マスターに抱えられたクマちゃんは現在、おつまみ作りの材料、お魚を集めるため森に来ている。
 
 泉っぽい場所はどこにあっただろうか。
 まったく思い出せない。
 
 うむ。クマちゃんとマスターが一生懸命頑張れば、いつかは見つかるだろう。



『人間には狭い』と評判のクマちゃんの家のドア。
 狭い家の主を抱え外へ出たマスターは、すぐに察知した。

 背後に在ったはずのものが、消えた。

「……なるほどな。だからお前は迷子だったのか」

 理解した彼がもこもこに視線を移す。
 あのとき、吹雪のような男クライヴが森で迷っていたもこもこを酒場へ連れ帰った理由は、十中八九これだろう。

 家から出てしまうと瞬間移動の条件が初期化されるということだろうか。

(聞いてみるか)

 視線を腕の中のもこもこに移す。
 もこもこは少し首を傾げ、可愛らしいつぶらな瞳で彼を見ていた。

 それを見て思う。
 分かっていないだろう。
 もこもこが杖一つで自由に好きな場所へ行けるなら、もっとあちこちに移動していてもおかしくない。


 彼は分かっていなかった。
 もこもこは抱っこが大好きで寂しがり屋で甘えっ子の猫のような赤ちゃんクマちゃんなのだ。
 たとえ自由にどこかへ行けたとしても、クマちゃんが長時間一人でおでかけすることなど絶対にない。

 短い距離の移動だとしても、抱っこで運んでもらえるのにわざわざ自分でヨチヨチ歩いたりもしない。


「行きたい場所は何処だ?」

 マスターはクマちゃんのリュックに杖を差し込み尋ねた。
 まるでクマちゃんが『行きたい場所の下調べを終えているクマ』であるかのように。


 もこもこした赤ちゃんは『ええ、クマちゃんの行きたい場所は当然そちらでしょうね』とでもいうように、迷いなき肉球でスッとどこかを示した。 


 彼はクマちゃんが『ふわっとした思考のクマ』であり『下調べを終えていないクマ』であることを知らぬまま、肉球の指す方向へ歩き出した。

 マスターは歩きながら考える。

(何でモンスターの気配がないんだ? 小さいのすらいねぇってのはさすがにおかしいだろ)

 もこもこの手はまだ同じ方向を指している。
 
 先に進むほど、人ではない何かの気配に近付く。
 敵意は感じない。
 大きな力の塊のような何かだ。
 
 属性は、水――。
 

 マスターに抱っこしてもらっていたクマちゃんは泉の近くに着いたことに気がついた。
 
 うむ。前に見た景色だ。

 彼の腕を肉球でテシテシし、地面に降りると伝えた。
 マスターはすぐに気付き、一瞬動きを止め、クマちゃんをそっと地面に降ろしてくれた。

 ヨチヨチヨチヨチ――。
 少し走って泉に近付いたクマちゃんが、キラキラと煌く泉を覗き込む。
 
 光が邪魔で、魚が見えない。

「……危ないからあまり覗き込むなよ」

 クマちゃんはマスターの言葉にうむ、と頷いた。

 素直で良い子なクマちゃんは、覗き込むのを止め泉の前に座った。

 もこもこのお手々でリュックのなかをごそごそと探る。

 棒状の何かに肉球がふれたクマちゃんはハッとした。
 これが先日入手したアレである。

 キラキラの反射で神々しく輝くキラキラクマちゃんは、掴んだものの準備を整え――
目の前のきらめきに糸を垂らした。「馬鹿やめろ。そこは絶対に釣りをしていい場所じゃねぇ」目を凝らすが、やはり光が邪魔で魚がいるのかわからない。

「駄目だっつってんだろ。ここに居るのが攻撃的なやつならぶっ飛ばされるぞ」

 マスターの声が近くで聞こえた。

『クマちゃん、この声はマ――』とクマちゃんが思った瞬間、クマちゃんの釣り竿は彼に奪われ、ふんわりと抱っこされてしまった。

「どうしてお前はこの、精霊の泉みてぇな神秘的な場所で釣りをしようなんて考えたんだ……」 

 マスターが何かをぼそぼそ呟いている。

 彼の声を聞きながらクマちゃんは考えた。

 ここは光が邪魔で釣りには向かないようだ。
 もっと光らない大きい水たまりを探さなければ。

 マスターに抱えられたクマちゃんはうむ、と深く頷くと、肉球のついたもこもこのお手々でふんわりとした想い
『クマちゃんはあちらへ行きたいような気がします』を胸に、行きたい方向を示した。

 当然クマちゃんは『ここの下調べも終えていないクマ』である。
 


「そうか……あっちか……」
 
 マスターはやりたい放題なもこもこと、どこかを示す肉球を見ながら考えた。

(こいつの輝く牛乳瓶はまさか――)

 この神秘的な、精霊の泉かもしれない場所に散りばめられている、見たことのない宝石のような石を、勝手に盗って作ったものなのでは。

 自分の推測が間違っていることを願う。
 だが今はそれを考えている場合ではない。

 もこもこが再び悪事を働く前に、此処を出た方がいい。
 今のところ泉の主が窃盗と密漁の容疑者クマちゃんをぶっ飛ばしに来る様子はないが――。

 世を乱す悪党クマちゃんを抱え、マスターは足早に泉を後にする。

 背後から『釣りはちょっと……』という泉の主らしき者の声が聞こえたような気がした。



 クマちゃんの猫のようなお手々が示す方角へ歩き続けるマスター。

 自分は仕事もせずにどこへ向かっているのだろうか――。

 可愛いもこもこを抱え自身に問いかけながら、目的もわからず深い森をさまよい続ける。

 こんなことになったのは、もとよりクマちゃんに
『危ない』『ひとりで森に行くな』と言ってしまった己のせいである。

 可愛いクマちゃんはきちんと言い付けを守った。

 赤ちゃんクマちゃんは『ひとりで行くな』と注意した人間を連れてきたのだ。
 
(こいつは正しい。天才だ)

『そんなに言うなら貴様を道連れに』

 ではなく『クマちゃんだけはだめ』『マスターと一緒ならいい』という純粋な考えだろう。

 穢れなき瞳の赤ちゃんクマちゃんに罪はない。
 たとえ彼が生暖かいもこもこを抱え、永遠に極大な森をさまよい続けることになったとしても――。

 自問自答を繰り返し、深い森をウロウロする己を納得させようとした。
 そして気付く。

(ん? この辺りは……)

 大分森の奥まで来てしまったが、小さめの湖がある場所ではなかったか。

(まさか、さっきのは――)

 突然姿をあらわした美しい泉。
 突然釣りを始めたもこもこ。

(偶然じゃなく……) 
 
 最初から、釣りをするつもりだったのでは。
『遺跡や少女を探す』わけでなく、釣りを――。


 そもそも鏡に文字を綴った者は何故、クマの赤ちゃんに重要な情報を渡そうなどと思ったのか。
『クマちゃんは赤ちゃんなのでちょっと……』と少しも思わなかったのだろうか。

 たとえばクマちゃんに『遺跡と少女を探して下さい』と誰かがお願いし、もこもこが頷いたとする。

 しかしそのあとクマちゃんが一度でも〝釣りがしたい〟と思ってしまえば、もこもこは自身の肉球で魚を釣り上げるまで絶対に諦めない。

 そして時間の経過と共に遺跡や少女はクマちゃんの記憶の底に沈められるだろう。

 誰も幸せにならない。
 当然の結末だ。

 マスターはクマちゃんが最初からおつまみの話しかしていないことを忘れ、誰だか分からない神秘的な存在を心の中で批難した。


 もこもこは途中で遺跡と少女を忘却したわけではない。
 初めから魚以外探していないのだ。



 彼があれこれ考えているうちに湖に到着した一人と一匹。
 マスターは湖面からもこもこへ視線を移した。

(釣りか……)

 もこもこの目的は分かった。

 あとはクマちゃんの望みのままに魚を釣らせ、帰るだけである。
 冒険者達に大型モンスターの討伐を命じているのは自分だ。
 森の奥でもこもこと戯れている場合ではない。

 湖の前の平らな所にふわふわの布を敷き、もこもこを座らせる。
 ――布はもこもこのリュックから取り出したものだ。
 
「危ないからまだ釣り糸を垂らすなよ。俺も魚を捕れるものを探してくる」

 マスターは言い残し、木の枝や繊維状の植物でもないかと辺りを調べようとした。

 ――パチャ、パチャ――。直後聞こえた、謎の水音。

(何の音だ)

 急いで振り返る。

「手で捕ろうとするのはもっと駄目だ。危ないからやめろ」

 もこもこが猫のようなお手々で水面をパチャ、パチャ、と何度も叩いていた。
 まるで魚を捕る野性のクマ――の真似をする猫のように。

 彼は少しのあいだでもクマちゃんから目を離してはいけない事を学んだ。
 座らせたばかりのクマちゃんを抱え直し、素材を拾いに行く。


 即席の釣具は無事にできあがった。
 マスターは立てた膝のあいだにふわふわの布を敷き、その上にクマちゃんを座らせた。

 一人と一匹は森の静かな湖で、鳥のさえずりを聞きながら無言で釣りを始めた。



 吹雪のような男クライヴは、大型モンスターを討伐し深い森を移動していた。

 地面には加工前の魔石が転がっている。
 黒革の手袋をはめた手が、それを拾う。

 いつもよりモンスターの数が少ない。

 討伐隊の人数が急に増えたわけでもないだろう。
 あれだけ倒しても減らなかったモンスターが、理由もなく急に減るとは考えにくい。

 やつらがどこかへ移動したとして、森の更に奥であれば問題はない。
 だがもしも、街へ入るようなことがあれば――。

(いや――)彼は己の考えを否定した。
 最近何故か、森から街へと極端に近付くモンスターは発見されていない。

 少し前までは街の方へ来る個体が全くいないわけではなかった。
 付近には常に交代で見張りをする冒険者たちがいるため、なかに入られたことはないが。

 モンスターの気配を探すがやはり近くにはいない。

 細身の剣をしまい、更に奥へと移動し気付く。
 ――少し先に知っている気配を感じる。
 こんなことろに居るはずがない。彼が何故。

(何かが起こっているのか――)急ぎ湖へ近付く。

 この先の人物に早く話を聞く必要がある。

 周囲には腰を超える邪魔な植物。
 腕を伸ばし、雑に払う。

 深い森を抜けたクライヴの視界に、森をそのまま切り取り映しているかのように美しい湖が広がった。

 そして彼は見た。
 自身の上司であるマスターが、可愛いクマちゃんと釣りをしているところを。



 マスターは気付いていた。
 クライヴが自分達の方へ近付いて来ていることを。

 だが無表情で湖に釣り糸を垂らすマスターには、どうすることも出来なかった。
 ありのままを見せる以外の選択肢がなかったのだ。

 クライヴに反応せず、可愛いクマちゃんと釣りを続けるマスターへ、彼が近付いてくる。

「ここで一体何をしている」

 釣りだ。
 しかし彼が聞きたいことはそれではないだろう。
 マスターは彼へ視線を向けず、湖面に垂れる糸を無表情に眺め、答えた。

「このもこもこは、魚を釣りたいらしい」

 世捨て人のようなマスターが感情を失ったような声で返す。

「何故マスターも一緒に?」
 
 マスターは思う。
 クライヴの声がいつもより冷たく感じるのは自分の被害妄想だろう。

「こいつの横に俺がいたからだ」 

 世捨て人は言う。
 それが当然であるかのように。

「釣れたのか?」

 釣り糸を見つめるマスターと可愛いクマちゃんの周りに魚は見当たらない。

「見ればわかんだろ」

 世捨て人は答える。
 周りに魚はいない。それが答えだ。

「わかった」

 何かを悟ったらしいクライヴは踵を返した。

 問答を諦めたのだろう。
 世捨て人になったマスターは可愛いクマちゃんと釣りを続ける。



 数分後――。
 彫像のように動くことなく釣り糸を垂らす一人と一匹のそばに、ふたたびクライヴが近付いた。

 視線すら向けないマスター。
 ひとひとり分空けた場所に、クライヴが座る。

 黒革に包まれた彼の手は、柔軟性のある枝を握り、先に付けられた餌の付いた糸が、静かに湖へ垂らされる。


 クマちゃんはそっと頷いた。  
 それはクマちゃんのおつまみを探す冒険に、仲間が増えた瞬間だった。

 クマちゃんの美しい冒険は続く。
 二人と一匹はまるで麗らかな絵画のように、湖で釣り糸を垂らし続けた。