現在ルークに抱えられたクマちゃんは、マスターのところへイチオシ商品をオススメしに来ている。
 優しいウィルはひとりで寂しいマスターに会いに来たようだ。
 リオはまだ〈クマちゃんのお店〉で歌っているのだろうか。



 彼らが部屋に到着すると、奥に仕事中で疲労中なマスターが見えた。
 執務机の上に紙の山がある。

「ん? 白いのはなんで舌を出してるんだ?」

 マスターは書類から顔を上げ、もこもこへ視線を移した。
 何故もこもこの口元からピンク色のものがはみ出しているのか。


 近所の壁が起こした体の異変に気がつかないまま、クマちゃんは考える。
   
 クマちゃんは舌を出したりしていない。
 ――何故マスターまで変な事をいうのか。
 そんなことより当店イチオシの改良版〈野菜と果物のジュース〉のほうが重要である。
 早く美味しくなったこれらを全部飲んでもらわなくては。

 今日はルークがクマちゃんの顔をたくさんふわふわの布で拭いてくるが、今はそれどころではないのだ。
 ルークと遊びたい気持ちを抑え、ふわふわの布を肉球のついた手で掴む。
 すぐに布が手から逃げて、また顔をふわふわする。

 早く布を、布を……――。

 一つの事に夢中になるとそれ以外目に入らない猫のようなところがあるクマちゃんは、ルークとふわふわの布で遊ぶのに忙しくなってしまった。


「おい、何遊んでるんだ。報告はどうした」

 片目を顰め、ルークに尋ねる。
 度重なる〈クマちゃんタイム〉で時間に余裕のないマスターは、自分もうっかり可愛いクマちゃんを眺めていたことを棚に上げた。
 
 書類に埋もれた執務机。
 片肘を突き、その手で目元を隠すようにこめかみを揉む。
 彼は本当に疲れていた。
 可愛いクマちゃんが作ってくれた〈甘くておいしい牛乳・改〉は体力も疲労も回復するが、少しずつマスターの何かを奪っていく。

 ルークは疲れたマスターを気にする事もなく、もこもこの鼻にふわふわの布を当てた。
 可愛い肉球がパッと湿った鼻を捕まえ、見計らった彼が、布から手を放す。 

 ふわふわを預けた彼はクマちゃんのリュックに手を入れた。
 瓶を二本取り、机に置き――それを繰り返す。


 机の上に並べられた四本の瓶。
 ほぼ緑色の一本目。
 二本、三本と進むごとに、緑は鮮やかさを失う。
 最後の四本目になるとついに緑は姿を消し、灰色になった。
 それはまるで、森で起こっている出来事を暗示するかのような、不吉なものだった。

 因みにこれは不吉の象徴ではなく、可愛いクマちゃんが作った不吉な色味の野菜ジュースである。


「なんでこんな不気味な色合いなんだ……」

 椅子の背凭れに身をあずけたマスターが、心底嫌そうに言う。
 
「さぁな」

 ルークはクマちゃんの野菜ジュースが近所の壁と同じ色になった経緯を知っている。
 だが言うほどの事ではないと判断し、一言で切り捨てた。

 ウィルは彼らの少し後ろで、そのやりとりを見ていた。
 この派手な男も当然、野菜ジュースの色や味が『多少』変わったとして、そんなことを気にするような繊細な神経など持っていない。

 この二人にとっては、飲み物がどうにかなろうが、自室の床に木が倒れようが、壁に大穴が開こうが大した問題ではない。


 ――これはすでに野菜ジュースという枠組みから外れているのではないか。
 不用意に口にすればギルドの管理者は不在となるだろう。
 ――このまま突き進むわけにはいかない。
 マスターはしかめっ面で彼らに告げた。

「お前らも飲め」

 一人一本飲めばいいだろう――。
 と言いかけ、後から来るのだろうと思っていたうるさい金髪リオが、いつまでたっても現れないことに気付く。

「もう一人のクソガキはどうした」

「さぁな」

 ルークは自分が食えと言った近所の壁みたいな物のせいでリオが変な声を出していた、という事までは分かっていた。
 が、『辛い』とも『痛い』とも言われなかったので、変な声を出していた理由を知らない。
 クマちゃんには刺激が強いと思っても、冒険者が食べ物の刺激ごときで泣くなどと、思いつきもしない。

 ウィルはリオが鼻を垂らそうが変な声をだそうが気に留めない。
 つまり『具合が悪い』と直接言わなければ彼らには伝わらない。

「……まぁいい。あいつにも事情があるんだろう」

 協調性を大事にしようとしたリオの仲間には協調性が無かった、という裏の事情は彼らの上司であるマスターでもさすがに推察できなかった。


「ん? なんで最初だけ辛いんだ?」

 立場上、身体に問題が起こらないよう一番緑に近いものへ口を付けたマスター。
 飲み込むと多少痛みや辛さを感じるものの、味は前とさほど変わらない。
 だがどちらかを選ぶのであれば、辛さも痛みも無いほうがいい。

 クマちゃんがルークの腕から身を乗り出して、小さな鼻をふんふんさせている。
 とても興奮しているのが全身と湿った鼻から伝わってくる。
 本当に自信作なのだろう。

 つぶらな黒い瞳が、おいしい? おいしい? と聞いているように見えた。

 可愛いクマちゃんにここまで期待されてしまうと
「味は前のほうがいい」などとはとても言えそうにない。

「美味い」

 渋い声で褒め、真実を口にしないマスター。
 その手は身を乗り出し鼻をふんふんしているもこもこを優しく撫でている。
 可愛いもの好きの彼は、やはりクマちゃんに甘い。

 マスターは商品の味よりもクマちゃんを傷つけない事を優先したイケナイ上司だった。

「なんか暑ぃな」撫でている途中、シャツの首元のボタンを片手で雑に外し、ふと気付く。
 少しずつ体力や魔力が上昇している。

「……戦闘中回復しながら戦える薬ってことか?」

 もし本当にそれが出来るなら、大抵の冒険者は泣きながら喜ぶに違いない。
 このギルドに所属する冒険者は決して弱くない。
 それでも、終わりの見えない大型モンスターとの戦いに少しも不安を感じないわけではないのだ。

 小型でも大型でも無関係に討伐しまくる奴らには必要ないだろう。
 だがそうでない奴らにとっては、いつでも回復薬が入手できることも、今この時期に特別な効果の回復薬が開発されたことも、この上なく大きな意味を持つ。

 マスターは目の前に居る、可愛らしく、もこもこで、皆に希望を与えてくれる不思議な存在が、まるで森に漂う不穏な空気を一気に吹き飛ばすかのようにギルドに現れてくれた事を心の底から感謝した。 
 
「すごいな、お前は。これで皆心置きなく戦えるだろう。本当に、感謝する。……お前はこのギルドの救世主だな」

 たくさん褒められ、撫でられて、クマちゃんも興奮するほど嬉しいようだ。
 自分を撫でるマスターの手を捕まえ指をかじりだした。
 喜びのあまりかじりたくなってしまったらしい。

「……痛い。齧るんじゃない」 
 
 マスターが優しく笑いながら叱るが、全く効果はない。
 それよりも、瓶は後三本ある。全部同じ効果で効力だけ違うのだろうか。
 彼は「噛むな」とクマちゃんを構いながらルーク達に声を掛ける。

「お前らも飲んでみろ。効果が同じ物か知りたい」

「ああ」

 色気のある低音で了承したルークは一番端にある灰色に手を伸ばす。

「それでは僕は、こちらの少しだけ緑がかった方を選ぶことにするよ」

 涼やかな声でそう返すウィルはルークの隣にあった、やや緑の残った瓶を手に取った。


「おいおいおい、ルーク……何なんだそのバケモンみてぇな力は」

 躊躇なく瓶を煽る二人をクマちゃんに齧られながら見ていたマスターが、眉間に深い皺を刻んで言う。
 前にルークが〈野菜と果物のジュース〉を飲んだときも、近くにいるだけで世界征服出来そうなほどの魔力を感じた。
 今回はその最大値をどんどん更新し続けている。

 前回の時は数時間で効果が切れた。
 こちらはどうなのだろうか。
 これほどまでに魔力が強大だと物語に出てくる魔王でも産まれたか――と錯乱した奴らが武器を構えて襲いかかりそうだ。
 ――間違いなく、瞬殺されるだろうが。
  
「……僕も同じように魔力は上昇しているし、最大値も上がっているけれど、君と比べるとクマちゃんと大型モンスター、よりもっと差があるね」

 そう口にしたウィルの魔力は、このギルドで五本の指に入るほど大きい。
〈野菜と果物のジュース・改〉を飲んだあとだと、他の上位の冒険者と比べてもとんでもない魔力量になってる。
 ここから更に上がるなら、最近問題になっている大型モンスターくらい初級の魔法一つで簡単に倒せるようになるだろう。


 クマちゃんはマスターの指から口を離し、考えた。
 マスターがたくさん喜んでいたから、きっとこのイチオシ商品もお店も、大人気になるはずだ。
 何もしなくてもお客さんは来るだろうが、それではいけない。

 やはり大人気店の店主クマちゃんが、自ら商品の宣伝をするのが良いだろう。
 
 商品は出来ている。
 では――大人気店の店主クマちゃんには宣伝のためのかっこいい制服が必要だ。
 もふもふの口から舌がちょろっとはみ出したまま、クマちゃんはかっこいい自分を演出するための衣装作りをすることを決意した。


 クマちゃんは知らない。
 かっこいいクマちゃんになるためには、乗り越えなければならない試練がある。
 その試練は本日、クマちゃんの大好きなあの人がどこかの店で購入したであろう、可愛らしい花柄の袋に入っている――。