100とスタンプされた私の右手を見ると、人はため息をつく。
そんなに生きられるなんてうらやましい。きっとそう思うのだろう。
医学の発達で、人間がそれぞれ何歳まで生きられるかわかった現代。
いまでは、生まれた赤ん坊の右手に、その子が亡くなる年齢のスタンプを医師が押す。スタンプはライフナンバーと呼ばれている。
私、大原(おおはら)真奈(まな)のライフナンバーは100。
そして私の大切な人だった矢野(やの)(りょう)のライフナンバーは、17。
これは、私と良の人生の話だ。
ほんの一瞬だけ交差した、ふたりの人生の話だ。

良はいつも言っていた。
「俺は青春を楽しむ。みんな受験がんばれよ」と。
良は7月生まれだ。高校3年の18歳の誕生日を迎えるまでに最期の日が訪れるだろう。
良の誕生日があと3ヶ月後に迫った日の放課後。私はクラス担任に呼ばれた。
良の面倒を見てほしいという。
彼は話し相手が欲しいらしい。しかも、できるだけ長生きする人と話したいそうだ。
教室に戻ると、良だけがいた。
ノートになにか書いている。字が小さくて顔を近づけないと読めない。私は読むのをあきらめて、良の前の席に座った。彼は言った。
「俺。あの世に行ったら、やることあるんだ」
良は笑っていた。
「まず、神様を殴る。寿命というシステムを作って、毎日毎日いろんな生き物を死なせるなんて悪いことだろ。生まれたいかどうかわからない俺たちを、さあがんばりましょうって地球に放り投げて。寿命が来ればこの星から出ていってくださいと追い出す。そんなのおかしいじゃん」
良は震える声でつぶやいた。
「俺は……死にたくない」
……私にはどうすることもできないから、悔しかった。
「私も殴りたい、神様を」
良の瞳は、泣き出しそうなくらい潤んでいた。
あんなに綺麗なだれかの瞳を、私は見たことがなかった。
「ねえ。私にしてほしいこと、ある?」
「名前を呼んでくれないか。『良』って」
「良」
「もう一度」
「良」
「もう一回」
「良」
私はボールペンを持つ彼の右手を握って、何度も彼の名を言った。
「俺の名前ってさ。『良き人生を』って意味なんだ。俺のライフナンバーが17ってわかったから、父さんと母さんが名付けてくれた」
「いい名前だね」
「ああ。名前通りの良い人生だった。ほとんど喧嘩せず友達と仲良くして……恋もした」
「え。告白……しないの?」
「しない。したら、負担になるはずだから」
「そんなの気にしなくていいよ。良がつらいでしょ? 想いを告げずにいるなんて……」
「本当にそう思う?」
「……うん」
良は私の手に、左手をかさねた。
「大原……いや、真奈」
良はなにかを言おうとしたけど唇が震えている。やがて、ゆっくり口を開いた。
「真奈……真奈に、もう会えなくなるのがいやだ。真奈の声が聴けなくなるのがいやだ。全部、真奈の全部をつかんだままでいたいのに……」
「私にできること、なんにもないね……」
「また名前を呼んでよ」
「うん……良」
泣きたくないのに、涙がひとすじ流れた。
私の涙を指で拭うと、良は微笑んだ。
「真奈。真奈も良き人生を」

私たちは校舎を出た。校庭の桜の枝がふるえるようにゆれている。
「……私、桜きらい」
私は舞い落ちる花びらを睨みつけた。
「なんで派手に咲いて、派手に散るんだろう。散らなければいいのに……ずっと、ずっと、咲いていればいいのに」
「桜は散るんだよ。いつか……いつか、かならず」
良は一本の桜に近づいた。私たちの背より少し高いくらいの若い桜だ。もしかしたら、今年初めて花を咲かせたのかもしれない。良は振り返る。
「散るってわかっているから、力の限り咲けるんだ」
私は良に近づいた。
良、あなたがいなくなったら……やがて、あなたの声も笑顔も忘れてしまうのだろうか。
焼きつけたい、良のすべてを。
風が吹いた。良はそっと私の髪にふれる。
「花びら、ついてた」
良は花びらを握りしめた。
「……花びらみたいに、真奈にしるしをつけたかった」
良は笑っている。
悲しくなるくらい、さわやかに笑っている。
「いいよ。いますぐ、つけていいよ」
私は良の胸に飛び込んだ。良の腕のなかは、あたたかった。
このぬくもりが、この力強さが、この世界から名残も残さずに消えてしまうなんて……そんなの信じたくなかった。
「しるし、つけてよ。良、良……」
でも良は、なにもしなかった。
「ごめん……真奈、ごめんな……」
繰り返し私の名前を呼んで、抱きしめるだけだった。淡い色の花びらが舞うなか、ただ、ただ抱きしめてくれた。
それが、良と交わした最期の言葉になった。

良が遺したノートには、いろんな人の名前があった。
良のお父さん、お母さん、お兄さん……クラス全員の名前も、学校の先生の名前も。
もちろん私の名前も。
ひとつひとつの名前のあとには、こう書かれてある。
『良き人生を』
あの頃の私は、人生がいやになっていた。体に悪い食べ物をいっぱい食べて、病気になろうと計画したこともあった。それくらいの病なら、病院で注射すればすぐ治るのに。
私は自分が幸せな人間だって全くわからなかった。
私の命を半分こできたらよかったね。でもそんなことしたら、良は怒ったよね。
良。
この世界はね、やっぱりうんざりすることが起こるよ。でもね、それと同じくらい素敵なことがちゃんとある。
良が神様を殴ったから、ましになったのかもしれない。

夜、同窓会からの帰り道。私は通っていた高校に向かった。
舞い散る桜を見上げ、ひとり歩く。あのときの桜を見つけた。背が伸びて、幹が少し太くなっていた。
あなたと言葉を交わした最期の日。
あの日も桜たちは、いまにも泣き出さんばかりに花びらを散らしていた。
私はあれから、いろんな街でいろんな場所で、散りゆく桜を幾度も見た。
私、まだ桜を好きになれないよ。
あのとき抱きしめてくれた、あなたのあたたかさを思い出してしまうから。
なにもしなかったのが、あなたなりのやさしさだとわかっている。けれど、跡が残るくらいのしるしが欲しかった。
良。
私の良き人生が終わるとき。
永遠のひかりのなかで、私を抱きしめて。
私がどんなおばあちゃんになっても、しっかり抱きしめて。
あなたの腕のなかで伝えたい。
晴れ間の虹。初雪のきらめき。人々の笑い声。そして花吹雪。
私が見つけた、あなたに見せたかったたくさんの景色を伝えたい。
その日まで、私は歩いていくよ。
長い長いときを、歩いていくよ。
良が生きたかった、この世界を。

桜の木々が月に照らされている。
花びらが、夜風に吹かれて静かに舞っている。若い桜も大木の桜も花盛りを迎えている。
……どの桜も力の限り、咲いている。

【了】