しかし、もう彼女を責め立てるつもりはなかった。もうすべては済んだことなのだ。
私が彼女の肩を掴んで身体を起こさせると、ようやく彼女は私の瞳を見つめてくれた。
「かさちゃん、許してくれるの……?」
懇願するような目の彼女に、私はもみあげをかきあげながら答えた。
「許したわけじゃない。私は何があっても、あんたを恨み続ける。
だからこそ、こんなことしても無意味よ。もうやめて」
「そっか……。こんなんで許してもらおうなんて、虫が良過ぎるよね……」
さきは立ち上がり、もう一度「ごめんね」と呟いてトイレの出入り口から出ていこうとする。
その背はあまりに小さくて、『囲碁界の新星』とか『早碁女王』とか言われる天才少女の姿だとは思えなかった。
そんなちっぽけな彼女の右腕を、私は思いっ切りの力を込めて掴んだ。
「待ちなさいよ」
「か、かさちゃん……?」
驚いたように振り返る彼女に、私は言い放つ。
「話すことはないとは言ったけど、もう用はないとは言ってないわよ」
「え……? それってどういう……?」
「私たちの青春は、モノクロだった。そうでしょう、さき?
言葉を交わすよりもずっと深く互いの想いを伝えられる方法が私たちにはあるんじゃないかしら。
それをしないで終わりになんてさせないわよ。今から私と一局打ちなさい! もちろん互先で!!」
「う、うん……! 分かったよ、かさちゃん!!」
彼女の表情がぱっと明るくなる。久しぶりにさきの笑顔を見た気がする。
私たちは、今でも親友だ。だからこそ今ここで戦わなくっちゃ、一生後悔する!!
「……あと、ちゃんと手を洗っていきなさいよ。ついでに顔もね。
というか、あんたトイレ流してないでしょ。そのまま行ったらまずいでしょ」
「あ、はい、ごめ……。顔怖いよ、かさちゃん!」
諸々の用事を済ませて、私たちはお客さん用の対局室に足を踏み入れた。
そして受付を済ませると私は周りの目を気にすることもなく、堂々と真ん中あたりの席に陣取った。
「ここでいいの? 他にも使える部屋はあると思うけど」
「ここであんたをボコボコにすれば、お客さんがその証人になってくれるでしょう?」
「えっ!?」
先程の笑顔はどこへやら、さきの顔は一気に青ざめた。……今のは冗談のつもりだったんだけど。
面白いから、とりあえずそのままにしておく。それよりもひとつ釘を刺しておかなくちゃいけないことがある。
「戦う前にひとつだけ言っておくわ」
「う、うん……」
「もしこの一局であんたが手を抜いたら、……いいえ、手を抜くのはギリギリ許してやるわ。
手を抜いたうえで負けたら私はもう二度とあんたのことを親友だとは思わない。それは覚悟してちょうだい」
「……つまり今は親友だと思ってくれてるってこと?」
「そんな風に考えられるなら、問題なさそうね」
「そうだね……。私はこの一局で手を抜くつもりなんて一切ない。
むしろ私はこれをタイトル戦の挑戦手合だと思って打ってみるよ」
「ありがとう、さき。それでこそ私の親友だわ」
私はお礼を言いながら、そっと微笑んだ。
日本棋院の営業終了時間まで、それほど余裕はない。
私は対局時計の持ち時間を30分切れ負けの設定にする。それを使い果たせば、その時点で時間切れ負けということだ。
「いいの? 私、早碁女王だよ?」
「ここぞというところで長考されるほうが厄介だわ。
時間に追われてミスしてくれれば、私にもチャンスはある」
「あはは、計算高いなあ、かさちゃんは」
お互い笑顔を見せるのはここまでだ。ここから先は真剣勝負の世界なのだから。
ニギリの結果、さきが黒番、私が白番になった。――さき相手に私が白を持つのは何年振りのことだっけ。
いや、細かいことを考えるのももうやめよう。雑念に捉われた状態で勝てる相手では決してないのだから。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
ぱちり! 対局の挨拶を終えた直後、景気のいい石音が室内に響き渡る。
さきが放った初手は右上隅小目だった。すでに彼女の中にはいくつかの想定図が浮かんでいることだろう。
彼女はその中から自分の勝率が高い図を選んで、そこに行きつくようにどうにかして私の手を誘導しようとするだろう。
……でもね、さき。私はあんたの手の内は知り尽くしている。あんたがどういう展開を好むのかは分かっている。
小さい頃から院生になるまでずっと打ち続けてきたし、プロになってからのあんたの棋譜も何百回も何千回も並べてきた。
それはいつか、あなたとプロの世界で戦うときのため……。こんな形で戦うことになるとは思っていなかった。
でも、こんな形だからこそ、私は絶対にあんたに負けたくないと強く思う。この碁は絶対に、あんたの好きな展開にはさせない!
●●●●●●●●
打ち始めて少し経ってから、どうにも違和感がある。私の狙いがすべてかさちゃんに潰されてるような気がする。
まさかすべて研究済みだと言うの? そもそも私の知るかさちゃんの棋風はこんな感じではなかったはずだ。
本来のかさちゃんはもっと堅実で確実に地を稼いでいくスタイルだ。
でも、これはただただ私の好む布石にはさせないための打ち方だ。かさちゃんがこんなにもいやらしい打ち方をしてくるのは初めて見る。
私が打ちたい場所に先回りして手を入れる。あるいは、そこに打つ意味が薄くなるように打ち回している。
これは何が何でも私を困らせたいということだ。……なるほどね。いいよ、かさちゃん。
あなたが全力で勝ちに来るのならば、私はその一歩上を行く!!
○○○○○○○○
『けどよ、手の内を知り尽くした相手と打っているばかりじゃ、井の中の蛙ってもんだぜ』
私は哲さんの言葉を思い出していた。
私にとってさきは、手の内を知り尽くした相手だ。そんな彼女に勝つためだけに、私はこんな無茶な打ち回しをしている。
普段の私ならば、絶対に選ばないような手ばかりを打って、さきを困らせることだけを考えている打ち方だ。そんなのは、分かってる!
……すみません、哲さん。私は井の中の蛙でいい。今ここで、さきを倒せればそれでいい!!
●●●●●●●●
甘いね、かさちゃん。私の狙いを潰すだけじゃ有利な碁にはならないよ。
あなたの打つ一手一手は少しずつ最善手とはズレている。
確かに私は思惑通りの展開にできないでいるけれど、そんな風に打ったところでかさちゃんが得をしているわけではない。
盤面をよく見なよ。結局のところ、形勢は徐々に私のほうに傾いていっているよ?
○○○○○○○○
それでいい。この打ち方はあくまで序盤に大きく離されないようにするためのもの。
私は別に形勢がこちらに有利になるように打っているわけじゃない。多少の不利は覚悟の上だ。
「おい、あれ早川プロじゃないか?」
「本当だ。ありゃ誰と打ってるんだ? 知らない顔だな」
ギャラリーも徐々に集まってきた。気にせずそのまま打ち続けていると、いつの間にか人だかりになっていた。
●●●●●●●●
いいね、最高の舞台が整ってきた。こんな熱い戦いは私たちふたりだけで楽しむのは勿体ない。
私が彼女の肩を掴んで身体を起こさせると、ようやく彼女は私の瞳を見つめてくれた。
「かさちゃん、許してくれるの……?」
懇願するような目の彼女に、私はもみあげをかきあげながら答えた。
「許したわけじゃない。私は何があっても、あんたを恨み続ける。
だからこそ、こんなことしても無意味よ。もうやめて」
「そっか……。こんなんで許してもらおうなんて、虫が良過ぎるよね……」
さきは立ち上がり、もう一度「ごめんね」と呟いてトイレの出入り口から出ていこうとする。
その背はあまりに小さくて、『囲碁界の新星』とか『早碁女王』とか言われる天才少女の姿だとは思えなかった。
そんなちっぽけな彼女の右腕を、私は思いっ切りの力を込めて掴んだ。
「待ちなさいよ」
「か、かさちゃん……?」
驚いたように振り返る彼女に、私は言い放つ。
「話すことはないとは言ったけど、もう用はないとは言ってないわよ」
「え……? それってどういう……?」
「私たちの青春は、モノクロだった。そうでしょう、さき?
言葉を交わすよりもずっと深く互いの想いを伝えられる方法が私たちにはあるんじゃないかしら。
それをしないで終わりになんてさせないわよ。今から私と一局打ちなさい! もちろん互先で!!」
「う、うん……! 分かったよ、かさちゃん!!」
彼女の表情がぱっと明るくなる。久しぶりにさきの笑顔を見た気がする。
私たちは、今でも親友だ。だからこそ今ここで戦わなくっちゃ、一生後悔する!!
「……あと、ちゃんと手を洗っていきなさいよ。ついでに顔もね。
というか、あんたトイレ流してないでしょ。そのまま行ったらまずいでしょ」
「あ、はい、ごめ……。顔怖いよ、かさちゃん!」
諸々の用事を済ませて、私たちはお客さん用の対局室に足を踏み入れた。
そして受付を済ませると私は周りの目を気にすることもなく、堂々と真ん中あたりの席に陣取った。
「ここでいいの? 他にも使える部屋はあると思うけど」
「ここであんたをボコボコにすれば、お客さんがその証人になってくれるでしょう?」
「えっ!?」
先程の笑顔はどこへやら、さきの顔は一気に青ざめた。……今のは冗談のつもりだったんだけど。
面白いから、とりあえずそのままにしておく。それよりもひとつ釘を刺しておかなくちゃいけないことがある。
「戦う前にひとつだけ言っておくわ」
「う、うん……」
「もしこの一局であんたが手を抜いたら、……いいえ、手を抜くのはギリギリ許してやるわ。
手を抜いたうえで負けたら私はもう二度とあんたのことを親友だとは思わない。それは覚悟してちょうだい」
「……つまり今は親友だと思ってくれてるってこと?」
「そんな風に考えられるなら、問題なさそうね」
「そうだね……。私はこの一局で手を抜くつもりなんて一切ない。
むしろ私はこれをタイトル戦の挑戦手合だと思って打ってみるよ」
「ありがとう、さき。それでこそ私の親友だわ」
私はお礼を言いながら、そっと微笑んだ。
日本棋院の営業終了時間まで、それほど余裕はない。
私は対局時計の持ち時間を30分切れ負けの設定にする。それを使い果たせば、その時点で時間切れ負けということだ。
「いいの? 私、早碁女王だよ?」
「ここぞというところで長考されるほうが厄介だわ。
時間に追われてミスしてくれれば、私にもチャンスはある」
「あはは、計算高いなあ、かさちゃんは」
お互い笑顔を見せるのはここまでだ。ここから先は真剣勝負の世界なのだから。
ニギリの結果、さきが黒番、私が白番になった。――さき相手に私が白を持つのは何年振りのことだっけ。
いや、細かいことを考えるのももうやめよう。雑念に捉われた状態で勝てる相手では決してないのだから。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
ぱちり! 対局の挨拶を終えた直後、景気のいい石音が室内に響き渡る。
さきが放った初手は右上隅小目だった。すでに彼女の中にはいくつかの想定図が浮かんでいることだろう。
彼女はその中から自分の勝率が高い図を選んで、そこに行きつくようにどうにかして私の手を誘導しようとするだろう。
……でもね、さき。私はあんたの手の内は知り尽くしている。あんたがどういう展開を好むのかは分かっている。
小さい頃から院生になるまでずっと打ち続けてきたし、プロになってからのあんたの棋譜も何百回も何千回も並べてきた。
それはいつか、あなたとプロの世界で戦うときのため……。こんな形で戦うことになるとは思っていなかった。
でも、こんな形だからこそ、私は絶対にあんたに負けたくないと強く思う。この碁は絶対に、あんたの好きな展開にはさせない!
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打ち始めて少し経ってから、どうにも違和感がある。私の狙いがすべてかさちゃんに潰されてるような気がする。
まさかすべて研究済みだと言うの? そもそも私の知るかさちゃんの棋風はこんな感じではなかったはずだ。
本来のかさちゃんはもっと堅実で確実に地を稼いでいくスタイルだ。
でも、これはただただ私の好む布石にはさせないための打ち方だ。かさちゃんがこんなにもいやらしい打ち方をしてくるのは初めて見る。
私が打ちたい場所に先回りして手を入れる。あるいは、そこに打つ意味が薄くなるように打ち回している。
これは何が何でも私を困らせたいということだ。……なるほどね。いいよ、かさちゃん。
あなたが全力で勝ちに来るのならば、私はその一歩上を行く!!
○○○○○○○○
『けどよ、手の内を知り尽くした相手と打っているばかりじゃ、井の中の蛙ってもんだぜ』
私は哲さんの言葉を思い出していた。
私にとってさきは、手の内を知り尽くした相手だ。そんな彼女に勝つためだけに、私はこんな無茶な打ち回しをしている。
普段の私ならば、絶対に選ばないような手ばかりを打って、さきを困らせることだけを考えている打ち方だ。そんなのは、分かってる!
……すみません、哲さん。私は井の中の蛙でいい。今ここで、さきを倒せればそれでいい!!
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甘いね、かさちゃん。私の狙いを潰すだけじゃ有利な碁にはならないよ。
あなたの打つ一手一手は少しずつ最善手とはズレている。
確かに私は思惑通りの展開にできないでいるけれど、そんな風に打ったところでかさちゃんが得をしているわけではない。
盤面をよく見なよ。結局のところ、形勢は徐々に私のほうに傾いていっているよ?
○○○○○○○○
それでいい。この打ち方はあくまで序盤に大きく離されないようにするためのもの。
私は別に形勢がこちらに有利になるように打っているわけじゃない。多少の不利は覚悟の上だ。
「おい、あれ早川プロじゃないか?」
「本当だ。ありゃ誰と打ってるんだ? 知らない顔だな」
ギャラリーも徐々に集まってきた。気にせずそのまま打ち続けていると、いつの間にか人だかりになっていた。
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いいね、最高の舞台が整ってきた。こんな熱い戦いは私たちふたりだけで楽しむのは勿体ない。