夜の湖畔。日が落ち、一寸先も見えない闇に包まれた森の中で、空へと伸びる不思議な建物だけが淡く光り、辺りを柔らかく照らしている。
 景色を切り取る水の鏡には、淡い光を放つ細長い白い建物と月と星々が美しくゆらめいていた。


 もこもこな天才調理師が作った絶品魚料理に舌鼓を打った冒険者達は現在、ほぼ全員が謎の症状に苦しめられている。

「クマちゃんマジで何したの? なんかめちゃめちゃ暑いんだけど。……何でリーダー達はふつうの顔してんの?」

 仲間内で唯一、その症状――何故か体が熱くなる――が出ているリオが、暑さに負け、上着のボタンを次々外しながら、問題の料理を出した天才調理師に尋ねた。
 片目を細め、しかめっ面をしている彼は、可愛らしい天才調理師が犯人だと決めつけている。

「身体強化か」

 同じものを食べたはずの、夜の森の魔王のような男ルークが魅惑的な声でリオに返し、自身の右手を眺め一度拳を作り、すぐに指を開いた。
 そして、自身の膝の上で首をかしげているもこもこな天才調理師の頬を、甘やかすように長い指でくすぐっている。
 鍛え上げられた肉体をもたない、ふにゃふにゃの筋肉のクマちゃんには、絶品お魚料理による身体強化は効かないようだ。

「僕は、体温が上がっても魔力で調整が出来るからね。……リーダーは暑さにも強いから気にしていないようだけれど」

 涼し気な顔をしているウィルは、体温が上昇しはじめたときに自分の魔力で体温を調整したらしい。――ルークにも簡単に出来るだろうが、そもそも彼には暑さを気にする繊細さがない。
 そして、体温の調整などという命の危険が伴う魔力操作は、その扱いに長けている者でないと出来ない。
 魔法使い系冒険者や魔法も得意な冒険者の特権である。彼の横から「ずるい……」というかすれた声が聞こえる。

「身体強化……あ、ほんとだ」

 リオは先程ルークから言われたことを思い出す。
 体温ばかりに気を取られ、彼から指摘されるまで他の効果があることに全く気が付かなかったリオは、夜の森の魔王のような男ルークに倣うように右手を見つめ、拳を作り、それをひらいた。

「すげぇ。……これ、なんか試したくなるのがやばい」

 肉体は強化されたが、冷静さを失ったような事を言うリオ。
 一部の人間は、もこもこ天才調理師の絶品お魚料理で脳筋になってしまうのかもしれない。

「やるか」

 夜の森の魔王が、冒険者の中では強いが魔王と比べれば一般人な男リオに「殺るか」――遊びたいなら相手になってやろうか――と言ってくる。

「……やっぱいい」

 失った冷静さは、身の危険を感じ戻ってきたようだ。
 魔王ルークの遊びの拳で、一般人リオは湖から、そしてこの世から永遠の退場を余儀なくされるだろう。


 彼らの近くで相変わらず可愛らしい天才調理師クマちゃんを見守っている吹雪の男クライヴは、当然のごとく魔力で自身の体温を下げていた。

 
 三人と一匹から少し離れた場所で大きな焚き火を囲んでいた冒険者達には、魔力で体温を調整できる者などいなかった。

「暑い……熱い。――脱いでもいいか?」
「馬鹿! クライヴさんにお前ごと片付けられるぞ……」
「確かに……」
「……今ルークさん達身体強化って言ってなかった?」
「……言ってた」
「言ってたな」
「言ってたよねぇ」
「……いっそ動けば暑さも気にならなくなるんじゃねぇ?」
「天才か……」
「やるなお前……」

 冷静さを失っている冒険者達は、強化された肉体を試したくなってしまったようだ。
 立ち上がり、焚き火から離れた彼らは、美しく幻想的な湖の前で美しくない手合わせをし始めた。
 
 美しくない彼らの行いを、土砂崩れの前にいるような顔のクライヴが見ている。


「あちらにも試したくなってしまった人がいたようだね」 

 いつもよりも優しくない声のウィルが、美しい湖の前で髪を振り乱し、拳をぶつけ合う彼らを視界に収め言った。

「……うん」

 ささやくようにかすれた声で返事をするリオ。
 先程の魔王の誘いがなければ自分もああなっていた可能性が高い。

「……リーダーあれ止めたほうがいーんじゃない?」

 あのままでは、美しい湖にふさわしくない彼らが、あの二人に片付けられてしまう。
 そんなの気の毒すぎる。 
 髪を振り乱しながら上着まで脱ぎ始めてしまった、行動が美しくない彼らを落ち着かない気持ちで見ているリオが、いつも通り周りを気にせず可愛いもこもこのクマちゃんをあやすように撫でているルークに言う。

「…………」

 表情は全く変わらないのに、どうでもいいと思っているのが滲み出ているルークだったが、愛らしさの権化、調理師風クマちゃんをチラリと見ると、自分の前に新しいふわふわの布を敷き、その上にクマちゃんをそっと座らせ立ち上がった。
 絶品お魚料理が原因で暴力事件が起こればクマちゃんが悲しむ。
 それは阻止しなければならない。

 ルークは、ふわふわの布の上に座り不思議そうな顔をして自分を見上げる、つぶらな瞳のクマちゃんの頬を指の背でそっと撫でると「すぐ戻る」と言ってリオとウィルを連れ現場へ向かった。

 髪を振り乱し、ズボンも脱ぎだした冒険者に氷をぶつけていたクライヴが一度クマちゃんの方にチラリと目をやり、可愛らしくちょこんと座っていることを確認すると、スッと立ち上がりルーク達の後を追い歩き出した。


 一人ぽつん、と残されてしまった寂しがり屋のクマちゃんは考えた。
 皆が楽しそうに遊んでいるのに、途中で帰ってしまったマスターはどうしているだろう。
 マスターも皆と一緒に遊びたいのではないだろうか。
 そして、天才クマちゃんは閃いてしまった。

 ――そうだ、マスターもここに連れてきてあげよう。

 閃いてしまった天才はもこもこの手足を動かし、淡く輝く展望台へトテトテと走り出した。



 その頃マスターは、自分の居ない間に高く積み上げられていた書類と戦いながら思っていた。

(早く風呂入って柔らかいベッドで寝てぇ)
 
 こんなに書類の山が出来ているとは思っていなかった。
 自分がいない事に気付いた誰かが、代わりに処理出来る仕事だってあったはずだ。
 きっと大雑把な彼らは、自分が居ないことを気にしていなかったのだろう。
 この街の人間の大雑把さを甘く見ていた自分が悪いのだ。

 そんなことを考えながら、機械的に仕事をこなしていたマスターだったが、
 
「……なんで、お前がここにいるんだ」

今まで何もなかったはずの彼の膝の上に、もふり、と急に現れた、慣れた重さの愛くるしいもこもこは、薄い水色の頭巾とお揃いの色のよだれかけをして、肉球のついた手に杖を持ち、いつも通りのつぶらな瞳でマスターを見上げ、座っている。

 何故ここに、と思っても膝の上で可愛らしく自分を見つめてくるクマちゃんを、撫でないという選択肢はない。
 焚き火の香りの愛らしいもこもこを抱き上げ、指の背で頬をやさしく撫でる。

「ルーク達はどうした? 皆と湖に居たんじゃなかったのか?」 

 低く渋い声でやさしく話しかけ、何かあったのか、と尋ねるマスター。

 彼は知らない。
 この可愛らしいもこもこが作った謎の魚料理で皆が戦闘狂のようになり、その処理に向かったルークに置いて行かれ寂しくなった、甘えっ子の子猫のようなクマちゃんが、今からマスターを、やわらかいベッドの無い地へ連れて行こうとしている事を。

 つぶらな瞳の可愛らしいクマちゃんは、マスターの白いシャツをキュッと肉球のついた手で掴むと、マスターが静止する間もなく、小さな黒い鼻に力をいれて杖を振った。


「おい……。ここは、あの展望台じゃねぇのか?」

 椅子に座っていたところを急に移動させられたマスターは、それでもクマちゃんを怪我させたりしないよう、もこもこを大事に抱え込み、視線で素早く安全を確認する。
 そして、彼は気付いてしまう。
 ここが、数時間前に皆で上った美しい展望台の一階にある休憩場所であることを。
 円形の床、テーブル、椅子、昇降に使われる魔法陣が描かれた台。――壁にはクマちゃんの形の小さな窓。

 事情を知らないマスターは真剣に考える。
 ――何故。一体何故また湖に自分は連れてこられたのか。
 自分が呼ばれる程の何かがあったということか。
 あの過保護なルークがこいつから目を離しているのもおかしい。


 ルークがもこもこから目を離しているのは、クマちゃんが作った魚料理のせいである。
 そして、マスターがここへ呼ばれたのは、ルークから目を離されたクマちゃんが、少し寂しくなったからである。


 急ぎ、自分をこの場所へ呼んだクマちゃんを抱えたまま扉の外へ出る。

「……何やってんだ、あいつら」

 幻想的な湖の周りには大小の焚き火。
 その周りで半裸で転がる冒険者達。
 
 冒険者達を静かにさせたルーク達とクライヴは、クマちゃんを探すため展望台へ向かってきていた。

「あれ? マスターなにしてんの? 何でいんの?」

 愛らしい調理師風クマちゃんを抱っこして、展望台の前に立つマスターを見たリオが、驚いたようにいう。
 
「……さぁな。お前らこそ、こいつを置いて何やってたんだ」

 何故呼ばれたか、薄々気付き始めたマスターが遠い目をして返した。

「いや、なんか、料理食ったらいきなり元気になった奴らがふざけて……」

 リオは可愛いもこもこを目の前にして、クマちゃんが作ったヤバイ魚料理で皆が戦闘狂になったとは言えなかった。
 それに、言ったらルークとクライヴに何をされるかわからない。 

「……まぁいい、それはもう片付いたみたいだからな」

 マスターが言うように、転がっていた冒険者達はすでに起き上がり、もぞもぞと服を着ていた。
 問題はなさそうだ。
 しかし、問題が無いなら帰ろうと思ったマスターを阻む者がいる。
 彼のシャツを、可愛らしい肉球のついた手が、キュッ、と掴んでいるのだ。
 
 目を合わせたら負けてしまう。
 ――――いや、合わせなくても負けている。
 この可愛いもこもこが自分と一緒に居たいといっているのに、帰ることなんて出来ない。

 フッと笑ったマスターは、自分の腕の中のクマちゃんの頬を、帰らないから心配するな、という気持ちを込め指の背でそっと撫でた。
 やはり、可愛いもの好きのマスターが愛くるしいもこもこのクマちゃんに勝つことは出来なかった。

 マスターは、終わっていない仕事も、温かい風呂も、やわらかいベッドも諦め、生暖かいクマちゃんを抱え、本日の寝床に決まってしまった固い地面を見つめるのだった。