日曜日の昼前、俺は再びデパートSを訪れた。花菜の情報によれば、以前、日曜日に鈴原がフードコートで絵を描いているのを見かけたという。今もやっているかはわからないらしいけど、調べてみる価値はありそうだった。

 入店してすぐに、鈴原の姿はすぐに見つかった。フードコートの奥に座っている姿は、あの夜のコスプレ姿ではなかった。淡い桜色のシャツに白のロングスカート、黄色い小さな花のアクセントがついた茶色のサンダルという姿は、気品漂うお嬢様といった感じだった。

 花菜の情報通り、鈴原はテーブルにスケッチブックを広げ、周りの視線などお構い無しといった感じで色鉛筆を一心不乱に走らせていた。

 しばらくして、鈴原は白いマイバックを手にして立ち上がった。そのまま食料品売り場に入ったのを確認し、俺は早足で鈴原のいた席に向かった。

 一度食料品売り場に目を向け、戻ってくる気配がないことを確認すると、茶色のスケッチブックを開いて中身を確認してみた。

 中身の絵は、先日見たミリタリーファッションのコスプレをした二人組の少女だった。鈴原と千春と思われる女の子が、手を繋いで笑っていた。千春と思われる少女は満面の笑みで、鈴原は控えめに微笑んでいる。その姿だけで、二人が本当に仲が良く、鈴原がいかに千春と思われる少女を慕っているかが伝わってきた。

「監査委員長さん」

 絵に奪われていた意識が、一瞬で目の前の現実に戻された。反射的にふりかえった先には、不思議そうに俺を眺める鈴原がいた。

「あ、いや、これは――」

 開いたままのスケッチブックを前にして、思考をフル回転させて言い訳を考えてみたけど、上手くいくわけがなく、仕方なく苦笑いで誤魔化した。

 気まずい雰囲気が一瞬流れたけど、鈴原は特に気にした風でもなく、俺に席を勧めてきた。

「これ、よかったら花菜ちゃんと行ってください。さっき、抽選会で当たったんです」

 席に座ると同時に、鈴原が白い封筒を差し出してきた。中身は映画のチケットだった。もちろんもらうつもりはなかったけど、場の気まずさに流され、俺は動揺で僅かに震える手で受け取ってしまった。

「どうしてここにって、聞いてもいいのでしょうか?」

 鈴原は、肩からかけていた白いマイバックを折り畳んで足下に置いた。

「ある人の瞳を追いかけていたら、ここにたどり着いた」

 不自然な咳払いを一回挟み、半分本音、半分冗談のつもりで答えると、鈴原は目を細めて笑みを消した。

「その人、気になりますね」

「鈴原が気にするような人じゃない」

「そう言われると、ますます気になります」

 鈴原の表情は柔らかいものの、声から漂う気配には僅かに鋭さを感じた。

「もうこの世にはいないんだ。だから、できればその人の話はしたくない」

 俺の言葉に、意地悪そうに笑いかけていた鈴原の表情が固まった。この世に存在しないのは里沙だけではない。千春もまた、この世には既に存在していない。

「私にも、同じような子がいるんですよ」

 変に明るい声だった。けど、鈴原のコップを持つ手は小刻みに激しく震えていた。

「千春って子なんですけど、私の大親友なんです。事故に遭ってから、なかなか会えなくなってたんですけどね」

 一瞬にして、鈴原の表情から柔らかさが消え、代わりに作られたような笑みが顔中に広がっていった。

 鈴原の言葉の意味が飲み込めなかった。千春に会えなくなったことを、まるで打ち消すような言い方が奇妙に感じられた。

「昔、千春と二人でコスプレしてたんです。このデパートで、千春と色んな時間を過ごしました。事故でしばらく会えなくなってたんですけど、また千春と会うことができるようになったんですよ」

 鈴原の嬉しそうに話す声に、俺は少しだけ寒気を感じた。あり得ないことを話す鈴原の姿が嫌でも里沙と重なり、落ち着かない気分にさせられた。

「私、千春と約束していたんです。いつも千春に迷惑ばかりかけてたから、迷惑かけないように頑張るねって。だから、千春がいなくなった後、私、すごく頑張ったんですよ。誰からも愛されてた千春みたいになろうって。おかげで今は、女王って呼ばれる存在にまでなりました。そうしたらですよ、なんと、千春にまた会えるようになったんです」

 鈴原が表情を忙しく変えながら、奇声に近いような声をあげた。

――里沙?

 鈴原の言動が昔の里沙と重なって見え、里沙の残像までもが、鈴原と重なっていくように見えた。ありもしない作り話をまるで見てきたかのように楽しげに話す里沙が、まるで目の前にいるかのような錯覚に陥った俺は、咄嗟に鈴原から僅かに視線をずらした。

「食品売り場にあるモニター、あの中に千春が現れたんですよ」

 そう説明しながら嬉しそうに微笑む鈴原からは、もはや女王としての気品は感じられなくなっていった。

 あの夜の光景が脳裏に浮かんできた。鈴原が販促用のモニターの前で意味不明な会話らしきものをしていたのは、モニターの中に千春が現れたから会話をしていたということなのだろうか。

 だとしても、あれが会話になるとは思えなかった。今以上に情緒不安定な言動を繰り返していただけにしか見えなかった。

 そもそも、死んだ人間がモニターに映るなどありえない。それなのに会話をしたといっている鈴原は、いないものが見えるほどおかしくなっているのだろうか。

「千春と色んなこと話してるんですよ。ただ、今はまだ触れることができないんです。でも、それももう大丈夫です。私が生徒会長になったら、名実共にトップに立てば、モニターから出てくると約束してくれたんです」

 鈴原の語気が一段と強くなった。ありもしない空想話だけど、鈴原はそれを信じて疑っている気配は微塵もなかった。

 鈴原の細く長い指が、ゆっくりとスケッチブックに描かれた千春の頭を撫でていく。鈴原にとって千晴の存在は、おかしくなってでも会いたい存在だというのが、痛いほど伝わってきた。

 黙って聞き続けていた俺の視界が、いつの間にか滲んでいた。体の中から沸き上がってくる感情に堪えきれなくなり、俺は頭を抱えながら顔を伏せた。

 嗚咽を漏らすと同時に、懐かしさと喪失感が同時に襲ってきた。毛布にくるまった世界の中で、くるくると表情を変えながら話す里沙の姿が、鈴原の言葉に刺激されて頭の中で鮮明に蘇ってきた。

 会いたい気持ちは俺も同じだった。もう一度里沙に会えるのなら、おかしくなることで会うことができるというのなら、いくらでもおかしくなってもよかった。

 けど、おかしくなって会うというのは間違いだ。いくら虚言を重ねて幻を追いかけたところで、それは現実逃避でしかないからだ。

 そのことを、ちゃんと鈴原に伝えるべきだろう。俺が今やらなければいけないのは、鈴原を監査した結果、生徒会長としての適正に欠ける行為を認定したとして、立候補の資格を剥奪することだ。

 里沙は万引きに癒しを求めていた。辛い現実から逃れる手段として、万引きする瞬間の高揚感を利用して傷ついた心を擬似的に癒していた。

 そんな里沙と今の鈴原が同じ症状なら、おそらく鈴原もまた、万引き依存症に陥っているはずだ。原因はわからないけど、理沙と同じようになにかから逃れようとしている感じは伝わってきた。

 もし、鈴原が里沙と同じように高揚感を利用しているとしたら、すぐに止めさせる必要がある。里沙と同じように、鈴原の精神も既に限界に近くなっている可能性があるから、急いで万引き依存症から救ってやる必要があった。

 けど、そこまで考えて、俺は言葉を口にするのを躊躇った。万引き依存症から救うために、仮に万引きの事実を元に鈴原の資格を剥奪したらどうなってしまうだろうか。

 鈴原は生徒会長になることで、千春と本当に再会できると信じている。その鈴原から立候補の資格を剥奪したら、千春と会えなくなると判断した鈴原の精神は、そのことに耐えらないのではないだろうか。

 だからといって、このまま見過ごして生徒会長に鈴原がなった場合はどうなるか。もちろん、モニターの中から千春が出てくることなどありえない。だとしたら、その現実を知った鈴原の精神は、同じくその事実に耐えられないのではないだろうか。

 どちらを選択したとしても、鈴原を追い込むことに違いはない。ただ、早いか遅いかだけの話だ。

 だとしたら、早いほうがいいに決まっている。そう決めて口にしようとしても、なにかが引っ掛かかって言葉にできなかった。なにかを見落としているような、なにか重大なことを見過ごしているような感覚が、胸の中でしこりとなって俺の口をふさいでいた。

「泣いて、いるんですか?」

 不意に鈴原の声がして、意識を鈴原に向けた。鈴原は、さっきまでの雰囲気から一転して、いつもの柔らかい表情で俺を眺めていた。

「ゴミが入った」

 俺は乾いた笑い声を漏らしながら、慌て乱暴に目を擦った。当然、ゴミが入ったぐらいで流れる量ではない涙が、右手の甲を濡らしていた。

「監査委員長さんも、辛いんですね」

 店内に流れる音楽に消えそうな声だった。

 鈴原は、大きめの瞳にたっぷりと憂いを携えたまま、俺のことを静かに眺めていた。