辺りに正午を知らせる音楽が響き渡る。男は僕が手紙を読んでいる間、ずっと空を見上げ、時折溜め息を零していた。
僕は読み終わった手紙を折りたたみ、封筒に入れた。返そうと思ったが、彼はまだ空を見ていた。
「あなたは……」
そこまで口にして、しかしその後の言葉が出てこなかった。何を言うべきかを模索していると、上を向いたままの彼が話し始めた。
「私は決して、妻の言うような優しい人間ではありませんでした。書店の棚に陳列されたビジネス書を横目で見て、こんなものに縋る奴は滑稽だと、嘲り笑う。貧しい子ども達に食べ物を分け与える番組に偽善だと吐き捨て、テレビを消す。自分自身は何一つ行動を起こしていないのに、世間に悪態をついてばかりいるような、そんな人間、そんな大人だったんです。落ちていた……そう、まさに落ちぶれていたんです。自分に甘過ぎる人間は、自分自身こそがこの社会において一番の癌であるということに気付かないまま腐っていくのでしょう」
ようやく視線を戻した彼の目は据わっていた。
「けれど、彼女と一緒にいると、何故だか私は、自分が『良い人』であるように思えたんです。あの日、彼女を見つけて話しかけた時も、下心なんて微塵もありませんでした。ただ純粋に、こんな時間に女性が一人でいるのは危ないと思っただけなんです。彼女の前だけでは、私は『良い人』であり続けることができました。月並みな表現かもしれませんが、私にとって彼女はかけがえのない人だったんです。あの日本当に救われていたのは、私のほうだったんです」
男の手が小刻みに震えていた。それを抑えようとしてか、左手で右手首を掴むが、両方の手が震えているので意味がなかった。
「今でも思いますよ。彼女が話してくれれば、私が彼女の話を聞いていれば、お互いがお互いをもっと信頼していれば、私達は今も変わらず過ごせていたのかもしれないと。ですが……ですが私達は、あまりに不器用だったんです」
男は僕が持っていた封筒を受け取り、それをじっと見つめた。それでもまだ手は震えていて、書かれた文章が読めているようには見えなかった。
「今日ここに来て、少し思い出せたような気がするんです。もしかしたら私は、この手紙を意図的に落としたのかもしれません。この手紙とともに、妻のことも、何もできなかった自分のことも、全て忘れようとしていたのかもしれないんです。そうすればこんな苦しい思いはしないで済むのですから」
「全て、ですか」
「はい。……ですが、やはりどうにも駄目だったんです。忘れることなんてできませんでした。このベンチにもう一度座ってしまったことが何よりそれを証明しています。忘れようと思っても、私の中の潜在意識はそれを良しとしなかった。だからあんな夢を見させたんです。ただ残念なことに、夢はどうしても夢でしかありません。どんなに精巧でも、どんなに記憶に残る夢でも、それはただの幻想でしかない。結局最後に選択し、歩かなければならないのは、現実の自分以外にいないんです。きっと夢というのは、選択の幅を広げる可能性であると同時に、単なる虚無でしかないんですよ。現実を忘れることはできません。だから――」
だからこうするんです。男はそう言って、ポケットからライターを取り出し、手に持っていた封筒に火をつけた。
「これは彼女の存在に依存したままの、まともになれない私自身との訣別なんです」
地面に落ちた封筒は、もうほとんどが焼け焦げてしまっていた。わずかに残っている火の光は、けれど依然煌々と輝きを放っていた。
「どうしてこの話を、僕なんかにしたんですか」
「似ているんですよ。あなたのその目が、鏡に映る私のこの目と」
そういう彼の瞳は、先程までとはまるで違って、自分が真っ当な人間であると主張するかのような生気を宿していた。もう、手は震えていなかった。
「どうやら話し込んでしまったようですね。私はもう行きますよ」
男は横に置いてあった鞄を手に取って立ち上がった。彼は僕よりも少しだけ背が低かった。
「あなたの悩みが晴れること、心から祈っています」
男はそう言い残して、公園を後にした。彼の後ろ姿を、僕はずっと見つめていた。
彼の姿が見えなくなって、僕はベンチに座った。まだ彼の体温が感じられた。あたたかい。他人である男の温もりなのに、何故か落ち着くあたたかさだった。
試しに彼を真似て目を閉じてみた。眠気はやってこない。それでもしばらくそのままでいた。
「尋」
声が聞こえて、僕は目を開けた。目の前に立っていた人物を見て、治まりかけていた頭痛がまた姿を現した。
「ようやく会えたな」
蓮だった。その後ろには、陽葵と遥太もいる。
「……帰ってくれ」
「悪いな。今日ばかりはお前の言うことを聞くことはできない」
僕のことが信用できないという意味だろう。それもそのはずだ。僕は、千種が死んだ日に起きたことを彼らに何も話していなかったのだから。
「だったらなおさら帰るべきだ。僕のことなんて放っておけばいい」
「無理だ」
「どうしてだよ」
「尋」後ろに立っていた遥太が言った。「君に見せたいものがあるんだ」
何を見せたいかは知らないが、そんなのどうだっていい。僕は彼らにどんな顔を見せればいいというのだろうか。あんな別れ方をしておいて、なんと言えばいいのだろうか。
彼らに立ち去る気がないのなら、僕のほうがいなくなろう。そう思ってベンチから立ち上がろうとした時だった。蓮が僕の肩を抑えて言った。
「見つかったんだよ。千種の脚本が」
脚本。一拍おいて、思い出す。そうか、文化祭で千種が書くはずだった劇の脚本か。彼女が死んで以来行方がわからなくなっていたが、それが見つかったから何だというのだろうか。
「お前は――いや、俺達は、これを見なきゃいけないんだよ」
蓮が僕の肩から手を離し、背後にいた陽葵を指差した。その彼女の手には、ぼろぼろのポリ袋に入ったUSBメモリが確かにあった。よく見ると、何かが書かれてあるのがわかる。
【鴉の落とし子】
――息が止まった。
ポリ袋にペンで書かれてあったその文字は、奇しくも千種が書いていたメモのタイトルと同じだった。
僕は読み終わった手紙を折りたたみ、封筒に入れた。返そうと思ったが、彼はまだ空を見ていた。
「あなたは……」
そこまで口にして、しかしその後の言葉が出てこなかった。何を言うべきかを模索していると、上を向いたままの彼が話し始めた。
「私は決して、妻の言うような優しい人間ではありませんでした。書店の棚に陳列されたビジネス書を横目で見て、こんなものに縋る奴は滑稽だと、嘲り笑う。貧しい子ども達に食べ物を分け与える番組に偽善だと吐き捨て、テレビを消す。自分自身は何一つ行動を起こしていないのに、世間に悪態をついてばかりいるような、そんな人間、そんな大人だったんです。落ちていた……そう、まさに落ちぶれていたんです。自分に甘過ぎる人間は、自分自身こそがこの社会において一番の癌であるということに気付かないまま腐っていくのでしょう」
ようやく視線を戻した彼の目は据わっていた。
「けれど、彼女と一緒にいると、何故だか私は、自分が『良い人』であるように思えたんです。あの日、彼女を見つけて話しかけた時も、下心なんて微塵もありませんでした。ただ純粋に、こんな時間に女性が一人でいるのは危ないと思っただけなんです。彼女の前だけでは、私は『良い人』であり続けることができました。月並みな表現かもしれませんが、私にとって彼女はかけがえのない人だったんです。あの日本当に救われていたのは、私のほうだったんです」
男の手が小刻みに震えていた。それを抑えようとしてか、左手で右手首を掴むが、両方の手が震えているので意味がなかった。
「今でも思いますよ。彼女が話してくれれば、私が彼女の話を聞いていれば、お互いがお互いをもっと信頼していれば、私達は今も変わらず過ごせていたのかもしれないと。ですが……ですが私達は、あまりに不器用だったんです」
男は僕が持っていた封筒を受け取り、それをじっと見つめた。それでもまだ手は震えていて、書かれた文章が読めているようには見えなかった。
「今日ここに来て、少し思い出せたような気がするんです。もしかしたら私は、この手紙を意図的に落としたのかもしれません。この手紙とともに、妻のことも、何もできなかった自分のことも、全て忘れようとしていたのかもしれないんです。そうすればこんな苦しい思いはしないで済むのですから」
「全て、ですか」
「はい。……ですが、やはりどうにも駄目だったんです。忘れることなんてできませんでした。このベンチにもう一度座ってしまったことが何よりそれを証明しています。忘れようと思っても、私の中の潜在意識はそれを良しとしなかった。だからあんな夢を見させたんです。ただ残念なことに、夢はどうしても夢でしかありません。どんなに精巧でも、どんなに記憶に残る夢でも、それはただの幻想でしかない。結局最後に選択し、歩かなければならないのは、現実の自分以外にいないんです。きっと夢というのは、選択の幅を広げる可能性であると同時に、単なる虚無でしかないんですよ。現実を忘れることはできません。だから――」
だからこうするんです。男はそう言って、ポケットからライターを取り出し、手に持っていた封筒に火をつけた。
「これは彼女の存在に依存したままの、まともになれない私自身との訣別なんです」
地面に落ちた封筒は、もうほとんどが焼け焦げてしまっていた。わずかに残っている火の光は、けれど依然煌々と輝きを放っていた。
「どうしてこの話を、僕なんかにしたんですか」
「似ているんですよ。あなたのその目が、鏡に映る私のこの目と」
そういう彼の瞳は、先程までとはまるで違って、自分が真っ当な人間であると主張するかのような生気を宿していた。もう、手は震えていなかった。
「どうやら話し込んでしまったようですね。私はもう行きますよ」
男は横に置いてあった鞄を手に取って立ち上がった。彼は僕よりも少しだけ背が低かった。
「あなたの悩みが晴れること、心から祈っています」
男はそう言い残して、公園を後にした。彼の後ろ姿を、僕はずっと見つめていた。
彼の姿が見えなくなって、僕はベンチに座った。まだ彼の体温が感じられた。あたたかい。他人である男の温もりなのに、何故か落ち着くあたたかさだった。
試しに彼を真似て目を閉じてみた。眠気はやってこない。それでもしばらくそのままでいた。
「尋」
声が聞こえて、僕は目を開けた。目の前に立っていた人物を見て、治まりかけていた頭痛がまた姿を現した。
「ようやく会えたな」
蓮だった。その後ろには、陽葵と遥太もいる。
「……帰ってくれ」
「悪いな。今日ばかりはお前の言うことを聞くことはできない」
僕のことが信用できないという意味だろう。それもそのはずだ。僕は、千種が死んだ日に起きたことを彼らに何も話していなかったのだから。
「だったらなおさら帰るべきだ。僕のことなんて放っておけばいい」
「無理だ」
「どうしてだよ」
「尋」後ろに立っていた遥太が言った。「君に見せたいものがあるんだ」
何を見せたいかは知らないが、そんなのどうだっていい。僕は彼らにどんな顔を見せればいいというのだろうか。あんな別れ方をしておいて、なんと言えばいいのだろうか。
彼らに立ち去る気がないのなら、僕のほうがいなくなろう。そう思ってベンチから立ち上がろうとした時だった。蓮が僕の肩を抑えて言った。
「見つかったんだよ。千種の脚本が」
脚本。一拍おいて、思い出す。そうか、文化祭で千種が書くはずだった劇の脚本か。彼女が死んで以来行方がわからなくなっていたが、それが見つかったから何だというのだろうか。
「お前は――いや、俺達は、これを見なきゃいけないんだよ」
蓮が僕の肩から手を離し、背後にいた陽葵を指差した。その彼女の手には、ぼろぼろのポリ袋に入ったUSBメモリが確かにあった。よく見ると、何かが書かれてあるのがわかる。
【鴉の落とし子】
――息が止まった。
ポリ袋にペンで書かれてあったその文字は、奇しくも千種が書いていたメモのタイトルと同じだった。