その事件は、突然起きた。
桜子が廊下を歩いていたとき、騒ぎが起きたのだ。
「放せ! その女は僕のだったんだぞ!」
いつの間にか近づいてきた羅道が、桜子の腕を掴もうとして護衛に引き倒されたのだ。
えいやーっと丸いつぶてのようなものを羅道にぶつけたのは小型のあやかし族、目隠下手田ただし。
唐傘で足元を引っかけて羅道を転ばせたのは、人によく似た外見でたぬき耳と尻尾が生えた傘、伶狸。
倒れ込んだ羅道の上からバサアッとのしかかって床に押さえつけるように頑張っているのは、物言わぬ畳のたたみくんだ。
懐かしい妖狐の少年は、以前よりも痩せていた。
落ちくぼんだ目がぎらぎらしていて、激情に暴走しているように見える。
「――桜子! お前は僕のだろうッ! お前、僕のことが好きだろう?」
鋭い犬歯を見せて吠える羅道の声は、誰が聞いても正気を失っている。
もみじはそんな羅道の眼差しから桜子を守るようにひらりと飛び、声を響かせた。
「あるじさまが好きなのは、京也さまよ」
以前よりも言葉が流暢になったもみじが、ぷりぷりと言い放つ。
その瞬間、羅道の目が殺意を漲らせた。
「……‼ 式神ごときが!」
「きゃああ!」
カッ、と目の前で狐火が燃え上がり、もみじの体を包み込む。羅道の仕業だ。
「もみじちゃん!」
桜子は悲鳴をあげて、小さなもみじの体を両手で抱いた。
じゅっと音を立てて、炎が手のひらを焼く。
「……っ」
凄まじい痛みに気が遠くなりながら、桜子は必死に手のひらに霊力を籠めた。教えてもらいながら練習したとおりに霊力をあてると、火は消すことができた。
「そんな、僕の狐火が桜子に消せるわけが……ギャンッ!」
驚愕の声をあげた羅道の顔が、護衛の手で床に伏せられる。
じんじんと痛む手の中で、焦げてくしゃりとしたもみじが沈黙している。
可愛かった目も口も、動くことがない。
それが悲しくて、焦燥感が湧いて、たまらなかった。
「もみじちゃん、もみじちゃん……っ」
あどけない声は、桜子にとって癒しだった。
いつも味方の温度感は、安心した。
幼い子どもがキャッキャとはしゃぐような笑い声は、聞いているだけで気持ちが明るくなった。
あるじさま、と呼んで、慕ってくれるもみじは、可愛かった。
桜子は、そんなもみじを家族のように思っていた。
(やだ……)
大切な家族がいなくなるのは、もういやだ。
私に力があるならば、今度こそ守りたい。あたたかな情をもらった分だけ、自分だってお返ししたい。
「助けるわ。今、助けるわ! こんなの、すぐに治るんだから」
必死に呼びかけて、霊力を練る。治れ、と念じて力を送る。手のひらから光があふれて、もみじに伝わる。
――私がこの子を治すんだ。
私には、できるんだ。私が生かすんだ。
『無言でもいいのだが、自分を奮い立たせたり、術が起こせると確信できるような文言をとなえるのもいい』
――京也の教えが、脳裏に過る。
「そわか……治すんだ。治れ。……」
懸命に奮い立たせる言葉は、自然と懐かしいリズムになった。
「――働かざるもの食うべからず、何もしなくても時間は過ぎる、お腹は空く。ご飯は無料ではありません、桜子、諦めてはだめ。私はできる、できる」
だって、ずっと限界ぎりぎりの奉公生活をしてきたじゃない。
私、根性はある。どんなに眠くて、疲れて、倒れそうでも起き上がって働けた。
……そんな自信が、ある!
「……私は、治せる‼」
懸命に力を送れば、くしゃくしゃに焦げた葉っぱが少しずつ治って、元通りになっていく。
見慣れた目がぱちぱちと瞬いたのを見て、桜子はうるうると目を潤ませた。
「あるじさま、……おつよくなられて、うれしい」
ちいさな口がぱくぱくと動いて、可愛らしい子どもの声で喜びを伝える。
よかった。
桜子はぽろりと涙をあふれさせ、ハンカチでぬぐった。
「あるじさま、手……」
「だいじょうぶ」
おろおろと心配する様子のもみじが、いじらしい。
桜子はもみじを愛しく想うのと同時に、怒りをおぼえた。
涙に濡れた瞳を羅道に向ける。
全身をおさえつけられた羅道を見ても、桜子にはもう「逆らってはいけないのだ」というような思いは少しも湧かなかった。
「雨水、羅道くん……私はあなたのことが、好きではありません」
はっきりと告げると、羅道の目が大きく見開かれた。
「そんな……桜子! お前、お前……桜子のくせにっ! おい、放せ。放せよっ!」
みっともなく声をあげて騒ぎながら護衛のあやかし族に抗い、暴れる羅道に背を向けて、桜子は別れを告げた。
「……さようなら」
桜子の声とほとんど同時に、窓からなにかが飛び込んでくる。ぴしゃり、と外で雷鳴が鳴って、突然の豪雨がおとずれる。
「あっ」
桜子が声をあげたのは、羽を出した京也が自分を抱きしめていたからだ。すっぽりと覆い、桜子の傷を癒して、京也は底冷えのする眼差しを羅道に向けた。
「よくも、俺の大切な人を」
地の底から響くような声は、いつもの京也とはまったく違っていた。
その瞬間、周囲の気温がヒヤリと下がったようだった。
「アアアアアアァァアアアアア‼」
すさまじい悲鳴は、天狗火に包まれた羅道からあがった。
「ええい、おとなしくしていれば未来もあろうものを。なぜ、お前のようなタイプは自重ができぬのか」
妖狐の監視役も何人か飛び込んできて羅道を憎々しげに縛り上げ、京也と桜子に頭を下げて同族の暴挙を謝罪する。
「我ら妖狐族の者が申し訳ございません。監視が行き届かず……!」
「――連れていけ」
京也は血の通わぬような声で言って、桜子に視線を移した。
雪が溶けるように、その表情が、声が、やさしくなる。
「……遅くなって、すまない」
心の底から悔いるように言って、京也はぎゅっと桜子を抱きしめた。
「俺は反省した。護衛はよく仕事をしてくれたと思うが、任せるだけではなく俺自身もやはり天井に張り付いたりして見守っていなければ」
本気の温度感で言うので、桜子はさすがに「天井に張り付くのは、おやめください」と言わなければならなかった。
「助けにきてくださって、ありがとうございました。もみじちゃんや護衛のみなさんがいてくれて頼もしかったですし、大丈夫です。私、術のコツみたいなものがわかった気がします。自信も持てました」
「きみ、強くなったな」
「えへへ……もっと強くなります」
ほんとうは、怖かった。
羅道が怖かったというより、大切な存在が傷つき、失われてしまうのが怖い――それに対して自分がなにもできないことが、怖かった。
(ああ、京也様も、私に対して『大切な存在が傷つき、失われてしまうのが怖い』と思ってくださっているんだ)
「……私も、京也様になにかあれば、と思うと、心配です。日々のご政務も大変でしょうし、他のお仕事もなさっているので、どうかお体を大事になさってください」
想いを伝えれば、京也は嬉しそうに羽をパタパタとさせてくれた。
「え、なに? なにがあったの?」
「こら、お前たちは教室に戻りなさい」
周囲の声に、はっとする。そういえば、ここは学校だった。
「桜子様が魔祓いの術で羅道を倒したぞ!」
「一緒にいらっしゃるのは天狗皇族の殿下では……?」
学校は大騒ぎになってしまって、桜子は「復学初日からお騒がせしてすみません」とあわてて謝った。
――その後。
せっかく連座を免れていたのに、羅道は父親と共に刑に処されることになったらしい。
桜子はその報告を聞いて、雨水家の日々を懐かしく思い出し、なんともいえない複雑な気持ちになったのだった。