忘れるはずもない雑居ビルには、囲碁カフェ『哲千(てっせん)』の看板が取り付けられていた。
 それは千鶴子さんが4年ほど前に開いたお店の看板だ。碁会所の頃のお客さんだけじゃなく、若い人にも人気で大変賑わっていると聞いている。
 伝聞系なのは、私はプロになるまではここには足を踏み入れないようにしようと考えていたからだ。
 千鶴子さんと喫茶店で会ったとき、さきの言葉につられて遊びに行くと宣言していたから申し訳ないけれど、一度でもここに来ていたら居心地が良過ぎて居座ってしまっていたかもしれない。
 一方、さきは院生の頃からよく遊びに来ているらしく、楽しそうにお店の様子を私に話してくれたのを覚えている。
 ……それは過去形にする必要はないか。さきとはすっかり疎遠になってしまったけれど、もう全く連絡を取り合っていないというわけではない。
 彼女とはまだ親友のはずだ。まだ……。


「かさちゃん……?」
 どこからか微かな声がする。それは聞き覚えのある懐かしい声だった。
 だけど、周りを見回してもその声の主は見つからない。しかし、やがてコンクリートの階段から誰かが降りてくる。
 空耳かと思ったその声は頭上の窓から聞こえてきたものだったのだ。
 その動きはゆっくりしていたけれど、私は不意にかけられた声に戸惑って逃げそびれてしまった。
「やっぱり! あなた、かさちゃんよね? 大きくなったわねえ」
「千鶴子さん……、お久しぶりです」
「ええ、ええ……、本当に……」
 そこにいたのはお団子頭の優しそうなおばあさん、千鶴子さんだった。
 相変わらず背中は少し曲がっているけれど、思ってた以上に元気そうだった。
 4年半も会っていなかったから身体を壊していないかは心配していたけれど、むしろ前より若返ったような気がする。

 どうしよう……。今からでも逃げ出してしまおうか。
 この数年間何をしていたのか訊ねられても困ってしまう。さきと違って私は何もしてなかったのと同義だ。
「おーい、かさちゃん! こっちに上がってきなー!」
 今度はおじいさんの声。見上げると囲碁カフェの窓の向こう側におじいさんたちが集まっていた。
 みんな哲さんの碁会所の常連客だった人たちだ。千鶴子さんが私に気付いてから、すぐに彼らも私の存在に気付いたのだろう。
 はあ……、仕方ないか……。こうなるともう観念してお店に入るしかなさそうだった。


「お、お邪魔します……」
 千鶴子さんに案内されて、囲碁カフェの扉を通り抜ける。その先には懐かしい顔が揃っていた。
 碁会所から囲碁カフェに変わっても、相変わらずここはおじいさんたちの溜まり場になっているようだった。
 もちろん他にも知らないお客さんもいて、一体何事かとこちらの様子を窺っている人もいた。
「よう、かさちゃん! 随分とべっぴんさんになったなあ!」
「寂しいじゃねえかよ! たまには顔見せに来てくれなきゃよお」
「かさちゃんは俺たちのアイドルだからよ、心配してたんだぜ!」
「コーヒーでも飲むか、かさちゃん! 千鶴子さん、俺の奢りでコーヒー出してやってくれよ!」
「あ、ええっと、すみません……!」
 私がお店に入った途端、いっぺんに話しかけてくるものだから、頭が混乱してしまった。
 それに、ただでさえむさくるしいおじいさんたちが密集していると、なんとも圧力が凄いというか……。

「ほれほれ、そんな一気に話しかけても応えられるわけないがね。
 こっちに座ってゆっくりしていきなさい、かさちゃん」
「あ、ありがとうございます……」
 千鶴子さんの助け舟のおかげで、なんとかテーブル席の椅子に腰かけることはできた。
 だけど、それでのんびりさせてもらえるわけもなく、また別のおじさんがやってきた。
 この人は碁会所の中でもかなり強かった。一応、六段の免状を持っていると聞いたことがある。

「久しぶりだなあ、かさちゃん。元気にしとったか?」
「あ、ええ……、おかげさまで」
「なんだなんだ、言葉のわりには表情が固いなあ!
 よっしゃ、ここは景気づけに俺と一局打つか!
 おーい、千鶴子さん、碁盤出してくれよ! こっちだこっち!」
「はいはい、ちょっと待っててちょうだい」
 おじさんは私の返事も聞かず、テーブルの向こう側の席に腰かけた。――と同時に、ギャラリーも何人か集まってきた。
 強引だけど、余計なことは訊かないでくれているのはありがたい。単に一局打つくらいなら、なんの問題もない。


「置き石はいくつ置きますか? 三子? それとも四子?」
「おいおい、大きく出たな、かさちゃん。
 俺の実力を忘れちまったのかい? そりゃてっちゃんやさきちゃんほどじゃないけどよ」
「そりゃ今じゃさきちゃんは雲の上の人だもんな。
 おっと、てっちゃんもある意味もう雲の上か!」
「いやいや、てっちゃんは地獄行きじゃねえか? わっはっは!」
「あ、あはは……」
 おじいさんたちのブラックジョークには正直なところついていけない。私は渇いた笑いをするのが精一杯だった。

「しかし、俺のことを甘く見てもらっちゃ困るな、かさちゃん。
 どれほど強くなったか知らねえが、俺の腕だって鈍っちゃいねえぞ。
 ということで、そうだな……。よし、五子置かせてもらうか!!」
「っておい! 置き石増やすのかよ!
 それにいくら天下の院生様でも五子の置き碁なんてのは――」
 ああ、こういうおふざけのノリも懐かしいな。でも――、
「別に。いいですよ、五子でも」
 私の一言で空気ががらりと変わった。
 最初おじいさんたちは私が冗談を言ってるとでも思ったらしいが、すぐに弛緩した雰囲気が一気に引き締まった。

「おいおい、冗談だよ冗談。
 現実四子でもかなりきついだろう? 三子でいいよ」
「あなたこそ、私のこと甘く見ないでもらえますか?
 三子なら楽勝、四子でもまず勝てます。五子局ならまあどうにか五分ってところだと思いますよ」
「……ほほう。変わっちまったな、かさちゃん。
 もちろんいい意味でだぜ? だがな、そこまで言われちゃこっちも手加減なしだ。
 大口叩いた以上、負けたら恥ずかしいぜえ?」
「いいですよ、望むところです!」


 そうしておじさんとの対局が始まったが、私は自分の神経が研ぎ澄まされるような感覚を感じていた。
 私の中に冷静な私もいて、本当に勝てるつもりでいるのかと問いかけてくる。だけど、私は迷いなくこう答えた。
「大丈夫。今なら勝てる」
 その言葉は、現実に存在するものしか見えていない人たちの耳には届かない。
 今の私に見えているのは目の前の碁盤じゃない。――宇宙だ。
 肉の檻から解放された私は精神体となって、そこへ飛び込む。
 星々が煌めく空間の中、私はこの上なく冴えた一手を打ち続けた。
 読むべきは次の一手じゃない。この宇宙がどんな結末を迎えるのかだ。
 それを理解すればおのずと正着は導き出される。私は宇宙の真理を解き明かしながら、勝利までの道を逆算した。
 故にその決着は勝負の結果じゃない。たどり着くべくしてたどり着いた必然の帰結であった。

「こ、ここまでか……」