数週間前から桜子が働き始めた『にゃんこ甘味店』は、下町風情のある小さなお店だ。
禿げた部分の目立つ白塗りの壁と古びた茶色の木組みの外装は、人によっては「おんぼろ」と呼ぶかもしれない。でも、「いやいや、そこがいいんだ」と言って通う常連客が何人もいる。
創業者はあやかし族の乙女に片想いをしていて、片想い相手に通ってもらいたい一心で相手好みの店を経営していた、という言い伝えがある。――真偽は不明なり。
ミケを抱っこして扉をあけると、からんからんと入店を知らせる鐘が鳴る。
「あら、桜子ちゃん。おかえり」
表面に傷の目立つ古びた木製テーブルに、平たい座布団が置かれた竹製椅子が所狭しと並ぶ店内で、お店を経営する老夫婦が迎えてくれる。常連客から「中田のお父さん」「中田のお母さん」と呼ばれている二人はやさしくて、まるで家族のよう。
「……た、ただいまです!」
そう言ってもいいのだ、という安心感を胸に言葉を舌にのせると、嬉しい気持ちと同時に、恥ずかしいような淋しいような気持ちもおぼえる。「ここはお家じゃない」という現実をわかってしまっているから。
「桜子ちゃん、いつも顔色が悪いねえ。ごはんはちゃんと食べてるのかい」
中田のお母さんが頬に手をあててくれる。中田のお父さんは無言でおむすびを並べた皿を渡してくれた。
「お父さん、桜子ちゃんが来る前から『だれかにいじめられてないか、どこかで倒れてないか』って心配してたのよ……あら、ミケを連れてきてくれたのね。外に出たきり、なかなか帰ってこないから、探しに行こうかと思っていたの」
「にゃあお」
「たまに怪我をして帰ってくるのよ。今日は怪我をしていないみたいで、よかったわ」
中田のお母さんは桜子の手からミケを受け取り、「可愛くて仕方ない」という顔で優しく撫でた。
店の内部では、蓄音機が『花嫁人形』という歌謡曲を響かせていた。お嫁にいくとき、女の子はなぜ泣くのだろう、という歌詞の歌だ。泣く理由は、よくわからない。
「桜子ちゃん、中田のお父さんがおれによ、『うちに借金がなくて裕福なら桜子ちゃんを養子にするんだがな』って言ってたぜ」
常連のお客さまがばらすと、中田のお父さんは耳を赤くして顔をそむけた。
「照れてらあ」
「あはは、いいじゃねえか。応援するぞ」
店の雰囲気に和みながら、桜子はおむすびを食べ終えた。
お店を手伝うため着物の上に白いエプロンをつけた女給さんスタイルになると、中田のお母さんが「春告さんにコーヒーを運んでくれるかい」とトレイを渡してくる。
「はい、かしこまりました」
接客の基本は、『礼儀正しく、笑顔で、相手が気持ちよく思ってくれるように意識すること』と中田のお母さんは教えてくれていた。お仕事の受け答えはハキハキ、元気よく――桜子は姿勢を正し、笑顔でトレイを受け取った。
春告さんは、紺を基調とした縞柄の着物に丸首のスタンドカラーのシャツ、袴に下駄履き、洋帽子姿。いわゆる書生スタイルのお兄さんだ。マフラーを首元に巻き、狐のお面をつけている。
今は、高価そうな舶来ものの万年筆を手に原稿用紙になにかを書いている。
このお兄さんはいつも黙々と手を動かしていて、桜子と会話したことも目を合わせたこともない。存在すら認知されていないかもしれない。中田のお母さんは「ごーすとらいたーを書くお仕事なのですって」と言っていた。
「コーヒー、お待たせいたしました」
そっと声かけをして、邪魔にならない位置にコーヒーを置く。
すると、春告さんの手が一枚の原稿用紙を差し出してきた。
「はぃっ?」
今までなかった出来事だ。
お仕事の原稿をみてもいいのだろうか。
原稿用紙に目を落とすと『月がきれいなので秋に桜が咲いた。ご両親に挨拶したい』と書いてある。
「……?」
桜子がぽかんとしていると、その一枚は引っ込められ、別の原稿が差し出される。
『命が短いゆえに恋せよ乙女とは言うなれど、別の男にその心を捧げることはあってくれるな、いとしき人よ』
この文章はなんだろう。
なぜ私に見せるのだろう。
疑問に思う桜子の耳に、近くの席に座る常連客の声が聞こえた。
「あの兄ちゃんは春告さんっていうのかい。珍しい苗字やね。そういや知ってるかい、あやかし族の頭領、天狗皇族の殿下に春告宮様というお方がいるらしい」
目の前の春告さんはまた原稿を引っ込めて、別の一枚を出した。
『きみの瞳が可愛くて、見ていたいのに見るのがつらい。この甘くて切ない恋慕をどうしたらよいだろうか』
その文字に、桜子は気づいた。
――怪文書と同じ筆跡だ。あれは、春告さんのお仕事の原稿だったに違いない。
「あ。春告さん、原稿用紙を落とされませんでしたでしょうか? お外に落ちていて、私、交番に届けたんです」
「……!?」
春告さんはなぜか看板猫のミケを見た。ミケは「みゃーん」と伸びをしている。怪我も手当してもらって元気な様子なので、桜子は安心した。
「桜子ちゃん、注文たのむよー」
「はい、ただいま参ります。春告さん、それでは失礼いたします」
他のテーブルのお客さまが呼ぶので、桜子は折り目正しくお辞儀をして、そちらに向かった。ちらっと見ると、春告さんは狐のお面を外していた。
お面を外したあと、春告さんは無人の壁側に顔を向けて色眼鏡をかけている。色眼鏡をかけてからコーヒーのカップに手を伸ばして、飲むときも壁側を見たままだ。
その様子からは、素顔を隠しているような印象を受けた。ちょっと、あやしい。
忙しい時間を過ぎると、中田のお母さんが話しかけてくる。
「桜子ちゃん。さっきのお話だけどね、あんまり贅沢させられないけど、……それでもよかったら、うちの子になるかい」
「あ……ありがとうござい、ます。でも……」
桜子はうつむいた。
自分にも借金があるのだ。きっと、迷惑をかけてしまう。
桜子が言葉に詰まると、中田のお父さんは不器用に笑顔をつくってみせて。
「どんな事情があるかは知らんが、いざとなったら力になるから」
と、しわがれた声で厚意を伝えてくれた。
雨水家や学校よりも居心地がよくて、あったかい。このお店が好きだ。――桜子は、そう思った。
「しかしこの店はきれいだねえ。埃ひとつないし。古びてるし猫もいるのに床の隅々までピッカピカだ。でも滑りすぎたりすることもなくて。絶妙だねえ」
「ああ、あの桜子ちゃんがね。掃除の達人らしい」
「へえ〜、あの娘さんがねえ」
「すごいんだぜ。桜子ちゃんが箒を握るとどんなに散らかってても三秒でピカピカになるんだ」
「ははっ、大げさだねぇ……」
お客さんからは面白がられ、好評価のようだった。
「桜子ちゃん、あんまり大した額ではないけど、感謝の気持ちを込めて、これ、お給金に、私たちからのお小遣い。好きなものを買ってね」
中田のお母さんが、お給金を入れた紙袋にお小遣いと書いた紙袋を添えて渡してくれる。
「ありがとうございます……」
お仕事を頑張って褒めてもらうのは、うれしい。桜子は紙袋を大切に抱きしめて頭を下げた。
* * *
日が沈み、夜の帳がゆっくりと広がっていくころ。
雇われ仕事先でのお仕事を平穏無事に終えた桜子は、帰宅して絶望の縁に落とされた。
「桜子、お父様がお前を花街に売るってさ。金を返せないっぽいし、そろそろ潮時だろって」
「え……」
「ん、お前。小遣いってなんだよ。生意気だな? どこの店だ、こんなもの渡すのは。甘やかしやがって……潰してやるか」
「あっ! そ、それは……!」
羅道はそう言ってお給金とお小遣いの袋を取り上げ、桜子を自家用車に乗せて花街に向かった。
その夜はお祭りがあって、都民の頭上に張り巡らされた電線のさらに上、高い空へと、花火が打ち上げられていた。
赤。ピンク。紫。青。黄色。
宝石のような輝きを放つ星々と光の美しさを競うように、カラフルな花火がドンドンと景気良く打ち上げられて咲き、あっという間に儚く落ちる。
交代するように次の花火が打ちあがるさまは、なんだか人間の一生とか、世代交代を連想させた。
「ははん。本日は人身売買日和なり、ってか」
羅道は意地悪に言って、桜子に宿題を押し付ける。
「到着するまで宿題をやれよ」
自分が切ったせいで不ぞろいになった桜子の髪をつまみ、羅道は口の端を歪めた。
「ああ、醜いな! こんな無様な見た目で、いくら値がつくのだか!」
その声は忌々しげで、意地悪な響きにあふれていた。