裕子さんの家を出た後、私はお母さんに「用事を思い出した」と告げて一人走った。
 走って、走って、たどり着いたのはあの桜のハートの下。今はすっかり、紅葉のハートだ。
 私は、見えない彼に向かって話しかけた。
「フネ――いや、桜太」
 風が紅く色づいた葉を揺らすだけで、何も返事はない。それでも、私は語りかけ続ける。
「顔、見せてくれなくてもいい。でも、まだそこにいるなら聞いて。私、全部、思い出したの。幼稚園の卒園アルバムに、桜太と私のツーショットが挟まってて」
 最初は、誰かわからなかった。でも、お母さんにこれは船水桜太くんだって言われて、もう亡くなっていることを知って、まさかって思った。
 だから、確かめに行かなきゃと思った。
「私、お母さんと一緒に桜太のお母さんに会いに行ったんだ。それで、仏間で桜太の遺影を見たらーー」
 あのときの感情を、なんと言い表したらいい。
「遺影の中の桜太は、やっぱり、フネだった」
 もちろん高校生の姿をしたフネより顔は幼いけれど、どう見ても、桜太はフネだった。
 同じ、優しい笑顔がそこにあった。
「手紙もね、見せてもらったんだ。私が、桜太に書いた手紙を」
 そして、後悔した。あんな手紙を書いたことを。
「私、子どもだったからさ……なんにも知らなかったんだ。弘前の桜は、三月上旬には咲かないってこと。知らないで、手紙を書いたの」
 それなのに、桜太はずっとその約束を大事に守ろうとしてくれてたんだね。
 自分の名前も、私の名前も何も覚えていないのに、私が書いた手紙と絵のことだけは、ずっとずっと覚えててくれたんだよね。
 私は、叶うはずもない願いで、あなたをこの世に縛り付けていたんだ。
「でも、もういいの。私は、たったひと時だけでも、またあなたに会えてよかった。もう成仏して、新しい人生を生きて」
 溢れる涙を、止めることができない。
 それでも、ちゃんと言葉にする。
「私のことは忘れて、生まれ変わって、新しい素敵な恋をして」
 唇を噛む。桜太に、この声が届いているか、分からない。
 でもきっと、私がいくら訴えても、桜太は私と卒業式に桜を見ない限り成仏できないんだろう。ずっとここに、とどまり続けるんだろう。だけど、ここが北国のまちである限り、それは絶対に無理だから。
 だから、せめて精いっぱい祈る。あなたが、次の人生を歩めるように。
 そして、あなたが新しい大切な人とこの桜を見られるように。
 強い風が、枝を揺らした。
 私も、一生懸命自分の道を歩むよ。
 桜太がくれたいくつもの言の葉を、心に刻んでーー。