マスターの部屋の扉が片方無い。開いたままのそこから見えるのは、仕事部屋の奥にある大きな机、積まれた書類、椅子に座り仕事をするマスター。

「やべぇマスター丸出しじゃん!」

「ぶっ殺すぞクソガキ」

 暴言を吐くリオと、静かに切れるマスター。
 仕事で大変な彼にこんなことを言うのは、この外見だけチャラい金髪くらいだが、リオに悪気はない。
 普段は大体のことを許すマスターだが、今日は少しだけ余裕がないようだ。
 机の上の書類に向けていた顔を上げ、暴言を吐いたクソガキを睨みつけたが、すぐに何かを諦め、疲れたように片手で目を覆いこめかみを揉んだ。

「そういえば、扉の片方は湖への直通ドアになったのだったね。……でも片方はまだ残っているのだし、魔力で強化されていたあのドアは、強い力を持つ魔道具を作るのにとても適した素材だったのではないかな。だからリーダーも、仕方なくここから持っていったのではない?」

 南国の青い鳥のようなウィルは透き通った声で穏やかに話し、続けて「クマちゃんの魔法であれば、普通のドアでも可能なような気もするけれど」と言わなくてもいいことを言った。

 そしてルークは、自分が外した扉の片割れに興味を示さず、彼の指をくわえ甘えている愛らしいクマちゃんをじっと見つめている。

 疲れた顔のマスターは椅子の背に身体を預けると、肘置きの上に手を乗せ、足を組む。
 そして面倒くさそうに、「いいから仕事に行け」と言った。 

 ルークはクマちゃんをあやすように何度か撫でてから床に優しく、ポフ、と降ろす。
 三人が適当に承諾の言葉を返し部屋を出ると、

「クマちゃん。着いてきちゃ駄目じゃん」

扉の片方が無いせいで、部屋の外にクマちゃんが着いてきてしまう。

「あー、そうか。扉が無いんだったか……」

 すぐに気がついたマスターは、クマちゃんを引き取りに廊下へ出た。そして考える。

(いつもは、すぐに扉で三人が見えなくなるからな。着いて行けそうなはじめての状況に、我慢が出来なくなったんだろう) 

 マスターが廊下で目にしたのは、ルークに両手を向け抱っこをねだっているクマちゃんと、そのまま抱っこしてしまいそうなルーク。

「……気持ちはわかるが。お前が抱いても仕方ねぇだろ」

 クマちゃんが愛おしくて仕方がないのはマスターも同じだ。
 抱っこをねだるクマちゃんを置いていくのは、身を切られる思いだろう。
 ルークが誘惑に負けてしまう前に、両手を彼に向け伸ばしている可愛いクマちゃんを、後ろから近付いたマスターがサッと抱き上げる。

「今のうちに行け」

 このままだとお互いに辛いだろうと思ったマスターは、腕の中のクマちゃんを撫でながら、早くあのドアから湖へ行け、と酒場の方向を顎で示した。
 無表情だが切れ長の目を少し伏せたルークと、なんとなく悲しそうな二人はクマちゃんを抱えるマスターに背を向け歩き出した。

 しかしその時、幼い子供のような

「クマちゃん」

と言う可愛らしい声がその場に響く。

 三人は振り返り、マスターも腕の中の可愛いもこもこを見た。

「……いまこいつ、喋ったか?」

 マスターはクマちゃんが話したところを初めて見た。ルーク達から聞いてはいたが、実際には見たことがなかった。

「――クマちゃんはお話するのも上手だね。……もしかすると、『クマちゃんも一緒に行きたい』と言ったのではない?」

 ウィルは、クマちゃんが一生懸命伝えようとしたことを思い、切なくなってしまった。
 いつも、クマちゃんに背を向け置いていく三人に、〝クマちゃんも〟と言いたかったのだろうか。

「……いや、でもやっぱ無理だって。戦闘はクマちゃんには危ないと思う」

 リオも辛そうに目を細め、考えるように顔を伏せたが、やはり大型モンスターとクマちゃんが同じ場所にいる状況を想像できない。
 ルークは片手が塞がっていても問題ないほど強い。彼が戦闘中にクマちゃんを落としてしまうことなどあり得ない。
 しかし最近、モンスターの分布が変わった。数が減ったわけではなく、奥に密集しているのだ。
 戦闘力の高い自分達が戦う場所は、他の冒険者が担当する場所よりさらに奥だ。敵が一番多い上、視界が悪く、隠れる場所もない。
 癒やしの力で覆われ、モンスターも出ないあの湖ならまだしも、奥地での大型モンスターとの戦闘には危険すぎて連れていけないという考えは変わらなかった。

「…………」

 ルークは「無理だ」の一言が言えなかった。
 連れて行ってもらえると信じ切った、黒いつぶらな瞳をこちらに向け、あの幼い子供のような声でもう一度『クマちゃん』と言われたら、と想像し、愛しいもこもこを抱えたまま湖から魔法を撃ちまくり、遠くの敵を倒す方法について考えている途中で、マスターから声が掛かった。

「わかった。……俺が湖でこいつを見てるから、お前らは数時間おきに休憩にこい」

 最初に可愛いクマちゃんに負けたのはマスターだった。
 彼は、連れて行ってもらえると思っているクマちゃんを、このままにしておけなかった。
 今の状態だと、三人を追いかけて湖から森の中へ入ってしまうだろう。

 まさかとは思うが、このもこもこは、戦闘の手伝いをしようと考えているのだろうか。
 ――この推測は間違っていない気がする。皆の手助けをしたがっているクマちゃんが、ルーク達を助けたいと思っていてもおかしくはない。

「ああ」

 ルークは、実は危険なことを考えていたことなど周りに悟らせずに、マスターの腕の中から、抱っこをねだってこちらに手を伸ばすクマちゃんを視界に入れないよう、視線をずらし一言返した。
 そしてすぐに耐えられなくなり、マスターの腕のなかのクマちゃんに手を伸ばし「馬鹿やめろ」と腕で防がれ、湖で休憩をとる時間を決めた。一時間に一度でいいだろう。

「俺達は準備してから行く。お前らは先に行ってろ」

 マスターは可愛いクマちゃんに「俺もすぐに用意するから、少しだけ待ってくれるか?」とお願いし、三人を仕事に行かせることに成功した。



 クマちゃんはマスターからお願いされ、寂しさをこらえ三人を見送った後、彼のお仕事の部屋で〝準備〟が終わるのを待っていた。
 マスターの準備が終わったら、自分も準備しなければならない。
 元気になる飲み物を作る準備と、クマちゃんも戦う準備を。

「――じゃあ行くか」
 
 隣の部屋でギルド職員と話をしていたマスターが、机の上で大人しく待っていた可愛らしいクマちゃんを抱き上げ、書類を適当に掴み、立入禁止区画から酒場へ向かって歩きだす。


 マスターが〈クマちゃんのお店〉へ近付くと、クマちゃんがもこもこの可愛い手で店の方を指している。
 
「店に用があるのか?」

 彼は腕の中のクマちゃんに尋ね、店のドアに触れた。
 涼し気な音と共に開いたドアを抜け、もこもこを、ポフ、と床に降ろす。
 トテトテと歩き出したクマちゃんがリュックを開いて床に置き、棚にある瓶や食材が入った箱から取り出した物を詰めようとしている。

「そんなに持てねぇだろ。そこの物は、後で職員に湖の家まで運ぶように言っておく。飲み物を作る材料だけでいいのか?」

 重さでリュックが倒れ、輝く瓶がゴロゴロゴロゴロ――と転がっていったのを見たマスターが、忙しそうなクマちゃんに尋ねる。
 クマちゃんは一旦動きを止め、可愛らしいつぶらな瞳でマスターを見つめると、倒れたリュックから杖を取り出し、背中を向け台所へトテトテと近付いていった。
 そしてそこからガチャガチャと音を立て、何かを見つけると、頭にのせてマスターの方へ戻ってきた。

「……なんでそれを頭に――いや、なんとなく想像はつくが……」 

 マスターの前にトテトテと近付いてきたクマちゃんは、片方の耳を隠すように頭に片手鍋をのせ、手に杖を持っている。
 おそらく、装備のつもりなのだろう。
 可愛らしいが、大型モンスターの攻撃は片手鍋では防げないのだ。

「それも、食材と一緒でいいだろ。あとで欲しいもんがあったら、湖に書類を持ってくる職員に言えばいい」

 可愛らしいクマちゃんの弱そうな防具をマスターがそっと外し、そのまま台所へ戻した。

 
 
 元マスターの仕事部屋のソレを通り、展望台の外、隣の家の前へと移動した一人と一匹。
 マスターがチラリと確認した湖の周りでは、ギルド職員や冒険者たちが柔らかい敷物や大きなクッションに乗りはしゃいでいた。
 濃い木の色のドアに触れ、中へ入るとそこでも冒険者が三人くつろいでいる。

「何をしてるんだお前らは……」 

 クマちゃんを抱えたマスターは、何故か仕事へ向かわずに家の中でくつろぐ冒険者達に呆れたように尋ねた。

「だってマスター。いつもならこのへんに着くのって一時間は後っすよ」
「それに俺、昨日ここで遊んでないし」
「皆ずるいと思う」

 若手の冒険者三人が、子供のような主張をする。
 クソガキ共は仕事に行かずカードゲームで遊んでいたようだ。

「……わかった。お前ら、時間になったら討伐に行けよ」

 外のクッションで遊んでいる奴らの主張も大体同じだろう。大雑把だが仕事をさぼるようなことはしないと分かっている。
 時間になれば勝手に動く奴らを叱る必要はない。

 床に座って遊んでいる奴らを放って、切り刻まれずに残ったソファに腰掛け、膝の上に乗せたクマちゃんを撫でる。
 マスターが書類に目を通し始め、クマちゃんは床で遊ぶ若手冒険者達を見つめた。

「……なんか見られてねぇ?」
「俺もそうおもう」
「だよね」

 
 クマちゃんは見たことがない物で遊んでいるらしい三人の手元が気になった。
 絵が描いてある気がする。
 あの絵が描かれたカードは、ギルドカードとは違うようだ。
 一人でたくさんもっている。

 
 一つのことが気になるとつい夢中になってしまう猫のようなクマちゃんは、マスターの膝から、ポテ、と下り三人の方へ近付く。
 
「……近いな」
「手に湿った鼻がくっついてる」
「だよね」

 クマちゃんは三人の真似をしはじめた。三人の真ん中の床に置いてあるカードを集め、ピンク色の肉球がついた手に持とうとしている。
 ポロポロと落としながら、結局二枚だけ持てたようだ。

「……見せてんのか?」
「ありがとう。見たよ」
「うん。見た」

 絵柄をこちらに見せてくれているクマちゃんをどうすればいいのか分からない若手冒険者達。

「――こいつも仲間にいれてやってくれ」

 書類をソファに置き、カードを持つクマちゃんを抱え床に座るマスター。
 彼は気付いた。この幼い生き物を、いままでちゃんと遊ばせてあげていなかったことに。
 このもこもこの年齢を考えたことが無かったが、絶対に大人ではない。
 アルバイトをさせて良い年齢だったのだろうか。
 とにかく今は遊び方を教えてあげなければ、と考えたマスターは再び仕事を中断し、クマちゃんとカードゲームをすることにした。