時刻は午後六時を回り、太陽が山に隠れ始めた。千種はやっと帰る気になったらしく、僕は彼女のことを駅まで送ることにした。
 外に出ると辺りは茜色に染まっており、街灯の明かりが等間隔に灯っていた。まだ九月だというのに、どこか肌寒さを感じる夕暮れ時だった。

「そういえばさ――」

 千種が何かを言おうとしたタイミングで、向かいから中学生の男女が歩いてくるのが見えた。それは千種にも視認できたらしく、続きを言うことなく口を閉ざしてしまった。
 どうやら恋人同士のようだった。彼らの絶妙な距離を保ったまま繋ぐ互いの手がぎこちなくて、初々しさをひしひしと感じる。夕日の色も相まって、二人の頬がやたらと紅潮しているように見えた。
 僕らと彼らの距離はどんどん縮まっていく。近付くに連れて、自分の歩幅が狭くなっていくのがわかる。彼らの空気を邪魔したくないという配慮もあったが、それ以上に、自分の意気地なさが浮き彫りになるようで近寄り難く感じた。けれど止まることも戻ることもできない僕らは、当然すれ違った。
「付き合いたてかな?」と千種が訊く。

「かもな」

 千種は、恥じらいながら手を繋ぐ彼らの姿に恍惚としているようだった。

「私さ、思うんだよね。儚さをなんの淀みもなしに美しく感じられるのって、たぶん中学生までなんだろうなって。人生は虚しいものだと悟って、けどどこかで夢を見ていて、胸の中で様々な感情が渦巻いている時期だからこそ、刹那的で、混じり気のない純粋なものに思いを馳せることができるの」

「哲学者みたいだ」

「哲学者は嫌いだな。自信過剰だから」

「ひどい言われようだな」

「事実だよ」

「人によるだろ。哲学者が一概に自信過剰というのは、君の偏見だ」

「いーや、尋が何を言おうと私は嫌い」

 彼女が意見を曲げないので、代わりに僕が、全哲学者に対して心の中で謝罪することにした。千種は恐らく、好きなものと同じくらい、もしくはそれ以上に嫌いなものが多い人間だった。

「尋は私のこと意識してる?」

「してるかもな」

「淡泊だなぁ。全然そんな風に見えない」

 しているに決まっている。正直に言う勇気がなくて、そう見せないように平静を装っているだけだ。本当は胸が騒がしくて仕方がない。

「本当にしてるなら、態度で示してよ。尋はいつだってそう。感情を表に出さないからわからない」

「苦手なんだよ。心の中では思ってる」

「言い訳にしか聞こえない」

「なら千種はどうなんだよ。僕のこと、どう思ってる?」

「教えない」

「卑怯だ」

「そっちだって本音で言ってないから同じだよ」

 本音であることは間違いないのに、それを伝えることができない。羞恥心や不安が邪魔をする。相手が千種なら尚更だ。自分の死を見つめる彼女に、僕という存在はいったいどういう風に映っているのだろうか。考えれば考えるほど言えなくなった。
 気が付くと、もう駅に着いていた。結局本音を言うことはできなかった。
 千種が僕の前に立つ。

「まず尋に足りないのは笑顔だよ。何事も形から入るべきだからね。そうすればいつかは自然と気持ちが表に出てくるよ」

「君が言うと説得力があるよ」

 クラスメイトの前では本性を隠していた彼女が言うのだから有効ではあるだろうと思う。

「でしょ? たとえ根っこの部分から明るくならなくても、取り繕うことはできる。でも尋にはそれだけじゃ足りない」

「ならどうすればいい?」

「それはね」千種が微笑む。「尋自身が考えて見つけなきゃいけないよ。私から言ったら意味がない」
 それだけ言うと彼女は、またね、と手を振って行ってしまった。
 僕はしばらくの間呆気に取られてしまった。彼女は結局肝心なことは教えてくれなかった。

「足りないものってなんだよ……」

 僕は彼女が去っていった方を見つめてそう呟いた。