雨が地面に打ち付けられる音だけが、やたらと鮮明に耳に入ってくる。それほど激しい雨じゃない。窓だって閉めきっている。それなのに、それ以外の音はまるで聞こえず、尋の部屋の中は異様なまでに寂寞としていた。
千種の本音に触れ、俺は、ただ呆然と座り込むことしかできなかった。遥太は衝撃を隠しきれていなくて、陽葵はひっそりと涙を流していた。尋は、ぼんやりとした目で、窓の外の雨空を眺めていた。
こんなのは劇の脚本でもなんでもない。これは、千種の人生だった。千種には自殺願望があった。そして尋は、そのことを知っていた。
尋はパソコンに刺さっていたUSBメモリを抜き取り、机の上に置いた。代わりに引き出しから封筒らしきものを取り出して、無言で俺に渡してきた。少しだけ躊躇ったが、俺はそれを受け取り、そして開けた。中には手紙が一通だけ入っていた。二つ折りになっていた紙を広げ、目を通す。
俺は、思わず息を呑んだ。
それは、千種の遺書だった。
「あの日……千種が死んだ日の彼女は、いつも以上に何かがおかしかった」
尋は訥々と話し始めた。俺は手紙から目線を上げ、彼の声に耳を傾けた。
「心配だったけど、その時は千種と上手く話すことができなくなっていた。でもやっぱり我慢できなくなって、放課後になってとうとう、今日は一緒に帰ろうって言ったんだ。そしたら千種も笑って、わかったって、返してくれた」
尋と千種はホテルでの一件以来、ぎこちなくなっていたようだった。でも、俺はそのことに気付いていなかった。それどころか、尋と千種だけの秘密があったことも知らなかった。自分は彼らのことを知らな過ぎていた。中学から千種と一緒だったのに、彼女周りで起きていたことも、彼女が抱えていたことも、何一つ知らなかった。
「けど、僕は放課後、担任に進路のことで呼び出されて、千種を教室で待たせてたんだ。十五分くらいで話し合いは終わって、急いで教室に戻った。二組の教室の前まで来た時、千種が四組の教室から出てくるのが見えた。あいつの顔……違ったったんだよ。気が付いたら後をつけていた。そしたら屋上に来た。嫌な予感はしていた。ずっとしていた。その日だけじゃない、千種に合うといつもそう感じていた。それなのに僕は、何も言えずに彼女が飛び降りるのをただ眺めていた」
尋はずっと窓の外を見ていた。握った拳に力が入り、血管が浮き上がっていた。
「足が竦んで動けなかった。あいつは、僕が屋上に来るのがわかってたんだ。恐らくその遺書も、僕が呼び出されている間に書いたんだと思う。どうしてそんなことをしたのかは、もう知る術もない」
悠成が言っていたことは本当だった。確かにあの日、尋も屋上に行った。でも、こいつが殺したわけがなかった。そんなことできるわけがない。
ようやく視線を部屋の中に戻した尋は、けれど焦点が合っていなかった。朧気な目で話を続けた。
「あのメールを送ったのは僕だよ」
そうだろうとは、薄々感じていた。最初は尋がこんなことをするはずがないと思っていたが、真実に近づくに連れて、尋がやったんじゃないかという可能性が、俺の中でどんどん高くなっていった。
「本当は、犯人なんて誰でもよかった。千種が殺されたことにするのに意味があった。そうすれば、世間はその犯人に冷たい目線を送り、千種に同情の眼差しを送る。みんなの記憶にも、千種は残り続ける。僕は彼女を、斎藤千種という存在を、忘れさせたくなかった」
そこまで言って、尋は首を横に振った。
「いや、違うな。本当はそんな綺麗事じゃない。……きっと誰かに擦り付けたかったんだ。千種が死んだのは僕のせいじゃない。あの日彼女が飛び降りるのを止めなかったのも、僕のせいじゃないって信じ込みたかったんだ」
クズだろ? と付け足して、尋は両手で顔を覆った。
「千種の家庭環境、お前は知ってたんだな。だから、陽葵が千種の家に行こうって言った時、止めたんだろ」
「顔を見たことはない。でも、そいつがろくな人間じゃないなんてことわかっていた。千種がああいう風になるまで追い込んだのは、そいつのせいなんだ。そんな奴に何を聞いても無駄だと思った」
「このUSBメモリ、どこで見つけたかわかるか」
「さあな」
「千種の家だよ」
「行ったのか」
「ああ。父親にも会ってきた」
その時見た千種の父親は、体格は病的なまでに痩せこけていて、覇気がまるで感じられなかった。俺が千種の友達だと伝えると、彼は何も言わずに家の中に戻り、しばらくしてこのUSBメモリを持って戻ってきた。そして、やはり何も言わずそれを俺に渡した。
そのことを尋に伝えると、彼は鼻で笑った。
「今更何を……」
「千種に対してどういう態度だったのかは俺にはわからない。でも、それでも親だったんだと思う。このUSBメモリに何が入っているかを知った上で、それでもずっと残してたんだ。壊してしまえば証拠も残らないというのにな。そして、俺達に渡した。きっと、彼なりの罪滅ぼしだったんじゃないのか」
確かに千種の記憶を読む限り、ろくでもない父親だったんだと思える。彼が千種に暴力を振るわなければ、あそこまで死の淵に立たされることもなかったのではないかと、思えてしまう。彼が至らなかったところは、失ってからでは遅いということを知っているはずなのに、学ばなかったことだ。そのせいで、彼は二度も自分の大切なものを失う辛さを経験してしまった。
尋がトイレに行くと言って立ち上がった。彼の顔は曇ったままで、まるで生気を感じられない。心配に思いつつも、声をかけることはしなかった。
「自分が心底嫌になってくるよ」遥太が言った。「つくづく何も知らなかったんだって思い知らされる。失った後でしか気付けない自分がもどかしい」
本当にそうだ。千種のことを知ったのが尋だけじゃなくて、俺達みんなだったら、未来は変わっていたかもしれない。
頭を下げていた陽葵が、顔を上げた。
「……きっと、千種も同じ気持ちだったんだと思う。中学のクラスメイトの子が死んだ時に、彼女が虐待を受けていることを知っていればって、悔やんでたんだと思う」
窓の外に目をやる。いつの間にか雨が上がっていた。厚い雲の隙間から一縷の日が差し込み、街を照らし始めた。
十分くらい待っただろうか。いつまで経っても尋が戻ってこなかった。嫌な予感がして、俺はトイレに向かった。扉に手をかける。鍵がかかっていなかった。ノックをしても返事がない。ますます胸が騒ぎ出す。俺はとうとう扉を開けた。
そこには、誰もいなかった。
それから三人で家中をくまなく探したが、尋はどこにも見つからなかった。
玄関にやってきて、ようやく気付く。彼の靴が無くなっていた。
千種の本音に触れ、俺は、ただ呆然と座り込むことしかできなかった。遥太は衝撃を隠しきれていなくて、陽葵はひっそりと涙を流していた。尋は、ぼんやりとした目で、窓の外の雨空を眺めていた。
こんなのは劇の脚本でもなんでもない。これは、千種の人生だった。千種には自殺願望があった。そして尋は、そのことを知っていた。
尋はパソコンに刺さっていたUSBメモリを抜き取り、机の上に置いた。代わりに引き出しから封筒らしきものを取り出して、無言で俺に渡してきた。少しだけ躊躇ったが、俺はそれを受け取り、そして開けた。中には手紙が一通だけ入っていた。二つ折りになっていた紙を広げ、目を通す。
俺は、思わず息を呑んだ。
それは、千種の遺書だった。
「あの日……千種が死んだ日の彼女は、いつも以上に何かがおかしかった」
尋は訥々と話し始めた。俺は手紙から目線を上げ、彼の声に耳を傾けた。
「心配だったけど、その時は千種と上手く話すことができなくなっていた。でもやっぱり我慢できなくなって、放課後になってとうとう、今日は一緒に帰ろうって言ったんだ。そしたら千種も笑って、わかったって、返してくれた」
尋と千種はホテルでの一件以来、ぎこちなくなっていたようだった。でも、俺はそのことに気付いていなかった。それどころか、尋と千種だけの秘密があったことも知らなかった。自分は彼らのことを知らな過ぎていた。中学から千種と一緒だったのに、彼女周りで起きていたことも、彼女が抱えていたことも、何一つ知らなかった。
「けど、僕は放課後、担任に進路のことで呼び出されて、千種を教室で待たせてたんだ。十五分くらいで話し合いは終わって、急いで教室に戻った。二組の教室の前まで来た時、千種が四組の教室から出てくるのが見えた。あいつの顔……違ったったんだよ。気が付いたら後をつけていた。そしたら屋上に来た。嫌な予感はしていた。ずっとしていた。その日だけじゃない、千種に合うといつもそう感じていた。それなのに僕は、何も言えずに彼女が飛び降りるのをただ眺めていた」
尋はずっと窓の外を見ていた。握った拳に力が入り、血管が浮き上がっていた。
「足が竦んで動けなかった。あいつは、僕が屋上に来るのがわかってたんだ。恐らくその遺書も、僕が呼び出されている間に書いたんだと思う。どうしてそんなことをしたのかは、もう知る術もない」
悠成が言っていたことは本当だった。確かにあの日、尋も屋上に行った。でも、こいつが殺したわけがなかった。そんなことできるわけがない。
ようやく視線を部屋の中に戻した尋は、けれど焦点が合っていなかった。朧気な目で話を続けた。
「あのメールを送ったのは僕だよ」
そうだろうとは、薄々感じていた。最初は尋がこんなことをするはずがないと思っていたが、真実に近づくに連れて、尋がやったんじゃないかという可能性が、俺の中でどんどん高くなっていった。
「本当は、犯人なんて誰でもよかった。千種が殺されたことにするのに意味があった。そうすれば、世間はその犯人に冷たい目線を送り、千種に同情の眼差しを送る。みんなの記憶にも、千種は残り続ける。僕は彼女を、斎藤千種という存在を、忘れさせたくなかった」
そこまで言って、尋は首を横に振った。
「いや、違うな。本当はそんな綺麗事じゃない。……きっと誰かに擦り付けたかったんだ。千種が死んだのは僕のせいじゃない。あの日彼女が飛び降りるのを止めなかったのも、僕のせいじゃないって信じ込みたかったんだ」
クズだろ? と付け足して、尋は両手で顔を覆った。
「千種の家庭環境、お前は知ってたんだな。だから、陽葵が千種の家に行こうって言った時、止めたんだろ」
「顔を見たことはない。でも、そいつがろくな人間じゃないなんてことわかっていた。千種がああいう風になるまで追い込んだのは、そいつのせいなんだ。そんな奴に何を聞いても無駄だと思った」
「このUSBメモリ、どこで見つけたかわかるか」
「さあな」
「千種の家だよ」
「行ったのか」
「ああ。父親にも会ってきた」
その時見た千種の父親は、体格は病的なまでに痩せこけていて、覇気がまるで感じられなかった。俺が千種の友達だと伝えると、彼は何も言わずに家の中に戻り、しばらくしてこのUSBメモリを持って戻ってきた。そして、やはり何も言わずそれを俺に渡した。
そのことを尋に伝えると、彼は鼻で笑った。
「今更何を……」
「千種に対してどういう態度だったのかは俺にはわからない。でも、それでも親だったんだと思う。このUSBメモリに何が入っているかを知った上で、それでもずっと残してたんだ。壊してしまえば証拠も残らないというのにな。そして、俺達に渡した。きっと、彼なりの罪滅ぼしだったんじゃないのか」
確かに千種の記憶を読む限り、ろくでもない父親だったんだと思える。彼が千種に暴力を振るわなければ、あそこまで死の淵に立たされることもなかったのではないかと、思えてしまう。彼が至らなかったところは、失ってからでは遅いということを知っているはずなのに、学ばなかったことだ。そのせいで、彼は二度も自分の大切なものを失う辛さを経験してしまった。
尋がトイレに行くと言って立ち上がった。彼の顔は曇ったままで、まるで生気を感じられない。心配に思いつつも、声をかけることはしなかった。
「自分が心底嫌になってくるよ」遥太が言った。「つくづく何も知らなかったんだって思い知らされる。失った後でしか気付けない自分がもどかしい」
本当にそうだ。千種のことを知ったのが尋だけじゃなくて、俺達みんなだったら、未来は変わっていたかもしれない。
頭を下げていた陽葵が、顔を上げた。
「……きっと、千種も同じ気持ちだったんだと思う。中学のクラスメイトの子が死んだ時に、彼女が虐待を受けていることを知っていればって、悔やんでたんだと思う」
窓の外に目をやる。いつの間にか雨が上がっていた。厚い雲の隙間から一縷の日が差し込み、街を照らし始めた。
十分くらい待っただろうか。いつまで経っても尋が戻ってこなかった。嫌な予感がして、俺はトイレに向かった。扉に手をかける。鍵がかかっていなかった。ノックをしても返事がない。ますます胸が騒ぎ出す。俺はとうとう扉を開けた。
そこには、誰もいなかった。
それから三人で家中をくまなく探したが、尋はどこにも見つからなかった。
玄関にやってきて、ようやく気付く。彼の靴が無くなっていた。