大学からの帰り道、黒猫に出会った。
遺伝した色で縁起が悪いなんて言われる黒猫は不憫だ。ずっとそう思ってきたからかもしれない。
私は、黒猫を家へ連れて帰ることにした。
今夜は冷えるらしい。黒猫にあたたかい宿を提供したかった。
……いや、本当はひとりで過ごす夜がさみしかったのかもしれない。私の大学合格が決まった春、定年を迎えた父と母は海外で暮らしはじめた。
大学では、私は講義を受けるだけの人形のようになっていた。高校とは違い、教わる時間は長く学問の種類も圧倒的に多い。これが大人になるステップなんだろうか。
それでも、もし、いまもあの子が隣の家にいたら私はこう言っていただろう。
「大学生って忙しいんだよ」
そんな風に、私が毎日のように、彼をけしかけていたのがいけなかったのだろうか。
「おまえ、うちの子にならない? しばらく……いや、ずっといていいんだよ?」
「……にゃー」
黒猫の鳴き声は、やけに人間くさかった。おかしくて、笑みがこぼれた。私は黒猫を抱き上げると家路を急いだ。
黒猫の温もりを感じる。
懐かしい。彼もとてもあたたかった。私は嫌がる彼を、いつも抱き上げていた。彼とちがい、黒猫は私の腕のなかにおさまっている。
「おれ、はやくおとなになりたい」
不意に思い出した彼の言葉に、目頭が熱くなる。
ゆうちゃん。……ごめん。こう呼んだら、あなたはきっとまた不機嫌になるよね。
……裕樹くん。
できることなら、あなたの成長をこの目で見たかった。
……裕樹くん。どうして、あんな選択をしたの?
夕闇が迫る空を見上げても、答えは返ってこなかった。
歩きながら、何度もまばたきをした。泣いてなどいられない。私はもう、子供ではないんだから。
そう、私は子供ではない。
黒猫をリビングのソファに座らせる。私も隣に座った。
「猫って、何を食べるのかな? えっとスマホで検索しようかな」
「猫じゃない」
「え?」
「俺は猫じゃない。裕樹だ」
私はスマホを落とした。
「裕樹くん……」
「これは、プロジェクトが決まってから俺が個人で制作したアンドロイドだ。宇宙局職員に、ある日付になると電源を入れて自宅の近くで放すように頼んでいた。いま、ステーションから遠隔操作している」
「なんで、そんなややこしいことしたの? 私と会話したいなら端末を使えばよかったじゃない!? 宇宙に旅立ってから、なにも! なにも連絡くれないで! だいたいプロジェクトに参加するのだって、誰にも言わずに決めて……」
黒猫……いや、裕樹くんは私の太ももの上に乗った。
「この会話は、誰かに聞かれたらマズいんだ。真希ねえちゃん。プロジェクトは無事に進んでいる……ということにしている。表向きは」
「え?」
「『宇宙少年育成プロジェクト』は成功している。俺、天津裕樹を覗いて」
「そんな! ゆうちゃん! ゆうちゃんだけ失敗したの? ゆうちゃんだけ……大人になれないの……?」
まだ日本から放ったスペースシャトルが片手で足りる数だった頃、『宇宙少年育成プロジェクト』が発足された。
国は、一桁の年齢の子供たちを宇宙ステーションに居住させた。
『宇宙という過酷な状況でも、人は成長をコントロールできるのか?』
これがプロジェクトの課題だ。
子供それぞれに、目標成長年齢を設定して、宇宙局職員の管理下で成長促進剤や栄養剤を投与させる……はっきり言って、人体実験だった。
目標成長年齢に達した子供から順に地球へと帰還するはずだった。しかし平成が終わっても、ひとりだけ戻れなかった。
……裕樹くんだけが戻ってこなかった。
裕樹くんの目標成長年齢は二十歳。宇宙へ旅立ったとき、裕樹くんは八歳だった。
「真希ねえちゃん……ごめんなさい。俺はズルをしたんだ。真希ねえちゃんより、年上になりたくて……早く大人になりたくてプロジェクトに参加したんだ。だから……促進剤を多めに飲んでいた。でも、職員にバレちゃったんだ……」
私は黒猫を抱き上げた。
これは裕樹くんの温もりだったんだ。
遠い、遠い宇宙から届いた、裕樹くんの温もり。
「ときどき促進剤や栄養剤を止めて、再開してを繰り返したんだけど……もうプロジェクトの資金が足りなくて……俺は、来月に帰還する。結局……結局、俺は大人になれないどころか、真希ねえちゃんともっと、もっと年が離れるんだ。ごめんなさい、真希ねえちゃん。俺、真希ねえちゃんのすぐ隣にいられるひとになりたかったよ……」
「裕樹くん……裕樹くんはえらいよ。宇宙は広くて暗いでしょ? ひとりでよくがんばったね……ずっと、がんばってきたんだね……帰ってきたら褒めてあげる。たくさん、たくさん……」
「ありがとう、真希ねえちゃん……」
一ヶ月後。葉桜の季節に裕樹くんは帰ってきた。
その姿は、プロジェクトのために旅立った頃とほとんど変わらなかった。
「ただいま」
「おかえりなさい」
彼を抱き上げようとしたけど、やめた。
彼はもう、子供ではない。
しゃがみ込んで彼の両手を取る。
ああ、懐かしい温もりだ。あの頃と同じだ。けれど、彼は確実に成長している。
静かな光をたたえた彼の瞳を見ればわかる。
彼はもう、子供ではない。
私は彼を抱き寄せて、やさしくキスをした。
【了】
遺伝した色で縁起が悪いなんて言われる黒猫は不憫だ。ずっとそう思ってきたからかもしれない。
私は、黒猫を家へ連れて帰ることにした。
今夜は冷えるらしい。黒猫にあたたかい宿を提供したかった。
……いや、本当はひとりで過ごす夜がさみしかったのかもしれない。私の大学合格が決まった春、定年を迎えた父と母は海外で暮らしはじめた。
大学では、私は講義を受けるだけの人形のようになっていた。高校とは違い、教わる時間は長く学問の種類も圧倒的に多い。これが大人になるステップなんだろうか。
それでも、もし、いまもあの子が隣の家にいたら私はこう言っていただろう。
「大学生って忙しいんだよ」
そんな風に、私が毎日のように、彼をけしかけていたのがいけなかったのだろうか。
「おまえ、うちの子にならない? しばらく……いや、ずっといていいんだよ?」
「……にゃー」
黒猫の鳴き声は、やけに人間くさかった。おかしくて、笑みがこぼれた。私は黒猫を抱き上げると家路を急いだ。
黒猫の温もりを感じる。
懐かしい。彼もとてもあたたかった。私は嫌がる彼を、いつも抱き上げていた。彼とちがい、黒猫は私の腕のなかにおさまっている。
「おれ、はやくおとなになりたい」
不意に思い出した彼の言葉に、目頭が熱くなる。
ゆうちゃん。……ごめん。こう呼んだら、あなたはきっとまた不機嫌になるよね。
……裕樹くん。
できることなら、あなたの成長をこの目で見たかった。
……裕樹くん。どうして、あんな選択をしたの?
夕闇が迫る空を見上げても、答えは返ってこなかった。
歩きながら、何度もまばたきをした。泣いてなどいられない。私はもう、子供ではないんだから。
そう、私は子供ではない。
黒猫をリビングのソファに座らせる。私も隣に座った。
「猫って、何を食べるのかな? えっとスマホで検索しようかな」
「猫じゃない」
「え?」
「俺は猫じゃない。裕樹だ」
私はスマホを落とした。
「裕樹くん……」
「これは、プロジェクトが決まってから俺が個人で制作したアンドロイドだ。宇宙局職員に、ある日付になると電源を入れて自宅の近くで放すように頼んでいた。いま、ステーションから遠隔操作している」
「なんで、そんなややこしいことしたの? 私と会話したいなら端末を使えばよかったじゃない!? 宇宙に旅立ってから、なにも! なにも連絡くれないで! だいたいプロジェクトに参加するのだって、誰にも言わずに決めて……」
黒猫……いや、裕樹くんは私の太ももの上に乗った。
「この会話は、誰かに聞かれたらマズいんだ。真希ねえちゃん。プロジェクトは無事に進んでいる……ということにしている。表向きは」
「え?」
「『宇宙少年育成プロジェクト』は成功している。俺、天津裕樹を覗いて」
「そんな! ゆうちゃん! ゆうちゃんだけ失敗したの? ゆうちゃんだけ……大人になれないの……?」
まだ日本から放ったスペースシャトルが片手で足りる数だった頃、『宇宙少年育成プロジェクト』が発足された。
国は、一桁の年齢の子供たちを宇宙ステーションに居住させた。
『宇宙という過酷な状況でも、人は成長をコントロールできるのか?』
これがプロジェクトの課題だ。
子供それぞれに、目標成長年齢を設定して、宇宙局職員の管理下で成長促進剤や栄養剤を投与させる……はっきり言って、人体実験だった。
目標成長年齢に達した子供から順に地球へと帰還するはずだった。しかし平成が終わっても、ひとりだけ戻れなかった。
……裕樹くんだけが戻ってこなかった。
裕樹くんの目標成長年齢は二十歳。宇宙へ旅立ったとき、裕樹くんは八歳だった。
「真希ねえちゃん……ごめんなさい。俺はズルをしたんだ。真希ねえちゃんより、年上になりたくて……早く大人になりたくてプロジェクトに参加したんだ。だから……促進剤を多めに飲んでいた。でも、職員にバレちゃったんだ……」
私は黒猫を抱き上げた。
これは裕樹くんの温もりだったんだ。
遠い、遠い宇宙から届いた、裕樹くんの温もり。
「ときどき促進剤や栄養剤を止めて、再開してを繰り返したんだけど……もうプロジェクトの資金が足りなくて……俺は、来月に帰還する。結局……結局、俺は大人になれないどころか、真希ねえちゃんともっと、もっと年が離れるんだ。ごめんなさい、真希ねえちゃん。俺、真希ねえちゃんのすぐ隣にいられるひとになりたかったよ……」
「裕樹くん……裕樹くんはえらいよ。宇宙は広くて暗いでしょ? ひとりでよくがんばったね……ずっと、がんばってきたんだね……帰ってきたら褒めてあげる。たくさん、たくさん……」
「ありがとう、真希ねえちゃん……」
一ヶ月後。葉桜の季節に裕樹くんは帰ってきた。
その姿は、プロジェクトのために旅立った頃とほとんど変わらなかった。
「ただいま」
「おかえりなさい」
彼を抱き上げようとしたけど、やめた。
彼はもう、子供ではない。
しゃがみ込んで彼の両手を取る。
ああ、懐かしい温もりだ。あの頃と同じだ。けれど、彼は確実に成長している。
静かな光をたたえた彼の瞳を見ればわかる。
彼はもう、子供ではない。
私は彼を抱き寄せて、やさしくキスをした。
【了】