気付けば季節は冬になっていて、いつの間にか年も明けていた。相変わらず千種は僕の部屋に来て、普段は誰にも見せない顔を僕に見せた。
「これ見てよ」
ベッドに寝転がっていた千種は、そう言って読書中だった僕にスマホの画面を見せてきた。あのメモを見て以来、なるべく彼女のスマホから意識を逸らそうとしていたから少し躊躇したが、盗み見るわけじゃないと自分に言い聞かせて画面を見た。
動画が流れていた。何やら大勢の人がビルに向かってスマホをかざしていた。どうやらビルの屋上に人が立っていて、それを撮影しているらしかった。風が吹けば今にも落ちてしまいそうなギリギリのところに、その人影は立っていた。自殺だ、と直感する。そして次の瞬間、あっ! という短い悲鳴の後に、その人がビルから落ちた。そこで動画は途切れる。
「異常だ」
どうして誰も止めようともせずに、スマホをかざしているのだろう。その光景は実に気味が悪いものだった。
「その言葉がほしかった」
彼女は期待通りの感想が返ってきたことに満足しているようだった。
「SNSってよくないよねー、こうやって他人の死も見ることができちゃうんだから。でも、だからってオールドメディアがいいって言ってるんじゃないよ。そんなのはそもそも信用できないから。あー嫌だ嫌だ」
ぶつぶつぼやきながら、彼女はベッドに寝転んだ。
「私も自殺したら、こうやってネットに晒されるのかな」
「嫌なら死ななければいい」
「薄情だなぁ」
「助言してあげてるんだよ。君のことを思って」
「はいはい、ありがたく受け取っておきますぅー」
千種はそう言って足をバタバタさせた。見るからに不機嫌そうだった。読書に集中したいけれど、視界の隅で動く彼女が気になってしょうがない。何とかして落ち着かせたかった僕は、ある話をし始めた。
「昔、猫を飼っていたことがあるんだ。五年前に死んじゃったんだけど」
興味をそそられたらしい千種は、身体を起こして僕のことを見た。効果覿面のようだ。
「モノって名前だった。白黒の猫だったから、モノクロから取ってモノ。そいつは、普段はこっちが手を差し伸べても見向きもしないくせに、機嫌がいいとこっちの事情なんてお構いなしに邪魔してくる奴だった」
千種は僕の話を静かに聞いていた。
「ある日のことだった。当時小学生だった僕は、学校からの帰り道で迷子になったんだ。どうしてだって思うだろ? 実は転校してきたばかりで、まだ学校から家までの道がわからなかったんだ。全く知らない土地で心細い思いをしながら、ただただ彷徨い続けた。けれど日が暮れそうになって、とうとう近くの公園で座り込んでしまった。――そこに現れたのが、モノだった。迎えに来たぞって言われた気がした。それからモノの後を付いていくと、無事に家に帰ることができた。その日ばかりはモノもずっとそばにいてくれた。それで、僕は思ったよ。もしかしたら人間の心を一番理解しているのは、猫なのかもしれないってな」
あの時ほどモノの存在に助けられたことはない。僕が付いてきているのをしきりに確認しながら歩く彼の姿は、当時の僕にとっては何より頼もしかった。
「なんか、私みたいだね」
「自分で言うなよ」
「似てると思わない? 尋の邪魔をするの好きだし」
「わかっててやってたのかよ」
「だって全然話聞いてくれないんだもん」
読書をしている割には受け答えもちゃんとやっていたつもりだったが、それだけでは駄目だったようだ。
だが確かに、彼女はモノと似ているかもしれない。帰り道がわからなくて迷っていた僕を導いてくれたのがモノであるように、中学でも高校でもずっと独りだった僕を導いてくれたのは、他の誰でもない千種だった。
「死んだら猫に生まれ変わるのも悪くないかもね」
「ああ、悪くない。でもそんなのまだ先のことさ」
千種には少なからず自殺願望がある。それは今までの言動を見ていればわかる。どこまでが本気で、どこまでが冗談なのかまでは推察できないが、確かに抱えている。だから僕は、彼女が自分のことを傷付けようとする度に、サブリミナル的に刃先を折るように努めていた。そうすることで、多少なりとも彼女の頭から自殺という手段が薄れていくのではないかなんて身勝手な願望があったからだ。
だが、そんな生易しい延命措置では彼女の思いが揺るがないことを、僕は、彼女が切り出した話によって思い知ることになる。
「じゃあ次は、私の昔話を聞いてもらおうかな」
千種はベッドから立ち上がり、僕の横に座った。
「私が中学一年生の頃。クラスメイトの女子生徒が一人、自殺をしたの」
驚いたが、口は挟まずに続きを待った。
「その子は馬鹿が付くほど正直で、明るい子だった。今の私以上にね。そして何より、卑劣なことを嫌う純粋な子だった。たぶん、その正直さが忌み嫌われていたのかもしれない。彼女はいつしか、クラスメイトからいじめを受けるようになった。彼女も最初は気付いていなかったようだった。今思えば気付いていないふりをしていただけのかもしれないけど、どちらにせよ、表向きは平気そうな顔をしていた。主犯格意外の人間は当然気付いていなかったし、彼女の明るさはまだ輝きを放っていた。でも、いじめは日増しにエスカレートしていった。最初は些細な嫌がらせだったのも、みるみる明確な悪意を帯びていった。さすがにそれには周囲の人間も薄々勘付き始めていた。そしてやがて、彼女の崩壊は誰の目にも明らかなほどになっていった」
「…………」
僕は千種の話を黙ったまま聞いていた。いつの間にか読んでいた本も閉じて、彼女の話に聞き入ってしまっていた。
「集団心理っていうのは単純なもので、それまで彼女と普通に接していた人間さえも、彼女を避けるようになった。保身のため、嫌われないため、見て見ぬふりをするので必死だった。でもね、私には彼らを責めることはできない。なぜならかく言う私も、彼らと同じ、傍観者の一人に過ぎなかったから」
千種の言葉には当時への後悔が孕まれているような気がした。そんな彼女に今僕が何を言っても、そんなのは冗長でしかないと思ってしまう。
時折彼女の肩が僕の腕に触れる。偶然当たった、というわけではない。もたれかかっているのに近かった。彼女の重みが、左腕を介して伝わってくる。
「ただ、一度だけ彼女と話したことがあったの。いじめが始まって数か月後、夏休みに学校の図書室を訪れた時だった。彼女とたまたま出会った。話すつもりはなかった。もともと話すような間柄でもなかったし、やっぱり気まずかった。けれど、驚いたことに彼女の方から私に話しかけてきた。私が持っていた小説を見て、その作家が好きなのって、そう訊いてきた。私が頷くと、彼女はぱあっと笑顔になった。懐かしい笑顔だった。数か月前までは毎日のように見ていたはずなのに、いじめを受けてからは感情を表面に出さなくなっていた。それから私達は、と言うかほぼ一方的に彼女がその作家の魅力について語り続けた。彼女の顔は始終笑っていた。こんなに笑う彼女を見たのはひさしぶりだった。話の内容はよく覚えていないけれど、彼女の無邪気に笑った顔は、今でもはっきり覚えている」
その子の笑顔を思い出している千種の顔は、自然と微笑んでいた。だが、すぐに消えた。
「やがて彼女の話がひと段落したところで、私はとうとう訊ねてしまった。いじめられていることを誰かに相談したか。彼女はゆっくりと首を横に振った。無理に登校しなくてもいいんじゃないか。また首を振った。誰かに助けを求めたほうがいいんじゃないか。すると彼女は、一瞬寂しげに微笑んでこう答えた。
――私は、無力だから。
重く、深く、鋭く、その言葉が刺さって抜けなかった。その後彼女が用事を思い出して帰ったからよかったものの、あのまま二人きりでいたら、私はきっと耐えられなかったと思う。……それから一週間後だった。彼女は自宅で首を吊って死んだ」
千種は目を閉じ、深く息を吸って、吐いた。
「……後から知ったことなんだけどね、彼女は日頃から、実の父親からの性的虐待を受けていたらしかったんだ。絶句しちゃった。抱えていたものの大きさに気圧された。世間は冷たい。そのことを彼女は知っていた。だから、自ら命を絶った。選ばざるを得なかったんだ。大衆に、失禁しながら伸びた自分の姿を晒してでも、この世を去る必要が彼女にはあった」
凄惨で目を背けたくなるような出来事のはずなのに、千種は淡々と話し続けた。ほとんど表情を変えず、ただひたすら流れるように言葉を紡いでいた。でも、身体は震えていた。彼女はそれを必死に抑えようとして腕を組んだ。
「その後になって、私は考えた。彼女が死ななければならなかったのは、不安定な現代社会が引き起こした歪のせいなんじゃないか、って。他人を傷付けることでしか存在を証明できなかったいじめの当事者や、他人顔のクラスメイト、我が子を襲う狂った父親、救いを求められない環境。それらすべて、歪んだ社会が生み出したものなんだと思った」
あのメモにもこのことは記されてあったはずだ。ずっと忘れられないのだろう。あるいは、忘れてはいけないと思って書き記していたのかもしれない。
「尋はさ、私と初めて話した時、私のことをどう思った?」
「……明るい子だと思った」
「そう。私は明るい人間になろうとした。でも本当の私はそんな人間じゃない。今も昔も、決して明るい人間なんかじゃなかった。でもね、私は明るく振る舞おうと努力した」
「どうして?」
「そうすることが、死んだ彼女への償いだと思ったから。馬鹿正直に生きて、私も誰かの反感を買っていじめられてしまえばいいって思った」
自責の念にとらわれ、自らの首を絞めるために明るく振る舞う。何も知らない人間からすれば矛盾しているように見えるが、彼女にとってのそれは、暗い部屋で悔やみ続けるよりも遥かに痛く、苦しいことだろう。
「図書室で話した後、去り際にね、彼女が言ったの。あなたは何もしなくていいって。誰かに言ったのがばれたら、今度はあなたがいじめられちゃうからって、そう言った。でもそんなことわかってた。だから誰にも言わなかった。ターゲットにされるのが怖かったから。彼女も何もするなって言ったんだし、自分のせいじゃないって言い訳できると思った。……馬鹿だった。そんなわけなかった。私なら助けられた。いじめを知った時。いじめられているのを実際に見た時。あの日彼女と話した時。いつだって言うことはできた。なのに、言わなかった」
君のせいじゃない。とは言えなかった。そんなのは気休め程度にもならないし、恐らく彼女はそんな言葉を望んでいない。赦されようなんて思っていない。むしろ逆だ。あのメモを見た僕にはわかる。彼女は自分が破滅することを望んでいる。
「だからさ」彼女が言った。「……私は死ぬべきなんだよ」
千種は、ケリをつけるまでの余生を楽しんでいるに過ぎない。そう思っていた。でも違う。真実はもっと暗かった。クラスメイトに笑顔で接するのも、僕らに仲良くしようと言ったことさえも、自殺という舞台を整えるための演出でしかなかったのだ。
だったら。
だったら、そんな悲しそうに笑わないでほしかった。本当に死にたいのなら、最期までいつものように笑うか、もしくは完璧なまでに絶望でもしていてほしかった。いや、それよりももっと前に、僕と関わらないでほしかった。そうすればこんな思いをする必要もなかった。たとえ彼女が死んだとしても、よく知らないクラスメイトが馬鹿なことをしたと思うだけで済んだ。済んだはずだった。
あの日、彼女に話しかけられなければよかった。
あの日、彼女のメモを見なければよかった。
こんな話を、聴かなければよかった。
でも。
それでも僕は彼女と関わることを選んだ。
メモを見ても、それでも一緒にいることを選んだ。
今、彼女の話を聴くことを選んだ。
全て僕が選んだ選択だ。それらを積み重ねていった先に今の僕があり、こうして彼女が隣にいる。選んだ道が一つでも違っていたら、何もかもが違っていたかもしれない。もしかしたら彼女は、とっくに死んでしまっていたかもしれない。
千種は僕を導いた。それまで薄暗く暗澹とした日々を送っていた僕のことを、彼女は青空へと誘ってくれた。それはメモを見た後も変わらない。それ以前が鮮やかな紺碧の空であるとするならば、彼女の本心を知った日からは、その遥か上空、宇宙に限りなく近いダークブルーの空を飛んでいるような感覚だった。中学までの薄暗い日々とは似ても似つかない、満たされた日常だった。千種という存在が、何よりも大きかった。
そんな、一人では絶対に辿り着けないところまで誘ってくれた彼女に、今の僕がしてあげられることはなんだろうか。震えていて、それなのに笑顔で誤魔化そうとする彼女に対して、僕がしなければいけないことはなんだろうか。彼女と同じように手を差し伸べることだろうか。生きていて欲しいと懇願することだろうか。いや、きっとどちらも違う。僕は決して傲慢な執着心で彼女を引き留めようとしたいわけじゃない。その逆だった。僕は、僕だけは彼女の味方でいたかった。彼女の苦しみをともに分かち合いたかった。
すべきことは、恐らくわかっていた。だが、行動に移せない。身体が動かない。頭の中では彼女のことを抱きしめているのに、実際は何一つ動いてなどいなかった。拒絶されるのが怖かった。僕がメモを覗いているのを見つけた彼女の顔が脳裏に浮かぶ。もう二度とあんな顔をさせたくなかった。ここで選択を間違えて、彼女に失望されるのが怖くてたまらなかった。
だから僕は、結局何もできなかった。気付けば千種の震えは治まっていて、僕からも離れていた。
「私が死のうとしたら、尋は止めてくれる?」
そう訊ねる彼女の顔は、いつもの表情に戻っているように思えた。
「君が止めてほしいんだったら、僕はそうする。でも、言っても聞かないだろ?」
千種は「かもね」と言って小さく笑った。
「だからもし君が本当に死のうとしたら、その時は、僕も一緒に死ぬよ」
言葉ではいくらでも言える。今まで何もできていないのに、これこそ無責任だと感じる。
「……約束だよ」
穏やかな声だったが、その言葉は切に響いた。
大して気になるわけでもないのに、彼女の奥にあるカーテンのシミが目に留まった。何の汚れだったかなんて憶えていない。僕はしばらくの間、そのシミから目を離すことができなかった。
「これ見てよ」
ベッドに寝転がっていた千種は、そう言って読書中だった僕にスマホの画面を見せてきた。あのメモを見て以来、なるべく彼女のスマホから意識を逸らそうとしていたから少し躊躇したが、盗み見るわけじゃないと自分に言い聞かせて画面を見た。
動画が流れていた。何やら大勢の人がビルに向かってスマホをかざしていた。どうやらビルの屋上に人が立っていて、それを撮影しているらしかった。風が吹けば今にも落ちてしまいそうなギリギリのところに、その人影は立っていた。自殺だ、と直感する。そして次の瞬間、あっ! という短い悲鳴の後に、その人がビルから落ちた。そこで動画は途切れる。
「異常だ」
どうして誰も止めようともせずに、スマホをかざしているのだろう。その光景は実に気味が悪いものだった。
「その言葉がほしかった」
彼女は期待通りの感想が返ってきたことに満足しているようだった。
「SNSってよくないよねー、こうやって他人の死も見ることができちゃうんだから。でも、だからってオールドメディアがいいって言ってるんじゃないよ。そんなのはそもそも信用できないから。あー嫌だ嫌だ」
ぶつぶつぼやきながら、彼女はベッドに寝転んだ。
「私も自殺したら、こうやってネットに晒されるのかな」
「嫌なら死ななければいい」
「薄情だなぁ」
「助言してあげてるんだよ。君のことを思って」
「はいはい、ありがたく受け取っておきますぅー」
千種はそう言って足をバタバタさせた。見るからに不機嫌そうだった。読書に集中したいけれど、視界の隅で動く彼女が気になってしょうがない。何とかして落ち着かせたかった僕は、ある話をし始めた。
「昔、猫を飼っていたことがあるんだ。五年前に死んじゃったんだけど」
興味をそそられたらしい千種は、身体を起こして僕のことを見た。効果覿面のようだ。
「モノって名前だった。白黒の猫だったから、モノクロから取ってモノ。そいつは、普段はこっちが手を差し伸べても見向きもしないくせに、機嫌がいいとこっちの事情なんてお構いなしに邪魔してくる奴だった」
千種は僕の話を静かに聞いていた。
「ある日のことだった。当時小学生だった僕は、学校からの帰り道で迷子になったんだ。どうしてだって思うだろ? 実は転校してきたばかりで、まだ学校から家までの道がわからなかったんだ。全く知らない土地で心細い思いをしながら、ただただ彷徨い続けた。けれど日が暮れそうになって、とうとう近くの公園で座り込んでしまった。――そこに現れたのが、モノだった。迎えに来たぞって言われた気がした。それからモノの後を付いていくと、無事に家に帰ることができた。その日ばかりはモノもずっとそばにいてくれた。それで、僕は思ったよ。もしかしたら人間の心を一番理解しているのは、猫なのかもしれないってな」
あの時ほどモノの存在に助けられたことはない。僕が付いてきているのをしきりに確認しながら歩く彼の姿は、当時の僕にとっては何より頼もしかった。
「なんか、私みたいだね」
「自分で言うなよ」
「似てると思わない? 尋の邪魔をするの好きだし」
「わかっててやってたのかよ」
「だって全然話聞いてくれないんだもん」
読書をしている割には受け答えもちゃんとやっていたつもりだったが、それだけでは駄目だったようだ。
だが確かに、彼女はモノと似ているかもしれない。帰り道がわからなくて迷っていた僕を導いてくれたのがモノであるように、中学でも高校でもずっと独りだった僕を導いてくれたのは、他の誰でもない千種だった。
「死んだら猫に生まれ変わるのも悪くないかもね」
「ああ、悪くない。でもそんなのまだ先のことさ」
千種には少なからず自殺願望がある。それは今までの言動を見ていればわかる。どこまでが本気で、どこまでが冗談なのかまでは推察できないが、確かに抱えている。だから僕は、彼女が自分のことを傷付けようとする度に、サブリミナル的に刃先を折るように努めていた。そうすることで、多少なりとも彼女の頭から自殺という手段が薄れていくのではないかなんて身勝手な願望があったからだ。
だが、そんな生易しい延命措置では彼女の思いが揺るがないことを、僕は、彼女が切り出した話によって思い知ることになる。
「じゃあ次は、私の昔話を聞いてもらおうかな」
千種はベッドから立ち上がり、僕の横に座った。
「私が中学一年生の頃。クラスメイトの女子生徒が一人、自殺をしたの」
驚いたが、口は挟まずに続きを待った。
「その子は馬鹿が付くほど正直で、明るい子だった。今の私以上にね。そして何より、卑劣なことを嫌う純粋な子だった。たぶん、その正直さが忌み嫌われていたのかもしれない。彼女はいつしか、クラスメイトからいじめを受けるようになった。彼女も最初は気付いていなかったようだった。今思えば気付いていないふりをしていただけのかもしれないけど、どちらにせよ、表向きは平気そうな顔をしていた。主犯格意外の人間は当然気付いていなかったし、彼女の明るさはまだ輝きを放っていた。でも、いじめは日増しにエスカレートしていった。最初は些細な嫌がらせだったのも、みるみる明確な悪意を帯びていった。さすがにそれには周囲の人間も薄々勘付き始めていた。そしてやがて、彼女の崩壊は誰の目にも明らかなほどになっていった」
「…………」
僕は千種の話を黙ったまま聞いていた。いつの間にか読んでいた本も閉じて、彼女の話に聞き入ってしまっていた。
「集団心理っていうのは単純なもので、それまで彼女と普通に接していた人間さえも、彼女を避けるようになった。保身のため、嫌われないため、見て見ぬふりをするので必死だった。でもね、私には彼らを責めることはできない。なぜならかく言う私も、彼らと同じ、傍観者の一人に過ぎなかったから」
千種の言葉には当時への後悔が孕まれているような気がした。そんな彼女に今僕が何を言っても、そんなのは冗長でしかないと思ってしまう。
時折彼女の肩が僕の腕に触れる。偶然当たった、というわけではない。もたれかかっているのに近かった。彼女の重みが、左腕を介して伝わってくる。
「ただ、一度だけ彼女と話したことがあったの。いじめが始まって数か月後、夏休みに学校の図書室を訪れた時だった。彼女とたまたま出会った。話すつもりはなかった。もともと話すような間柄でもなかったし、やっぱり気まずかった。けれど、驚いたことに彼女の方から私に話しかけてきた。私が持っていた小説を見て、その作家が好きなのって、そう訊いてきた。私が頷くと、彼女はぱあっと笑顔になった。懐かしい笑顔だった。数か月前までは毎日のように見ていたはずなのに、いじめを受けてからは感情を表面に出さなくなっていた。それから私達は、と言うかほぼ一方的に彼女がその作家の魅力について語り続けた。彼女の顔は始終笑っていた。こんなに笑う彼女を見たのはひさしぶりだった。話の内容はよく覚えていないけれど、彼女の無邪気に笑った顔は、今でもはっきり覚えている」
その子の笑顔を思い出している千種の顔は、自然と微笑んでいた。だが、すぐに消えた。
「やがて彼女の話がひと段落したところで、私はとうとう訊ねてしまった。いじめられていることを誰かに相談したか。彼女はゆっくりと首を横に振った。無理に登校しなくてもいいんじゃないか。また首を振った。誰かに助けを求めたほうがいいんじゃないか。すると彼女は、一瞬寂しげに微笑んでこう答えた。
――私は、無力だから。
重く、深く、鋭く、その言葉が刺さって抜けなかった。その後彼女が用事を思い出して帰ったからよかったものの、あのまま二人きりでいたら、私はきっと耐えられなかったと思う。……それから一週間後だった。彼女は自宅で首を吊って死んだ」
千種は目を閉じ、深く息を吸って、吐いた。
「……後から知ったことなんだけどね、彼女は日頃から、実の父親からの性的虐待を受けていたらしかったんだ。絶句しちゃった。抱えていたものの大きさに気圧された。世間は冷たい。そのことを彼女は知っていた。だから、自ら命を絶った。選ばざるを得なかったんだ。大衆に、失禁しながら伸びた自分の姿を晒してでも、この世を去る必要が彼女にはあった」
凄惨で目を背けたくなるような出来事のはずなのに、千種は淡々と話し続けた。ほとんど表情を変えず、ただひたすら流れるように言葉を紡いでいた。でも、身体は震えていた。彼女はそれを必死に抑えようとして腕を組んだ。
「その後になって、私は考えた。彼女が死ななければならなかったのは、不安定な現代社会が引き起こした歪のせいなんじゃないか、って。他人を傷付けることでしか存在を証明できなかったいじめの当事者や、他人顔のクラスメイト、我が子を襲う狂った父親、救いを求められない環境。それらすべて、歪んだ社会が生み出したものなんだと思った」
あのメモにもこのことは記されてあったはずだ。ずっと忘れられないのだろう。あるいは、忘れてはいけないと思って書き記していたのかもしれない。
「尋はさ、私と初めて話した時、私のことをどう思った?」
「……明るい子だと思った」
「そう。私は明るい人間になろうとした。でも本当の私はそんな人間じゃない。今も昔も、決して明るい人間なんかじゃなかった。でもね、私は明るく振る舞おうと努力した」
「どうして?」
「そうすることが、死んだ彼女への償いだと思ったから。馬鹿正直に生きて、私も誰かの反感を買っていじめられてしまえばいいって思った」
自責の念にとらわれ、自らの首を絞めるために明るく振る舞う。何も知らない人間からすれば矛盾しているように見えるが、彼女にとってのそれは、暗い部屋で悔やみ続けるよりも遥かに痛く、苦しいことだろう。
「図書室で話した後、去り際にね、彼女が言ったの。あなたは何もしなくていいって。誰かに言ったのがばれたら、今度はあなたがいじめられちゃうからって、そう言った。でもそんなことわかってた。だから誰にも言わなかった。ターゲットにされるのが怖かったから。彼女も何もするなって言ったんだし、自分のせいじゃないって言い訳できると思った。……馬鹿だった。そんなわけなかった。私なら助けられた。いじめを知った時。いじめられているのを実際に見た時。あの日彼女と話した時。いつだって言うことはできた。なのに、言わなかった」
君のせいじゃない。とは言えなかった。そんなのは気休め程度にもならないし、恐らく彼女はそんな言葉を望んでいない。赦されようなんて思っていない。むしろ逆だ。あのメモを見た僕にはわかる。彼女は自分が破滅することを望んでいる。
「だからさ」彼女が言った。「……私は死ぬべきなんだよ」
千種は、ケリをつけるまでの余生を楽しんでいるに過ぎない。そう思っていた。でも違う。真実はもっと暗かった。クラスメイトに笑顔で接するのも、僕らに仲良くしようと言ったことさえも、自殺という舞台を整えるための演出でしかなかったのだ。
だったら。
だったら、そんな悲しそうに笑わないでほしかった。本当に死にたいのなら、最期までいつものように笑うか、もしくは完璧なまでに絶望でもしていてほしかった。いや、それよりももっと前に、僕と関わらないでほしかった。そうすればこんな思いをする必要もなかった。たとえ彼女が死んだとしても、よく知らないクラスメイトが馬鹿なことをしたと思うだけで済んだ。済んだはずだった。
あの日、彼女に話しかけられなければよかった。
あの日、彼女のメモを見なければよかった。
こんな話を、聴かなければよかった。
でも。
それでも僕は彼女と関わることを選んだ。
メモを見ても、それでも一緒にいることを選んだ。
今、彼女の話を聴くことを選んだ。
全て僕が選んだ選択だ。それらを積み重ねていった先に今の僕があり、こうして彼女が隣にいる。選んだ道が一つでも違っていたら、何もかもが違っていたかもしれない。もしかしたら彼女は、とっくに死んでしまっていたかもしれない。
千種は僕を導いた。それまで薄暗く暗澹とした日々を送っていた僕のことを、彼女は青空へと誘ってくれた。それはメモを見た後も変わらない。それ以前が鮮やかな紺碧の空であるとするならば、彼女の本心を知った日からは、その遥か上空、宇宙に限りなく近いダークブルーの空を飛んでいるような感覚だった。中学までの薄暗い日々とは似ても似つかない、満たされた日常だった。千種という存在が、何よりも大きかった。
そんな、一人では絶対に辿り着けないところまで誘ってくれた彼女に、今の僕がしてあげられることはなんだろうか。震えていて、それなのに笑顔で誤魔化そうとする彼女に対して、僕がしなければいけないことはなんだろうか。彼女と同じように手を差し伸べることだろうか。生きていて欲しいと懇願することだろうか。いや、きっとどちらも違う。僕は決して傲慢な執着心で彼女を引き留めようとしたいわけじゃない。その逆だった。僕は、僕だけは彼女の味方でいたかった。彼女の苦しみをともに分かち合いたかった。
すべきことは、恐らくわかっていた。だが、行動に移せない。身体が動かない。頭の中では彼女のことを抱きしめているのに、実際は何一つ動いてなどいなかった。拒絶されるのが怖かった。僕がメモを覗いているのを見つけた彼女の顔が脳裏に浮かぶ。もう二度とあんな顔をさせたくなかった。ここで選択を間違えて、彼女に失望されるのが怖くてたまらなかった。
だから僕は、結局何もできなかった。気付けば千種の震えは治まっていて、僕からも離れていた。
「私が死のうとしたら、尋は止めてくれる?」
そう訊ねる彼女の顔は、いつもの表情に戻っているように思えた。
「君が止めてほしいんだったら、僕はそうする。でも、言っても聞かないだろ?」
千種は「かもね」と言って小さく笑った。
「だからもし君が本当に死のうとしたら、その時は、僕も一緒に死ぬよ」
言葉ではいくらでも言える。今まで何もできていないのに、これこそ無責任だと感じる。
「……約束だよ」
穏やかな声だったが、その言葉は切に響いた。
大して気になるわけでもないのに、彼女の奥にあるカーテンのシミが目に留まった。何の汚れだったかなんて憶えていない。僕はしばらくの間、そのシミから目を離すことができなかった。