私も早くプロにならないと……、そうでなければもう二度と、彼女と肩を並べて歩くことなんてできない……。
こぼれ出る涙を指で拭いながら喜ぶさきちゃんを前にしたまま、私は憂鬱な気持ちを抱えていた。
このままじゃいけない。今よりずっと強くならないと。そのためには猛勉強が必要だ。
そう思うと学校の授業すら煩わしくなる。……いっそサボってしまおうか。
そんな思考がわずかに頭を過るが、さすがにそういうわけにはいかない。
代わりに頭の中の碁盤でひたすらイメージトレーニングをする。授業の内容なんて聞いちゃいない。
学校が終わればすぐさま研究会で研鑽を積む。それが終われば家で夜遅くまで棋譜並べだ。
そんな生活を気が遠くなるほど続けて、中学3年生にしてようやくBクラスの上位に上がった私は、初めてのプロ試験に挑むこととなった。
……と言っても、いきなり本戦に出場したさきちゃんとは違い、私は予選からの挑戦となる。
この中でプロになれるのは本戦成績の上位2名のみ。正直なところ、未だBクラスの私が今回合格できる可能性は限りなく低い。
それでもプロになりたいという気持ちだけは誰にも負ける気がしなかった。それだけが私の原動力なのだから。
でも、想いだけで勝てるのならば、誰も苦労はしない。……いや、そうじゃない。
そもそも想いの強さなら勝ってるなんて自信が思い上がりに過ぎなかったのだ。
――私の成績は結局、予選敗退。初めてのプロ試験は無残な結果に終わった。
『早川快挙、女流棋聖を奪取!』
『囲碁界の新星、女流三冠へ』
『早碁女王から新人王に。悲願の男女混合棋戦優勝』
日本棋院が発行する囲碁の新聞『週刊碁』の紙面を私の親友が華やかに賑わす。
記事を読むと『囲碁界の新星』だとか『早碁女王』だとか大仰なあだ名が彼女につけられていた。
突然おかしなことをするし、そうでなくても抜けてるところもある彼女の姿を思い出すとなんだか笑ってしまう。
だけど、それは私だけがみんなが知らないさきちゃんのことを知っているわけではなく、私だけが"今のさきちゃん"を知らないだけなのかもしれないと気付くと絶望した。
高校1年生になった私はそんなニュースが飛び交う間にもプロ試験に挑んだが、やはり予選敗退だった。
そんな自分を不甲斐なく思うと同時に、煌めく星になった"さき"への劣等感と嫉妬が抑えられない。
この頃から私はさきに関する記事は棋譜、――つまり対局の内容を記入した記録以外は目を逸らすようになった。
彼女を嫌いになりたくなかったからだ。
師匠の研究会へと運ぶ足も重い。こんな生活、いつまで続けるんだろうか。いつになったら終わりになるんだろうか。
そもそも私、なんのために頑張ってるんだっけ……? プロになりたいから? 本当に?
私はとっくに気付いている。これはただ、大好きな親友のさきへの執着心を捨てられないだけなのだ。
その心さえ捨ててしまえば、いつだって終わりにできる。別にプロの世界になんて、なんの憧れもない。
だけど、それでも――、
「あと1年だけ、頑張ってみようかな……」
院生でいられる最後の年度まで頑張って、それで駄目ならもう仕方ないと諦めもつく。
「あのときもう一度挑戦していれば」なんて後悔するくらいなら、当たって砕けろの精神でいこう。
そんな思いで挑んだ次のプロ試験ではどうにか本戦へと駒を進めることがきた。……囲碁なのに「駒を進める」はおかしいか。
でも将棋の世界でも「一目置く」とか「白黒つける」とか言うでしょう? おっと、また余計なこと考えてる。
集中しなきゃ。
「……負けました」
もっと目の前の一局に真剣に取り組まないと。
「……ありません」
一歩一歩を大事にすれば、いつかは必ず。
「黒の6目半勝ちですね」
「……ありがとうございました」
――おかしいな。どうして勝てないんだろう。私はこんなにも一途で一生懸命なのに。
今日の対局も午前中の展開まででもすでに酷い有様だ。
当然、お昼休みになっても食欲なんて湧かない。だけど、栄養不足で戦えるほどプロ試験は甘くない。
私は休憩室でお茶を一気飲みして、コンビニのサンドウィッチを無理矢理胃袋に流し込む。
今からどれだけ足搔いても、すでに私の不合格はほとんど決まっているのに。
それでも、なんというか、途中であきらめたら本当の本当に、負けたことになるような気がしたのだ。
そんなとき、他の受験者たちの話し声が聞こえてきた。
「ニュース見た? 早川女流四冠の」
「ああ、昨日のニュースか。テレビでも大々的に取り上げられてたな」
「マジでバケモンだよな。女性初の、しかも史上最年少での名人戦リーグ入りだってよ」
「……なんつーか、俺らとは住む世界が違うって感じだな。
どこが早碁女王だよ。早碁以外でもすでにトップクラスじゃないか。しかも、昇段規定で一気に七段かあ……」
さきが名人戦リーグ入り……?
プロ試験の間は余計な情報を入れたくないから、ネットやテレビなどの情報媒体はなるべく見ないようにしている。
あいつも自分からその活躍ぶりを宣伝してくるような奴じゃない。
だから、そのニュースは初耳だった。と言うより、まさか名人戦でそこまで勝ち進んでいたなんて。
さき……、私はもういくら手を伸ばしても、あんたの背中には届かないって言うの?
どれだけ追いかけても追いかけても、その差は縮まるどころか広がっていくばかりだ……。
――午後に再開した一局も当然の如く負けた。
「……ただいま」
帰宅した私はほとんど囁くくらいの声量でそう言いながら、玄関を開ける。
靴置き場を見るとビジネス用の黒い革靴があり、すでにお父さんも仕事から帰ってきているようだった。
最近はいつも私の顔を見るなり、将来の心配ばかりしてきて気が滅入る。私だって、別に何も考えてないわけじゃないのに。
――迎えの挨拶はない。私が帰ってきたことにお父さんもお母さんも気付いてないのかもしれない。
それなら別にそれでいい。リビングを通らなくても自室には行けるから、お父さんと顔を合わせずに済むはずだ。晩御飯の時間になればお母さんが呼びに来るだろう。
まるで空き巣みたいな忍び足で自室の廊下を歩いていると、リビングから突然大きな叫び声がした。
「だけど、かさねは一生懸命頑張ってるのよ!?」
お母さんの声だ。私は何事かと思い、すかさず聞き耳を立てる。
すると、それほど大きな声ではないが、お父さんの話し声もしっかりと聞こえてきた。
「頑張ってるのは知ってるよ。だから今までずっと見守ってきたんだ。
しかし、そうは言っても来年は受験生だろ。もう夢を追いかける時間は終わり。タイムリミットだ」
「そんな言い方ってないでしょう!? まだ今年のプロ試験だって――」
「奇跡でも起きなきゃ受からないくらいの成績らしいじゃないか。今日の勝敗次第じゃ、それもどうだか。
それとも何か? 上位の子たちが試験を辞退してくれるのを待つとでも――」
どたどたどたどた、ばったん!! 私は音を殺すのも忘れて自室に駆け込み、内鍵を閉めて閉じ籠った。
こぼれ出る涙を指で拭いながら喜ぶさきちゃんを前にしたまま、私は憂鬱な気持ちを抱えていた。
このままじゃいけない。今よりずっと強くならないと。そのためには猛勉強が必要だ。
そう思うと学校の授業すら煩わしくなる。……いっそサボってしまおうか。
そんな思考がわずかに頭を過るが、さすがにそういうわけにはいかない。
代わりに頭の中の碁盤でひたすらイメージトレーニングをする。授業の内容なんて聞いちゃいない。
学校が終わればすぐさま研究会で研鑽を積む。それが終われば家で夜遅くまで棋譜並べだ。
そんな生活を気が遠くなるほど続けて、中学3年生にしてようやくBクラスの上位に上がった私は、初めてのプロ試験に挑むこととなった。
……と言っても、いきなり本戦に出場したさきちゃんとは違い、私は予選からの挑戦となる。
この中でプロになれるのは本戦成績の上位2名のみ。正直なところ、未だBクラスの私が今回合格できる可能性は限りなく低い。
それでもプロになりたいという気持ちだけは誰にも負ける気がしなかった。それだけが私の原動力なのだから。
でも、想いだけで勝てるのならば、誰も苦労はしない。……いや、そうじゃない。
そもそも想いの強さなら勝ってるなんて自信が思い上がりに過ぎなかったのだ。
――私の成績は結局、予選敗退。初めてのプロ試験は無残な結果に終わった。
『早川快挙、女流棋聖を奪取!』
『囲碁界の新星、女流三冠へ』
『早碁女王から新人王に。悲願の男女混合棋戦優勝』
日本棋院が発行する囲碁の新聞『週刊碁』の紙面を私の親友が華やかに賑わす。
記事を読むと『囲碁界の新星』だとか『早碁女王』だとか大仰なあだ名が彼女につけられていた。
突然おかしなことをするし、そうでなくても抜けてるところもある彼女の姿を思い出すとなんだか笑ってしまう。
だけど、それは私だけがみんなが知らないさきちゃんのことを知っているわけではなく、私だけが"今のさきちゃん"を知らないだけなのかもしれないと気付くと絶望した。
高校1年生になった私はそんなニュースが飛び交う間にもプロ試験に挑んだが、やはり予選敗退だった。
そんな自分を不甲斐なく思うと同時に、煌めく星になった"さき"への劣等感と嫉妬が抑えられない。
この頃から私はさきに関する記事は棋譜、――つまり対局の内容を記入した記録以外は目を逸らすようになった。
彼女を嫌いになりたくなかったからだ。
師匠の研究会へと運ぶ足も重い。こんな生活、いつまで続けるんだろうか。いつになったら終わりになるんだろうか。
そもそも私、なんのために頑張ってるんだっけ……? プロになりたいから? 本当に?
私はとっくに気付いている。これはただ、大好きな親友のさきへの執着心を捨てられないだけなのだ。
その心さえ捨ててしまえば、いつだって終わりにできる。別にプロの世界になんて、なんの憧れもない。
だけど、それでも――、
「あと1年だけ、頑張ってみようかな……」
院生でいられる最後の年度まで頑張って、それで駄目ならもう仕方ないと諦めもつく。
「あのときもう一度挑戦していれば」なんて後悔するくらいなら、当たって砕けろの精神でいこう。
そんな思いで挑んだ次のプロ試験ではどうにか本戦へと駒を進めることがきた。……囲碁なのに「駒を進める」はおかしいか。
でも将棋の世界でも「一目置く」とか「白黒つける」とか言うでしょう? おっと、また余計なこと考えてる。
集中しなきゃ。
「……負けました」
もっと目の前の一局に真剣に取り組まないと。
「……ありません」
一歩一歩を大事にすれば、いつかは必ず。
「黒の6目半勝ちですね」
「……ありがとうございました」
――おかしいな。どうして勝てないんだろう。私はこんなにも一途で一生懸命なのに。
今日の対局も午前中の展開まででもすでに酷い有様だ。
当然、お昼休みになっても食欲なんて湧かない。だけど、栄養不足で戦えるほどプロ試験は甘くない。
私は休憩室でお茶を一気飲みして、コンビニのサンドウィッチを無理矢理胃袋に流し込む。
今からどれだけ足搔いても、すでに私の不合格はほとんど決まっているのに。
それでも、なんというか、途中であきらめたら本当の本当に、負けたことになるような気がしたのだ。
そんなとき、他の受験者たちの話し声が聞こえてきた。
「ニュース見た? 早川女流四冠の」
「ああ、昨日のニュースか。テレビでも大々的に取り上げられてたな」
「マジでバケモンだよな。女性初の、しかも史上最年少での名人戦リーグ入りだってよ」
「……なんつーか、俺らとは住む世界が違うって感じだな。
どこが早碁女王だよ。早碁以外でもすでにトップクラスじゃないか。しかも、昇段規定で一気に七段かあ……」
さきが名人戦リーグ入り……?
プロ試験の間は余計な情報を入れたくないから、ネットやテレビなどの情報媒体はなるべく見ないようにしている。
あいつも自分からその活躍ぶりを宣伝してくるような奴じゃない。
だから、そのニュースは初耳だった。と言うより、まさか名人戦でそこまで勝ち進んでいたなんて。
さき……、私はもういくら手を伸ばしても、あんたの背中には届かないって言うの?
どれだけ追いかけても追いかけても、その差は縮まるどころか広がっていくばかりだ……。
――午後に再開した一局も当然の如く負けた。
「……ただいま」
帰宅した私はほとんど囁くくらいの声量でそう言いながら、玄関を開ける。
靴置き場を見るとビジネス用の黒い革靴があり、すでにお父さんも仕事から帰ってきているようだった。
最近はいつも私の顔を見るなり、将来の心配ばかりしてきて気が滅入る。私だって、別に何も考えてないわけじゃないのに。
――迎えの挨拶はない。私が帰ってきたことにお父さんもお母さんも気付いてないのかもしれない。
それなら別にそれでいい。リビングを通らなくても自室には行けるから、お父さんと顔を合わせずに済むはずだ。晩御飯の時間になればお母さんが呼びに来るだろう。
まるで空き巣みたいな忍び足で自室の廊下を歩いていると、リビングから突然大きな叫び声がした。
「だけど、かさねは一生懸命頑張ってるのよ!?」
お母さんの声だ。私は何事かと思い、すかさず聞き耳を立てる。
すると、それほど大きな声ではないが、お父さんの話し声もしっかりと聞こえてきた。
「頑張ってるのは知ってるよ。だから今までずっと見守ってきたんだ。
しかし、そうは言っても来年は受験生だろ。もう夢を追いかける時間は終わり。タイムリミットだ」
「そんな言い方ってないでしょう!? まだ今年のプロ試験だって――」
「奇跡でも起きなきゃ受からないくらいの成績らしいじゃないか。今日の勝敗次第じゃ、それもどうだか。
それとも何か? 上位の子たちが試験を辞退してくれるのを待つとでも――」
どたどたどたどた、ばったん!! 私は音を殺すのも忘れて自室に駆け込み、内鍵を閉めて閉じ籠った。