小六の時に、お母さんが死んだ。事故死だった。夜十一時頃、仕事からの帰り道、自身が運転していた車に信号無視した車が突っ込んできた。相手は大学生だった。免許は取り立てで、飲酒もしていたらしかった。
 お母さんが死んだことを知ったのは翌日になってからだった。事故が起きた時はすでに眠っていて、お母さんは、私が知らない間に死んでしまっていた。だからその時のことは正直よく憶えていない。唯一記憶に残っているのは、翌日起きてきた時に「おはよう」と私に言ったお父さんの目が真っ赤だったことくらいだ。
 後日、葬儀に参列しても、どこか他人事のような感じが抜けなかった。棺で色とりどりの花に囲まれて眠っているお母さんの姿を見ても、死んでいるという実感がまるで湧かなかった。死んだ瞬間を実際に見ていなからなのかもしれない。私は、時が経つことでしか、お母さんが死んだことを飲み込めなかった。
 お母さんは厳しい人だった。私を私立の小学校に行かせようとし(結局お受験は失敗しちゃったけど)、塾やピアノや書道など様々な習い事をさせた。ある日、塾に行くのがどうしても嫌で、勝手にサボった時なんかは、数週間口を聞いてくれなかった。直接的な叱咤はせずに、こちらを不安にさせ、反省させようとするのが彼女の上手いところだと、我が子ながらに思った。だけど、失敗を責めるようなことは決してしなかった。自分が経営者だったということもあったのかもしれない。お母さんは常にプライドを持って生きているような人だった。失敗がステップアップしていくための糧になるということを、彼女はよく知っていた。だから私は、お母さんのことが嫌いじゃなかった。それどころか、その姿にむしろ憧れていたかもしれない。
 そんなお母さんが死んだ。私の憧れの人が、呆気なくこの世を去ってしまった。悲しさよりも、この先誰を頼りに進んでいけば良いんだろうという不安のほうが大きかった。目標を失ったような気がして、何にも身が入らなくなった。
 お父さんは、そんな私を見て声をかけてくれた。自分も辛いはずなのに、娘の私には悲しい思いをさせないように心がけているようだった。お父さんは、お母さんとはまるで違う性格で、優しくて穏やかな人だった。私は幼いながらに、これからは二人で協力しあって生きていかなきゃいけないんだと理解していた。少しでもお父さんの負担を減らすために努力をしよう、そう心に決めた。
 でも、二人が支え合う生活は、長いこと上手くは続かなかった。
 いつの日からか、お父さんが壊れ始めた。最初は言葉で脅すみたいな小さなことだった。「お母さんが死んだのにどうしてお前は生きているんだ」的なこと。でもそれは仕方のないことだった。お父さんは優しくて、だからとても繊細で、不器用だったから。ずっと独りで抱え込むことはできなかったんだと思う。それでも堪らえようとしていたから、壊れてしまったんだ。
 お父さんの崩壊は次第に顕著になっていった。言葉に加えて手が出るようになり、今では身体に傷跡が残るようなものばかりだった。普段は思春期の娘と父のような不穏さが流れ、お酒で酔う度にお父さんは私に暴力を振るった。そして、酔いが覚めると私に何度も泣いて謝った。本心じゃないんだって弁明して、愛してるんだって抱きしめる。そんな関係がずっと続いていた。苦痛だった。傷付けられるのも、その後で謝られるのも気持ちが悪かった。謝るなら殴らないでほしかった。私を傷付けないでほしかった。
 だけど変な話、私はお父さんのことを心の底から嫌いになれなかった。罵声を浴びせられても、深い傷をつけられても、殺ししてやりたいほど憎むことができなかった。理由は、単純だった。残されたお父さんが、可哀想だったから。お母さんが死んだ次の日に見た、目が真っ赤に腫らしたお父さんが、私には憐れでしょうがなかった。必死に抱え込んでいるけど、どこかで発散しないといつかお母さんの後を追って死んじゃいそうだった。私を殴る時も、その後で謝る時も、お父さんはその目をしていた。あの目を見た時から、私がお父さんの支えになってあげなければと、直感的に思った。お父さんが死なないためには、私が自分自身を殺さなきゃいけないって気が付いた。