私のせいでお母さんとお父さんが喧嘩する声なんて、これ以上聞きたくなかった。
代わりにお母さんの驚いたような声が聞こえてきた。
「かさね!? 帰ってきたの!?
ねえ、かさね聞いてちょうだい! お父さんもあなたのことが心配で――」
次の瞬間、私はベッドに飛び込み、頭まで覆い隠すように布団をかぶった。
聞こえない聞こえない、何も聞こえない。
悲鳴にも似たお母さんの金切り声も、冷酷なほど鋭いお父さんの言葉も、心臓が刻む鼓動の音でさえも。――今は。
「プロを諦める? ……それは師匠の横山先生にも話したことかい?」
「いえ、先に大林先生にお話しするほうが筋かと思いまして。
院生も今月末で辞めるつもりですし」
プロ試験が終わった翌月の12月、私は土曜の院生研修のあとに大林先生にそう打ち明けた。――プロ試験の結果は言うまでもない。
ただ、私はまだ来年の3月までは院生でいられる。満17歳を迎える年度になっても勉強のために院生を3月まで続けたあとに、外来としてもう一度プロ試験を受ける人も少なくない。
でも私にはそんなことは考えていなかった。プロを諦めるのに院生を続ける理由はないだろう。
碁会所を開いたり、囲碁のインストラクターや観戦記者になったりする道もあるが、それも考えてはいなかった。
「……そうか」
大林先生はしばらく黙って私の目を見つめていたけど、やがて静かに口を開いた。
「まあ、君が決めたことだ。師匠でもない僕がどうこう言える問題じゃないだろう。
しかし、ひとつだけ言わせてもらうならば――」
「なんですか?」
まるで勿体ぶるようにそこで一呼吸置いた大林先生の言葉の続きを私は促した。
「君は着実に実力を伸ばしている。僕は自分の見る目が間違っていたとは思っていない」
「……私、未だにAクラスに上がったこともないんですよ?
はっきり言ってください。私には才能がないって」
「そんなことはない。はっきり言えば、君がここぞというところで勝ちを逃すのは精神的に未熟だからだ。
才能が足りなくてプロに届かないわけでは決してない」
「……………………」
どちらにしたって、同じことだろう。プロになるためには足りないものが私にはあるということだ。
――当然だ。私には決意も覚悟も信念も、何もかもが欠けているのだから。
「そうですね。そもそも私はプロになんて、別になりたくありませんから。
他の受験生に精神面で負けているのは当たり前のことだと思います」
「しかし、それでも君がここまで頑張ってきたのには理由があるのだろう?
この間の週刊碁に載ったさきくんが名人戦リーグ入りした直後のインタビュー記事は読んだかい?」
「私がプロを諦めるのと、さきの名人戦リーグ入りになんの関係が?
すみませんけど、相談しに来たわけじゃないんです。これで失礼します……」
私はそう言い残して、その場を立ち去ろうとする。その背を大林先生は呼び止めようとした。
「待ちたまえ、かさねくん! まだ僕の話は――」
しつこい。バッグを掴んで研修部屋から廊下に飛び出した私は閉まりかけていた下りのエレベーターに駆け込む。
さきが何を言ったのかは知らないが、今の私にとってはどうでもいいことだった。大林先生も追いかけてはこないようだった。
帰りの電車に揺られながら私は昔のことを思い返していた。
あれはそう、小学2年生の頃の昼休みのときだった。
「何読んでるの、雨宮さん!」
太陽のように明るいさきの笑顔は今でも鮮明に覚えている。
校庭で男の子に混じってドッジボールで遊んでいたはずの彼女は、いつの間にか私が読書する姿を覗き込んでいた。
「……これ」
言葉で説明するのが煩わしかった私は表紙を彼女のほうに向けた。
「えーっと、それって事件の謎を解いたりするやつでしょ!
うわー、難しそうな本! やっぱり雨宮さんって頭いいんだね!」
「やっぱりって?」
「だって、雨宮さんって難しそうな本を読んでるから、頭いいのかなって」
……なんだろう、微妙に解答になってないような気がする。
難しそうな本を読んでるから頭いいのかなと思って、難しそうな本を読んでるから頭いいのだと納得した……?
まあ細かいことは気にしても仕方ないだろう。とにかくよく分からないが、ひとつ言えるのは彼女は私に興味を持っているということだ。
私はひとりでいるのが好きだけど、別に友達が欲しくないわけじゃない。だから、その好意を素直に受け入れることにした。
「……かさね」
「ん?」
「私の、下の名前。雨宮って名字、あんまり好きじゃないから、下の名前で呼んで」
「えー! 雨宮っていい名前なのに!
でも、下の名前で呼んで欲しいなら、そうするね!
かさにゃ、……じゃなくって、かさにぇ――」
「……言いにくいなら、かさちゃんでいい」
「分かった! それじゃ、かさちゃん。
私のことは、さきちゃんって呼んでね!」
それが私の心に残る、あの日の記憶。それを思い出すといつだって、胸がぽかぽかと温かくなるのだ。
それから私たちは一緒に登下校するようになって、無二の親友になったのだった。
「次は××駅、××駅。お降りの方はお忘れ物のないように――」
ぼんやりとし過ぎたのか、いつの間にか私は電車の中で眠りこけていたらしい。
駅員さんのアナウンスで温かな夢の世界から抜け出した。
そろそろ自宅からの最寄り駅につく頃合いだと思うけど、確か××駅って――。
あれ……、ちょっと待って……? 最寄り駅もう過ぎてない? ――嘘、寝過ごした!?
電車が駅に到着し扉が開くと、私は慌ててホームに出た。駅の案内を見ると、やはり一駅先まで来てしまったようだ。
……でもまあ、いいか。ここから歩いて帰ったって、それほど距離は変わらないはずだ。
ついでに本屋に寄って参考書を買おう。今から必死に勉強すれば、きっと大学受験にはなんとか間に合う。
「あれ……? 本屋ってこのあたりになかったっけ?」
中学の頃よく通っていた本屋がどうしても見つからない。久しぶりに来るとは言え、道を間違えたとは思えないんだけど……。
もしかして閉店しちゃったのかな。だとすると、この近くで他に本屋ってどこにあったかな。
別にまた今度にすればいいのに、私は意固地になってスマホで地図案内を見ながら別の本屋を探して歩き出す。
どうせ急いで帰ったってもう囲碁の勉強をやるつもりもない。適当にぶらついて帰ったって罰は当たらないだろう。
気が早いもので、街に並ぶお店のいくつかはすでにクリスマスムードになっていた。
……そう言えば、このあたりって小学生の頃、さきと一緒に登下校した通り道だったっけ。
暑い夏にはソフトクリームを食べながら並んで歩いたこともあるし、寒い冬にはふざけながら雪をぶつけ合って遊んだこともある。
潰れたお店や新しくできたお店があって、思い出の中の街並みとは少しだけ違うけれど、私は懐旧の念に駆られながらのんびりと歩いた。
しかし、私は本屋を探し求める途中、ある場所にたどり着くとぴたりと立ち止まった。
「ここって哲さんの碁会所があった……」
代わりにお母さんの驚いたような声が聞こえてきた。
「かさね!? 帰ってきたの!?
ねえ、かさね聞いてちょうだい! お父さんもあなたのことが心配で――」
次の瞬間、私はベッドに飛び込み、頭まで覆い隠すように布団をかぶった。
聞こえない聞こえない、何も聞こえない。
悲鳴にも似たお母さんの金切り声も、冷酷なほど鋭いお父さんの言葉も、心臓が刻む鼓動の音でさえも。――今は。
「プロを諦める? ……それは師匠の横山先生にも話したことかい?」
「いえ、先に大林先生にお話しするほうが筋かと思いまして。
院生も今月末で辞めるつもりですし」
プロ試験が終わった翌月の12月、私は土曜の院生研修のあとに大林先生にそう打ち明けた。――プロ試験の結果は言うまでもない。
ただ、私はまだ来年の3月までは院生でいられる。満17歳を迎える年度になっても勉強のために院生を3月まで続けたあとに、外来としてもう一度プロ試験を受ける人も少なくない。
でも私にはそんなことは考えていなかった。プロを諦めるのに院生を続ける理由はないだろう。
碁会所を開いたり、囲碁のインストラクターや観戦記者になったりする道もあるが、それも考えてはいなかった。
「……そうか」
大林先生はしばらく黙って私の目を見つめていたけど、やがて静かに口を開いた。
「まあ、君が決めたことだ。師匠でもない僕がどうこう言える問題じゃないだろう。
しかし、ひとつだけ言わせてもらうならば――」
「なんですか?」
まるで勿体ぶるようにそこで一呼吸置いた大林先生の言葉の続きを私は促した。
「君は着実に実力を伸ばしている。僕は自分の見る目が間違っていたとは思っていない」
「……私、未だにAクラスに上がったこともないんですよ?
はっきり言ってください。私には才能がないって」
「そんなことはない。はっきり言えば、君がここぞというところで勝ちを逃すのは精神的に未熟だからだ。
才能が足りなくてプロに届かないわけでは決してない」
「……………………」
どちらにしたって、同じことだろう。プロになるためには足りないものが私にはあるということだ。
――当然だ。私には決意も覚悟も信念も、何もかもが欠けているのだから。
「そうですね。そもそも私はプロになんて、別になりたくありませんから。
他の受験生に精神面で負けているのは当たり前のことだと思います」
「しかし、それでも君がここまで頑張ってきたのには理由があるのだろう?
この間の週刊碁に載ったさきくんが名人戦リーグ入りした直後のインタビュー記事は読んだかい?」
「私がプロを諦めるのと、さきの名人戦リーグ入りになんの関係が?
すみませんけど、相談しに来たわけじゃないんです。これで失礼します……」
私はそう言い残して、その場を立ち去ろうとする。その背を大林先生は呼び止めようとした。
「待ちたまえ、かさねくん! まだ僕の話は――」
しつこい。バッグを掴んで研修部屋から廊下に飛び出した私は閉まりかけていた下りのエレベーターに駆け込む。
さきが何を言ったのかは知らないが、今の私にとってはどうでもいいことだった。大林先生も追いかけてはこないようだった。
帰りの電車に揺られながら私は昔のことを思い返していた。
あれはそう、小学2年生の頃の昼休みのときだった。
「何読んでるの、雨宮さん!」
太陽のように明るいさきの笑顔は今でも鮮明に覚えている。
校庭で男の子に混じってドッジボールで遊んでいたはずの彼女は、いつの間にか私が読書する姿を覗き込んでいた。
「……これ」
言葉で説明するのが煩わしかった私は表紙を彼女のほうに向けた。
「えーっと、それって事件の謎を解いたりするやつでしょ!
うわー、難しそうな本! やっぱり雨宮さんって頭いいんだね!」
「やっぱりって?」
「だって、雨宮さんって難しそうな本を読んでるから、頭いいのかなって」
……なんだろう、微妙に解答になってないような気がする。
難しそうな本を読んでるから頭いいのかなと思って、難しそうな本を読んでるから頭いいのだと納得した……?
まあ細かいことは気にしても仕方ないだろう。とにかくよく分からないが、ひとつ言えるのは彼女は私に興味を持っているということだ。
私はひとりでいるのが好きだけど、別に友達が欲しくないわけじゃない。だから、その好意を素直に受け入れることにした。
「……かさね」
「ん?」
「私の、下の名前。雨宮って名字、あんまり好きじゃないから、下の名前で呼んで」
「えー! 雨宮っていい名前なのに!
でも、下の名前で呼んで欲しいなら、そうするね!
かさにゃ、……じゃなくって、かさにぇ――」
「……言いにくいなら、かさちゃんでいい」
「分かった! それじゃ、かさちゃん。
私のことは、さきちゃんって呼んでね!」
それが私の心に残る、あの日の記憶。それを思い出すといつだって、胸がぽかぽかと温かくなるのだ。
それから私たちは一緒に登下校するようになって、無二の親友になったのだった。
「次は××駅、××駅。お降りの方はお忘れ物のないように――」
ぼんやりとし過ぎたのか、いつの間にか私は電車の中で眠りこけていたらしい。
駅員さんのアナウンスで温かな夢の世界から抜け出した。
そろそろ自宅からの最寄り駅につく頃合いだと思うけど、確か××駅って――。
あれ……、ちょっと待って……? 最寄り駅もう過ぎてない? ――嘘、寝過ごした!?
電車が駅に到着し扉が開くと、私は慌ててホームに出た。駅の案内を見ると、やはり一駅先まで来てしまったようだ。
……でもまあ、いいか。ここから歩いて帰ったって、それほど距離は変わらないはずだ。
ついでに本屋に寄って参考書を買おう。今から必死に勉強すれば、きっと大学受験にはなんとか間に合う。
「あれ……? 本屋ってこのあたりになかったっけ?」
中学の頃よく通っていた本屋がどうしても見つからない。久しぶりに来るとは言え、道を間違えたとは思えないんだけど……。
もしかして閉店しちゃったのかな。だとすると、この近くで他に本屋ってどこにあったかな。
別にまた今度にすればいいのに、私は意固地になってスマホで地図案内を見ながら別の本屋を探して歩き出す。
どうせ急いで帰ったってもう囲碁の勉強をやるつもりもない。適当にぶらついて帰ったって罰は当たらないだろう。
気が早いもので、街に並ぶお店のいくつかはすでにクリスマスムードになっていた。
……そう言えば、このあたりって小学生の頃、さきと一緒に登下校した通り道だったっけ。
暑い夏にはソフトクリームを食べながら並んで歩いたこともあるし、寒い冬にはふざけながら雪をぶつけ合って遊んだこともある。
潰れたお店や新しくできたお店があって、思い出の中の街並みとは少しだけ違うけれど、私は懐旧の念に駆られながらのんびりと歩いた。
しかし、私は本屋を探し求める途中、ある場所にたどり着くとぴたりと立ち止まった。
「ここって哲さんの碁会所があった……」