鉄製の門と柵に囲まれた帝立高等学校は、豊島区にある。
赤褐色のレンガが重厚感を漂わせる建物で、教育の機会均等をとなえる天狗皇族が創立した特別な学校だ。
この国では共学は珍しいが、これから増やしていくらしい。
『あやかし族も人間も、男性も女性も対等に、仲良くするように』というのが天狗皇族の方針だ。
ただし、末端のあやかし族はお上に見とがめられないように隠れて人間を虐げる者が多いのが、現状である。
人間の学生、特に女学生の間では、あやかし族がよく使う火を恐れて、流水文様の着物が流行していた。
流水文様には『たえず止まることなく流れる水は清らかで美しく、苦難や厄災を流し去ってくれて、火から守ってくれる』という意味があるからだ。
学校の教員団は『未熟で多感な年頃の学生の暴走を防ぐため』『同じレベルの学生同士で切磋琢磨してもらうため』という名目で、学生たちを種族や家柄、性別や成績によりクラス分けした。
羅道は上流階級の学級、松組。桜子は使用人学級、梅組だ。
桜子が自分と羅道の鞄を持って教室まで行くと、羅道は鞄を奪い取るようにして「使用人はさっさと出て行け」と聞えよがしに言い捨てる。
「失礼いたしました」
深々と頭を下げて背を向ける桜子の耳には、悪意のある声がいくつも聞こえてきた。
「オホホホ! あの子、雨水くんの家に借金があるのですって」
「なあに、あの髪。身だしなみがなっていないわね……見苦しいったら」
なにを言っても誰も桜子の味方にはなってくれないのがわかっていた。
『使用人がなにか言っている、生意気。雨水くんに言いつけてやろうか』くらいにしか、彼らの心には響かない。だから、こんなとき桜子は耐えるのみである。
廊下を移動する桜子をからかうように、あやかし族の学生から紙クズが投げつけられる。
「そーれ、あたれ」
明らかに今から投げますよという声と身振りで正面から投げられては、避けない方がおかしい。そして、「こいつはどんくさい」と思われると、彼らの行為は過激化することを桜子は知っていた。
「あ……羅道坊ちゃんがおきらいな、青椒のカスがこんなところに。大変です」
桜子は編み上げブーツの先に何かを見つけたような顔をしてしゃがみ込んだ。妖狐族はあやかし族の中でも地位が高い方なので、羅道の威を借りつつ、「偶然避けました」と相手のプライドを守った形での回避だ。
一瞬前まで桜子の頭があった虚空を紙クズが飛んでいき、後ろにいたあやかし族の女学生にあたる。さっき「オホホホ」と笑っていた令嬢だ。
「きゃふんっ! ちょっとっ、何するのよ」
「は? いや。おれは人間の小娘に当てようと……」
「今なんとおっしゃったの? あたくしを人間の小娘呼ばわりなさったの?」
「話を聞かないやつだな!」
あやかし族の使う火が頭の上を行き交って、喧嘩が始まる。
「騒がしい、静かにしたまえ」
近くを通った上等な三つ揃いのスーツに身を包んだあやかし族の教師は、そんな学生たちに注意した。
「あ、吾輩は廊下を掃除させていただきますな」
あやかし族の教師の荷物持ちをしていた人間の教師は、あやかし族の学生や教師に頭を下げて媚びるようにしながら、紙クズを拾ってゴミ箱に捨てた。
「先生、失礼いたしました」
「せんせー、これも捨てといて」
あやかし族の学生はあやかし族の教師には敬意を示し、人間の教師は軽んじている。とてもわかりやすい態度だった。
そんな危険な松組の階をはなれて、桜子は階下の梅組に逃げ込んだ。
「ごきげんよう桜子さん。今日も燃えてなくてよかっ……髪がぁ〜〜」
「い、命が無事でよかったということで」
あやかし族の家で働く級友が同情してくれる。
「うちのお嬢様の霊力が高ければ、お友だちの髪を戻してあげてくださいってお願いするんだけど……ごめんね」
「ううん、いいの」
彼らの境遇は様々で、主君への忠誠度や現在の生活への満足度もまちまちだ。
心の底からご主人様に心酔している者、可愛がられている者もいれば、虐げられていて従者という立場が嫌で嫌で仕方ない者もいる。
「授業を始める。静粛に!」
先生の声に、教室が静かになる。
桜子は学ぶことに集中した。予習や復習の時間が満足に取れない桜子にとっては、居眠りをする余裕もない。今のところ成績は優秀だが、成績が落ちれば雨水家でどんな目に遭うことか。
「人間の皇族があやかし族の首領である天狗皇族と結ばれ、二つの皇族がひとつになりました」
赤シャツを年中着ている青い顔の通称『うらなり先生』が板書する内容を、みんなが一斉にノートに書き留める。
『あやかし族には天狗皇族や妖狐といった一族がある。基本的に人間たちを管理し、指導する立場。人間への接し方や友好度合いは個体差がある。弱者である人間を虐げ、召使いのように侍らせる者もいれば、慈しみ、守ろうとする者もいる』
(人間を守ろうなんてあやかしは見たことないけれど)
桜子にとって、学校で教えられる『あやかしの良い一面』は幻想であった。
あやかし族の皇族である天狗皇族は人間に友好的で、守ってくれると耳にするけれど、雨水家や学校をみれば、そんなあやかし族がいるなんて、信じがたかった。
* * *
授業中、こっそり少しだけ寝てしまったのは乙女の秘密。人間、限界を迎えると意識を失うようにできている――と言い訳しつつ、桜子は学校帰りの羅道に頭を下げた。
「羅道坊ちゃん、私はこのまま雇われ仕事先のお店に参ります。近いので」
「お前は仕方のない奴だな。本来は僕の世話をするために一緒にいろと言いたいところだが、借金があるから稼がせないとな。しっかり働いて来るように」
門を出てしばらく歩くうちに、桜子は妙な光景に出くわした。紙のようなものを口にくわえた三毛猫が、虚空に浮かぶ火に追い詰められている。
「ミケ? それに、……狐火?」
雨水家の妖狐族が使う火に似ている。
しかも、赤い首輪が特徴の三毛猫は、桜子のよく知る猫だった。
数週間前から雇われているお店の看板猫だ。
お店に雇われる前からも、縁がある。
以前、雨水家の庭でぐったりしているのを見つけてこっそり介抱してあげたことがあるのだ。
元気になった猫がいなくなった……と思っていたら、雇われた先のお店で再会したので、驚いたものだった。
「しっ、しっ」
近くに妖狐族がいないかと恐れつつ、桜子はおそるおそる鞄を振った。雨水家で経験があるのだが、「しっしっ」と手で払ったりすると、狐火が消えたり、遠くに離れていったりするのだ。それを見た羅道には「お前、なんで消せるんだ? 僕の火を消すな、生意気だぞ!」と蹴られたりしたのだが。
期待通り、狐火はスッと消えてくれた。
「にゃあん!」
ミケが感謝するように鳴いて、くわえていた紙をぽたりと落とした。
「こんにちは、ミケ。ちょうどお店に行くところだったの」
「みゃーあ」
「その紙はなに? ……ちょっと待ってね」
桜子はミケが前脚で転がすようにして見せてきた紙を拾った。
紙が落とし物ならば持ち主に届けてあげるべきか。ゴミならば捨てようか。と、見てみれば、それは原稿用紙であった。
『まずは、手紙からと人は言う。ゆえに書こう。
きみは、かわゆい。
俺はすっかり胸の鼓動が高まり、思わず季節外れの花を咲かせてしまった。
ずっと探し求めていた俺の運命のつがいが、きみなのだ。
あぁ、かわゆい。
鏡の乙女はまぼろしではなかったのだ。
はー、かわゆい。
結婚しようと思うが、どう思いますか。
ちなみにこの手紙は、かの芥川龍之介先生を真似しました。今どんな気分ですか』
と、書いてある。宛名も差出人もない。怪文書だ。
「……なに、これ……?」
判断に迷った桜子は、ひとまず近くの交番で落とし物として届けてあげた。すると、ミケは「ふみゃぁ」と、なんとなく残念そうな声で鳴く。
「ミケは落とし物として届けたのが不満なの?」
桜子は首をかしげつつ、ミケを抱っこしてお店に向かった。