・あなたはいじめを受けていますか?
はい・いいえ
・あなたはいじめを見たことがありますか?
はい・いいえ
上記の質問に「はい」を選んだ人は下記の空欄に具体的な内容、状況を書いてください。
上記の質問に「いいえ」を選んだ人は下記の空欄にいじめをなくすために気をつけることや方法を書いてください。
『
』
月に一度行われるいじめに関する無記名のアンケート。
俺は早々に二つの質問に対し「いいえ」に丸をつけ、用紙を裏返してペンを置く。
三ヶ月前、この学校に転校してすぐの頃は最後の空欄を埋めるのに手こずっていたが、しばらくして誰もアンケートを真面目にやっていないことに気がついてからは空欄のまま提出するようになった。
机に肘をつき、ぼんやりと窓の外を眺める。梅雨明けしたばかりの空は既に夏一色だ。青が濃く、飛行機雲がいつまでも消えていない夏空に大きなあくびが出た。
教室からペンが走る音が聞こえなくなると、担任の佐々木純平先生が「後ろから用紙を裏返して回収するように」と言うより先に一番後ろの席の生徒は前の生徒に用紙を渡し始めていた。月に一度のルーティーンだ。みんなプログラミングされた機械のように淡々とこなしている。
俺もまた、振り向いて数枚重なった裏返しの用紙を受け取り、立ち上がり、前の席に置かれた用紙を自分の用紙と一緒に重ねて二つ前の席の人に手渡して席に戻る。これもルーティーンの一つ。
俺の前の席はいつも空席だ。
佐々木先生が集められたアンケート用紙を机に叩いてまとめるとちょうどチャイムがなり、帰りのホームルームが終わった。
運動部の生徒たちが蜘蛛の子を散らすように廊下へと走り出していき、教室には喋り足りない文化部や帰宅部の生徒たちが集まって駄弁っている。
「蓮、帰ろうぜ」
荷物をまとめていると紺色のスクールバッグをランドセルのように背負った安達隼人が前の席に座る。
「悪い。今日部活」
「え、蓮って部活入ってたっけ?」
「桐谷」
そこへ佐々木先生がやってくる。
「はいこれ」
佐々木先生は紙が挟まったバインダーを俺に手渡すと年季の入った渋い茶色いジャケットについたポケットをあちこち触る。
佐々木先生はもう数十年とこの学校に勤務しており、一年中、卒業式などの式典でも同じジャケットを着ているらしい。それどころかこの学校を卒業した保護者曰く、保護者が通っていた頃から佐々木先生は同じジャケットを着ていたという。あくまで噂だけど。
「あれ、鍵忘れちゃったな」
すまんすまん、と佐々木先生はうっすらと白髪の混じった頭をぽりぽりと掻き、大きなあくびをする。もうすぐ定年を迎えるらしいが、醸し出す雰囲気や顔に刻まれた深いしわから実際の年齢よりも老けて見える。
いつも眠そうなおじいちゃん、それが佐々木先生のイメージだ。
「鍵は職員室から勝手に取っていいから」
「わかりました」
「じゃあそういう感じで」
佐々木先生は俺たちに背を向け、手をあげながら教室を出ていった。
「なんの話?」
「これ」
俺はバインダーを隼人に手渡す。
「塩酸、ヨウ素溶液、エタノール……?」
隼人は紙に書かれた文字をそのまま読み上げる。
「理科準備室に置かれた薬品で古くなってたり、残りが少ないものをチェックして、佐々木先生に報告する。それが今日の化学部の活動」
「化学部……、そんな部活あったっけ?」
隼人が首をかしげるのも、俺が化学部に所属していたことを知らなかったのも無理はない。化学部は月に数回しか集まらないし、部員も俺を含めて三人しかいない、知名度の低い部活だ。
「化学部って他になにしてんの?」
「実験器具の手入れとか授業プリントの作成とか」
「それ完全に佐々木のパシリじゃん」
「まぁ確かに」
佐々木先生は理科の担当教師だ。
「ん? ヘリウムガス? それに液体窒素とかあきらかに授業と関係ないじゃん。ユーチューバーかよ」
「予算で購入してるはずだから何かしら関係あると思うけどね」
隼人はふーん、と相槌を打つ。
「蓮って化学とか好きなの? 理系?」
「あぁ」
好きだよ、と言いかけて、俺は黙ってバインダーを受け取る。
「別に。佐々木先生に誘われてって感じかな」
「やっぱりパシられてるじゃん」
隼人が笑うから俺もつられて笑う。
確かに化学部といっても校外活動や、大掛かりな実験などの興味をそそる活動はなにもないし、入部したのは佐々木先生に誘われたから、という理由に他ならない。
それでも、なにかしらの部活動に所属したいと思っていた転校してすぐの頃は自分の意思でなにかを決定することが難しかった。
いや、今だってそうだ。
自分で考えるよりも、誰かに決められた通りに動く方が楽だ。だから俺は佐々木先生に言われるまま化学部に入部したし、隼人と友達になった。
『暗い顔したやつは嫌いなんだよ。だから俺と友達になって一緒に笑おうぜ』
これは転校して初日に言われた隼人の言葉。
突然話しかけてきた隼人の第一印象は眉毛が細い。引くほど陽キャ。お調子者だった。最初はうざいなぁと思ったし、関わりたくなかったけど、人を避けるのもエネルギーを使う。だからなんとなく、隼人と一緒にいた。
そして共に三か月過ごした隼人の印象はクラスのイケてる人、おとなしい人、だれとでも仲良く話せる本物の陽キャで、やっぱりお調子者だった。
「なに? 顔に何かついてる?」
「いや、相変わらず眉毛が細いなと思って」
「うるせえなぁ。身だしなみは大事なんだぞ」
そういって顔を赤らめ眉毛を抑える隼人に別れを告げ、教室を出た。
「あれ?」
職員室に鍵を取りに来たがいつもの場所に鍵がなかった。その両隣も、キーボックスのどこを探しても理科室と理科準備室の鍵が見当たらない。
理科準備室は理科室の奥にある。それぞれに扉があり、二本の鍵は緑色のネームプレートとともに一つにまとめられている。
鍵の持ち出しリストを見ると、理科室、理科準備室と書かれた横に『部活動のため』と使用目的が書かれていた。
俺以外の他の部員が鍵を開けたのか?
他の部員といっても二人しかいない。それに、その二人ともまったく面識はない。一人は他のクラスの同級生で、もう一人は一年生と聞いている。
でもその二人はほとんど部活動に顔を出していない。今は俺しか佐々木先生のパシリ、もとい化学部の活動を行なっていないはずなのに。
俺は不思議に思いつつ、職員室を出た。
他の部員がやっているならこのまま帰ろうかとも思ったが、すぐに家に帰りたくて俺はとりあえず理科室へ向かった。
そういえば前の学校では部活動は三人以上いないと廃部になるというルールがあった。
俺が入部したのは転校してすぐの四月の終わりだから、新学期が始まる四月の頭の時点で化学部の部員数は二人だったはずだ。
ギリギリ廃部を免れたのか、そもそもこの学校ではルールが違うのか。
そんなことを考えながら俺はいつのまにかオレンジがかった夕日が差し込む廊下を進み、理科室の前に立つ。
扉の小窓から室内を覗くが誰もいない。ドアに手をかけると、扉は静かに開いた。
教室のものよりも数倍大きな黒板。ガラス器具などが入った棚。内臓がむき出しの人体模型。黒く塗られた六つの大きな机。誰もいない理科室は授業で来るときよりも静かで、初夏にもかかわらず冷たい空気が満ちている。
室内に入り、辺りを見渡すもやはり誰もいなかった。となると理科準備室にいるのだろうか。俺は机の脇を通り、奥へと進む。
一般生徒の立ち入りが禁止されている理科準備室だが、ドアノブを回すとあっけなく開いた。鼻をつく薬品と埃の混じった匂いの中で、金属が擦れる音が聞こえた。それは鍵と鍵が当たった音だとすぐにわかった。
「え」
理科準備室に足を踏み入れ、音のした方を見ると、そこには手に薬品の入った瓶を持つ伊藤美優の姿があった。
「伊藤さん……?」
伊藤さんは驚いた顔で俺を見ているが、俺の名前を呼ぶことはなかった。きっと俺の名前を知らないから。だけど仕方がない。俺と彼女はクラスメイトだが、会ったのはほんの数回しかなく、その全てを合わせても十分を超えないだろう。
伊藤さんは現在、保健室登校をしている。クラスメイト曰く、確か幼少期より大病を患っており、今は完治しているが様子を見ながら登校しているという。
心臓がドクドクと急がしく、頭はぐるぐるとまとまらない。
「あ、あの……」
どうして伊藤さんが理科準備室にいるのか。ここでなにをしているのか。頭に浮かぶ疑問が、喜びによって簡単にかき消されてしまう。
消えてしまいそうなほど白い肌。肩まで伸びたまっすぐな黒髪。儚げな瞳に薄い唇。
転校してすぐの頃、伊藤さんを初めて見たとき、ただ純粋に綺麗だなと思った。伊藤さんを見た瞬間、長らく灰色だった世界に色がついたように感じた。空が青いことに、吹く風が桜の色をしていることに気付かされ、俺はやっと今が春なのだと知った。
なんて声をかけよう。どんな話をしよう。
そんな気持ちは、翌日の朝、誰も座っていない席を見てしぼんだ。
伊藤さんの席は、俺の前の席だ。
そのしぼんでいた気持ちが、途端に膨れ上がっていく。しかし、俺が声をかけるよりも先に伊藤さんは俺から視線を外し、棚を見ながら口を開いた。
「この中で、飲めば確実に死ぬ薬ってどれかわかる?」
「……え」
それが異常な質問であることに、俺はすぐに気づかなかった。まるで相手の体調を伺うように、今日の天気を聞くように、伊藤さんはなんてことないように聞いてきたからだ。
それでも俺は伊藤さんの質問の異常性を気にするよりも、伊藤さんの質問に的確に答えたいと思った。
俺は佐々木先生から受け取ったバインダーを見ながら考える。
毒の薬と聞いてまず思いつくのは推理ドラマなんかでよく出てくる青酸カリだ。だけど理科準備室にそんなものは置いていない。ならば塩酸? いや、死に至るには塩酸の濃度にもよるし、確実性に乏しいだろう。
あ、そうか。
紙を全て見終わったところで、俺は気がついた。
「どれでも……、どんな薬品でもたくさん飲めば死ぬよ」
伊藤さんは再び、俺を見る。
「どんな薬品だってたくさん飲めば死んでしまう。台所用洗剤だってたくさん飲めば死ぬし、水だって水中毒で死ぬ」
俺は話しながら薬品棚に歩み寄り、棚を見渡す。プラスチック製の容器に入った薬品。茶色い瓶に入った薬品。透明な試験管に入った薬品。
そう。答えは一つとは限らない。
そして、答えがあるとも限らない。
「だけど大量に摂取したり、身体に有害なものを摂取すると嘔吐反射っていって自分の体を守るために飲んだものを吐き出してしまう拒絶反応を示すだろうから、そもそもたくさん飲めない。つまり、ここには確実に死ぬ薬はない」
棚から伊藤さんに視線を戻すと、想像以上に伊藤さんに近づいていて驚いた。そして、そんな俺以上に伊藤さんもまた驚いた顔をしていた。
しまった……。つい、しゃべり過ぎてしまった。
俺は昔から化学が好きだった。
父親が大学で生物学の教授をしていたことも大きいが、小さい頃からアンパンマンやトーマスよりも図鑑を見るのが好きな子どもだったらしい。
科学、自然、電気、生物。その中でも特に俺は生物の死について興味を持っていた。
この世は多様性にあふれている。人間も動物も、みんな違ってみんないいと昔の詩人は言ったらしいが、それらの人々にも唯一共通していることがある。
それが死だ。
生物はいつか必ず死ぬ。その絶対的で残酷な運命性に、子どもの頃は無性に惹かれていた。
蜘蛛の巣にかかった蝶が糸でぐるぐる巻きに巻かれる様子を見るのが好きだった。地面に落ちたセミが、細かくなって小さなアリに運ばれていく様子を何時間も見ていた。
そんな俺を周りは気味悪がり、母親もそんなことに興味を持つのはやめなさいと叱った。
だけど俺は、逆に不思議だった。
どうしてみんな、死について考えないのだろう。
どうせみんな、いつかは死ぬのに。
しかし、今ならわかる。
俺は軽率に、死に触れ過ぎた。
だから『バチ』があったんだ。
過去の記憶に触れ、転校してすぐの頃のように、また世界から色が失われそうになり、うつむく俺を伊藤さんは下から覗き込む。
「大丈夫?」
「うわぁ?!」
驚いて仰け反る俺に、伊藤さんは口元を弛ませる。
「君、面白いね」
伊藤さんが笑ってる。それだけで俺は背中に羽が生えたように体が軽くなる。
「名前は?」
一応クラスメイトだし、顔を合わせているがやはり認識されていないようだ。背中の羽がとれ、俺は肩を落とす。
さっきから情緒がジェットコースターのように急上昇、急降下を続けている。それもこれも、伊藤美優の影響だ。
「桐谷蓮です。一応、伊藤さんの後ろの席なんだけ……」
「桐谷くん」
伊藤さんは俺の言葉にかぶせるように、いや、そもそも俺の言葉なんて聞いていない様子で尋ねてくる。
「私のお願い、聞いてくれる?」
「お願い?」
どうしてだろう。手を合わせてみせる伊藤さんに、俺は直感的に死の気配を感じた。それはきっと、伊藤さんのか弱そうな風貌と先ほどの質問がそう思わせたのだろう。
『この中で、飲めば確実に死ぬ薬ってどれ?』
もし伊藤さんが自分で飲む薬を探していたのだとしたら……。
そして、俺に気づく前、薬品棚を見ていた時の光のこもっていない瞳を思い出すと、無意識に口が開いた。
「自殺の手伝いなら断るよ」
言葉を発してすぐに、自分の発言のデリカシーのなさに我ながら驚いてしまった。よく知らない人のことを勝手に自殺志願者だと決めつけるのはあまりにもありえない失言だ。
俺は慌てて伊藤さんに対して手のひらを向ける。
「ご、ごめん! 失礼なこと言って、俺……」
また驚いた顔をした伊藤さんは腕を伸ばし、俺の手のひらを細い指で掴む。冷たくて滑らかな指ざわりに俺の体は硬くなる。
「私ね」
動かなくなった俺の腕を引っ張るようにして伊藤さんは近づき、俺の耳元で、子どもが特別な秘密を教えるように小さな声で囁いた。
………え?
伊藤さんの『お願い』を聞いて、俺が伊藤さんに感じた死の気配はあながち間違っていなかったと悟った。
「私、殺したい人がいるの」
はい・いいえ
・あなたはいじめを見たことがありますか?
はい・いいえ
上記の質問に「はい」を選んだ人は下記の空欄に具体的な内容、状況を書いてください。
上記の質問に「いいえ」を選んだ人は下記の空欄にいじめをなくすために気をつけることや方法を書いてください。
『
』
月に一度行われるいじめに関する無記名のアンケート。
俺は早々に二つの質問に対し「いいえ」に丸をつけ、用紙を裏返してペンを置く。
三ヶ月前、この学校に転校してすぐの頃は最後の空欄を埋めるのに手こずっていたが、しばらくして誰もアンケートを真面目にやっていないことに気がついてからは空欄のまま提出するようになった。
机に肘をつき、ぼんやりと窓の外を眺める。梅雨明けしたばかりの空は既に夏一色だ。青が濃く、飛行機雲がいつまでも消えていない夏空に大きなあくびが出た。
教室からペンが走る音が聞こえなくなると、担任の佐々木純平先生が「後ろから用紙を裏返して回収するように」と言うより先に一番後ろの席の生徒は前の生徒に用紙を渡し始めていた。月に一度のルーティーンだ。みんなプログラミングされた機械のように淡々とこなしている。
俺もまた、振り向いて数枚重なった裏返しの用紙を受け取り、立ち上がり、前の席に置かれた用紙を自分の用紙と一緒に重ねて二つ前の席の人に手渡して席に戻る。これもルーティーンの一つ。
俺の前の席はいつも空席だ。
佐々木先生が集められたアンケート用紙を机に叩いてまとめるとちょうどチャイムがなり、帰りのホームルームが終わった。
運動部の生徒たちが蜘蛛の子を散らすように廊下へと走り出していき、教室には喋り足りない文化部や帰宅部の生徒たちが集まって駄弁っている。
「蓮、帰ろうぜ」
荷物をまとめていると紺色のスクールバッグをランドセルのように背負った安達隼人が前の席に座る。
「悪い。今日部活」
「え、蓮って部活入ってたっけ?」
「桐谷」
そこへ佐々木先生がやってくる。
「はいこれ」
佐々木先生は紙が挟まったバインダーを俺に手渡すと年季の入った渋い茶色いジャケットについたポケットをあちこち触る。
佐々木先生はもう数十年とこの学校に勤務しており、一年中、卒業式などの式典でも同じジャケットを着ているらしい。それどころかこの学校を卒業した保護者曰く、保護者が通っていた頃から佐々木先生は同じジャケットを着ていたという。あくまで噂だけど。
「あれ、鍵忘れちゃったな」
すまんすまん、と佐々木先生はうっすらと白髪の混じった頭をぽりぽりと掻き、大きなあくびをする。もうすぐ定年を迎えるらしいが、醸し出す雰囲気や顔に刻まれた深いしわから実際の年齢よりも老けて見える。
いつも眠そうなおじいちゃん、それが佐々木先生のイメージだ。
「鍵は職員室から勝手に取っていいから」
「わかりました」
「じゃあそういう感じで」
佐々木先生は俺たちに背を向け、手をあげながら教室を出ていった。
「なんの話?」
「これ」
俺はバインダーを隼人に手渡す。
「塩酸、ヨウ素溶液、エタノール……?」
隼人は紙に書かれた文字をそのまま読み上げる。
「理科準備室に置かれた薬品で古くなってたり、残りが少ないものをチェックして、佐々木先生に報告する。それが今日の化学部の活動」
「化学部……、そんな部活あったっけ?」
隼人が首をかしげるのも、俺が化学部に所属していたことを知らなかったのも無理はない。化学部は月に数回しか集まらないし、部員も俺を含めて三人しかいない、知名度の低い部活だ。
「化学部って他になにしてんの?」
「実験器具の手入れとか授業プリントの作成とか」
「それ完全に佐々木のパシリじゃん」
「まぁ確かに」
佐々木先生は理科の担当教師だ。
「ん? ヘリウムガス? それに液体窒素とかあきらかに授業と関係ないじゃん。ユーチューバーかよ」
「予算で購入してるはずだから何かしら関係あると思うけどね」
隼人はふーん、と相槌を打つ。
「蓮って化学とか好きなの? 理系?」
「あぁ」
好きだよ、と言いかけて、俺は黙ってバインダーを受け取る。
「別に。佐々木先生に誘われてって感じかな」
「やっぱりパシられてるじゃん」
隼人が笑うから俺もつられて笑う。
確かに化学部といっても校外活動や、大掛かりな実験などの興味をそそる活動はなにもないし、入部したのは佐々木先生に誘われたから、という理由に他ならない。
それでも、なにかしらの部活動に所属したいと思っていた転校してすぐの頃は自分の意思でなにかを決定することが難しかった。
いや、今だってそうだ。
自分で考えるよりも、誰かに決められた通りに動く方が楽だ。だから俺は佐々木先生に言われるまま化学部に入部したし、隼人と友達になった。
『暗い顔したやつは嫌いなんだよ。だから俺と友達になって一緒に笑おうぜ』
これは転校して初日に言われた隼人の言葉。
突然話しかけてきた隼人の第一印象は眉毛が細い。引くほど陽キャ。お調子者だった。最初はうざいなぁと思ったし、関わりたくなかったけど、人を避けるのもエネルギーを使う。だからなんとなく、隼人と一緒にいた。
そして共に三か月過ごした隼人の印象はクラスのイケてる人、おとなしい人、だれとでも仲良く話せる本物の陽キャで、やっぱりお調子者だった。
「なに? 顔に何かついてる?」
「いや、相変わらず眉毛が細いなと思って」
「うるせえなぁ。身だしなみは大事なんだぞ」
そういって顔を赤らめ眉毛を抑える隼人に別れを告げ、教室を出た。
「あれ?」
職員室に鍵を取りに来たがいつもの場所に鍵がなかった。その両隣も、キーボックスのどこを探しても理科室と理科準備室の鍵が見当たらない。
理科準備室は理科室の奥にある。それぞれに扉があり、二本の鍵は緑色のネームプレートとともに一つにまとめられている。
鍵の持ち出しリストを見ると、理科室、理科準備室と書かれた横に『部活動のため』と使用目的が書かれていた。
俺以外の他の部員が鍵を開けたのか?
他の部員といっても二人しかいない。それに、その二人ともまったく面識はない。一人は他のクラスの同級生で、もう一人は一年生と聞いている。
でもその二人はほとんど部活動に顔を出していない。今は俺しか佐々木先生のパシリ、もとい化学部の活動を行なっていないはずなのに。
俺は不思議に思いつつ、職員室を出た。
他の部員がやっているならこのまま帰ろうかとも思ったが、すぐに家に帰りたくて俺はとりあえず理科室へ向かった。
そういえば前の学校では部活動は三人以上いないと廃部になるというルールがあった。
俺が入部したのは転校してすぐの四月の終わりだから、新学期が始まる四月の頭の時点で化学部の部員数は二人だったはずだ。
ギリギリ廃部を免れたのか、そもそもこの学校ではルールが違うのか。
そんなことを考えながら俺はいつのまにかオレンジがかった夕日が差し込む廊下を進み、理科室の前に立つ。
扉の小窓から室内を覗くが誰もいない。ドアに手をかけると、扉は静かに開いた。
教室のものよりも数倍大きな黒板。ガラス器具などが入った棚。内臓がむき出しの人体模型。黒く塗られた六つの大きな机。誰もいない理科室は授業で来るときよりも静かで、初夏にもかかわらず冷たい空気が満ちている。
室内に入り、辺りを見渡すもやはり誰もいなかった。となると理科準備室にいるのだろうか。俺は机の脇を通り、奥へと進む。
一般生徒の立ち入りが禁止されている理科準備室だが、ドアノブを回すとあっけなく開いた。鼻をつく薬品と埃の混じった匂いの中で、金属が擦れる音が聞こえた。それは鍵と鍵が当たった音だとすぐにわかった。
「え」
理科準備室に足を踏み入れ、音のした方を見ると、そこには手に薬品の入った瓶を持つ伊藤美優の姿があった。
「伊藤さん……?」
伊藤さんは驚いた顔で俺を見ているが、俺の名前を呼ぶことはなかった。きっと俺の名前を知らないから。だけど仕方がない。俺と彼女はクラスメイトだが、会ったのはほんの数回しかなく、その全てを合わせても十分を超えないだろう。
伊藤さんは現在、保健室登校をしている。クラスメイト曰く、確か幼少期より大病を患っており、今は完治しているが様子を見ながら登校しているという。
心臓がドクドクと急がしく、頭はぐるぐるとまとまらない。
「あ、あの……」
どうして伊藤さんが理科準備室にいるのか。ここでなにをしているのか。頭に浮かぶ疑問が、喜びによって簡単にかき消されてしまう。
消えてしまいそうなほど白い肌。肩まで伸びたまっすぐな黒髪。儚げな瞳に薄い唇。
転校してすぐの頃、伊藤さんを初めて見たとき、ただ純粋に綺麗だなと思った。伊藤さんを見た瞬間、長らく灰色だった世界に色がついたように感じた。空が青いことに、吹く風が桜の色をしていることに気付かされ、俺はやっと今が春なのだと知った。
なんて声をかけよう。どんな話をしよう。
そんな気持ちは、翌日の朝、誰も座っていない席を見てしぼんだ。
伊藤さんの席は、俺の前の席だ。
そのしぼんでいた気持ちが、途端に膨れ上がっていく。しかし、俺が声をかけるよりも先に伊藤さんは俺から視線を外し、棚を見ながら口を開いた。
「この中で、飲めば確実に死ぬ薬ってどれかわかる?」
「……え」
それが異常な質問であることに、俺はすぐに気づかなかった。まるで相手の体調を伺うように、今日の天気を聞くように、伊藤さんはなんてことないように聞いてきたからだ。
それでも俺は伊藤さんの質問の異常性を気にするよりも、伊藤さんの質問に的確に答えたいと思った。
俺は佐々木先生から受け取ったバインダーを見ながら考える。
毒の薬と聞いてまず思いつくのは推理ドラマなんかでよく出てくる青酸カリだ。だけど理科準備室にそんなものは置いていない。ならば塩酸? いや、死に至るには塩酸の濃度にもよるし、確実性に乏しいだろう。
あ、そうか。
紙を全て見終わったところで、俺は気がついた。
「どれでも……、どんな薬品でもたくさん飲めば死ぬよ」
伊藤さんは再び、俺を見る。
「どんな薬品だってたくさん飲めば死んでしまう。台所用洗剤だってたくさん飲めば死ぬし、水だって水中毒で死ぬ」
俺は話しながら薬品棚に歩み寄り、棚を見渡す。プラスチック製の容器に入った薬品。茶色い瓶に入った薬品。透明な試験管に入った薬品。
そう。答えは一つとは限らない。
そして、答えがあるとも限らない。
「だけど大量に摂取したり、身体に有害なものを摂取すると嘔吐反射っていって自分の体を守るために飲んだものを吐き出してしまう拒絶反応を示すだろうから、そもそもたくさん飲めない。つまり、ここには確実に死ぬ薬はない」
棚から伊藤さんに視線を戻すと、想像以上に伊藤さんに近づいていて驚いた。そして、そんな俺以上に伊藤さんもまた驚いた顔をしていた。
しまった……。つい、しゃべり過ぎてしまった。
俺は昔から化学が好きだった。
父親が大学で生物学の教授をしていたことも大きいが、小さい頃からアンパンマンやトーマスよりも図鑑を見るのが好きな子どもだったらしい。
科学、自然、電気、生物。その中でも特に俺は生物の死について興味を持っていた。
この世は多様性にあふれている。人間も動物も、みんな違ってみんないいと昔の詩人は言ったらしいが、それらの人々にも唯一共通していることがある。
それが死だ。
生物はいつか必ず死ぬ。その絶対的で残酷な運命性に、子どもの頃は無性に惹かれていた。
蜘蛛の巣にかかった蝶が糸でぐるぐる巻きに巻かれる様子を見るのが好きだった。地面に落ちたセミが、細かくなって小さなアリに運ばれていく様子を何時間も見ていた。
そんな俺を周りは気味悪がり、母親もそんなことに興味を持つのはやめなさいと叱った。
だけど俺は、逆に不思議だった。
どうしてみんな、死について考えないのだろう。
どうせみんな、いつかは死ぬのに。
しかし、今ならわかる。
俺は軽率に、死に触れ過ぎた。
だから『バチ』があったんだ。
過去の記憶に触れ、転校してすぐの頃のように、また世界から色が失われそうになり、うつむく俺を伊藤さんは下から覗き込む。
「大丈夫?」
「うわぁ?!」
驚いて仰け反る俺に、伊藤さんは口元を弛ませる。
「君、面白いね」
伊藤さんが笑ってる。それだけで俺は背中に羽が生えたように体が軽くなる。
「名前は?」
一応クラスメイトだし、顔を合わせているがやはり認識されていないようだ。背中の羽がとれ、俺は肩を落とす。
さっきから情緒がジェットコースターのように急上昇、急降下を続けている。それもこれも、伊藤美優の影響だ。
「桐谷蓮です。一応、伊藤さんの後ろの席なんだけ……」
「桐谷くん」
伊藤さんは俺の言葉にかぶせるように、いや、そもそも俺の言葉なんて聞いていない様子で尋ねてくる。
「私のお願い、聞いてくれる?」
「お願い?」
どうしてだろう。手を合わせてみせる伊藤さんに、俺は直感的に死の気配を感じた。それはきっと、伊藤さんのか弱そうな風貌と先ほどの質問がそう思わせたのだろう。
『この中で、飲めば確実に死ぬ薬ってどれ?』
もし伊藤さんが自分で飲む薬を探していたのだとしたら……。
そして、俺に気づく前、薬品棚を見ていた時の光のこもっていない瞳を思い出すと、無意識に口が開いた。
「自殺の手伝いなら断るよ」
言葉を発してすぐに、自分の発言のデリカシーのなさに我ながら驚いてしまった。よく知らない人のことを勝手に自殺志願者だと決めつけるのはあまりにもありえない失言だ。
俺は慌てて伊藤さんに対して手のひらを向ける。
「ご、ごめん! 失礼なこと言って、俺……」
また驚いた顔をした伊藤さんは腕を伸ばし、俺の手のひらを細い指で掴む。冷たくて滑らかな指ざわりに俺の体は硬くなる。
「私ね」
動かなくなった俺の腕を引っ張るようにして伊藤さんは近づき、俺の耳元で、子どもが特別な秘密を教えるように小さな声で囁いた。
………え?
伊藤さんの『お願い』を聞いて、俺が伊藤さんに感じた死の気配はあながち間違っていなかったと悟った。
「私、殺したい人がいるの」