教室は鳥かごだった。
とは言っても、まさか本当にここが、金網で全方位を囲まれた本物の鳥かごだというわけじゃない。ここにいるのはあくまでも人間だ。この場合は、「教室はまるで鳥かごのように騒がしかった」と言った方が正しいのかもしれない。言葉を発する鳥達が、閉鎖的な、狭苦しいこの空間に約四十も集まり、けたたましく鳴いている、そういう比喩だ。
ふと我に返ると、耳から外してぶら下げたままにしていたイヤホンから、通学中に聴いていた、お気に入りのロックバンドの曲が漏れていたことに気付いた。すぐさまスマホを操作して曲を停止し、イヤホンジャックからイヤホンを抜いて、それらをポケットに突っ込んだ。
今年の夏休みはいつもより少なかった。連日の台風の影響で休校が重なり、授業日数が足りないため、その分夏休みが短くなった。おかげで駅から学校までの道のりで、大量の汗をかく羽目になった。
手で汗を拭いながら、何気なく教室を見渡す。クラスメイト達は、それぞれ友人と会話をしていた。ただ、久しぶりに顔を合わせる友人達と楽しく談笑しているという雰囲気でもない。彼らの表情は皆一様に歪んでいた。
何かがあったのだと、俺はすぐに察した。
彼らの大半はスマホの画面を見て、そして顔を歪ませていた。
俺は鞄を机に置くと、彼らに倣い、スマホを取り出した。慣れた手つきでロックを解除すると、ホーム画面が表示された。けれどそこには、暇潰し用にインストールしたパズルゲームや一応入れて置いたSNS類、使い時がない標準搭載のアプリ、そして溜まりに溜まって、今では三百件にまで膨れ上がったメールなどと、見慣れたアプリケーションがあるだけだった。
関係ないのだろうか。そう思った俺は、スマホを机に置いて頬杖を付いた。すると周りの声が、嫌でも自然に耳に入ってきた。
「何これ気持ち悪くない?」
「どうせ誰かの悪戯だろ。くだらねーよ」
「おい誰だよこんなことした奴! 笑えねぇからな!」
何の話かはまだ見えない。しかし、確実に何かが起きている。彼らは、その何かに惑わされている。
そして、次に聞こえた言葉に、俺は思わず硬直してしまった。
「千種は、死んだはずでしょ?」
千種、斎藤千種。そうだ、彼女は、三か月前に死んだはずだ。どうして今、彼女の名前が……?
千種は、六月のある小雨が降る日に、学校の屋上から飛び降り自殺をした。当時学校には生徒がまだ何人か残っていた為、彼女が飛び降りる姿を、そして、地面に打ち付けられてぐちゃぐちゃになった彼女の死体を見た者は多い。
俺は実際に千種の死に際を見たわけではなかったが、その日の夜に、友人から彼女が自殺したと知らされた。
千種の死後一週間近くは、やはり様々な影響があった。大半は彼女の死を悼む声だったが、中には心無い言葉を口にする者もちらほらいた。ただ、三か月も経てば、誰も彼女のことを話さなくなった。当然と言えば当然かもしれない。人の死など、いつまでも話題に出すものじゃない。
それに、時間が経過すれば人は物事に興味を失う。それは人の死であっても同じだ。人気のあった彼女も、例外なく人々の記憶からは薄れる。人の記憶は残酷だ。
千種の死は、時間の波に揉まれて忘れ去られようとしていたはずだった。しかし、どういうわけか、今になって彼女の名前が出てきた。
何故なのだろうか。率直な疑問が、脳内をじわりじわりと飽和していく。
不思議に思っていると、誰かが「蓮!」と俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。声がした窓側の方に目を向ける。すると、ひとりの女子生徒が、焦燥感に満ちた表情で俺に駆け寄ってきていた。
「陽葵……どうしたんだよ。そんな顔して」
「どうしたのじゃない……ってか、見てないの?」
陽葵の顔からは、驚きと困惑が感じられた。
「何をだよ」と俺が言うと、陽葵は訝しむような顔で俺を見た。
「メール。今朝届いたでしょ」
「知らねーよ、通知切ってるし」
彼女は呆れた顔をして、溜め息をついた。俺から言わしてみれば、学校からの連絡かアプリの宣伝くらいしか通知が入らないのに、いちいち気にしてる方が異常だと思う。だがそれを言うとただでさえ危うい雰囲気が、さらに悪化してしまいそうなので言わないでおく。
「で、そのメールが何だってんだよ。もしかして学校に爆破予告でもされたわけ?」
「違う。このクラスだけ」
「この教室だけピンポイントに爆破させるつもりかよ」
「そうじゃない」
「じゃあ毒ガスとか――」
「だから違うってば!」
突然の怒号に、教室中がしんと静まり返った。俺も、一瞬何が起きたのかわからなくて、混乱する。だがすぐに気付く。クラスメイト全員の視線が、陽葵と、彼女の対面に座っていた俺に注がれている。痛い。人の視線は、俺にとって、どんなに鋭利な刃物よりも痛い。陽葵も、自分がしでかしてしまったことに気付いて、俯いて外界を遮断していた。
「……ちょっと廊下出るぞ」と小声で陽葵に耳打ちして、俺は席を立った。この雰囲気の教室はさすがに居づらい。だから、彼女を連れて廊下に出ることにした。
廊下に出ても、陽葵はまだ俯いたままだった。
「……なんで怒ってんの」
陽葵がここまで感情的になるのは、高校から出会った俺が知りうる限りでは、恐らく初めてのことだ。
「だって……」
まるで幼い子どもが、聞き分けなく駄々をこねているかのような、そんな声だった。
「どうなってるのか、知ってるんだろ。だったら話してくれよ」
陽葵は答えようとしない。しかし、その答えは予想外の方角から、すぐに返ってきた。
「千種からだよ」
俺の問いに返したのは陽葵ではなく、扉を開けて出て来た一人の男子生徒だった。
千葉遥太。この学校の生徒会書記で、俺や陽葵のクラスメイトだ。
俺達が教室を出て言ったのを気にしてやって来たのだろう。彼はお節介だ。
「何言ってんだよ。千種は、死んだだろ」
遥太は冷静な人間だ。この状況で、ふざけ半分で冗談を言うとは思えないが、だからといってそんな馬鹿げた話を受け入れられるわけがない。
千種が死んだのは紛れもない事実だ。葬儀にも出向いた。安らかに眠る彼女は、確かにまだ生きているのではないかと感じるほど、生前と変わらないように見えたが、周囲のすすり泣く声や、陽葵の泣き叫ぶ声が聞こえて、ああ彼女は死んだのだと、思い知らされた。
それなのに、まさか千種が生き返ったとでも? そんなことがあってたまるか。
「ああ、死んだよ。だからみんな混乱してるんじゃないか。死人からメールが届いたんだ」
「……どんなメールだったんだ」
「自分で見た方が早いと思うよ」
俺はもう一度スマホを取り出し、メールのアイコンをタップした。学校から送られてきた、夏休み明けにあるテストの確認用の連絡や、速度制限かかったことを知らせる通知などの一番上に、送信者不明のメールが一通、届いていた。
まさか、本当に……?
途端に恐怖が舞い込む。思わず、生唾を飲み込んだ。
俺は、小さく震える指先で、恐る恐る開いてみた。
『三年四組のみんなへ
私は、何者かの手によって殺されました。9月13日、文化祭最終日までに、私を殺した犯人をみんなの手で見つけ出してください。
斎藤千種』
「嘘……だろ……?」
まさしくそれは、千種からのメールだった。
「嘘じゃない」
メールには千種の名前が添えられているが、名前を偽ることなんて誰にでもできる。もしかしたら何者かが、混乱する俺達をからかっているのかもしれない。
けど……いや、違う。肝心なのはそこじゃない。この際メールの送信者など、些細な問題なのかもしれない。
千種が、殺された? 馬鹿な、彼女は自殺のはずだ。
「こんなの、誰かの悪戯だ」
「確かにその可能性は否めない。むしろそうでないとおかしい。不謹慎だけど、これは何者かの悪戯でなければいけないんだ」
信じられるわけがない。死人が自分を殺した犯人を見つけてほしいとメールを送るなど、ありえるはずがない。彼女が殺害されたなど、ありえるはずがない。
あの日の放課後、千種は一人で屋上に向かい、身を投げ出した。この学校の屋上は一応施錠されてはいるが、扉が老朽化していて、簡単に出入りができることを生徒達は知っていた。だから千種が屋上へ侵入するのは、容易いことだった。
千種が自殺をした動機はわからない。遺書が無かったのだ。彼女のスマホも、通学用に使っていた鞄も見当たらず、訣別の為にどこかへ捨てたのではないかとされた。事故という可能性は限りなく低いし、事件性もないため、結局千種の死は自殺として処理された。
改めて思い返してみると、どうも不可解なことが多すぎる。もし千種が殺されたのならば、殺害した後に犯人が彼女の所持品を持ち去った可能性だってある。所持品を焼き捨ててしまえば、証拠として残らない。それに何より、彼女が自殺をするような人間とは思えない。あんな明るい性格の人が、自殺をするなんて思えなかった。
これではどうしても、自殺はこじつけではないかと思ってしまう。
当時も俺は、千種の死は自殺なんかではないのではないかと疑っていた。だが警察は自殺と断定し、その後一切捜査はされなかった。捜査のプロがそう決め付けたのだから、素人の俺なんかが真似事をしても、手掛かりなんて出るはずがなかった。
彼女は自殺をした。いつの間にか俺も、それに納得してしまっていた。
「これはあくまでも可能性の一つとして捉えてほしいんだけど――」
遥太はそう前置きして、躊躇いつつも、こう言った。
「このメール、もしかしたら……尋がやったんじゃないかな」
尋。フルネームは、熊谷尋。俺らのクラスメイトだ。彼は千種が死んで以来、学校に来ていなかった。だがそれは仕方のないことだと思う。恐らく千種の一番身近にいたのは、彼だった。
だからこそ俺は、遥太のその一言に、彼の正気を疑った。
俺と陽葵、遥太、尋、そして千種は、一緒にいることが多かった。
学校というのはどうにも一人で生きるのに適さない環境らしく、クラス内には幾つかのグループが存在していた。とにかくウェイウェイしているグループ、イケメン数人と彼らを狙うことに必死な女子で形成されたグループ、仲良しなグループ、オタクのグループなどだ。そのどれにも属さずに、残ってしまった奴らが自然と集まってできたのが、俺達「サラダグループ」。趣味も性別も出身中学も違う、ただ拠り所を求めて出来上がっただけのグループだから、「サラダ」。名付け親は千種だ。うちの高校は三年間クラス替えが無いので、俺達は高校生活を共に過ごしてきた。
俺達のグループが出来たのは、高校に入学して数週間後にあった遠足の時だ。クラスの親睦を深めるために計画されたもので、五人ずつの班になって行動しなければならなかった。しかも自由に組んでいいとのこと。高校生にもなって何くだらないことやらせてるんだと思っていた俺は、当然誰とも組めないまま残り、そして同じく残っていた尋達と仕方なく組むことになった。
最初はその場限りの関係になるだろうと思っていた。だが、その先も共に過ごすことになったきっかけを作ったのが、千種だった。
「よかったらこれからも仲良くしようよ!」
千種のその言葉に異論を唱える者はいなかった。みんな口には出さないだけで、この関係のままでいることを望んでいたのだろう。俺も、悪い気はしなかった。
俺達の中で、千種だけは特別な存在だった。彼女が持ち合わせたスペックなら、こんな掃き溜めのようなグループに属さずに、もっと明るいグループにいてもいいはずだ。実際彼女は、男子からも女子からも人気がある。俺達とは根本から違っていた。
けれど、彼女は俺達といることを選んだ。理由はわからなかったが、それでもよかった。どうでもいいことだった。
ルックスや人当たりなら、遥太もかなりいい方だが、どうにも高いテンションに付いていけないらしい。俺達となら気楽でいやすいとのこと。
俺達の中でも、尋と千種は特に仲が良かった。前に陽葵が、二人は付き合ってるのか聞いたことがあった。二人は顔を合わせて、噴き出して、違うと否定した。だがその光景こそ、俺には互いが互いを意識しているから、自分の気持ちを相手に悟られたくないからそうしたのではないかと思った。
どの道付き合ってはいなくとも、二人は本当に仲が良かった。だから尋が、千種を失って誰よりも苦しんだはずの尋が、そんなことをするとは到底思えなかった。
「なんで尋がこんなことするんだよ。あいつならこんな、千種の死を冒涜するような真似なんてしないだろ」
別に尋のことを擁護したいわけじゃないが、遥太は憶測で完結させようとしている。それはあまりに傲慢ではないだろうか。
「あくまで可能性の話だよ。けれど、じゃあ、他に誰がこんなことをする?」
「他クラスの奴の悪戯かもしれないだろ」
「それこそ何のために? 無関係の人間の死を利用して、無関係である僕らをからかっても、そいつは何も利益なんて得られないんじゃないかい?」
正論だ。彼の言う通り、他クラスの奴が関与している可能性は限りなく低い。そんなことは俺だってわかっている。わかっているけれど、遥太の言うことに易々と納得することはできない。
こいつは――友人を疑っているのだ。
「あいつにだって、こんなメールを送り付ける理由なんてないはずだ」
思わず言葉に熱が入る。閉じた口の中で、奥歯を強く噛む。
「……僕だって、違うと信じたいさ」
遥太の目は真摯で、けれども声は悲痛だった。握った拳が震えている。
ふと、我に返った。
……ああ、何で俺、遥太にキレてんだろ。そんなの、何の意味もないのに。
そう冷静になると、自身の幼稚さに嫌気がさした。
大きく嘆息する。そして、ポケットからスマホを取り出して、LINEを開いた。トーク画面の上から三番目にあった尋のアイコンをタップし、通話ボタンを押して耳に当てた。
「何やってるの」
「直接聞くんだよ。尋に」
望みは薄いが、それが答えを知る最も手っ取り早い方法であり、唯一真実を知ることができる方法だ。
耳元で呼出音が鳴る。こうしていると、心臓の音もよく聞こえる。その二つは決して交わることなく、鼓動を続ける。四回目の呼出音が途切れたところで、それまで沈黙していた陽葵が口を開いた。
「無駄だよ。今までだってずっと音信不通だったじゃん。出るわけないよ」
そうかもしれない。尋は千種の葬儀にも現れず、それから俺達がいくら電話をかけても、彼の自宅に行ってみても、接触することはできなかった。
その後数十秒待ってみたが、いくら待てども、尋が出る気配はなかった。俺は仕方なく通話を終了し、スマホを戻した。
これでは手詰まりだ。一体どうやってメールの送信者を炙り出せばいいのだろう。それとも……本当に尋がこんなメールを送ったのだろうか。
……そう思ったまさにその瞬間だった。
俺を見る陽葵の目が、途端に何かまずいものでも見たかのように見開かれた。いや、正確に言うならば、その目は俺の頭を通過して、さらにその奥を見ていた。俺もつられるように彼女の目線の先を追い、背後を振り向き、そして見た。
そこには、彼がいた。その姿を捉えた時、反射的に鳥肌が立った。三か月ぶりに目にする彼は、心なしか以前よりも痩せこけて見え、髪もだらしなかった。そして何より目が、彼の目が鋭く光っていて、俺は自分の目を逸らせなかった。
「……尋」
やっとのことで彼の名前を呟く。口の中が渇いていたので、はっきり言えていたか不安になる。その直後に、俺の代わりに陽葵が「尋!」と彼に届くように叫ぶ。
尋は表情を一切変えないまま、一歩一歩、着実に俺達へと歩み寄って来た。やがて、俺の正面までやって来て、歩みを止めた。
尋は鼻から息を吸い、小さく吐き出すと同時に、吐いた。
「誰が千種を殺したんだよ」
重く静かな声だった。
額から流れ出た汗が、頬を伝う。拭うことすら躊躇われた。何て答えたらいいのかわからず、俺はしばらく固まっていた。
すると尋は突然はっとした表情をして、俺から一歩退き、左手で頭を掻きむしった。くしゃくしゃになった前髪の隙間から見える彼の目は、どこか虚ろだった。
「……いや、ごめん。……お前達に聞いても、仕方ないよな。どうかしてた」
「やっぱり、お前のところにも、メール届いたんだな」
「ああ」
やはりあのメールは尋の仕業ではなかった。彼の疑いが晴れたことに、俺はそっと胸を撫でおろした。だが逆に、尋のせいではないと証明されてしまったことにより、最も認め難い可能性が生まれてしまった。
千種は、本当に自殺ではなく、他殺なのだろうか。
「驚いたよ。同時に、怒りがこみあげてきた」
尋が憤るのも当然だ。こんなふざけたメールを送られて、千種が誰かに殺されたのかもしれないと告げられて、黙っていられるわけがない。
「念のため聞くけど、あのメールを送った奴に、心当たりはない?」
俺の隣にいた遥太が聞く。
「ないよ。あるわけがない」
「そう……そうだよね」
あったらそいつの所に行くはずだ。何も掴めていないから、さっきあんな風に問い詰めたのだろう。
「あのさ、皆に頼みたいことがある」
そう尋が言ったタイミングで、チャイムが鳴った。安っぽい音質のチャイムだ。
鳴り終わるのを待って、彼はもう一度口を開いた。
「放課後、図書室に来てほしい。そこで伝える」
「わかった。俺は行く」と俺はすぐに答えた。
俺の返事に続いて、遥太と陽葵も首を縦に振った。
「ありがとう。じゃあ、先生来る前に早く入ろう」
そう言って尋は、扉を開けた。やけに明るい声だった。
「ねえ、尋!」
呼び止めたのは陽葵だった。彼女は唇をきゅっと結んで、何かを堪えているような様子だった。
「何?」
陽葵は指先をもじもじとさせて、僅かに逡巡した後に「……あんまり、無理しないでよ」と、一言のみ告げた。
不安げな陽葵の言葉に、尋は薄っすらと笑みを浮かべ、「大丈夫だから」とだけ答えて、教室に入っていった。
その時、俺は見逃さなかった。振り返った後の尋の横顔がどこか寂しげで、けれど彼の眼差しが鋭く光っていたのを。
尋は、追い詰められている。そう思った。
とは言っても、まさか本当にここが、金網で全方位を囲まれた本物の鳥かごだというわけじゃない。ここにいるのはあくまでも人間だ。この場合は、「教室はまるで鳥かごのように騒がしかった」と言った方が正しいのかもしれない。言葉を発する鳥達が、閉鎖的な、狭苦しいこの空間に約四十も集まり、けたたましく鳴いている、そういう比喩だ。
ふと我に返ると、耳から外してぶら下げたままにしていたイヤホンから、通学中に聴いていた、お気に入りのロックバンドの曲が漏れていたことに気付いた。すぐさまスマホを操作して曲を停止し、イヤホンジャックからイヤホンを抜いて、それらをポケットに突っ込んだ。
今年の夏休みはいつもより少なかった。連日の台風の影響で休校が重なり、授業日数が足りないため、その分夏休みが短くなった。おかげで駅から学校までの道のりで、大量の汗をかく羽目になった。
手で汗を拭いながら、何気なく教室を見渡す。クラスメイト達は、それぞれ友人と会話をしていた。ただ、久しぶりに顔を合わせる友人達と楽しく談笑しているという雰囲気でもない。彼らの表情は皆一様に歪んでいた。
何かがあったのだと、俺はすぐに察した。
彼らの大半はスマホの画面を見て、そして顔を歪ませていた。
俺は鞄を机に置くと、彼らに倣い、スマホを取り出した。慣れた手つきでロックを解除すると、ホーム画面が表示された。けれどそこには、暇潰し用にインストールしたパズルゲームや一応入れて置いたSNS類、使い時がない標準搭載のアプリ、そして溜まりに溜まって、今では三百件にまで膨れ上がったメールなどと、見慣れたアプリケーションがあるだけだった。
関係ないのだろうか。そう思った俺は、スマホを机に置いて頬杖を付いた。すると周りの声が、嫌でも自然に耳に入ってきた。
「何これ気持ち悪くない?」
「どうせ誰かの悪戯だろ。くだらねーよ」
「おい誰だよこんなことした奴! 笑えねぇからな!」
何の話かはまだ見えない。しかし、確実に何かが起きている。彼らは、その何かに惑わされている。
そして、次に聞こえた言葉に、俺は思わず硬直してしまった。
「千種は、死んだはずでしょ?」
千種、斎藤千種。そうだ、彼女は、三か月前に死んだはずだ。どうして今、彼女の名前が……?
千種は、六月のある小雨が降る日に、学校の屋上から飛び降り自殺をした。当時学校には生徒がまだ何人か残っていた為、彼女が飛び降りる姿を、そして、地面に打ち付けられてぐちゃぐちゃになった彼女の死体を見た者は多い。
俺は実際に千種の死に際を見たわけではなかったが、その日の夜に、友人から彼女が自殺したと知らされた。
千種の死後一週間近くは、やはり様々な影響があった。大半は彼女の死を悼む声だったが、中には心無い言葉を口にする者もちらほらいた。ただ、三か月も経てば、誰も彼女のことを話さなくなった。当然と言えば当然かもしれない。人の死など、いつまでも話題に出すものじゃない。
それに、時間が経過すれば人は物事に興味を失う。それは人の死であっても同じだ。人気のあった彼女も、例外なく人々の記憶からは薄れる。人の記憶は残酷だ。
千種の死は、時間の波に揉まれて忘れ去られようとしていたはずだった。しかし、どういうわけか、今になって彼女の名前が出てきた。
何故なのだろうか。率直な疑問が、脳内をじわりじわりと飽和していく。
不思議に思っていると、誰かが「蓮!」と俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。声がした窓側の方に目を向ける。すると、ひとりの女子生徒が、焦燥感に満ちた表情で俺に駆け寄ってきていた。
「陽葵……どうしたんだよ。そんな顔して」
「どうしたのじゃない……ってか、見てないの?」
陽葵の顔からは、驚きと困惑が感じられた。
「何をだよ」と俺が言うと、陽葵は訝しむような顔で俺を見た。
「メール。今朝届いたでしょ」
「知らねーよ、通知切ってるし」
彼女は呆れた顔をして、溜め息をついた。俺から言わしてみれば、学校からの連絡かアプリの宣伝くらいしか通知が入らないのに、いちいち気にしてる方が異常だと思う。だがそれを言うとただでさえ危うい雰囲気が、さらに悪化してしまいそうなので言わないでおく。
「で、そのメールが何だってんだよ。もしかして学校に爆破予告でもされたわけ?」
「違う。このクラスだけ」
「この教室だけピンポイントに爆破させるつもりかよ」
「そうじゃない」
「じゃあ毒ガスとか――」
「だから違うってば!」
突然の怒号に、教室中がしんと静まり返った。俺も、一瞬何が起きたのかわからなくて、混乱する。だがすぐに気付く。クラスメイト全員の視線が、陽葵と、彼女の対面に座っていた俺に注がれている。痛い。人の視線は、俺にとって、どんなに鋭利な刃物よりも痛い。陽葵も、自分がしでかしてしまったことに気付いて、俯いて外界を遮断していた。
「……ちょっと廊下出るぞ」と小声で陽葵に耳打ちして、俺は席を立った。この雰囲気の教室はさすがに居づらい。だから、彼女を連れて廊下に出ることにした。
廊下に出ても、陽葵はまだ俯いたままだった。
「……なんで怒ってんの」
陽葵がここまで感情的になるのは、高校から出会った俺が知りうる限りでは、恐らく初めてのことだ。
「だって……」
まるで幼い子どもが、聞き分けなく駄々をこねているかのような、そんな声だった。
「どうなってるのか、知ってるんだろ。だったら話してくれよ」
陽葵は答えようとしない。しかし、その答えは予想外の方角から、すぐに返ってきた。
「千種からだよ」
俺の問いに返したのは陽葵ではなく、扉を開けて出て来た一人の男子生徒だった。
千葉遥太。この学校の生徒会書記で、俺や陽葵のクラスメイトだ。
俺達が教室を出て言ったのを気にしてやって来たのだろう。彼はお節介だ。
「何言ってんだよ。千種は、死んだだろ」
遥太は冷静な人間だ。この状況で、ふざけ半分で冗談を言うとは思えないが、だからといってそんな馬鹿げた話を受け入れられるわけがない。
千種が死んだのは紛れもない事実だ。葬儀にも出向いた。安らかに眠る彼女は、確かにまだ生きているのではないかと感じるほど、生前と変わらないように見えたが、周囲のすすり泣く声や、陽葵の泣き叫ぶ声が聞こえて、ああ彼女は死んだのだと、思い知らされた。
それなのに、まさか千種が生き返ったとでも? そんなことがあってたまるか。
「ああ、死んだよ。だからみんな混乱してるんじゃないか。死人からメールが届いたんだ」
「……どんなメールだったんだ」
「自分で見た方が早いと思うよ」
俺はもう一度スマホを取り出し、メールのアイコンをタップした。学校から送られてきた、夏休み明けにあるテストの確認用の連絡や、速度制限かかったことを知らせる通知などの一番上に、送信者不明のメールが一通、届いていた。
まさか、本当に……?
途端に恐怖が舞い込む。思わず、生唾を飲み込んだ。
俺は、小さく震える指先で、恐る恐る開いてみた。
『三年四組のみんなへ
私は、何者かの手によって殺されました。9月13日、文化祭最終日までに、私を殺した犯人をみんなの手で見つけ出してください。
斎藤千種』
「嘘……だろ……?」
まさしくそれは、千種からのメールだった。
「嘘じゃない」
メールには千種の名前が添えられているが、名前を偽ることなんて誰にでもできる。もしかしたら何者かが、混乱する俺達をからかっているのかもしれない。
けど……いや、違う。肝心なのはそこじゃない。この際メールの送信者など、些細な問題なのかもしれない。
千種が、殺された? 馬鹿な、彼女は自殺のはずだ。
「こんなの、誰かの悪戯だ」
「確かにその可能性は否めない。むしろそうでないとおかしい。不謹慎だけど、これは何者かの悪戯でなければいけないんだ」
信じられるわけがない。死人が自分を殺した犯人を見つけてほしいとメールを送るなど、ありえるはずがない。彼女が殺害されたなど、ありえるはずがない。
あの日の放課後、千種は一人で屋上に向かい、身を投げ出した。この学校の屋上は一応施錠されてはいるが、扉が老朽化していて、簡単に出入りができることを生徒達は知っていた。だから千種が屋上へ侵入するのは、容易いことだった。
千種が自殺をした動機はわからない。遺書が無かったのだ。彼女のスマホも、通学用に使っていた鞄も見当たらず、訣別の為にどこかへ捨てたのではないかとされた。事故という可能性は限りなく低いし、事件性もないため、結局千種の死は自殺として処理された。
改めて思い返してみると、どうも不可解なことが多すぎる。もし千種が殺されたのならば、殺害した後に犯人が彼女の所持品を持ち去った可能性だってある。所持品を焼き捨ててしまえば、証拠として残らない。それに何より、彼女が自殺をするような人間とは思えない。あんな明るい性格の人が、自殺をするなんて思えなかった。
これではどうしても、自殺はこじつけではないかと思ってしまう。
当時も俺は、千種の死は自殺なんかではないのではないかと疑っていた。だが警察は自殺と断定し、その後一切捜査はされなかった。捜査のプロがそう決め付けたのだから、素人の俺なんかが真似事をしても、手掛かりなんて出るはずがなかった。
彼女は自殺をした。いつの間にか俺も、それに納得してしまっていた。
「これはあくまでも可能性の一つとして捉えてほしいんだけど――」
遥太はそう前置きして、躊躇いつつも、こう言った。
「このメール、もしかしたら……尋がやったんじゃないかな」
尋。フルネームは、熊谷尋。俺らのクラスメイトだ。彼は千種が死んで以来、学校に来ていなかった。だがそれは仕方のないことだと思う。恐らく千種の一番身近にいたのは、彼だった。
だからこそ俺は、遥太のその一言に、彼の正気を疑った。
俺と陽葵、遥太、尋、そして千種は、一緒にいることが多かった。
学校というのはどうにも一人で生きるのに適さない環境らしく、クラス内には幾つかのグループが存在していた。とにかくウェイウェイしているグループ、イケメン数人と彼らを狙うことに必死な女子で形成されたグループ、仲良しなグループ、オタクのグループなどだ。そのどれにも属さずに、残ってしまった奴らが自然と集まってできたのが、俺達「サラダグループ」。趣味も性別も出身中学も違う、ただ拠り所を求めて出来上がっただけのグループだから、「サラダ」。名付け親は千種だ。うちの高校は三年間クラス替えが無いので、俺達は高校生活を共に過ごしてきた。
俺達のグループが出来たのは、高校に入学して数週間後にあった遠足の時だ。クラスの親睦を深めるために計画されたもので、五人ずつの班になって行動しなければならなかった。しかも自由に組んでいいとのこと。高校生にもなって何くだらないことやらせてるんだと思っていた俺は、当然誰とも組めないまま残り、そして同じく残っていた尋達と仕方なく組むことになった。
最初はその場限りの関係になるだろうと思っていた。だが、その先も共に過ごすことになったきっかけを作ったのが、千種だった。
「よかったらこれからも仲良くしようよ!」
千種のその言葉に異論を唱える者はいなかった。みんな口には出さないだけで、この関係のままでいることを望んでいたのだろう。俺も、悪い気はしなかった。
俺達の中で、千種だけは特別な存在だった。彼女が持ち合わせたスペックなら、こんな掃き溜めのようなグループに属さずに、もっと明るいグループにいてもいいはずだ。実際彼女は、男子からも女子からも人気がある。俺達とは根本から違っていた。
けれど、彼女は俺達といることを選んだ。理由はわからなかったが、それでもよかった。どうでもいいことだった。
ルックスや人当たりなら、遥太もかなりいい方だが、どうにも高いテンションに付いていけないらしい。俺達となら気楽でいやすいとのこと。
俺達の中でも、尋と千種は特に仲が良かった。前に陽葵が、二人は付き合ってるのか聞いたことがあった。二人は顔を合わせて、噴き出して、違うと否定した。だがその光景こそ、俺には互いが互いを意識しているから、自分の気持ちを相手に悟られたくないからそうしたのではないかと思った。
どの道付き合ってはいなくとも、二人は本当に仲が良かった。だから尋が、千種を失って誰よりも苦しんだはずの尋が、そんなことをするとは到底思えなかった。
「なんで尋がこんなことするんだよ。あいつならこんな、千種の死を冒涜するような真似なんてしないだろ」
別に尋のことを擁護したいわけじゃないが、遥太は憶測で完結させようとしている。それはあまりに傲慢ではないだろうか。
「あくまで可能性の話だよ。けれど、じゃあ、他に誰がこんなことをする?」
「他クラスの奴の悪戯かもしれないだろ」
「それこそ何のために? 無関係の人間の死を利用して、無関係である僕らをからかっても、そいつは何も利益なんて得られないんじゃないかい?」
正論だ。彼の言う通り、他クラスの奴が関与している可能性は限りなく低い。そんなことは俺だってわかっている。わかっているけれど、遥太の言うことに易々と納得することはできない。
こいつは――友人を疑っているのだ。
「あいつにだって、こんなメールを送り付ける理由なんてないはずだ」
思わず言葉に熱が入る。閉じた口の中で、奥歯を強く噛む。
「……僕だって、違うと信じたいさ」
遥太の目は真摯で、けれども声は悲痛だった。握った拳が震えている。
ふと、我に返った。
……ああ、何で俺、遥太にキレてんだろ。そんなの、何の意味もないのに。
そう冷静になると、自身の幼稚さに嫌気がさした。
大きく嘆息する。そして、ポケットからスマホを取り出して、LINEを開いた。トーク画面の上から三番目にあった尋のアイコンをタップし、通話ボタンを押して耳に当てた。
「何やってるの」
「直接聞くんだよ。尋に」
望みは薄いが、それが答えを知る最も手っ取り早い方法であり、唯一真実を知ることができる方法だ。
耳元で呼出音が鳴る。こうしていると、心臓の音もよく聞こえる。その二つは決して交わることなく、鼓動を続ける。四回目の呼出音が途切れたところで、それまで沈黙していた陽葵が口を開いた。
「無駄だよ。今までだってずっと音信不通だったじゃん。出るわけないよ」
そうかもしれない。尋は千種の葬儀にも現れず、それから俺達がいくら電話をかけても、彼の自宅に行ってみても、接触することはできなかった。
その後数十秒待ってみたが、いくら待てども、尋が出る気配はなかった。俺は仕方なく通話を終了し、スマホを戻した。
これでは手詰まりだ。一体どうやってメールの送信者を炙り出せばいいのだろう。それとも……本当に尋がこんなメールを送ったのだろうか。
……そう思ったまさにその瞬間だった。
俺を見る陽葵の目が、途端に何かまずいものでも見たかのように見開かれた。いや、正確に言うならば、その目は俺の頭を通過して、さらにその奥を見ていた。俺もつられるように彼女の目線の先を追い、背後を振り向き、そして見た。
そこには、彼がいた。その姿を捉えた時、反射的に鳥肌が立った。三か月ぶりに目にする彼は、心なしか以前よりも痩せこけて見え、髪もだらしなかった。そして何より目が、彼の目が鋭く光っていて、俺は自分の目を逸らせなかった。
「……尋」
やっとのことで彼の名前を呟く。口の中が渇いていたので、はっきり言えていたか不安になる。その直後に、俺の代わりに陽葵が「尋!」と彼に届くように叫ぶ。
尋は表情を一切変えないまま、一歩一歩、着実に俺達へと歩み寄って来た。やがて、俺の正面までやって来て、歩みを止めた。
尋は鼻から息を吸い、小さく吐き出すと同時に、吐いた。
「誰が千種を殺したんだよ」
重く静かな声だった。
額から流れ出た汗が、頬を伝う。拭うことすら躊躇われた。何て答えたらいいのかわからず、俺はしばらく固まっていた。
すると尋は突然はっとした表情をして、俺から一歩退き、左手で頭を掻きむしった。くしゃくしゃになった前髪の隙間から見える彼の目は、どこか虚ろだった。
「……いや、ごめん。……お前達に聞いても、仕方ないよな。どうかしてた」
「やっぱり、お前のところにも、メール届いたんだな」
「ああ」
やはりあのメールは尋の仕業ではなかった。彼の疑いが晴れたことに、俺はそっと胸を撫でおろした。だが逆に、尋のせいではないと証明されてしまったことにより、最も認め難い可能性が生まれてしまった。
千種は、本当に自殺ではなく、他殺なのだろうか。
「驚いたよ。同時に、怒りがこみあげてきた」
尋が憤るのも当然だ。こんなふざけたメールを送られて、千種が誰かに殺されたのかもしれないと告げられて、黙っていられるわけがない。
「念のため聞くけど、あのメールを送った奴に、心当たりはない?」
俺の隣にいた遥太が聞く。
「ないよ。あるわけがない」
「そう……そうだよね」
あったらそいつの所に行くはずだ。何も掴めていないから、さっきあんな風に問い詰めたのだろう。
「あのさ、皆に頼みたいことがある」
そう尋が言ったタイミングで、チャイムが鳴った。安っぽい音質のチャイムだ。
鳴り終わるのを待って、彼はもう一度口を開いた。
「放課後、図書室に来てほしい。そこで伝える」
「わかった。俺は行く」と俺はすぐに答えた。
俺の返事に続いて、遥太と陽葵も首を縦に振った。
「ありがとう。じゃあ、先生来る前に早く入ろう」
そう言って尋は、扉を開けた。やけに明るい声だった。
「ねえ、尋!」
呼び止めたのは陽葵だった。彼女は唇をきゅっと結んで、何かを堪えているような様子だった。
「何?」
陽葵は指先をもじもじとさせて、僅かに逡巡した後に「……あんまり、無理しないでよ」と、一言のみ告げた。
不安げな陽葵の言葉に、尋は薄っすらと笑みを浮かべ、「大丈夫だから」とだけ答えて、教室に入っていった。
その時、俺は見逃さなかった。振り返った後の尋の横顔がどこか寂しげで、けれど彼の眼差しが鋭く光っていたのを。
尋は、追い詰められている。そう思った。