その日、小さな桜子の手は、父と母の手に包まれていた。
 
 秋晴れの空の下、三人で神社へと続く石畳の道を歩く。紅葉した木々が参道を彩り、風が吹くたびにはらはらと葉が舞い降りる。
 
「桜子、もうすぐ鳥居だよ」
「はあい」
  
 父の優しい声に、桜子は元気よく頷いた。
 牡丹、七宝、雲取り――たくさんの絵柄が織り出された淡い紅色生地の可愛らしい着物を纏った桜子は、父と母に手を引かれながら、大きな赤い鳥居の前に立つ。
 
「鳥居の前では、お辞儀をするんだよ」
   
 父と母が丁寧に頭を下げるので、桜子は両親を真似るようにして小さな体を折り曲げ、ぺこりとお辞儀をした。神様のおうちにお邪魔するご挨拶だ。
 ――こんにちは、お邪魔します。
 心の中で挨拶をすると、周囲の紅葉が揺れて、まるでお返事してくれたように思えた。
 
 境内に入ると、手水舎が見えてきた。
 
「ここで心と体を清めるのよ。まず、右手で柄杓を持って、左手を洗って……」
 
 母が優しく教えてくれる。
 冷たい水が手のひらに触れて、桜子は「つめたい」と笑顔になる。
 
「次に柄杓を持ち替えて、右手を洗って。それから左手に水を受けて、口をすすぐんだよ」
 
 秋風が濡れた手を撫でていく。
 桜子が濡れた手を見ていると、母は柔らかな手ぬぐいで優しく手を拭ってくれた。
 
「東海林さん、こんにちは」
「ああ、近藤さん。どうも、こんにちはぁ」
  
 境内には多くの参拝客がいた。
 父と母は知り合いらしき大人たちと次々に挨拶を交わす。
 桜子の視界には、大人たちの足ばかりが映っていた。着物の裾や、立派な袴、革靴。
 少し不安になって父の着物の裾をぎゅっと握ると、父はすぐに気づいて桜子を抱き上げてくれた。
 
 視界が一気に高くなる。今度は大人たちの笑顔が見えた。
 
「皆様、こちらが私の愛する娘です」
 
 父の声は誇らしげで、愛情に満ちていた。
 桜子は嬉しくなって、父の首にぎゅっと抱きついた。
 
「まあ、可愛らしい」
「お目目がくりくりして、愛らしいお嬢さんですねえ」
 
 大人たちの優しい声が聞こえてくる。
 
「桜子、はい、これ」
 
 母が差し出してくれたのは、赤と白の縞模様が美しい飴だった。
 長い袋に入った飴を受け取って、桜子は満面の笑みになった。
 
「ありがとう、お母様!」
「神在月にはね、全国の神様がここに集まるって言われているのよ」
 
 母が優しく教えてくれる。
 
「かみありづき……」
 
 桜子は不思議な響きの言葉を繰り返した。

   ◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
 
「――桜子様?」
 
 ウサ子の声に、ぼんやりと過去を思い出していた桜子は我に返った。
 
「あ……ごめんなさい、少しぼんやりしていました」

 窓の外を見れば、秋の夕空が広がっている。
 
「今日は、新しいお祭りの日でしたね」
「はい。最近広まったばかりのお祭りだそうです。収穫祭に似ているけれど、仮装をして楽しむというのが素敵ですよね」
 
 ウサ子が嬉しそうに説明する。もみじがその周囲をくるくると舞い踊り、はしゃいでいる。

「もみじ、おまつりすき!」
「私もよ」
 
 嬉しそうなもみじを微笑ましく思いながら、桜子はお祭りの内容を再確認した。
  
「人間があやかしの格好をして、お菓子を配ったり、もらったり、交換したりするんですって。もちろん、本物のあやかし族も混ざって」
「外国のお祭りが元になっているとか……死者が街に戻ってくるって言われているそうですね」
 
 ウサ子ともみじの意見を聞きながら三人で選んだ桜子の仮装衣装は、黒猫だ。
 桜子は猫耳のついた黒い頭巾(フード)付き外套(ケープ)に、作り物のふわふわ尻尾。
 ウサ子も同じような衣装で、二人並ぶと姉妹のようだった。
 
「可愛いですね、桜子様」
「姉妹みたいで素敵!」
「まあ。桜子様と姉妹だなんて、畏れ多いです……」
 
 もみじがきゃっきゃっと笑いながら「もみじもおみみをつけたい」と言っている。
 
「おみみ……折り紙とかで付けられるかな……?」
 
 折り紙を切り取ってもみじに「おみみ」を付けていると、部屋の扉がノックされた。
 
「桜子さん、準備はできたかい?」
 
 京也の声だ。扉を開けると、そこには仮装姿の京也がいた。
 狐耳に、ふさふさとした複数の尻尾。妖狐の仮装だ。
 
「どうだい、似合うかな」
 
 いたずらっぽく微笑む京也の後ろから、犬彦が顔を出す。
 
「京也様ったら、ボクの真似をなさって!」
「いいじゃないか。今日は仮装の日なのだから」
 
 もともと兄弟みたいに仲のいい二人が同じ種族みたいな格好で並ぶ様子は、なんとも微笑ましかった。
 
「うしまるも仮装を披露するといい、ほら、ほら」
「はっ!」
 
 京也が手招きすると、廊下からうしまるが姿を現した。
 いつもの角は隠されていて、代わりに背中には明らかに作り物だとわかる白い羽がついている。法被を着た姿は、なんだか愛嬌がある。
 
「うしまる、天使の格好ですか?」
 
「もみじも、もみじも! かそうしたのよ!」
 
 桜子の髪飾りの定位置から、もみじが元気な声をあげる。
 
「おお、可愛い子鬼だな、もみじ」
「ねこさんなのに!」

 夕暮れの帝都は、祭りの熱気に包まれていた。
 通りには仮装をした人々があふれている。人間なのかあやかしなのか、もはや区別がつかない。
 魔女の格好をした少女たちが笑いながら駆け抜けていき、狼男の格好をした青年がお菓子を配っている。
 
 暮れゆく空には、控えめな輝きを放つ星が瞬いている。その小さな光が、桜子には優しく見守る何者かに思えた。
 
 神在月には、全国の神様が集まると言われている。
 そして、この外国由来のお祭りでは、死者が街に戻ってくるとも。
 
 神様も、死者も、あやかしも、人間も――みんな、どこかで繋がっている。
 
 桜子は、ふと考えた。
 
 人間は、不思議だ。
 
 もう会えない人たちのことを、忘れずに想い続ける。定期的に振り返って、その思い出を大切に抱きしめる。
 怖れ多い存在にも礼儀を尽くして、お祈りをして、時には頼りにする。
 自分たちとは違う存在を、仮装して真似してみたり、仲間として受け入れたりもする。
 亡くなった人は成仏するとか、新しい命で生まれ直すとか言われていて、それなのに「見守っていてくれる」とか「戻ってくる」とか言ったりもする。
 
 矛盾しているようで、でも、それが人間なのだ。
 
(お父様、お母様)
 
 心の中で、静かに語りかける。
 
 亡くなった人は、もうどこにもいないのかもしれない。
 それでも――いや、だからこそ。
 桜子の心の中には、確かに両親がいる。
 
 見守ってくれている、という感覚は、もしかしたら気のせいなのかもしれない。
 桜子が、そう信じたいだけなのかもしれない。
 
 けれど。
 
(私は今、楽しく過ごしています。素敵な人たちと一緒にいて、元気に頑張ることができています)
 
 背筋を伸ばし、手を合わせ、大切に想うことで、温かくなれる。
 冷たい水で「清めた」と思えたように、心が洗われた気分になって、すっきりと前を向いて生きていける。
 
 だから、こういうお祭りや、目に見えない何かへの祈りは、ずっと大切に受け継がれてきたのだ。
 桜子はそんな考えを胸に夕星(ゆうづつ)に微笑み、賑やかな場所へと足を進めた。

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11/5本日、『桜の嫁入り』が一二三書房から発売いたしました。
読者様への感謝の気持ちをこめまして、番外編を追加いたします。

番外編は1日1話くらいのペースで続きを投稿してまいりますので、ゆるりとお楽しみくださいませ。