私は将来のことなんて、まだ考えなくていいと思っていた。もちろん囲碁の世界では中学生でプロになる子もざらにいるとは知っている。
だけど、そんなのは私には全然関係ないことだと、まるで別世界のことのように捉えていたのだ。
でも、さきちゃんにとってその世界はほんの少し手を伸ばせば届きそうなほど、近くにあるものだったらしい。
そんなの、私にはとても考えられない。私にとってそれはあまりにも――。
次の瞬間、雲間からお月様が顔を覗かせた。
「私の夢はそれだけじゃないよ」
……あれ、おかしいな。
「私はかさちゃんとずっと一緒に過ごしていたい。
かさちゃんとずっと一緒に碁を打っていたい。
かさちゃんとずっと一緒に笑っていたい」
なんだか変だな……。不思議な光景だ……。
「かさちゃん、お願い!
私と一緒に院生になろう。かさちゃんにも私と同じ道を歩んで欲しいんだ。
大丈夫、私たちならどこにだって行けるよ!」
月明かりってこんなにも眩しかったっけ……?
差し伸べられた手を取る勇気は、私にはない。だからこれは勇気なんかじゃない。
私の手はカタカタと震えていた。とてつもなく恐ろしい。
この手を取ればきっともう後戻りなんてできない。
それどころか進んだ先には地獄が待ち受けているかもしれないのだ。
それでも私は迷うことなんてなかった。他に選ぶ道など、どこにもないのだから。
「うん、行こう。どこまでも一緒に……」
私がその手を取ると、さきちゃんは満面の笑みを浮かべてくれた。
「ありがとう、かさちゃん! それでこそ私の親友!」
そして私たちは手を取り合ったまま立ち上がり夜空を見上げて、もう片方の手を高く掲げた。
まるで哲さんが煌めく星になって、私たちを見守っているとでもいうかのように。
冷たい風が火照った身体をひんやりと冷ましてくれた。今夜は冷え込むらしい。
「へっけちゅ!」
「……風邪引く前に帰ろうか」
院生試験。それは毎年3ヶ月ごとに行われる院生になるための試験らしい。
私たちが募集の締め切りに間に合ったのは、7月期の試験だった。
履歴書みたいな志願書を提出し書類審査を通れば、1万円を超える受験料を払ってようやく受けることができる。
つまり十分な棋力や適性がないと見なされれば門前払いを受ける可能性だってある。この時点ですでに狭き門なのだ。
……とは言え、少年少女囲碁大会で3位以内に入った私たちはそこはクリアしていたようで、すぐに試験の日時の連絡があった。
さきちゃんにも確認すると私は彼女の試験のすぐあとに受けることになっていた。
場所は日本棋院。ここを訪れるのは去年8月の少年少女囲碁大会本戦以来だ。
私はお母さんと一緒に受付に向かい、前の子、つまりさきちゃんの試験が終わるまでしばらく待つように指示されたが、すぐにエレベーターの扉が開いてさきちゃんとそのお母さんが歩いてきた。
「さきちゃん!」
「あ、かさちゃん! このあと試験だよね?」
「うん……、さきちゃんはどうだった?」
「へへん、当然合格!」
さきちゃんはにぃっと笑ってVサインを見せつけてくる。それを見て私は自分のことのように胸を撫で下ろした。
そして彼女は「かさちゃんも絶対受かるよ!」と応援の言葉を口にするとともに、私にハイタッチを求めてきた。
私はそれに力強く応える。さきちゃんの純朴な後押しが何よりも心強かった。
受付の人によれば試験は少なくとも1時間くらいはかかるらしい。それまでお母さんは外の喫茶店で待っててくれることになった。
緊張しながら私は受付の人とともにエレベーターに乗り込む。その扉の隙間から大きく手を振るさきちゃんの笑顔が見えた。
私がそれに気付いて手を振り返そうとする前に無情にも扉は閉まり、エレベーターは上の階を目指して動き出した。
さきちゃんの姿が見えなくなると急に不安が押し寄せてきて、胸が苦しくなった。
もしも私だけがこの院生試験に落ちたら、少なくとも土日はほとんどさきちゃんと会うことはできなくなるだろう。院生研修があるからだ。
それだけじゃない。そのままさきちゃんは私の手が届かないくらい遠くへ行ってしまうかもしれない。そんな気がする。
「ふぅー……」
深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。不安な気持ちに押し潰されるな、私。
少年少女囲碁大会では3位だった。哲さんにも互先で勝つことができた。
それがもしたまたまだったとしても、今度もまたその奇跡を起こせばいいだけのことだ。
さきちゃんだって、絶対受かると言ってくれた。だから、きっと大丈夫だ。
「それでは、こちらの部屋へどうぞ。
すでに院生師範の先生がお待ちになっています」
エレベーターから降りると、受付の人は私を試験の部屋まで連れて行き、そう言った。どうやら案内はここまでらしい。
「ありがとうございます」
お礼を言ってその部屋に入ると、眼鏡をかけた細身の男性が椅子に腰かけていた。
おそらく40代くらいで少々陰のある印象を受けるけれど、いわゆるイケメンの部類に入ると思う。
なんというか、あれだ。少女漫画で女子生徒と禁断の恋に落ちる先生みたいな感じだ。
……いや、そういう漫画を読んだことがあるわけじゃないけど。イメージね、イメージ。
「こんにちは。雨宮かさねくんだね? どうぞそちらの席におかけなさい」
「あ、すみません……。失礼します」
ノックも挨拶もなしに部屋に入ったのは失敗だったかもしれない。
扉を開けてすぐ目の前に先生がいるとは思ってなかったのだ。こういう悪印象も試験に影響するんだろうか。
私は促されるまま椅子に腰かける。先生とは正面に向き合う形となり、間には碁盤と碁笥の置かれた机があった。
試験の部屋が洋室なのは少々意外だ。和室で正座をしながらするものかと思っていた。
椅子もパイプ椅子や安物の椅子ではなく、お父さんの書斎にあるようなしっかりした硬い椅子でなんとなく落ち着かない。
でも少年少女囲碁大会のときも3位決定戦まで含めてホールで対局したっけ。
尤も決勝戦は和室の部屋で行われたようだけど、どう使い分けてるのかな。
――っと、いけないいけない。"細かいこと"を気にし過ぎるのは私の悪い癖だ。
「僕は院生師範の大林学だ。
一応プロ棋士としては七段で打たせてもらっている。よろしく頼むよ」
「は、はい! よろしくお願いします……」
大林と名乗った先生は私が提出したものとみられる志願書を片手に柔和な表情を浮かべた。
「そんなに緊張しなくていいよ。
君は去年の少年少女囲碁大会で3位だったんだろう? それなら実力は十分だ」
「あ、はい……。でも、準決勝ではさきちゃん相手に散々な結果で……。
3位決定戦もなんとか勝てたって感じなので、結果にふさわしい実力があるかは――」
「はは、君は随分謙虚なんだね。それとも本当に自信がないのかな。
前者ならいいが後者なら、もっと堂々とするべきだ。
でなければ、君に負けた相手にも失礼だし、これから先厳しい世界で勝ち抜いていくことはできないだろうからね」
だけど、そんなのは私には全然関係ないことだと、まるで別世界のことのように捉えていたのだ。
でも、さきちゃんにとってその世界はほんの少し手を伸ばせば届きそうなほど、近くにあるものだったらしい。
そんなの、私にはとても考えられない。私にとってそれはあまりにも――。
次の瞬間、雲間からお月様が顔を覗かせた。
「私の夢はそれだけじゃないよ」
……あれ、おかしいな。
「私はかさちゃんとずっと一緒に過ごしていたい。
かさちゃんとずっと一緒に碁を打っていたい。
かさちゃんとずっと一緒に笑っていたい」
なんだか変だな……。不思議な光景だ……。
「かさちゃん、お願い!
私と一緒に院生になろう。かさちゃんにも私と同じ道を歩んで欲しいんだ。
大丈夫、私たちならどこにだって行けるよ!」
月明かりってこんなにも眩しかったっけ……?
差し伸べられた手を取る勇気は、私にはない。だからこれは勇気なんかじゃない。
私の手はカタカタと震えていた。とてつもなく恐ろしい。
この手を取ればきっともう後戻りなんてできない。
それどころか進んだ先には地獄が待ち受けているかもしれないのだ。
それでも私は迷うことなんてなかった。他に選ぶ道など、どこにもないのだから。
「うん、行こう。どこまでも一緒に……」
私がその手を取ると、さきちゃんは満面の笑みを浮かべてくれた。
「ありがとう、かさちゃん! それでこそ私の親友!」
そして私たちは手を取り合ったまま立ち上がり夜空を見上げて、もう片方の手を高く掲げた。
まるで哲さんが煌めく星になって、私たちを見守っているとでもいうかのように。
冷たい風が火照った身体をひんやりと冷ましてくれた。今夜は冷え込むらしい。
「へっけちゅ!」
「……風邪引く前に帰ろうか」
院生試験。それは毎年3ヶ月ごとに行われる院生になるための試験らしい。
私たちが募集の締め切りに間に合ったのは、7月期の試験だった。
履歴書みたいな志願書を提出し書類審査を通れば、1万円を超える受験料を払ってようやく受けることができる。
つまり十分な棋力や適性がないと見なされれば門前払いを受ける可能性だってある。この時点ですでに狭き門なのだ。
……とは言え、少年少女囲碁大会で3位以内に入った私たちはそこはクリアしていたようで、すぐに試験の日時の連絡があった。
さきちゃんにも確認すると私は彼女の試験のすぐあとに受けることになっていた。
場所は日本棋院。ここを訪れるのは去年8月の少年少女囲碁大会本戦以来だ。
私はお母さんと一緒に受付に向かい、前の子、つまりさきちゃんの試験が終わるまでしばらく待つように指示されたが、すぐにエレベーターの扉が開いてさきちゃんとそのお母さんが歩いてきた。
「さきちゃん!」
「あ、かさちゃん! このあと試験だよね?」
「うん……、さきちゃんはどうだった?」
「へへん、当然合格!」
さきちゃんはにぃっと笑ってVサインを見せつけてくる。それを見て私は自分のことのように胸を撫で下ろした。
そして彼女は「かさちゃんも絶対受かるよ!」と応援の言葉を口にするとともに、私にハイタッチを求めてきた。
私はそれに力強く応える。さきちゃんの純朴な後押しが何よりも心強かった。
受付の人によれば試験は少なくとも1時間くらいはかかるらしい。それまでお母さんは外の喫茶店で待っててくれることになった。
緊張しながら私は受付の人とともにエレベーターに乗り込む。その扉の隙間から大きく手を振るさきちゃんの笑顔が見えた。
私がそれに気付いて手を振り返そうとする前に無情にも扉は閉まり、エレベーターは上の階を目指して動き出した。
さきちゃんの姿が見えなくなると急に不安が押し寄せてきて、胸が苦しくなった。
もしも私だけがこの院生試験に落ちたら、少なくとも土日はほとんどさきちゃんと会うことはできなくなるだろう。院生研修があるからだ。
それだけじゃない。そのままさきちゃんは私の手が届かないくらい遠くへ行ってしまうかもしれない。そんな気がする。
「ふぅー……」
深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。不安な気持ちに押し潰されるな、私。
少年少女囲碁大会では3位だった。哲さんにも互先で勝つことができた。
それがもしたまたまだったとしても、今度もまたその奇跡を起こせばいいだけのことだ。
さきちゃんだって、絶対受かると言ってくれた。だから、きっと大丈夫だ。
「それでは、こちらの部屋へどうぞ。
すでに院生師範の先生がお待ちになっています」
エレベーターから降りると、受付の人は私を試験の部屋まで連れて行き、そう言った。どうやら案内はここまでらしい。
「ありがとうございます」
お礼を言ってその部屋に入ると、眼鏡をかけた細身の男性が椅子に腰かけていた。
おそらく40代くらいで少々陰のある印象を受けるけれど、いわゆるイケメンの部類に入ると思う。
なんというか、あれだ。少女漫画で女子生徒と禁断の恋に落ちる先生みたいな感じだ。
……いや、そういう漫画を読んだことがあるわけじゃないけど。イメージね、イメージ。
「こんにちは。雨宮かさねくんだね? どうぞそちらの席におかけなさい」
「あ、すみません……。失礼します」
ノックも挨拶もなしに部屋に入ったのは失敗だったかもしれない。
扉を開けてすぐ目の前に先生がいるとは思ってなかったのだ。こういう悪印象も試験に影響するんだろうか。
私は促されるまま椅子に腰かける。先生とは正面に向き合う形となり、間には碁盤と碁笥の置かれた机があった。
試験の部屋が洋室なのは少々意外だ。和室で正座をしながらするものかと思っていた。
椅子もパイプ椅子や安物の椅子ではなく、お父さんの書斎にあるようなしっかりした硬い椅子でなんとなく落ち着かない。
でも少年少女囲碁大会のときも3位決定戦まで含めてホールで対局したっけ。
尤も決勝戦は和室の部屋で行われたようだけど、どう使い分けてるのかな。
――っと、いけないいけない。"細かいこと"を気にし過ぎるのは私の悪い癖だ。
「僕は院生師範の大林学だ。
一応プロ棋士としては七段で打たせてもらっている。よろしく頼むよ」
「は、はい! よろしくお願いします……」
大林と名乗った先生は私が提出したものとみられる志願書を片手に柔和な表情を浮かべた。
「そんなに緊張しなくていいよ。
君は去年の少年少女囲碁大会で3位だったんだろう? それなら実力は十分だ」
「あ、はい……。でも、準決勝ではさきちゃん相手に散々な結果で……。
3位決定戦もなんとか勝てたって感じなので、結果にふさわしい実力があるかは――」
「はは、君は随分謙虚なんだね。それとも本当に自信がないのかな。
前者ならいいが後者なら、もっと堂々とするべきだ。
でなければ、君に負けた相手にも失礼だし、これから先厳しい世界で勝ち抜いていくことはできないだろうからね」