大林先生が場を鎮めると、一瞬で研修部屋の空気が引き締まった。
 この切り替えの早さがプロを目指す者たちの心構えといったところだろうか。
 ぴりぴりとした緊張感が私の肌を突き刺す。私も気を引き締めないと身体中が穴だらけになってしまいそうだ。
 それから大林先生に案内されて、私たちはそれぞれ本日最初の研修手合の相手の前に腰かけた。
「お願いします」
「お願いします」
 さあ、ここからだ。私がプロになれるかどうか、この一戦で行く末を占おう。
 さきちゃんと一緒にいられる未来を掴むためには、こんなところで負けてられない!


「……ありません」
 これで私が投了の宣言をするのは本日3度目だ。
 勝てなかった……。しかも、手も足も出なかった。これが院生のレベルか……。
「ここの攻め方は少々無理をし過ぎだね。もう少し一歩引いた打ち方をしないと。
 たとえば、このツケを打った手で――」
 対局終了後の検討に大林先生も加わっていろいろ教えてくれているけれど、私の頭には何も入ってこなかった。
 その手が悪手なのは分かってる。打つ前からそんな気はしていた。
 問題はどうして分かっていながら、そんな手を打ってしまったのか……。自分でも理解ができなかった。

「そろそろ帰ろうか、かさちゃん」
 院生手合がすべて終わりしばらくしてから、さきちゃんがそう話しかけてきた。
 そんな彼女は3連勝、一方私は3連敗……。お互い何も言わずとも勝敗表を見れば、戦績は分かる。
 その結果を受けてか、さきちゃんもどことなく遠慮がちな態度だった。
 けど、その日の帰り道では勝敗の話なんて一言もしなかった。彼女が私に気遣ってくれているのが分かる。
 だからこそ、私は惨めな気持ちを抱えたまま、その夜はベッドに倒れ込むようにして眠りについた。



 その翌日の日曜日にはなんとか1勝したけど、それ以外は負けたから1勝2敗……。
 その次の土日も、さらにその次も結果は散々だった。
 さきちゃんは「最初だから調子が出ないだけだよ」とか「たまたまスランプになってるだけだよ」とかフォローしてくれたけど、何ヶ月経っても自分の思った通りの碁は打てなかった。
 自分の力はこんなものじゃない。もっともっと打てるはずだ。
 そう思えば思うほど深みにはまっていくような感覚に襲われた。

 現在、院生のクラス分けはAクラスからDクラスまである。昔は1組2組というクラス分けだったのが、さらに細分化された形となる。
 人数によってはEクラス、Fクラスまで備えられることもあるらしいけど、今はDクラスが底辺だということだ。
 私はそのDクラスですらまともに勝てない日々が続いたのだ。
 それでもなんとか頑張ってCクラスまでは上がったけれど、その間にさきちゃんはAクラスの上位まで上がっていた。
 それが私たちが院生になって1年ほど経った頃のことであり、プロ試験開始が目前に迫っていた。
 でも、それに参加できるのは院生の中でも上位の子たちだけ。Cクラスの私には出場資格すら与えられてはいないのだ……。

「かさちゃん、あのさ……。久しぶりにお昼食べに行かない?
 ここしばらくずっとゆっくり話す時間もなかったしさ……」
 ある日のお昼休み、おずおずとさきちゃんが私を昼食に誘った。
 ……いつからだったっけ。彼女がこんなにもよそよそしくなったのは。
 だけど、それも当然か。私が何かと理由をつけてお昼や帰りの誘いを断り続けていたからだ。
 こんなにも差をつけられて、私は彼女に一体何を話せばいいのか分からない。当たり障りのない会話をするのも疲れる。
 もう放っておいて欲しいという意思を伝えているつもりなのだが、伝わっていないのか伝わっててあえてしつこく誘い続けているのか。
 いずれにせよ彼女は今でも私の親友であり続けようとしてくれていた。
 その気持ちは嬉しいけれど……。私は今日も誘いを断ろうと口を開きかけた、その次の瞬間だった。


「さーき! 一緒にお昼行こっ!
 早くしないと時間なくなっちゃうよー?」
 そう言ってさきちゃんに飛びついてきたのは、さきちゃんと同じくAクラス上位の倉橋茂美(くらはししげみ)という子だった。
 学年は私たちと同じだが、軽薄そうな感じがなんだかいけ好かない。多分どうやっても仲良くなれないという予感がする。
「あ、しげちゃん……。でも今日は――」
「別に行ってくればいいでしょ。好きにすれば?」
 私は対局途中の碁盤をそのままにさっさと立ち上がって、さきちゃんに背を向けて歩き出した。

「うちらAクラスがCクラスの子なんか構ってどうすんの?
 幼馴染だかなんだか知らないけど、ほっといたら?」
「で、でも、かさちゃんは私の大切な……。待ってよ、かさちゃん!」
 私はさきちゃんの叫びを無視して、どんどん歩いていく。
 ここで振り返ったって茂美の不愉快な顔を見ることになるだけだ。

「その碁の続き、ひとりで考えたいから」
 吐き捨てるような台詞を残して私は研修部屋をあとにした。
 その間にも茂美はさきちゃんにしつこく絡んでいるようだった。
「ほら、さき。本人もああ言ってるんだし。
 それに変な同情なんかかけても、その子のためにもならないしー?」
「わ、私はそんなつもりじゃ――」
 つんざくような黄色い声が耳に響く。私は視線を動かすこともなく、廊下を突き進んでいった。
 さきちゃんが優しい子なのは知ってる。だけど、今はその優しさがつらかった。



 そして、ついにプロ試験本戦が始まる。院生上位のさきちゃんは予選もなしでいきなり本戦出場だ。
 正確にはプロになる方法はいくつかあって、たとえば4月から6月の院生成績で総合1位の子はすでに合格となった。
 他にも女性には特別枠の試験や推薦枠があるし、関西や中部からプロ棋士になる人もいる。
 しかし、私にはそのいずれも関係のない話だ。今はまだプロになれる基準には達していないのだ。
 さきちゃんからは、プロ試験の勝ち負けがどうとかっていう連絡は来なかった。
 それどころかプロ試験中は土日に彼女と会うことはなく、学校のクラスも別だったので、ほとんど話す機会もなかった。
 だけど、直接聞かずともその勝敗は漏れ聞こえるもので、開幕から何連勝中だとかって話だった。
 ……もちろん親友の活躍が嬉しくないわけじゃない。だけど、彼女が私の手の届かない存在になっていくのがどうしようもなく寂しかった。



「さきちゃん、プロ試験合格おめでとう」
「あ、ありがとう、かさちゃん……。
 嬉しいよ、かさちゃんが喜んでくれて」
「何言ってんのよ。喜ばないわけがないでしょう?
 あんたは私の無二の親友なんだから」

 ――それは本心だ。プロ試験をトップの成績で合格し、院生の研修部屋に報告しに来た彼女に私は心からの祝福を送った。
 その一方で、正真正銘私と彼女の立場に違いが生まれてしまったことに内心ショックを受けていた。
 これから先はプロ棋士と院生の関係になる。プロは学校の授業を休んで棋戦に参加することも多い。
 彼女ならすぐに大忙しになることだろう。まともに会って話す機会すらもう恵まれないかもしれないのだ。