夜風が頬を撫でて、後ろへと吹き抜けていく。
 自分を抱く力強い腕の中で、桜子は心地よい緊張を感じていた。

(すごいっ、空を飛んでいる……‼) 
 京也に抱きかかえられて、建物の外側を飛んでいる。初めての体験だ。

「こらぁ、どこに連れていくのよぉ。非行息子ぉ~、これ飛行とかけているのだけど」
「部屋に送るだけです」

 背後からの声に不愛想な言葉を返して、京也は建物の側面にそって優雅に飛翔した。あっという間に部屋の外側に着く。部屋の外側の窓から中が見えて、新鮮な気持ちになる。
 さて、窓はどう開けるのか、と見ているとウサ子が顔を見せた。

「お待たせいたしました。お部屋の準備は整ってございます」
 桜子の部屋の内部に移動したらしきウサ子は、内側から窓を開けて深々とお辞儀をした。

「お部屋に失礼するよ、桜子さん」
「はい」 
 窓から部屋の内部に入るのも、初めてだ。まるで物語の中に出てくる怪盗にでもなった気分!

「驚かせてすまない、怖がらせてしまっただろうか」
 
 反省の声色を響かせる京也に、桜子は首を横に振った。
 
「あっ、いえ……空を飛ぶのも、窓から自分の部屋に入るのも、新鮮でわくわくしました」
 
 京也は「そうか」と息を吐いた。安心した様子だ。

 この美しい青年が悲しそうだったり心配そうだと、自分も落ち着かない。
 嬉しそうだったり安心した様子だと、自分もほっとする。
 桜子は、そんな自分を自覚した。

「ご褒美がまだだった」
 
 美しい紫の瞳には、何年も求め続けた運命の番を目の前にした喜びと渇望があった。

 京也の右手がゆっくりと上昇し、優しく桜子の頬を撫でる。頬から耳へと移動した手が耳たぶを掠めて、耳の下へと指先をずらしていく。触れた場所から、甘く痺れるような熱が広がる。
 
(あ……)
 
 京也の整った顔が近づいて来る。
 鼻先を吐息が切なく掠めて、桜子はぎゅっと目を瞑った。
 直後、唇に羽毛が触れたみたいなキスが落とされた。
 
 初めての口付けに桜子が真っ赤になっていると、京也は夢見るような笑顔で。
「可愛い」
 と言って、至高の宝物を扱うように桜子を抱っこした。

 京也は抱っこしたがりだ。桜子がそう思っていると、京也は寝台に向かった。熱に浮かされたように独り言をつぶやきながら。
 
「俺のなんだ。誰にも触らせないんだ」
 
 ちょっと様子がおかしい気がする。桜子は身を強張らせた。
 
「……っ!? 京也様……京也様……!?」
「ン……」
 
 京也は機嫌のよい猛獣のように喉を鳴らし、桜子を大切に寝台に横たえた。そして、自らも隣に滑り込み、腕をまわして桜子を抱きしめた。

「きゃ……」
「おやすみ、桜子……さん」

 むにゃむにゃと寝惚けているような声が言って、すやぁ、と寝息が聞こえてくるまでには、それほどの時間を必要としなかった。

「えっ、あ……」

 ……眠っている。
 桜子はそれに気付いて、全身の力を抜いた。

 さぞ疲れていて、眠かったのだろう――すぐ近くで穏やかな寝息をたてる寝顔は無防備で、規則正しい心音を立てる体はあたたかで、異性の雄々しさを感じさせつつも、安心感がある。

(運命、というのはわからないけど、その相手が私で……嬉しい)

 こんなに大切にしてもらえて、幸せで、いいのだろうかと思ってしまう。
  
(――ありがとうございます)
 桜子はその夜、運命に感謝した。

(ところで、この格好――、一晩中……?)
 熟睡している京也の隣で、桜子は困ってしまう。

「も、もみじちゃーん?」
 起こさないようにと小声でささやけば、もみじは声を殺すようにして笑っている。
「た、たすけてぇ……?」 

「あるじさま、いちゃいちゃ」
「……‼」
「じゃましない……もみじ、くうき」

 もみじはそれきり黙り込んでしまった。
 
(い、いちゃいちゃ……っ!)
  
 心臓がどきどきと高鳴ってしまう。音で京也が起きてしまわないか、心配してしまうほど。
 
 そっと様子を見てみるが、胸板や肩が呼吸に会わせておだやかに上下していて、起きる気配はない。
 眠る目元に黒髪がかかっている。無防備な感じだ。
 
 髪に触れてみたい、という衝動が、ふと胸に湧く。

(はしたないかしら。す、少しだけ……だめかしら)
  
 指先をそーっと近づけて、触れる。
 さら、という極上の髪の触り心地がした。

(わ、わぁっ)

 触ってしまった!
 ときめきが高まって、頬が()けてしまいそうなくらい熱くなる。
 いけないことをしてしまった、という罪の意識みたいなものが湧いてくる。

(わ、私も寝てしまおう……!)
 
 ぎゅっと目を閉じて、眠ろうとする。
 とくん、とくんと鼓動が聞こえる。すう、すうと呼吸の音が聞こえる。

(私――こんな風に大切に抱きしめられて眠る夜がくるなんて、思わなかった)
 
 眠りに落ちるまではかなりの時間を必要としたけれど、京也と寄り添う桜子の胸には恍惚とした幸福感があった。