最期の嘘

 桜の花が散り始める頃、茜は初めて近所の内科を受診する。
 半月後、紹介された大学病院の婦人科で、卵巣がんと診断された。
 すでに子宮や卵管だけでなく、リンパ節にも転移していた。

「腫瘍が膨らみ、膀胱を圧迫していたのが頻尿の原因です」と医師が説明する。

 短く息を吐いた後、茜はバッグからノートを取り出して、「先生、治療期間と費用の概算を教えて下さい」と言った。
「もう一つ。……子どもはもう授かれないということですよね?」と付け足した。

 それからの半年間を、よく思い出せない。
 まるで記憶にモザイク処理が施されたように曖昧だ。
 時系列を無視した断片だけがよみがえる。
 
 シーツの上に抜け落ちた黒髪を、茜がコロコロで集めている。
 病床で半身を起こした茜が、ぼくの剥いた林檎を食べている。
 白い腹にできた傷を、「ミミズみたい」と茜がさすっている。
 イヤホンをスマホに繋いだ茜が、昭和歌謡を口ずさんでいる。
 粉ミルクのCMが映されたテレビを、静かに茜が見つめている。

 不思議なことに、すべての場面で茜は笑っていた。
 息を引き取るその瞬間まで、笑顔を絶やさなかった。