歩道橋から真下を見下ろしたら、死にたいと思った。
 暗闇の底にいるようなこの人生を終わりにしたかった。
 春の温かい日差しは自分の汚さを思い知らされているみたいで最高に惨めな気持ちだ。この17年の人生で自分の運命を呪ったことは数えきれない。
 歩道橋から真下を見下ろすと、忙しなく車が行き交っている。あっけなく死なせてくれるだろうか。
 手すりに足をかけ、身を乗り出す――
「死ぬの?」
 急に声をかけられ、思わず動きを止めた。後ろを振り向くと、水色のワンピースを着た同い年くらいの女子がじっとこっちを見ていた。
「……ああ。だからあっちに行ってくれ。人が死ぬところなんて見たくないだろ」
 大体飛び降りようとしてるって分かってるのに、死ぬのかなんて普通聞かないだろ。かといって飛び降りるのを止めようとする感じもない。一体何がしたいんだ。
「いろんなことを経験しないまま死ぬの?」
「もう放っといてくれ」
「ねえ、君は誰かとデートしたことある?」
「は?」
 思いがけない言葉に一瞬思考が止まった。
「その反応だとないんでしょ。いいよ。私、君とデートしてあげる」
 そう言って彼女は微笑む。その態度にカチンときた。
 俺が……今までどんな思いをしてきたか……この女に何が分かる。
「どうせ死ぬわけないって馬鹿にしてるんだろ! 俺のことなんて何も知らないくせに!」
「うん、なんにも知らない。だからいいんじゃん」
 そう言って俺の腕を掴んだ。
「お互いの事情なんてなにも知らずに、デートだけ楽しもうよ。死ぬのなんてその後でもいいんだからさ」
 一体、何を言っているんだ。
「あんた、頭おかしいんじゃないか?」
「……うん、そうかも。ほら、行こうよ!」
 変な言動に飛び降りる気も失せてしまった。俺は仕方なく彼女に引きずられて歩き出した。

「デートって言ったら何かな。遊園地で観覧車? それとも湖でスワンボート?」
 国道沿いの並木道を歩きながら、隣の彼女を横目で窺う。茶色みがかった長い髪、色素の薄い綺麗な瞳、ワンピースからのぞく白い手足。一般的に見て彼女は美人な部類なんだろう。
 だけど、見知らぬ男と二人だというのに妙にハイテンションだったり、逃げ出さないようにか俺の腕をがっちりと掴んでいるところを見るとやっぱり普通ではない。
「ねえ、君はどう思う?」
「何が目的? 金か?」
 知らない男を捕まえて連れまわす理由なんて、後で「デート代だ」とか言って金を請求するくらいしか思いつかない。
「もう! 目的とかそんなんじゃないよ」
 そう言って頬を膨らませた。
「あえて言うならこのデート自体が目的、みたいな。私は今こうやって君と並んで歩いてるだけで楽しいよ。これから何が起こるんだろうって考えてワクワクするし!」
 金のためにここまで嘘をつけるのなら大したものだ。
 まあ別に金をとられても痛くはない。飛び降りようとする男にデートを吹っ掛けるくらいだ、金よりも彼女を振り切ることの方がよっぽど大変そうだ。
「別に何もする気はないから。腕を掴まれてるから仕方なくついて歩いてるだけ」
「えー? 遊園地は? スワンボートは?」
「意味が分からない」
「じゃあ、駅ビルでウィンドウショッピングとか……」
「やめてくれ!」
 俺の声に隣を歩く肩がビクンと跳ねた。その様子を見て少しだけ胸が痛んだ。
「……悪い。人混みは無理なんだ」
 他人が多ければ多いほど自分をコントロールするのは難しくなる。苦しい思いはしたくない。ただでさえ今日はこんなにおかしな奴と話してしまっているのに。
「私こそごめんね。そうだ、私達のルールを決めようか。お互いの事情は詮索しない。なにか他にある?」
 驚かせたのは少し悪いと思っているけど、俺に譲歩しようとしているなら都合がいい。
「この腕の拘束を解いてほしい」
「放したら君、逃げちゃうでしょ」
「歩きにくいから言ってるんだけど、この条件が飲めないなら俺は君をなぎ倒してでも逃げる」
 本当はすれ違う人の視線が痛くて限界だった。なんでこんな美人がこんな冴えない男とってじろじろ見られるのもそうだし、妬ましそうに睨んでくる男は何なら替わってやりたいくらいだ。
「分かった。じゃあ、ルール追加。私が満足したって言うまで帰らないこと」
「はぁ!?」
 一体いつまで連れまわすつもりだよ!?
「それが条件。ルールはちゃんと守ってよね」
 そう言ってパッと手を離した。
「君は……ってせっかくのデートなんだから君って言うのも味気ないね。本当の名前じゃなくていいから呼び方を決めてよ」
 呼び方……本名は嫌いだからそれは助かるけど。周りを見渡すと「冷凍食品専門店」と書かれた看板が目に入った。
「じゃあ、レイ」
「冷凍食品のレイ君ね、了解。それなら私のことはハルって呼んで」
 今の季節が春だからハルってことか。これくらい適当な方が気兼ねなくていい。

 ハルについて歩いていると川沿いの道に出た。繁華街から離れたのは俺に気を使ってくれたのか。
 川沿いの桜並木は満開になっていた。ずっと先まで桜のラインが続いている。このあたりもこんなに咲いているなんて知らなかった。
「わぁー! 桜すごいねぇ!」
 ハルは無邪気に駆け出す。
「こんなに近くで見たの、いつぶりだろ……」
 そう呟いて嬉しそうに桜を眺めている。俺も外に出るのを避けるようになってから、桜なんて久しく見ていない。青空に映える薄ピンク色の花が昔は好きだったような気がする。
「綺麗だな……」
 呟くように口を出た。
「レイ君もそう思う? それじゃあいい場所見つけちゃったね」
 俺の顔を覗き込んでハルはニイっと笑った。慣れない距離感に少し戸惑う。
「桜の下を散歩しよっか。それもデートっぽいね」

「こんなに桜が満開になってるのに、見に来る人は少ないんだねぇ。穴場なのかな?」
 隣を歩くハルが言う。並木道の先には老夫婦と子供を連れた母親がいるくらいだった。どうしてそんな当たり前のことを聞くのか。
「平日の昼間だからじゃないか?」
「ああ、そっか! すっかり忘れてたよ」
 ハルは照れたように笑った。
 同い年くらいなはずだから恐らく高校生。ハルにも学校へ行っていない何か事情があるんだろう。
「あ、今なに考えてるのか当ててあげよっか?」
 俺の表情で察したのか、そう言った。
「ズバリ! 『天然なところも可愛いな。推せる』でしょ!」
 なんでそんなことを自信満々に言えるんだ。
「……お前、人生楽しそうだな」
「えへへ。褒め言葉として受け取っておくよ」
 そこで話は途切れて、俺はぼんやりと桜を見上げながら歩いた。この景色、なんだか懐かしい感じがする。昔の記憶は曖昧だからいつのことかは思い出せない。それにここは俺の生まれた場所じゃないのに。
「ちょっと!」
 その声に振り向くとハルが膝に手をついて息を切らしていた。
「はぁ、はぁ……もう、歩くの早い!」
「悪い」
 一人で歩くときは早足になるのが癖になっていた。誰かと一緒に歩くなんて普段はめったにないから感覚が分からない。
「もう、そんなんじゃいいデートは出来ないぞ!」
「デートなんて一生することないから大丈夫」
「今がデートでしょうが!」
 そう言ってハルは俺の胸目がけてグーパンを突き出してくる。俺は手の平で受け止めた。
「おのれ、小癪な……」
 ハルは悔しそうな顔をすると、両手でパンチを繰り出す。
「当たれっ! 当たれぇ!」 
 腕の軌道はバレバレで、それを受け止めることはたやすい。
「そんなんじゃいつまでたっても当たらないと思うけど」
「この……唸れ私の右腕!」
 そう言って突き出した拳は、途中で急停止した。構えていた俺の手が空を切る。
「くふふ、かかったね」
 ハルは俺を見て嬉しそうに笑う。その様子が全部嘘には見えなくて、「金が目的じゃない」というのも本当なのかもしれないと思った。それならどうして俺に声をかけたのか……まあ、そんなことは何でもいいか。
 空気を掴んだ手には何かに触れた感触があった。そっと手を開くと、中には薄ピンク色の花びらが一枚入っていた。
「ええ!? いいなぁ!」
 俺の手を覗き込んでハルは目を輝かせた。
「私も掴みたい!」
 そう言うと、ハルは夢中になって花びらを追いかけ始めた。伸ばす手は空振りするばかりで、花びらにも触れられない。
「おい、もういいだろ……」
「レイ君は出来たからっていいけど、私は全然よくないんだから! 桜を掴めるまでやめないからね!」
「はぁ……!?」
 一向に花びらを掴めそうな気配はない。いつまで続けるつもりだよ。
 その時、ハルの追いかけていた花びらが風に吹かれて車道に飛ばされた。ハルも花びらの動きに夢中になって車道へ飛び出す―――

 轟音をあげて車は遠ざかっていった。
「おい! 死にたいのか!」
 咄嗟に腕を掴んで歩道へ引き寄せた勢いで、俺達は地面に尻もちをついていた。俺を見上げたハルはおかしそうに笑う。
「ふふっ、さっきまで死のうとしていた君に言われるなんてね」
 自分が傷つくのは何とも思わないけど、目の前で人が傷つくところは見たくなかった。それに、そんなこと絶対に知られなくないけど、ハルにはほんの少しだけ情が湧いてしまっていた。
「……なんだよ」
「ううん、助けてくれてありがとう。まだレイ君とのデートを楽しみたいからね」
 そう言ってハルは立ち上がると、服についた土を払う。
「桜を掴むのは諦めることにするよ。行こっか」
 ハルは俺に手を差し出した。白くて細い腕だ。ちょっと力をかけたら簡単に折れてしまいそう。女子っていうのはみんなこうなのか?
 断るのも違う気がして、差し出された手を軽く掴んで立ち上がった。

 歩いていると、桜並木の終わりにたどり着いた。
「桜もここまでかぁ」
 立ち止まったハルが悲しそうに言う。
「そうみたいだな」
 ここまでついてきたけど、これ以上付き合ってやる義理はない。
「じゃあ、俺はこの辺で……」
 歩いていこうとする俺の腕をハルが掴んだ。
「ちょっと! 私まだ『満足した』って言ってないよ!」
「……お前なぁ、よく出会って数十分の人間にそんな執着できるな。俺がどんな奴かなんて知らないだろ。ひどい目に遭わされていたかもしれないんだぞ」
 普通に考えて男の方が力も強いんだから、危ない目に遭う可能性が高いのはハルの方だ。ここまで危機感がないのは心配を通り越して呆れてくる。
 俺の言葉にハルは薄く笑った。
「君がどんな人かなんて関係ないよ。あの場で死のうとしていたっていう事が私にとっては君の全て。正直、どんな目に遭ってもよかったんだよ」
 ハルの瞳は冷たく闇を宿していて、今までとは別人みたいだった。
「それって、どういう……」
 ハルは申し訳なさそうな顔になった。。
「ごめん、ちょっと余計な事言っちゃったね。レイ君は私にひどい事なんてしなかったんだからそれでいいじゃん。もうちょっとだけ一緒にいてよ」
 一緒にいてほしい、なんてそんなことを言われたのは初めてかもしれない。俺の顔を見てハルは微笑む。
「ねえ、あっちに行ってみよう!」
 そう言うと、俺の手を取って走り出した。

 ハルに手を引かれて走る。他人と一緒にいるのは苦手だ。他人に余計な情を持ちたくない。そう思っているはずなのに、この手を振りほどけないのはどうしてだろう。力を出せば簡単にほどけるのに。本当は、俺もハルと一緒にいたいのか……?
 ハルが立ち止まったのは、こじんまりとした雑貨屋の前だった。店先にはネコ雑貨と書かれた看板がぶら下がっている。
「ネコ雑貨だって! ちょっと見て行こうよ」
 ハルに連れられて店に入る。店内は他に客が無く、オルゴール調のBGMがかすかに流れていた。
「わぁ……可愛いねぇ」
 棚に並んだ商品を見て、ハルは声を漏らす。猫をモチーフにしたアクセサリー、猫が描かれた食器、他にもいろいろ。猫関連の商品だけで店を埋めるほどよく集めたなと感心するほどだ。楽しそうに店内を見て回るハルの後ろを俺はついて歩いた。
「猫好きなのか?」
 何となく気になって聞いた。
「うん。昔から好きでいつか飼いたいなぁってずっと思っていたんだけどなかなか難しいよね。だからこういう猫のグッズとか、猫の動画を見て楽しんでるの」
「そうか……」
 まあ、生き物を飼うのは俺達みたいな子供が勝手に決められることじゃない。アパートがペット禁止とか、猫アレルギーとか、そもそも親が猫好きじゃないとか、色々あるんだろう。
「ねえ、これとこれだったらどっちがいいと思う?」
 そう言って見せてきたのは、猫の顔の形をしたポーチと、猫のシルエットをモチーフにしたシルバーネックレスだった。
「女子のそういう質問はもう答えが決まってるから、真面目に答えるだけ損だって本に書いてあった」
 俺の言葉にハルは頬を膨らませた。
「もう! そんな身も蓋もないこと言わないの。私はそんな女じゃないもん」
 まあ……そこまで言うならいいか。
「じゃあそっち」
 俺はネックレスを指差した。
「んふふ。私もこっちがいいと思ってた! じゃあ買ってくるね」
 そう言って機嫌よくレジへ歩いて行った。結局決まってたんじゃないか。

 買い物が終わって、俺達は近くに会った公園のベンチに腰掛けた。まだ夕方と言うには早く、子供の姿はない。
「いいものが買えてよかったよ。レイ君、付き合ってくれてありがとね。家族以外とお買い物なんて、憧れてたから楽しかったなぁ」
「女子ってそういうのよくやるんじゃないのか? 友達多そうだし」
 確かにちょっとおかしな奴だとは思うけど、人生楽しそうで、明るくて、行動力の塊みたいだから、きっと陽キャで女子グループの中心にいるんだろうと思った。それなら何で今日は学校をさぼっているのか疑問だけど。
 俺の言葉にハルは空を見上げた。
「残念ながら私に友達はいませーん。あと、これ以上は事情を詮索しないっていうルールに則り、追求禁止としまーす」
「えっと、なんかごめん……」
 ハルは俺の顔を指さした。
「謝るのも禁止! なんか私が可哀想みたいじゃん」
 そう言ってそっぽ向いた。
「安心しろ。俺も友達いないから別に可哀想とかは思ってない」
 俺の言葉にハルは吹き出した。
「ふふっ、私達ボッチ同盟だね」
「嫌な同盟だな」
「友達とカフェでお茶したり、彼氏と遊園地に行ったり、そういうのって憧れるけど私には無理な話だなって思っちゃう。諦めるなんて、周りからしたらまだ頑張りが足りないんだろうけど」
「頑張ってるかどうかは自分が決めることだろ」
「えっ?」
 驚いた顔で俺を見つめる。
「周りからどう思われるかなんて関係ない。自分が頑張ってると思うならそれでいいだろ。それでもとやかく口を出してくる奴のことなんて放っておけ」
 すると突然、ハルは声をあげて笑い始めた。
「あはは、放っておけって……レイ君、面白すぎ。でも、そうだよね。私は頑張ってる! だからそれでよし! なんだ、そんな簡単なことだったんだ」
 そしてハルは俯いて呟いた。
「やっぱり君を選んで正解だった」
 その言葉の意味が分からなくて、反応に困った。すると突然、ハルは立ち上がった。
「あ! 猫だ!」
 そう言って、公園の茂みの方に走って行く。
「おい、また道路に飛びだしたりするなよ!」
 俺の言葉にハルは足を止めて振り向いた。
「もしそうなったら、またレイ君が助けてくれるんでしょ?」
 そう言って笑う。あんなのはもうごめんだ。
 ハルは足音をひそめて茂みの側に近づいた。なんとなく放っておくのが心配で俺も後ろに続いた。茂みの陰を二人で覗き込むと、小さな三毛猫が丸くなっていた。
「可愛いねぇ」
 ハルが小声で言う。本当に嬉しそうな顔に思わず胸がウッとつっかえる。こんな感覚は知らない。
「……そうだな」
 その時、俺の電話が鳴った。その音で猫が逃げて行ってしまう。
「悪い」
 俺はすぐに電話を切った。
「猫のことは仕方ないよ。電話、出ないの?」
「ああ、もういいんだ」
 また電話が鳴り始めた。
「また鳴ってるよ?」
「ちょっと行ってくる」
 仕方なくその場を離れた。

 俺の電話番号を知ってるのは一人しかいない。電話に出ると、聞きなれた低い男の声がする。
『もうお前の家の前についてるぞ。居留守か?』
「仕事には行かない」
 それだけ言って電話を切った。

「よかった、ちゃんと戻って来てくれて」
 ハルはベンチに戻ってきた俺を見て言った。
「勝手に帰ったらさすがに後味が悪いからな」
 そう言って隣に座る。
「そっか、そうだよね。今日はすっごく楽しかったよ。もっと一緒にいたいけど、満足してあげる」
 変な言い方に思わず笑ってしまった。
「ははっ、何だよそれ」
 ハルは俺に手の平を差し出した。
「はい」
「なに、金か?」
 ほんの冗談のつもりだった。
「うん、そう」
 ハルは真面目な顔でそう言った。
「は……」
 予想外の返答に思わず声が漏れた。金目的じゃないって言ってたじゃないかよ……なんだ、結局人っていうのは金が全てなんだ。こいつは違うんじゃないかって、そう思ってたのに。
 ……まあ、いいや。金なんて別に必要ないんだから。
「いくら欲しいんだ」
「百円」
「は……?」
 俺の反応を見てハルは照れたように笑った。
「だって、このまま終わりにしたら、私達本当のデートをしたことになっちゃうでしょ? 今日はすっごく楽しかったけど、だからこそ、レイ君の初デートを私が奪っちゃうのはよくないなって思ったの。レイ君がお金で私を買ったってことにすれば、本当の初デートは好きな人とするときに取っておけるなって」
 本当のデートにしないために自分のことを金で買わせるって、どういう発想だよ。
「……あんた、本当に頭おかしいんじゃないか?」
 俺は財布から百円玉を取り出して、ハルの手に乗せた。
「これでいいか」
「うん! あと、せっかく私を買ってくれたハル君にはプレゼントがあります」
「買ってくれたって……」
 ハルは四つ折りになったメモ用紙を渡してきた。
「私からの手紙。恥ずかしいから家に帰ったら読んでね」
「手紙っていうより紙切れなんだけど」
「もう! だってちょうど持ってたのがそれしかなかったんだもん! 私のことを後から思い出してもらえるように書いたんだ。ちゃんと読んでよね」
 ハルは立ち上がった。そして俺の方を見る。
「じゃあ私は行くね。また会った時は、買われてあげてもいいよ」
「何だよそれ……」
「バイバイ」
 そう言ってハルは歩いて行った。

 ハルの背中が見えなくなるまで、ただぼんやりとその姿を目に映していた。突然現れて、俺の感情を引っ搔き回して去っていく。ほんと、嵐みたいな奴だった。俺は今日、死のうとしていたんだぞ。それなのに今日がこんな終わりを迎えるなんて、昨日の自分は思いもしなかった。
 
 気が付けば辺りは夕焼けに染まっていた。長い時間、ぼうっとしてしまっていたみたいだ。
「おい(あかね)、探したぞ」
 その声に顔を上げる。そこに立っていた男の顔を見て一気に現実へ引き戻された。茶色がかった長髪で歳は四十くらい。真っ黒なスーツを着込み、ほのかに煙草の匂いがする。
 黒瀬圭(くろせけい)。俺の書類上の保護者であり、雇い主。
「なんでここにいるんだよ」
 吐き捨てるように言う。
「なんでって、わざわざ迎えにきてやったのにそんな態度はないじゃないか。茜のそのスマホ、ちょっと細工がしてあって位置情報が俺のスマホに送られてくるようになってるんだよな」
 俺はスマホを振りかぶった。
「おっと、そのスマホ高かったんだよなぁ。弁償するにはもっと働いてもらわないとな?」
「クソッ……」
 仕方なく腕を下ろした。
「引きこもりの茜がこんな時間まで外に出てるなんて珍しいじゃないか。何かあったのか?」
「あんたに言う筋合いはない」
「そんなのひどいじゃないかよ。俺と茜の仲だろ?」
「雇用者と被雇用者の関係でしかないな」
「はあ、まあ茜が素直じゃないのは昔からだからな。世間話はこのくらいにしようか」
 そう言って一息つく。その瞬間、圭の纏う雰囲気が変わった。
「仕事の時間だ。車に乗れ」
 有無を言わせない威圧感。このピンと張り詰めたような空気感は仕事を始めて二年も経つのにまだ慣れない。
 嫌だなんて言えるはずもなく、近くに止められた真っ黒なバンの後部座席に乗り込んだ。

 車は静かに走り出す。いつの間にか日は完全に落ちて、街には夜の気配が漂っている。窓を流れる風景は郊外の国道沿いから、都心のチカチカと目を刺す繁華街へ移り変わった。
「必要なものはそのバッグに入ってるから支度しておけ。あと20分で今日の客との約束の時間だ」
 側に置いてあったボストンバッグを開けると、中には黒いスーツ一式とワックスが入っていた。車の窓ガラスは外から見えない仕様になっている。
「ああ、そうだ。今日の客の情報をスマホに送ってるから、一応目を通しておけ。今日は議員先生だとよ」
 そう言われて仕方なくスマホを開く。送られてきた資料には、ご立派な経歴と仏頂面の中年の男の写真が載っていた。
 スーツに着替え、ワックスで前髪を上げる。ここまで来たらもう逃げることは出来ない。

「着いたぞ」
 車が止まったのは、高級ホテルの裏だった。
「ホテルの裏口に案内役がいるから、そいつに連れて行ってもらえ。それじゃあ、明日の朝またここに迎えに来るから」
「……ああ」
 車を降りると、風が頬を撫でた。行きたくないと心は重いのに、足は勝手に歩みを進める。
 ホテルの明かりを頼りに進んでいくと、建物の前にスーツの男が立っていた。
「お待ちしておりました、アカネ様。ではご案内いたします」
 そう言って、ホテルの中へと入って行った。入るとそこは一般的なロビーではなく、エレベーターが一台あるだけの薄暗い空間だった。
「ここは専用のカードを持った人間のみが使用できるエレベーターホールになっております。止まる場所も専用フロアのみで、一般のお客様と顔を合わせることはないのでご安心ください」
 エレベーターの扉が開いて中へ乗りこむ。行き先階のボタンがあるはずの場所には代わりにカードリーダーがついていて、男がカードをかざすとエレベーターは滑らかに動き出した。
 数秒ほどでエレベーターが止まって再び扉が開く。煌びやかに照らされたフロアには一組のテーブルセットがあり、そこに中年の男が座っていた。
 俺と目が合うと、男は満面の笑みで立ち上がった。
「お待ちしておりました。さあさあ、どうぞこちらへ」
 資料の写真とは違う、わざとらしいほどにこやかな笑みを張り付けたこの男が今日の客だ。
 テーブルにつくと、男も向かいの席に腰掛けた。
「いやあ、お会いできて光栄です。私は議員の松沢勇作(まつざわゆうさく)と申します。先生、ぜひ握手を」
「……接触は禁止していると契約書にも記載があったと思いますが」
 仕事を始めたばかりの頃、媚を売るように俺に触ってくる客がいた。ただでさえ知らない大人に合って気持ちが悪いのに、触られたところからぞわぞわと悪寒が走った。気持ち悪さと腹立たしさに支配されることは仕事にも支障をきたし、接触禁止を誓約書に追加した。
「ああ、そうでしたね。これは失礼しました」
 そう言って手を戻した。
「それにしても、『任意の相手に直近で起こる不幸を夢で見ることが出来る』なんて俄かに信じがたいお力ですね」
「任意ではなく、眠るまでに強く印象に残った人間の夢です。信じられないのであれば、今からキャンセルいただいても一向に構いません」
 俺は昔から他人の不幸を夢で見ることが出来た。そのせいで親から見放され、こんな仕事まですることになった。まあ普通ならそんな話、信じられるはずもない。
 言葉に棘が入っても、松沢が笑顔を崩すことはなかった。
「いやいや、ご冗談を。信じられないほど素晴らしいお力だと言いたかったのです。先生のお力を借りれば、私の目的もすぐに達成できそうですよ。そうだ、これ」
 そう言って男はバッグからファイルを取り出して、写真を机の上に並べた。
「これが先生に見ていただきたい、扇田初一郎(せんだはついちろう)という男です」
 隠し撮りをしたようなその写真には、黒いメガネをかけた生真面目そうな中年の男が映っていた。
「扇田とはこれから始まる選挙で同じ選挙区を争うことになるのですよ。人間、叩けば埃は出てくるもの。先生には是非その埃を見つけてほしいのです。それが公になれば、扇田の票は私へ流れる。それで私の目的は果たされるということです」
 そう言って松沢は笑った。どうしてそんなことを言って笑える。俺に依頼してくるそうな奴は揃いもそろって下衆ばっかりだ。
「先生に夢を見てもらうために、扇田の話をしないといけませんね。話は夕食を取りながらにしましょう。料理人を呼んでいるので好きなものを頼んでください。なんでも用意しますよ」
「……じゃあ、カレーで」
 パッと思いついたものがそれだった。別になんだってよかった。
「そんなものでいいのですか? 先生のためなら、寿司でもステーキでも極上のものを用意しましたのに。それでは最高級のカレーをお出ししましょう」
 そう言って松崎がパンパンと手を叩くと、あの案内役の男が背後からやってきた。松沢が耳打ちすると、案内役の男は「かしこまりました」と言ってまたどこかへ消えていった。
  
 料理がやってくるまで、松沢は上機嫌でペラペラと話していた。自分がいかに優秀な人間で、いかに社会の役に立っているかという話だったと思うが、理解する気にもなれなかった。
 案内役の男は、松沢の前に寿司と徳利を、俺の前にはカレーライスを置いて去っていった。
「星を取ったレストランのシェフに作らせた最高のカレーですよ。どうぞお召し上がりください。いやぁ、扇田の悪口を言えるなんて今日は酒が美味いな」
 松崎はそう言うとお猪口に注いだ酒を飲み干した。
「扇田は私と同学年で、議員秘書になったのも同じ頃でね。あの頃から気にくわない奴だったんですよ。それから議員に初当選してからも何かと『扇田』の名前を目にすることが多くて、私の華麗なる出世街道を阻む、厄介な奴でした」
 目の前のカレーライスを一匙、口へ運ぶ。味のしないその塊を水で流し込んだ。
「扇田は真面目で誠実な人間だと世間では思われているようですが、本当は違う。ただの堅物ですよ、あれは。あんな融通の利かない男、どうせいつか頭打ちになるに決まっている。それならさっさと政界から引退させてやるのも、優しさってもんだよ。ハハッ」
 それから松沢は、嘘か本当か分からない扇田の悪口を延々と話した。会ったこともない人間の印象を強く持つには、よく知る人間から話を聞くしかない。どんなに口汚い暴言も、夢を見るためには必要なピースだ。仕事のためには一言も聞き漏らすことは許されない。そうすることが体に染みこまされていた。
「いやぁ、実に楽しい時間でした。先生にはこの階に部屋を取っていますから、そちらを使ってください。明日の朝はまたこの場所で会いましょう。朝食を取りながら、是非たっぷりと夢の話をお聞きしたい」
 松沢は酒で上気した顔で笑みを浮かべた。
「それでは先生、よろしくお願いしますね。ゆっくりとお休みください」

 用意された部屋には大きなベッドが二つ並んでいた。その一つに倒れこむ。
 大抵、仕事の時はホテルのVIPルームで客と会い、それが終わったらすぐにベッドのある部屋へ通される。客の話を聞いてから、他の人間に会って意識を逸らされないようにするためだ。こんな無駄に高い部屋を取らなくたって、金をもらっている分、不幸は見てやるのに。こんなところでもご機嫌取りをされているみたいで気分が悪かった。
 暴言を延々と聞かされて頭が痛い。最悪な気分なのに、瞼は重たく閉じる。
 ……本当は眠りたくない。また夢を見てしまう。
 瞼の裏には嬉々として扇田の悪口を話す松沢の姿が浮かんだ。

 翌朝、またあの場所で松沢と向き合っていた。テーブルには湯気が立ち昇るパンや色鮮やかなサラダが並んでいる。
「先生、昨晩はよく眠れましたかね」
 不幸の夢は翌朝もはっきりと記憶に残っている。そうじゃなければそもそも仕事にならないけど、昔から夢はよく覚えていた。俺が夢で見られるのは不幸の内容だけで、その不幸が実際にいつ起きるのかまでは分からない。偶然テレビのニュースが流れていたり、特定できるような要素があれば別だけどそんなことはそうそうない。それでも客は俺の夢で見た内容から情報をかき集めて、自分の私利私欲のために利用する。
「さあ、夢の話を聞かせてください」
 松沢は期待に満ちた目で俺を見てくる。その視線が嫌で顔を逸らした。
「……扇田は離婚の話し合いで揉めているようです。離婚の原因は扇田の亭主関白で、子供の親権や資産の分配で意見が対立しています。近々、家財が壊れるほどの大きな喧嘩が起こります」
 名前すら知らなかった他人の出来事なんて実際には俺が居合わせるはずもないけど、夢の中ではまるで自分もその場にいるような臨場感で展開される。目覚めていればそんな他人の不幸なんてどうだっていいと思えるのに、夢の中だけは勝手に共感して勝手に疲弊する。
「離婚か。ネタとしてはちょっと弱いけど、記者に張らせれば喧嘩の様子は記事に出来そうだな……ありがとうございます、先生」
 そう言って満足そうな笑顔を見せた。下衆め。
「あなたは愛人を作るのをやめておいた方がいいですよ。顔も忘れた昔の愛人に記事を売られてしまいますから」
 俺の言葉に松沢から笑顔が消えた。そして席を立つと、吐き捨てるように言った。
「気持ち悪」
 足音が遠ざかっていくのを背中で聞く。やがて足音は聞こえなくなった。
「……クソっ」
 俺は席を立った。

 ホテルから出ると、昨日と同じ場所に黒塗りの車が止まっていた。後ろの席に乗り込む。
「ご苦労だったな」
 車は朝の街をゆっくりと走りだした。
「今回の客はどうだったんだ? 常連になりそうか?」
「……もう、この仕事辞めたい」
 自然と言葉がこぼれた。
「お前、この仕事辞めてどうやって稼いで生きていくつもりだ?」
 運転席から苛立ったような声が飛んでくる。ああ、まただ。
「何度も言ってるけど、まともな学歴も才能もないお前に誰が金を払う? 俺はお前を養ってやるようなお人よしじゃねえぞ。この仕事を続けていれば一生金に困ることはない。何度も言わせるな」
 俺が辞めたいというたびに、「お前にはこの仕事しかないんだ」と否定される。自分でも分かっている。中学も高校も行っていないのにまともな仕事に就けるはずがない。それでも、あんな下衆から稼いだ金で生きている俺は、あいつよりもっと下衆じゃないのか?
 しばらくすると、ボロい一軒家の前で車が止まった。
「次の依頼は来週の金曜日だ。また迎えに来る」
 返事はせずに、車を降りた。

 俺が圭に引き取られたのは、四年前の母親の葬式の時だった。
 両親は一年前に離婚。母親が死んだ今、目の前では俺を誰が引き取るかという話し合いがされていた。
『あんたのところは子供がいないんだからいいじゃないの』
『馬鹿言わないでよ。毎日自分の不幸を聞かされるなんて、堪えられたもんじゃないわよ』
『菊子の死因は事故ってことになってるけど、本当は自分からホームに飛び込んだんじゃないか? ここ最近は様子がおかしかったし、それもあの子の影響なら納得できる』
『こっちまで不幸にされたらたまったもんじゃないな』
 離婚してから母は狂ってしまった。手を上げられはしないが、俺を恐れ、忌み嫌っていた。
 離婚を決定づけたのは俺の夢が原因だった。二人きりで暮らすのは初め苦痛だったが、最後の方はほとんど空気みたいだった。
 だからもう母親に愛情はなかった。家に親戚だという大人がやってきて母親が死んだと聞かされた時も、悲しいとは思わなかった。
 ここにいる大人たちは俺の存在が邪魔らしい。もう何も感じなかった。
 その時、葬式場の扉が勢いよく開いた。一斉に音の方を振り向く。
『不幸の夢を見るっていうガキはどこだ?』 
 ぼさぼさの髪に無精ひげ、Tシャツ姿の男は、明らかにこの場に不釣り合いだった。
『圭! お前が何でここにいるんだよ!』
 そう言って親戚の男は胸ぐらを掴んだ。
『昔に縁を切った弟が来たからって、そうカッカするなよ兄さん。俺はあんた達に用がある訳じゃないんだからさ』
『……チッ』
 そう言って手を離した。
 解放されたその男はゆっくりとあたりを見回す。そして、俺と目が合った。
『どうせ誰が引き取るかって揉めてたんだろ? それなら俺がもらって行ってもいいよな』
『おい、勝手に決めるんじゃ……』
『じゃあ、あんた達が引き取るのか?』 
 その言葉に辺りは静まり返った。男は俺に目を向ける。
『おい。こんなクソみたいな場所、さっさと帰るぞ』
 そう言って足早に去っていく。その背中を追いかけた。

 それから俺は圭と暮らすことになった。圭の家がある都心の街に引っ越す朝、俺はその身一つで圭の車に乗りこんだ。十年以上暮らした家を離れることに何の未練もなかった。
 圭は俺の父親ではなかった。自分の子供として愛されていると思ったことはないし、手料理を作ってくれたこともなかった。でも、俺のことを恐れたり、気持ち悪がったりしない圭との暮らしはそんなに悪くなかった。
 学校へは行かなかったけど、部屋にあったテレビや本からある程度の知識はつけることが出来た。だから、圭が電話で話している内容や夢で見る圭の不幸から「まっとうな仕事をしている人間ではない」と分かった。でもそんなことは俺には関係なかった。

 圭と暮らし始めて二年が経った。その頃には、本を読んで面白いと思えるようになっていた。
『茜、これからお前には仕事をしてもらう』
 突然、圭はそう言った。
『俺がお前を拾ったのは親切じゃない。お前が金になるからだ。今まで食わせてやった分、働いて返せ』
 そう言われた時、胸が少し痛んだのが不思議だった。圭は何もおかしなことを言っていない。働いて返すのは当たり前だ。
『分かった』
 それから俺は圭に言われるまま仕事を始めた。圭からはいろんなことを仕込まれた。客に舐められないように身だしなみには気を使え。歳が上だろうが偉い仕事をしていようが、毅然とした態度で接しろ。信用がなくなったら終わりだから仕事には必ず穴をあけるな。初めの頃は一件一件の依頼をやり遂げるのに精いっぱいだった。でも慣れて余裕が出てくると、自分が今どんな仕事をしているのか、頭で分かってしまった。
 客は決して安くない金を払って俺と会う。そして嬉々として誰かの悪口を話し、俺から不幸の内容を聞いて満足そうに帰っていく。俺は誰かにとっては疫病神で、別の誰かにとっては神様らしい。
 ずっと何も感じなければよかった。金のためだと割り切ることが出来ればよかった。
 でも、仕事をするたびに、金が入るたびに、心は暗く曇っていく。人の不幸で生かされている俺は、醜い存在なんだと思い知る。そのころから何を食べても味がしなくなった。
 圭と暮らすのも息苦しくなって、一人で住みたいと切り出した。初めは反対されたが、結局は人気の少ない場所に立つ、この古びた一軒家を用意してくれた。
 
 家に着いて、真っ先に風呂場へ向かう。この胸糞悪さを熱いシャワーで洗い流したかった。
 ズボンを脱ごうとすると、ポケットからクシャっと紙が折れる音が聞こえた。手を突っ込むと、くしゃくしゃになった紙切れが出てきた。
「これ……」
 あいつがデートだとか言って勝手に連れ出して、去り際に渡してきた紙切れ。そう言えばここに仕舞ったんだった。その紙を開く。そこには右肩上がりの、少し癖のある文字が並んでいた。

『レイ君へ

 今日は一緒にデートしてくれてありがとう。あの歩道橋でレイ君に思い切って声をかけてよかった。だってすっごく楽しかったから!
 
 川沿いの桜、綺麗だったね。一緒に見た雑貨屋さん、可愛かったね。ベンチで並んでおしゃべり、楽しかったね。

 私、今日がこんなに楽しい一日になるなんて思ってなかった。レイ君のおかげ。レイ君も私との時間を楽しいって思ってくれてたら嬉しいな。

 また会いたいな。

 レイ君に初めて買われたハルより』

「何だよ、これ……」
 胸の中がぐちゃぐちゃになって、その場に膝をついた。
 やめろよ。俺といて楽しかったなんて言うなよ。また会いたいなんて言うなよ……
「クソっ……」
 しばらくその場から動くことが出来なかった。

 ハルと会ったあの日からひと月が過ぎた。その間に俺は数回仕事をし、そのたびに最悪な気分になったが、歩道橋から飛び降りようとは思わなかった。状況がなにか良くなったわけではない。それなのに、あの時ほど思いつめることがなかったのは自分でも不思議なくらいだった。
 週に一回程度の仕事以外で外出することはほとんどない。必要なものは通販で頼めば済むし、とにかく人に会いたくないからだ。もし万が一、外で会った誰かのことを眠る直前に思い出してしまったらと思うと、人目を避けるようになっていた。
 ただし月に一度、例外があった。それは定期健診の日だ。一人暮らしを始めるときに、圭から義務付けられた。圭にとって俺は金を生む「商品」なわけだから、急に使えなくなったら困るんだろう。
 いつもの検診の帰り道、足は自然とあの歩道橋へと向かった。歩道橋の上から真下を見下ろすと、忙しなく車が行き交っている。
 あの日も検診の帰りだった。今夜は仕事だと思ったら嫌で嫌で仕方なくて、歩道橋の上に差し掛かった時に、「死のう」と唐突に思いついた。
 あの時ハルに会わなかったら、きっともうこの世に俺はいない。どちらの選択が正しかったのか、まだ俺には分からなかった。
「死ぬの?」
 急に後ろから声がして振り返る。そこにはハルの姿があった。
「また会えたね」
 そう言って微笑む。ドクンと心臓が跳ねた。
「……なんで、ここにいるんだよ」
「何でって……せっかく久しぶりに会えたのに、レイ君はそんなことが聞きたいの?」
 そう言われて言葉に詰まる。あの手紙を読んで言いたいことはたくさんあった。でも本当の名前も連絡先も知らないのに会えるはずがないと思って諦めていた。急に目の前に来られても、上手く言葉が出てくるはずがない。
「時間あるなら、また私のことを買ってくれてもいいよ。死ぬのなんて今度にしなよ」
 君は突然やってきて心をかき乱す。
「ほら、行こう!」
 ハルがくるっと背を向けると、黄緑色のロングスカートが風になびいた。

「なあ、今はどこに向かってるんだ?」
 ハルは住宅街の中を進んでいく。スマホで地図を確認する様子もないし、目的地への道のりは頭で分かっているんだろう。
「んー、ヒントはデートっぽいところかな」
 デートという言葉から連想される場所を、少ない知識からかき集める。
「……映画館、とか?」
「映画館もいいね。でも不正解。じゃあもう一つヒントをあげるね」
 そう言って自分の首元に手を伸ばし、服の中に隠れていたネックレスを取り出した。猫のシルエットが揺れる。
「これって、前の……」
「そう! 前のデートで茜君と選んだネックレス! 覚えててくれたんだ」
 ハルが嬉しそうに笑うから、なんだか恥ずかしくなる。
「まあ、な。俺と選んだというか、初めからハルの中で答えは決まってた気がするけど……」
 俺の言葉にハルはむくれた。
「そんなことないもんね。ほら、回答は?」
 さすがにそのままアクセサリーショップが答えってことはないだろう。それなら、モチーフになっている猫がヒントってことか。
「猫カフェ……いや、動物園か?」
「ピンポン! だいせいかーい」
 楽しそうなハルとは対照的に、俺は困ってしまった。
「正解はいいんだけど、前にも言ったように人の多いところは……」
「大丈夫。人のいない動物園だから」
 そう言って住宅街を抜けると、目の前には青々とした木々が生い茂っていた。
「この中にあるんだよ」
 ハルは木々の間にある舗装された小路を進んでいった。小路が終わると、目の前が開けた。
「この公園はね、広場や遊具はもちろん、おっきな池と動物園もあるんだ」
 目の前には左右に大きく広がる水面。真っ直ぐに伸びた橋の向こうには広場が見える。
 ハルに続いて橋を渡っていると、急に後ろを振り向かれた。
「なんか、橋の上ってワクワクしない?」
「いや、別に……」
「ええ? 水の上を歩いてるっていうか、水と近くにいられる感じがして私は好きなんだけどな」
 ハルは不満そうに言うと、俺の目を見つめた。
「じゃあ、レイ君は何が好き?」
 好きなものなんて、考えたこともなかった。いつもただ生きているだけで、何かを好きだと思えたことなんて一度もない。いや、遠い昔にはそう思えるものもあったような気がする。ただその感情を思い出すことは出来なかった。
「特にないな」
「そっか。じゃあ、これからたくさん見つかるといいね」
 面白みのない俺の答えにハルは優しく微笑んだ。

 公園の中にある動物園は閑散としていて、俺たち以外の客は見当たらなかった。
「ほら、ここならレイ君も安心でしょ?」
 ハルは得意そうな顔で笑った。
「よくこんな場所知ってたな。来たことあるのか?」
「まあ、ちょっとね。休みの日はもっと賑わってるみたいだけど、今日は月曜の昼間だから。あと、展示されてる動物がちょっと特殊でね」
 そう言って近くにあった園内マップの看板を指さす。
「鳥ばっかりだな……」
 インコ、オウム、フクロウ、フラミンゴ……一応、ニホンザルやリスなんかもいるみたいだけど、園内の端の方に追いやられている。
「まあそんなことで人は少ないから、ゆっくり見て回ろうよ。手でも繋いじゃう?」
 ハルは煽るように俺の顔を覗き込んだ。
「遠慮しておく」
「もう。せっかく可愛い女の子から誘ってるのに」
「誘いに乗った後に、『これは追加料金です』とか言うんだろ」
「ふふっ、何それ! ……じゃあ、そういうことにしておこっかな」
 そう言って顔を逸らした。

 順路に沿って園内を進むと、始めに出てきたのは鷹の檻だった。背の高い檻には二羽の鷹が木の枝に止まっているのが見えた。
「鷹ってかっこいいねぇ」
 ハルは檻のすぐそばまで近づいて、凛々しくたたずむその姿に目が離せなくなっていた。
「そうだな」
 動物園なんて、前に来たのは小学校の遠足だった気がする。その時のこともぼんやりとしか覚えていないけど、今になってこの風景を見ると思うところがあった。
「こんな檻の中じゃ、外に出たいって思うだろうな」
 思わずそう呟いた。
 悪夢と仕事に縛られてどこにも逃げることの出来ない自分の姿と重なって息が苦しくなった。嫌なことから全部解き放たれて自由になりたい。そんな淡い希望を持っているからこそ、天真爛漫に振る舞うハルは眩しくてつい引き寄せられてしまう。
「でも、外の世界じゃこの子達は生きていけないんだよ」
 そう話すハルの声はどこか寂しそうで、思わず隣に顔を向けた。たまに見せるハルのこんな空気は一体なんなんだろう。いつもの明るさとは程遠く、哀愁をまとっている。
 ハルは俺の視線に気づいてこっちを見ると、優しく笑った。そしてまた檻の中に視線を向ける。
「外に出られないとしても、この子達はこの場所で幸せに生きているんじゃないかな。動物ってストレスを感じると毛をむしったり異常行動を見せるんだけど、この子達にはそんな様子がないから。きっとここの飼育員さんたちに愛情をこめてお世話してもらっているんだよ。これは私の願望かもしれないけどね」
「……俺もそう思うことにするよ」
 俺とここの動物は違う。それなのに勝手に自分の姿を重ねて苦しくなって馬鹿みたいだ。ハルの持つ優しいレンズを通して見ると世界はこんなにも温かくなる。俺も見習いたいと思った。

「ねえ、せっかくだからゲームしない?」
 さらに園内を進んでいると、ハルがそう言いだした。
「ゲーム?」
「うん。一人が条件を出して、それが達成されたらもう一人に一つ質問が出来る。質問には必ず正直に答えること。ただし、その条件はここにいる生き物たちに関することで、極端に簡単なのは禁止とする。どう?」
「まあ、いいけど……」
「よし! じゃあまずは私からね」
 順路に沿って歩いていくと、目の前の檻にはフクロウが一羽、木に止まっていた。眠たいのか、ウトウトして瞬きを繰り返している。
 ハルは声を潜めた。
「それじゃあ条件は、『このフクロウがあと三十秒以内に眠ること』。いくよ? いち、に……」
 ハルが数字を数えているうちにも、フクロウは眠ってしまいそうだった。
「……にじゅうよん、ねえ、寝ちゃったみたい」
 フクロウの瞼は完全に閉じていた。
「条件を達成したということで、私からレイ君に質問です」
 質問って、ハルは何を聞きたいんだろう。
「昨日は何してたの?」
「え?」
「質問には必ず正直に答えること、だよ?」
 昨日は、仕事もなかったから一日家にいた。
「ずっと家にいたよ」
「家では何するの?」
「大した事してないけど、本を読んだりとか。知り合いが勝手に本を家に置いていくから、何となく読んでるだけで……これ、聞いてて楽しいか?」
「うん。とっても」
 ハルは満足そうだった。俺の本名とか、もっと個人情報に関わることを聞いてくるんだろうと身構えていたから拍子抜けだった。でもまあ、波瑠がそれでいいならいいか。
「次はレイ君の番だよ。どんな条件にする?」
 俺は手にしていた園内マップを広げた。園内の中央には円形の檻があり、ハシビロコウが展示されている。ここの目玉らしい。
「じゃあ、このハシビロコウが羽を広げることが条件」
 俺の言葉にハルは目を見開いた。
「レイ君、分かってる!? ハシビロコウって動かない鳥って言われてるんだよ? ……ははあ、さてはレイ君、私の更なる魅力を知るのが怖いんだね?」
「ほら、行くぞ」
「ちょっと! 乗ってくれないと私が変な子みたいじゃん!」
 ハルは怒ったように頬を膨らませた。
 きっと俺達は何も知らない関係の方がいい。でももし、君に質問するチャンスを得られたなら、その時は一歩踏み出してもいいのかもしれない。
 オウムのいる檻を曲がると、視線の先に目的の場所が見えた。
「え……え? だって、動かない鳥って言われてるんだよ? なんでそんな、羽ばっさばっさして動き回ってるの!?」
 ハルはハシビロコウを見つめて、興奮したように言った。
「すごいよハル君! きっと激レアだよ!」
 正直、俺も驚いた。背中を押されたような気がした。
「なあ、どうして手紙に『また会いたい』なんて書いたんだ」
 俺の言葉にハルは振り向く。
「理由をつけるなら、レイ君のことが好きだからだよ」
 ハルは世間話のように言った。
 この「好き」に深い意味なんてない。そう分かっているのに、ハルのことを真っ直ぐ見られなくて顔を逸らした。

 園内を一周して、俺達は出口へ向かった。進む先から、がやがやとした声が聞こえる。
 動物園の正門を出ると、広場にキッチンカーが止まっていて、そこに数人が並んでいた。
「レイ君、クレープ屋さんだって! 一緒に食べようよ」
 そう言ってキラキラした目で俺を見つめるハル。何を食べても味なんて感じないけど、それを説明して困らせたくはなかった。
「……分かった」
 俺はチョコバナナ、ハルはハムサラダクレープを注文した。商品を受け取ってベンチに腰掛ける。ハルは嬉しそうにクレープを頬張った。
「んー、美味しい!」
「甘くないクレープって邪道じゃないか?」
「ノンノン、分かってないなぁレイ君は。この甘じょっぱいがいいんじゃん。この良さを知らないなんてもったいないね」
 そう言うと、俺に食べかけのクレープを差し出した。
「ん」
「え?」
「食べる?」
「いや、いい……」
 この誘いはきっと罠だろ。まだ二回しか会ったことない男に食べかけのクレープなんて普通渡すか?
「ええ、つれないなぁ。というか、私が一口上げるからレイ君のも一口もらう作戦だったんだけどな」
「結局こっちも食べたいんじゃないかよ」
「えへへ、まあね」
 俺はハルにクレープを差し出した。
「ほら」
 ハルは食べようと身を乗り出して、途中でやめた。
「あれ、レイ君まだ一口も食べてないじゃん。最初の一口をもらうのは何か悪いよ」
 なんだその遠慮かよく分からない心情は。
「いや、別に……」
「ほら、食べて食べて」
ハルに見られていると思うと無駄に緊張する。せめて不味そうな顔に見えなければいい。俺は一口齧った。
「……美味い」
 バナナの甘さ、チョコの濃厚さ、生地のバター風味。ずっと忘れていた味が鮮明に感じられる。
「うんうん、そうだよね! それじゃあ、遠慮なく」
 そう言って俺のクレープに噛みつく。
「んんー、やっぱりチョコバナナもいいよね!」
 能天気そうに笑う顔。何かを食べて美味しいと感じられることが俺にとってどれだけすごい事かなんて、君に分かるはずがない。でもそれでいい。
「ありがとう、レイ君」
「……ああ」
 今日は自分が普通の人間になったような気がした。

 クレープを食べ終わると、ハルは立ち上がって大きく伸びをした。
「んー……はぁー、満足満足、ってあれ!?」
「ん? どうした?」
 俺の方を向いたハルは真っ青な顔で首元を押さえた。
「ネックレスが……ない」
 そう言われて首元を確認すると、確かにあのシルバーネックレスがなくなっていた。
「どうしよう……せっかく一緒に選んだのに……」
 ハルは肩を落とした。俺はベンチから立ち上がって、そのしょんぼりとした肩に手を置く。
「分かったから、探しに行くぞ」
「え……いいの?」
 ためらいがちに俺を見上げた。
「あれは俺が選んだネックレスでもあるからな」
「……素直じゃないなぁ。でも、ありがと」
 そう言って笑って見せた。

 ハルが俺にネックレスを見せた公園の手前のあの場所から、今日の道順を二人でなぞって歩く。ネックレス一本なんて、茂みや池に入っていたらきっと見つけられない。そう思ってはいるけど、探さずにはいられなかった。

「見つからなかったね……」
「そうだな……」
 俺達は橋の手すりに寄りかかってため息をついた。動物園も広場もくまなく探したけど、結局見つけることは出来なかった。
「うん、まあ、仕方ないよね。あのお店に行けばきっと同じものが売ってるだろうし」
 ハルは無理に明るい声を出した。そのことに胸が痛む。でも今はこの雰囲気に乗ってあげるのが最適手なんだろうか。
「ああ、俺がいくつでも買ってやるよ」
「わぁ、レイ君お金持ち。でもさ、もしこれがおとぎ話だったら、この池の鯉が『あなたが落としたのはこの金のネックレスですか。銀のネックレスですか。それとも普通のネックレスですか』って出てきてくれるんだろうなぁ」
 ハルは真下の池を優雅に泳ぐ錦鯉を見て言った。俺もつられて見下ろす。
「ふっ……いや、鯉は喋らないだろ」
「おとぎ話にリアルを求めるのはナンセンスじゃないですか?」
「それは確かにそう……」 
 その時、視界の端に光を反射する何かを見つけた。
「ああ!」
「え? なに、鯉?」
 手すりの向こう側、橋の床板のぎりぎりのところにあのネックレスがかろうじて引っ掛かっていた。
 ハルも俺の視線をたどって気づいたのか、ネックレスを指さした。
「あ、ああ!?」
 俺はその場にしゃがみ込んで、手すりの隙間から手を伸ばした。つかみ損ねて池に落としでもしたら……それだけは絶対に避けたい。
 慎重にネックレスに触れ、ぎゅっと掴んで拾い上げた。そしてハルの方を向く。
「見つかってよかった、な……!?」
 ハルは目元を潤ませてこっちを見つめていた。俺の手からネックレスを受け取って、大事そうに胸に抱く。
「本当に……見つかってよかった……ありがとう……もう失くさないように、ちゃんとしまっておくから……」
 そんなにこのネックレスはハルにとって大切だったのか。それならなおのこと、見つけられてよかった。
 ハルが落ち着くまで、黙って鯉を眺めていた。

「レイ君のおかげでネックレスも見つかったことだし、名残惜しいけどそろそろお別れの時間かな」
 しばらくして、ハルはそう言った。
「分かった」
 俺は財布から取り出した百円玉をハルに渡した。
「うん。確かに」
 ハルはニッと笑った。
「じゃあまたね、レイ君」
 ここで別れたら、もうきっとハルに会うことなんてできない。本当の名前も事情も知らないからこそ気兼ねなく隣にいられるはずなのに、そのせいでこれ以上の関係にはなれない。
「また、なんてないだろ」
 思いがけなく出た言葉は、棘を含んでいた。でも、止めることが出来ない。
「お互いのことを何も知らないのに、また会えるわけがない。今日の偶然が奇跡みたいなもので……」
「ああ、レイ君はまた私と会いたいって思ってくれてるんだね? 嬉しいなぁ」
 ハルは余裕そうに微笑んだ。言わずに隠しておいたところを突かれて居心地が悪くなる。
「そういうわけじゃ……俺は確率の話をしてるだけで」
「うんうん。それじゃあ私がレイ君に会いたいから、連絡先、交換しよっか。レイ君、手出して」
 そう言われて遠慮がちに手を出すと、ハルがそっと手を取った。そしてバッグから取り出したボールペンで、俺の手の平に数字を書く。
「ごめんね。私、電話番号しか持ってないんだ。いつでも電話に出られるわけじゃないんだけど、掛けてくれたら嬉しいな」
 柔らかい手の感覚に意識が取られてしまう。この妙にむず痒い空気から逃げたいくらいなのに、ずっと続けばいいとも思った。
 書き終わると、今度は俺に手を差し出す。
「今度はレイ君の番号を教えてよ。電話番号を聞くのはルール違反かな?」
 俺はハルの手を取って番号を書いた。
「ふふっ、ちょっとくすぐったいんだね」
 ハルはそう言っておかしそうに笑った。

 家に帰ると、いつものように風呂場へ向かった。髪を濡らし、シャンプーを手にのせたところで、手のひらの上の消えかかった黒い文字が目に入った。
「ああ!?」
 慌ててシャンプーを洗い流し、雑に体を拭いて風呂場を出る。居間のテーブルの上に放置していたチラシを裏返して、引き出しからボールペンを取り出す。
「090……これは8か? それとも6……?」
 手のひらを顔に近づけてよく見るが、数字は既にいくつか判別できなくなっていた。ハルと繋がる唯一の手掛かりだったのに。手に数字を書かれた時、それ以外のことに気を取られて覚えていなかったことが悔やまれる。
 いっそのこと、判別できない数字を予想して電話をかけてみるか? いや、間違った番号で誰かに繋がってしまったら、今夜はきっとその人の夢を見てしまうだろう。
 俺はペンを机に置いた。
「はあ……何やってるんだろ、俺」
 そもそも、仕事以外で他人と関わるのなんて面倒を増やすだけだ。本当の名前も知らないんだから、さっさと忘れてしまった方がいい。
 殴り書きしたチラシはぐしゃっと丸めてゴミ箱に捨てた。

 風呂と食事を済ませ、ベッドの上で本を読んでいるとスマホが鳴った。
 仕事の変更連絡か? 急ぎじゃないならメールにしてくれればいいのに。
「もしもし」
「もしもし、レイ君?」
 耳元で声が鳴って、息が止まりそうになった。
「ちゃんと繋がってよかった。今、大丈夫?」
「あ、ああ……」
 そうだ、ハルだって俺の番号を知ってるんだから向こうからかけてくる可能性もあった。電話の相手が圭だと思い込んで油断していた。
「今日は楽しかったね」
 耳元で聞こえる声はいつもより囁くみたいで、胸がくすぐったくなった。
「そう、だな」
「レイ君も楽しかった? そう言ってもらえるとかなり嬉しいなぁ」
 電話の向こうで笑っているハルの様子が頭に浮かぶ。
「レイ君が見つけてくれたネックレスは、帰ってからちゃんと綺麗にして元の入れ物にしまっておいたからもう大丈夫。これからは観賞用にするって決めたんだ」
 ネックレスなのに観賞用って……でも失くしてあんなに悲しそうな顔をするならその方がいいのかもしれない。
「まあ、それは好きにすればいいけど……見つかってよかったよ」
「うん、見つけてくれてありがとね。今日はきっとネックレスのことと、あの元気いっぱいなハシビロコウを夢に見るんだろなぁ」
「……あれは驚いたな」
 まさか動いているはずないと思って条件に出した。その姿に背中を押されて一歩踏み出したら、想像以上の答えが返ってきた。
「電話でもレイ君と話せるなんて楽しいね。次のデートの予約、してくれてもいいんだよ?」
「ふっ、何だよそれ」
「指名はもちろんハル一択ですよね? ……ふふっ。なんか今日がこんなに楽しくていいのかなぁ」
「別にいいんじゃないか」
「えへへ、そうかな。今日は気分がいいから、特別にもう一つ質問してもいいよ。何でも答えちゃうよ?」
 そう言われて、彼女にもっと近づいてみたくなった。
「じゃあ、本当の名前は何て言うんだ?」
「……君と今話しているのはハルだよ」
 困ったようなその声が神経を逆なでした。
「嘘つき」
 それだけ言って電話を切った。
 近づいたら線を引かれた。これ以上踏み込むなと。どんなに仲良くなったように思わせたって、結局俺には本名すら教えてくれないんだ。
 むしゃくしゃしてベッドに倒れこむ。瞼がぼんやりと重たくなってきた。どんなに起きていたくても、時間になると勝手に眠りに落ちてしまう。不幸な夢を見る性質と最高に相性が悪い。
 頭には母親のことを思い出していた。仕事以外で誰かの不幸は見たくない。その点、死人はいい。それ以上不幸が更新されることがないから。

 それから数回着信があったが、全部無視した。そのうち電話もかかってこなくなって、季節は夏になった。