出てくるはずもないのに。
私は、場面緘黙症(ばめんかんもくしょう)、という病気だった。
どうして私だけ学校で話せないのか、そのことに違和感を抱いて、近くにある精神科医に行ったら、年配の男の先生に場面緘黙症と診断された。
私が先生から聞いた話によると、場面緘黙症とは、家庭では話せるのに、学校や職場などでは話せないなどの、状況により普通に話せる場面と話せない場面がある、という病気だそうだ。
社会不安障害、不安障害のひとつ。
人前で話すことに不安や緊張を感じ、震え、動悸、吃音(きつおん)などの様々な症状が表れる、と先生には言われた。
私の場合は、話さなきゃ、と思うと震えが止まらなかったり、吐き気がしたり、胃が痛んだり、などの症状が出ることが多いので、動悸や吃音などの症状がでることは、あまりなかった。
普段のことについて、色々と先生に訊かれて答えていると、先生にどうして私が場面緘黙症になったのか心当たりはあるのか、と訊かれた。
ないです、とそのときの私は答えた。
原因はわからないけれど、本当はそのことにひとつだけ心当たりがあった。
でも、先生には言うことができなかった。
だから、そのとき先生に私は咄嗟に嘘をついた。
後ろめたかったけれど、あまりにも声に出せるようなことではなかった。
私が物心ついたときからずっと一緒で兄妹も同然に育ってきた、五つ上の幼馴染の柳田樹(やなぎだいつき)くんがちょうど九年前の春に、事故で死んでしまったのだ。
樹くんのことを私は、いっくんと呼んでいた。
私はある日、いっくんとお花見をしたくて公園に遊びに行ったことがあった。
その公園からの帰りに横断歩道を渡っていたら、信号無視の黒い車にまだ十三歳だったいっくんは轢かれてしまった。
私はいっくんに突き飛ばされてなんとか掠り傷だけですんだけれど、いっくんは掠り傷だけではすまなかった。
救急車が来たころには、もういっくんの命は危うい状態だった。
道が混んでいて、すぐには駆けつけることができなかったのだと病院の人たちは言っていた。
あと少しでも早く救急車が来ていたら、助かっていたかもしれなかったけれど、そんなことを思ってもどうしようもない。
轢かれた日から、二日後にいっくんは命を引き取った。
だから、それから私は春が大嫌いだ。
その後、親戚や身近な人たちだけの、ささやかなお葬式があげられた。
私はずっと泣いていた。
棺の中で眠っていたいっくんは、とてもとても穏やかな表情をしていて、それが余計に私の涙を溢れさせた。
まだそのころの私は六歳で小学一年生になったばかりだった。
それから、ショックで一ヵ月くらい学校を休んでコミュニケーションをずっと避けていた。
なので、きっと話すのが怖くなって話せなくなったのだと私は思っている。
九年も前のことを、はっきりくっきりと写真のように鮮明に思い出せるのが、虚しくて悲しい。
でも、そのときにたくさん泣いたからか、それ以降、涙を流すことは一度もなかった。
はずなのに、気付けば視界は歪んでいた。
ぽろぽろと砂時計の砂のようにたくさん涙が出てくる。
もう枯れてしまったと思っていた涙がまた出てくるなんて、と私はどこか他人事のように思った。
「う……」
微かに嗚咽が洩れた。
涙は止まるどころか、どんどんと溢れてくる。
ピンポーン。
その瞬間になったチャイムは、私の涙を一瞬だけ止めた。
私はベッドから起き上がり、玄関に向かった。
宅急便だろうか、と私はドアスコープを覗いた。
青い帽子を被って荷物を持った人が立っている、と思ったのだけれど、同い年くらいの知らない男の子が立っていた。
よく見ると、その男の子はすごく整った顔をしていた。
思わずドアスコープ越しに私はうっとりと見惚れた。
ドアノブに手をかけて、はああ、と美しさにため息を吐く。
がちゃ、ばん、どざざ。
ふいに意味深な音が耳に入ってきた。
なんの音だろうか、と周りを見回すと視界が反転しているのに気付いた。
ああ、転んだのか。
私は起き上がり、もう一度しっかりと周りを見回した。
灰色のコンクリート、錆び切った柵、柵を遮るように立っている黒いジーンズの足。
どうやらここは外らしい。
なにが起きたのだろう。
私は外には出ていないし、今までベッドで横になっていたから髪もぼさぼさで、外に出るつもりはさらさらなかった。
弱虫の私、怖がりの私、怒りっぽい私、馬鹿な私、すべてを否定する私、色々な私が頭の中で講義を始める。
ぐるんぐるんと物凄い速さで頭が回されているようだった。
「おい」
そのとき、真上から不機嫌そうな声が降ってきた。
恐る恐る顔を上げると、頭の中の講義がぴたりと止まった。
そこにはさっきの男の子が私を見下ろすように立っていた。
ひゅっと私の喉が鳴る。
ライオンでも立っているのかと思うほどに、男の子は恐ろしい表情をしていた。
くいと顎を前に突き出して、形の良い眉を歪めて、睨むように私のことを見ている。
「ごっ、ごめんなさい!」
即座に立ち上がり、がばっと深く頭を下げて謝った。
きっと怒っているに違いない。
息が荒くなる、苦しくなる。
その瞬間、私は今起きたことをはっきりと理解した。
記憶がすっかり抜けてしまっていたようだった。
私がこの男の子の美しさに見惚れドアノブに体重をかけてしまい、そのままドアが開いて勢いよく私が転倒した。
気軽で楽しい祝日に、まさかこんな失態を仕出かすことになるとは、まだ寝ていたときの私は予想もしていなかっただろう。
かああっと頬が熱くなった。
「頭上げろ。別に怒ったりしてねえし」
素っ気ない声で男の子は言った。
そう聞いても、なかなか私は頭を上げられない。
「さっさと上げろっつってんだろ、めんどくせえ」
はあーとわざとらしいため息を吐きながら、急かすように男の子が言う。
怖くて私はすぐに頭を上げた。
頭を上げると男の子と目が合った。
ぱっと私は男の子から、目を逸らす。
「ふん」
男の子は小馬鹿にするように鼻を鳴らして、なにやら高級そうな白い紙袋を突き出した。
なんだろう、と私は男の子の顔をちらりと盗み見た。
恥ずかしそうに耳を微かに赤らめて、男の子はそっぽを向いている。
「え、あの……?」
意味がわからずに、私は小首を傾げた。
「はあ? わかんねえのかよ。どう見ても挨拶だろ」
「あ、挨拶って?」
「引っ越しの、だよ」
不愉快そうにぐっと眉根を寄せて、男の子は口を尖らせて言った。
そんな顔されてもわかるわけないのにと思いながらも、ああ、と私の中で合点がいく。
ちょうどアパートの私の左隣の部屋が空いていたのだ。
それにしても、わざわざ隣人に挨拶にくるなんてなんと礼儀が正しいんだろう。
私だったら絶対に無理だ。
「そ、それは、ありがとうございます」
ここ最近ずっと笑っていなかったからか、ぎこちない笑顔を浮かべて、私はお礼を言ってそっと紙袋を受け取った。
中を見ると、並べないと買えないという高級チョコレート店の一つで八百円もするらしいチョコレートが入っていて腰を抜かしそうになる。
あまりにも高すぎるので、チョコレートを食べようと思っても安いコンビニで買ってしまい、一度も買ったことがなかった。
もちろん食べたこともないし、もらったこともない。
だというのに、チョコレートは六つ入りの箱で入っていた。
焦げ茶色の箱に赤いりぼんがついていて、箱の真ん中が透明で中のチョコレートが見えた。
思わず、ごくりと唾を呑み込んだ。
はっ、はっ、と息が荒くなる。
暑さでおかしくなっているのだろう、頭や身体が熱い。
「よかったら、一緒にたべ、食べていきま、すか? ひとりじゃこんな高級なもの、食べれない、ですし……」
へらりと薄っぺらく笑って提案すると、男の子は少し迷ったような仕草を見せたけれど頷いてくれた。
開け放たれたままのドアから中に入る。
裸足の足についた汚れを払って、リビングのテレビの前にある低いテーブルに私は屈みこんで紙袋を置いた。
ちょうど私の手に収まる大きさの透明なお皿を二枚、向かい合うように並べて、六つあるチョコレートを三つずつお皿にのせる。
男の子は遠慮がちに床に座った。
私も男の子の前に座って、チョコレートを素手で食べようとするけれど、男の子は素手で食べるのに抵抗があるのか、なかなかチョコレートに手をのばさない。
「す、スプーン、いる?」
棚から銀色のスプーンを出してきて訊くと、男の子は頷いた。
「チョコレート、素手で食べないんだね」
なんだか気まずくて言うと、男の子は苦笑した。
「逆にあんたは素手で食べるんだな」
そう返ってきて、急に恥ずかしくなってくる。
でも手は止めずにチョコレートを口に入れて、舌にのると同時に、オレンジの少し苦味とチョコレートの甘さが口の中で広がった。
「んー! っまい!」
緊張で張りつめていた頬が途端に緩んでいく。
次へ次へと手がのびていってしまうので、あっという間に私のお皿は空になった。
ふう、と空のお皿を見て息を吐くと、じとりとした目で見られていることに気が付いた。
「ひ、引いた……?」
恐る恐る訊くと、男の子は噴き出した。
「ぶふっ。ふつう、引いた? なんて、訊かないだろ。ははっ」
幼い子供のように眉尻を下げて笑う男の子につられて、唖然としていた私もついには堪えきれなくなり、笑った。
「あはは! そうだね」
どこが面白かったのか、ひいひい言いながら男の子はお腹を抱えている。
ほろり、と涙が頬を伝った。
それと同時に、男の子の笑い声が止んだ。
「悪い、泣かせて」
しゅんと肩を落とし、おろおろと目線を彷徨わせている。
「ごめんなさい。違うの、嬉しくて。あれ、なんでだろ、止まんない……」
必死に溢れてくる涙を止めようとするけれど、止まらない。
なんとか嗚咽を堪えるので精いっぱいだ。
「無理すんな、泣きたいときは泣け」
私の隣に回って優しく背中をさすりながら、男の子はそう言ってくれる。
ねじが完全に外れてしまったように、私は声を上げて泣いた。
泣きたいだけ、嗚咽を洩らして、涙を流した。
「あり、がとう、泣かしてくれて」
少し落ち着いてきたところで、ずっと背中をさすってくれていた男の子に言った。
心配そうに首を傾げて、大丈夫か、と言いながら男の子は私の背中をさするのをやめた。
暖かくてごつごつと骨ばった手が離れてしまうのを少し寂しく感じたけれど、なにも言わずに私は頷いた。
「うん、もう大丈夫。そういえば、名前、なんていうの?」
ふと思い出して尋ねると、男の子は顔面をぴきっと強張らせた。
なにかいけないことを言ってしまっただろうか、と私は不安になる。
嫌だ、言わなければよかった。
なんで私はいつもこうなんだろう。
私が話そうとすると嫌な顔をされる。
この男の子の表情は、怖いというような表情だけれど、私には嫌そうに見えた。
(みなと)
ぽつりと小さい声で湊くんは言った。
「湊くん。素敵な名前だね」
笑顔で私は返す。
湊くんは頷いてくれた。
どうしてフルネームで言ってくれないのか、わからなかったけれど、私のように言いたくないことがあるのかもしれない、と黙っておいた。
息が詰まるほどに長い沈黙が場を支配する。
五分くらいたっただろうか、ふいに湊くんが立ち上がった。
「荷解きもあるし、そろそろ行くか。チョコ、さんきゅーな。じゃあ」
控えめに湊くんは笑って、玄関に向かった。
私も慌てて、湊くんを追う。
「今日はありがとう。またね」
玄関で靴を履いて出て行こうとしている湊くんに向かって言い、手を振った。
軽く振り返してくれて、湊くんはがっしゃんという音のなるドアを閉めた。
それからすぐに、がちゃがっしゃんと隣のドアの開け閉めする音も聞こえた。
私は玄関なのも気にせずに弱々しくその場にへたり込んだ。
「話せたの、嬉しかったのに、なんで、私、いつも、空気を悪くしちゃうんだろう……」
口をついて出た、弱音に私は心を押し潰されそうになる。
やっぱり私なんかに人と話すのは無理なんだ、と思い知らされたようだった。
また涙が出てきた。
ああ、嫌だな。
そう思っているのに、変われない私に腹が立つ。
私は目に入った、学校指定の茶色いローファーを壁に投げつけた。
がんっ、と鈍い音がする。
そのまま玄関に逆さまになってローファーは落ちた。
壁には少し黒く泥がついてしまった。
でも、今はそんなことどうでもよかった。
今まで何度も思ってきた、後悔がまた押し寄せてくる。
あのとき、車に轢かれたのが、私ならよかったんだ。
いっくんはちゃんと周りから求められてたけど、私はいてもいなくてもどっちでもいい存在だった。
いっくんに生きててほしかった。
私が死ねば、よかったのに。
いっくんのことを考えれば、死ぬことなんか、怖くない。
こんなことを思ったって仕方がないことはわかっている。
けれど、思わずにはいられなかった。
じわじわと黒い影が私の心に(まと)わりついて離れない。
息が苦しくなる。
今すぐ死神が私の目の前に現れて、殺してくれないだろうか。
そして、いっくんの元に連れて行ってくれないだろうか。
どんなことになってもいいから、もう一度だけ、いっくんに会いたい。
あの優しい笑顔で私の毒ごとすべてを包んでほしい。
私の心の端にしがみついて離れてくれない影をあの笑顔で消してほしい。
前みたいになにも気にしないでずっと笑っていられたら、いいのにな。
ああ、あのころに戻りたい。
どう足掻いても藻掻いても、戻ることなんて絶対に不可能だ。
よろよろと私は立ち上がる。
覚束ない足取りで、寝室に向かう。
寝室に入ると同時に、ベッドに倒れ込むように寝転がった。
そのまま私は眠りについた。



「あっ」
目が覚めた。
枕に突っ伏する形で眠っていて、起き上がると、カーテンは開いたままになっていて、外は真っ暗闇だった。
まだ夜中なのだろう。
目覚まし時計を見ると、時刻は、午前三時三十六分だった。
服は、デニムと適当な半袖のTシャツ。
歯も磨いていないし、お風呂も入っていないし、着替えてすらいない上に、夕ご飯も食べていない。
まだ寝ていたいけれど、ため息を吐いて私は洗面所に向かった。
歯を磨いたら、お風呂を洗って沸かす。
お風呂が沸くのを待っている間に、学校の制服を用意して、膝よりも少し短い長さの髪を揺らしながらキッチンに行った。
木製の戸棚から、保存食として買ってあるシーフードのカップヌードルを出してきて、熱湯をカップヌードルの容器に注いだ。
そのまま蓋をして、二分待つ。
本当は三分なのだけれど、私は麺が硬めの方が好みなので、いつも二分で食べている。
椅子に座って、ぷらぷらと足を揺らしながらぼーっと窓を眺めて待つ。
お風呂に半分だけお湯が溜まったのを知らせる音が鳴る。
ちょうど、ぴぴぴぴ、とタイマーも鳴ったので、カップヌードルの蓋を取って、お箸で麺を啜った。
熱々の麺をはふはふしながら、音を立ててカップヌードルを黙々と食べる。
タオルケットの上でなにもかけずに寝ていたので、身体が冷えてしまっていたのだけれど、身体が芯から暖まっていくのがわかった。
そそくさとカップヌードルを食べ終え、空になった容器を洗った。
暖まった手に冷たい水がかかり、私は「ひょえっ」と変な声を出した。
お風呂が沸きました、と二回繰り返されて、私は驚きで肩を竦ませる。
容器を乾かそうと、食洗器の上に置いて、お風呂場に行き、今まで着ていた服を脱いで洗濯機に放り込んだ。
お風呂に入る。
昨日の夜はお風呂に入らないまま寝てしまったので、身体を洗って湯船に浸かると、ほっと安心できた。
疲れたという思いは離れてくれても、死にたい思いと後悔は私の中から離れてはくれない。
ああ、また暗い。
どうしても明かるいことや楽しいことは考えられない。
気付けば、暗いことばかりを考えている。
そんな自分が大嫌いで、春も大嫌いで、変わりたい。
変わりたいけど、変われない。
それだけが私を嫌な思いにさせる。
そもそもあのときに私がお花見をしたいなんて言わなければ、よかったんだ。
きっと今頃はもう二十代になったいっくんと笑い合っていたはずだった。
これが運命だったんだ、とは思えない。
思おうとしても、どうしても後悔が胸を(むしば)む。
「はあ、やめやめ!」
この暗い考えを遮りたくて、私はわざと声に出した。
ばしゃっと乱暴に湯船から出て、頭から冷たい水を浴びた。
あまりの冷たさに全身が凍りそうになったけれど、構わずにきんきんの水を浴びた。
がくがくと足が震えてきたところで、やっと蛇口をひねって水を止める。
涙を隠したかった。
自分自身に、私は泣いていないんだよ、と偽りたかった。
けど、自分を偽るなんて私にはできなかった。
いっくんが嘘をついちゃだめなんだよ、と言ったから。
ははっ、と私の乾いた笑いがお風呂場に響いた。
もうどうでもいいやって今まで背負ってきたものを投げ捨てて、走って走って手をのばして、いっくんに会いたかった。
そうどんなに願っても、いっくんに手は届かないし、届いちゃだめなんだ。
私にもわかってる、わかってるけど、手をのばさずにはいられない。
あと少し、あと少しだけ堕ちてしまえば、いっくんはすぐそこだ。
なのに、あと少しのところで堕ちれない。
正確にいえば、堕ちるのが怖い。
人間なんてみんなそうだ。
はやく死にたい、こんな日々は苦しいから死んでしまった方がいいに決まってる、そう思って悲劇の主人公を気取ってる。
でも、いざ死ぬとなると、怖気づいてやっぱり死にたくなくなる。
それぐらい大袈裟に悲劇的に何気なく思ってることくらい、誰でもわかってる。
私でもわかってる。
そう思わずにはいられないことも、わかってる。
それでも、そうは思わない方が楽だ。
本音も言わない方が楽だ。
悲しい過去はなるべく心の奥底に沈めておいた方が楽だ。
なにも気にしていないふりをしている方が楽だ。
私だけではなく誰しもが、楽な方を選ぶ。
挑戦してみよう、チャレンジしてみよう、なんて思いもしない。
こうしてた方が楽だから、これはやめとこう、なんて勝手に決めつけて楽で苦労なんてしなくてよさそうな方を選ぶ。
もしも、選択肢から楽をしていけるような選択が消えたら、どうするんだろう。
そう思いながら、軽く身震いをする。
全身に鳥肌が立っていた。
冷えていて寒いはずなのに、じわりと首筋に生温い汗が流れていった。
私はなんだか居たたまれなくなって、お風呂を出た。
タオルに身体の水分を吸わせて、下着を着て、制服に身を包む。
ぶんぶんと首を振って、今までの考えをすべてかき消した。
制服の胸元でりぼんを結んで、髪に(くし)を通して、鬱陶しいくらい長い髪をポニーテールにする。
長い髪が鬱陶しいなら、切ってしまえばいいことなのだけれど、いっくんが綺麗だねって言ってくれたから、それからずっと切れないでいる。
いつかは切らなければいけないときがくるけれど、そのときまではいっくんが綺麗と言ってくれたこの髪をのばしていたい。
切っても、いっくんは綺麗だと言ってくれると思うけれど、もういっくんはいないのだ。
きっと今の私は黒ずんでいて暗い空気を纏っているだろうとふいに思ったら、どうしてか笑えてきた。
「あははっ、はは、は、は……」
段々と乾いた笑いに変わっていく。
ああ、心から笑ったのは一体何年前だろうか。
ピンポーン、ピンポーン。
家のチャイムが鳴った。
出る気にはなれず、私は黙って居留守をしようと息を殺す。
次はどんどんとドアが叩かれた。
しつこいなあ、と思いながらも押し黙る。
どんどんどん、とさらに強くドアが叩かれる。
私は顔を顰めるけれど、ドアはまだ強く叩かれたまま。
仕方なく、私はドアスコープを覗きもせずにドアを開けた。
すると、意外な人物が立っていた。
「湊、くん……」
不機嫌そうな呆れたようなそんな表情を湊くんはしていた。
普段着に見えるパジャマを着ていて、寝ぐせも目立っていて、寝起きだということがわかる。
「なあ、うるさいんだけど」
「え、あ、ごめんなさい。でも、私、なんかうるさかった?」
意味がよくわからずに首を傾げると、ため息を吐かれた。
「はあ? わかんねえのかよ、さっきから変な笑い声ばっか聞こえてきて気味悪い。人が寝てるってのに」
まさか隣にまで聞こえていたとは思わなかった。
とにかく私は謝る。
「ご、ごめんなさい。まさか聞こえてたとは思わなくて、ごめん」
頭を下げると、湊くんはまた大きなため息を吐いた。
やれやれ、というふうに左右に首を振って両手をひらひらさせながら言う。
「謝んなくていい。てか、なんで笑ってたんだよ」
ぴくりと眉を上げて、湊くんは目を細めた。
「お、面白かった、から?」
そっぽを向いて嘘をつく。
「面白いってなにが? まったく感情が籠ってなかったけど」
「えっと、その、あれが……」
ごにょごにょと言葉を濁すと、湊くんは、ははんと小馬鹿にするように笑った。
「あれってなんだよ、嘘つくな。悩んでんなら、言えばいいだろ」
「言えばいいだろって、そんな言えるわけないじゃん。しかもまだ昨日会ったばかりの知らない人に話せない」
「知らない人だから言えることだってあるだろ。よく知ってる人になら話すってことかよ?」
「ち、違うっ! 誰にも言えないの、いっくんにしか、言えないことなの……」
俯いて言うと、湊くんはすごく驚いたように目をまん丸に丸めた。
「いっくんって、まさか、お前、さ、『さきき』?」
ふいに懐かしい呼び名が色素の薄い湊くんの唇から零れた。
私は顔を上げて、呆然と湊くんを見つめる。
ぱちくり、ぱちくり、と瞬きを繰り返す。
「な、なんで?」
なんで私は地面に立ってるんだっけ?
どうして私は生きてるんだっけ?
あれそもそも私って存在してるんだっけ?
ここはどこなんだっけ?
混乱して、私がここに存在していること自体に疑問を覚える。
「柳田湊」
湊くんはしゃきっと背筋を伸ばして言った。
私は絶句する。
や、柳田って……。
なんとか声を絞り出すと、か細く頼りない声しか出なかった。
「い、いっくん、の弟? 『みなくん』、なの?」
よくいっくんが嬉しそうに弟の「みなくん」の話をしていたので、会ったことはないけれど、名前だけは知っていたのだ。
「そう、樹兄ちゃんの、弟だ。兄ちゃんにいっつも飽きるくらい沙希(さき)っていう女の子の話をされた。いつもその子のことを兄ちゃんは『さきき』って呼んでて、仲良いんだ、俺と同い年なんだ、妹みたいに可愛いんだ、ってそれくらいで楽しそうにして、くだらねえって思ってた」
沙希とは、私のことだ。
苦しそうな表情で湊くん――みなくんは言った。
その表情のまま、みなくんは続ける。
「でも、九年前に、兄ちゃんは、死んだ」
「あのね、私、いっくんが車に轢かれるところ、み、見たの……。公園にお花見に行って、その帰りに、信号無視した車に、ひ、轢かれて、ごっ、ごめんなさい!」
わかりにくいと思うけれど、みなくんはしっかりと聞いてくれた。
「なんで謝る?」
「だって、だって、私が、お花見いきたいって、言ったから、だから、いっくんは……」
ゆるゆると涙腺が堪えきれなくなったように緩んで、涙を流しながら言うと、みなくんは首を振った。
「いい、謝んな。悪いのは、お前じゃない」
怒ったような表情もせずに真剣な表情のままで言ってくれたみなくんは本当に怒っていないようだった。
「なんで、怒んないの? いっくんを殺したんだよ?」
「怒んない、怒っても仕方ない。ていうか、お前は兄ちゃんを殺したんじゃないだろ。たぶん、あれが、兄ちゃんの運命だったんだ」
ああ、いいなあ。
そう思った。
私はこれは運命なんだ、と受け止めきれずにいるのに、みなくんは運命だって受け止められてる。
それが羨ましくて、妬ましくて、尊敬してしまう。
でも、不思議と今は運命だと思えるような気がする。
「そっか、運命だったんだよ、そう、運命だったんだ……」
私は自分に言い聞かせるように呟いた。
「いくらでも聞くから、お前の話、教えてくれないか」
みなくんは私の顔色を窺いながら、そう言った。
「いっくんの弟なんでしょ、みなくんなら、いいよ。でも、馬鹿にしないでね」
それだけ言い、私はゆっくりと深呼吸をしてから慎重に話し出した。
私が場面緘黙症だということ、その原因はいっくんが死んでしまったショックからかもしれないこと、毎日が息苦しいこと、家族に迷惑をかけたくなくて離れた東京にひとりで引っ越してきたこと。
すべてを話した。
みなくんはなにも言わずに、ただ黙っていてくれた。
「――だから、私にはいっくんがいないと、だめなの。ひとりじゃ、なんにもできない」
ぎゅっと制服のスカートの裾を握りしめる。
涙が顎を伝って、制服のブラウスに薄く染みを作った。
思わず俯いた。
強く握りしめてしわのついたスカートが目に入る。
ぽんとみなくんの暖かい手が頭にのせられた。
じんわりと心にまで温かさが染みわたっていくようだった。
「兄ちゃんはもういない。いつまでも兄ちゃんに頼るの、やめろよ」
怒ったような声だった。
顔を上げると、みなくんはやっぱり怒った顔をしていた。
――全く、さききは、ネガティブだね。
ふいにいっくんの言葉が私の頭を駆け巡った。
――大丈夫、さききはちゃんと可愛いよ。
私が同じクラスに好きな人がいて、告白しようとして、でも勇気が出なかったときにいっくんがそう言ってくれた。
そのおかげで、私はその子に告白をした。
ちゃんと、前髪を整えて、髪だっていつもよりも丁寧に結んだ。
なのに、まだそういうのはわからないと、断られてしまった。
そのときも、いっくんは笑って受け流してくれた。
――そっかそっか、あはは。さききが可愛すぎて、その子はきっと怯んじゃったんだよ。
――怯んじゃう、って?
――怖くなっちゃったんだよ。
そんな会話をしていたころが、すごく懐かしい。
「うん、私、ネガティブだったんだ」
声に出して言った。
天国にいるいっくんに届くように。
みなくんは不思議そうな表情をして、唖然と私を見つめている。
その間抜けな表情に、私は内心でほくそ笑みながら続けた。
「でも、もう今日で、ネガティブな私は、卒業する」
今この瞬間まで、私はどうしようもないくらいネガティブだった。
それでも、私なら、ポジティブないっくんみたいになれる。
笑いが込み上げてきて、みなくんと私はふたりで笑い合った。
あのときに咲いていた桜は、最後のはなびらを散らせた。
それは、私がネガティブな私を卒業して初めて、春を好きになった瞬間だった。