咲花(さっか)のそばには、白い日傘を手にした眼鏡の青年執事が寄り添っている。

「京也さん」
 
 咲花は迷わず京也のテーブルに近付いて、知人の温度感で名前を呼んだ。
 
「原稿を受け取りにまいりました。まさか書けていないなどとおっしゃいませんでしょうね?」
「ああ、二世乃(にせの)さん。書けていますよ」
 
 咲花が京也の向かいの席に座ると、執事は椅子の後ろに直立した。

 客がひそひそと噂している。

「さっき見えたんだが、『おお、大帝都にあやかしの旗は燃えて』の続編っぽかったぞ」
「二世乃咲花がゴーストライターに小説書かせてるって噂、知ってるか?」
「自力で小説書けないって聞いたことがある……」

 桜子が見守っていると、京也はふわりと眠そうな声を出した。

「さ、確認してくれたまえ。俺は眠い。それに、今から恋文を書くので」
 
 京也はテーブルに置かれた原稿用紙の束を目で示して、別の原稿を広げた。そして、咲花と話すことはない、とばかりに万年筆でなにかを書き始めた。

 見守っていた桜子は、「うっ」と身を強張らせた。
 
『かわゆい。かわゆい。とりあえずかわゆい。よし、かわゆい。とてもかわゆい。やったぞ、かわゆい。はぁっ……結婚する』
 
「こちらですわね。どれどれ……なんですの、その怪文書……脳が蕩けてません? (こわ)……ま、まあ、そちらは仕事と関係ないですし、いいですわぁ……」
 咲花は軽く恐怖を覚えたような目で怪文書を見てから、テーブルに置かれた原稿を読み始めた。 
 
「桜子は薄紫色の着物を手に取り、豪華な刺繍と柔らかな絹地に驚きの表情を浮かべた。こんな贅沢なもの、本当にいいのかしら……」
 
 小声で読み上げる内容に、桜子はびくっとした。
(さ、桜子? まさか? その登場人物は……っ?)
 
「ま、待って……誰よこの女。前回お話したとき、変な登場人物を増やさないでと申しましたわよね?」 
 咲花の手が震えて、声が裏返る。
「あたくしの発注書には新しい登場人物、それも女の登場人物の予定なんてなかったですわよねっ?」

 店内の客たちは興味津々で耳を澄ませている。何人かが桜子に視線を向けたりもしている。

「あの娘さんも桜子さんって呼ばれてた」
「モデルだったりして」
 
(……わぁぁっ⁉︎) 
 桜子は穴があったら入りたい気分になった。京也はそんな周囲をまったく気にする様子なく、うっとりとした声だ。半分、夢の中にいる。

「可愛いだろう? 俺も桜子さんとデヱトがしたい。デヱトで俺は言うのだ。『桜子さん、きみが笑顔で着てくれるなら、それが一番の贅沢だよ。きみの笑顔が、どんな着物よりも輝いて見えるから』――と。すやぁ……」
「俺ってなによっ! あっ、ちょっと⁉︎ 寝ないでくださる~~っ⁉︎ 京也さーん!」
「うむ。俺は俺だが、なにか」
 
 京也は咲花の形相に気付いていないのか、それとも気付いていても気にしていないのか、満足そうな顔だ。
 
「咲花さん、どうだろう。俺の嫁、可愛くないか」
「お黙りッ」
「あっ」 
 
 我慢の限界を迎えたのだろう。 
 咲花は怒りに満ちた声をあげ、京也の頭にぱしゃりとコーヒーをかけた。帽子がコーヒーに濡れて、その下の髪と額に滴が垂れる。

「ひえぇ、なんてことを」 
 
 京也が天狗皇族だと知っている中田夫妻は真っ青な顔色になった。桜子もびっくりだ。
 素性を知らない客は単に「修羅場だー!」と声をあげ。
 忠実なる京也の従者のはずである犬彦は「京也様が悪いですね」と呆れた顔をした。
 
「なんですっ、この原稿⁉︎ あたくしが依頼したのと違う展開じゃないの! 桜子なんて登場する予定のない登場人物を勝手に生やして! あなたが登場人物を増やしたいと熱弁なさるから仕方なく『いいですわよ』と言いましたけど、あたくしは『増やすなら美男子にして』と頼みましたのよ!」
 
 全員が固唾を呑んで見守る中、京也は濡れた帽子を脱ぐことなくおおらかに微笑んでいた。
 
「登場人物が生えるという表現はいいね。桜子さんが地面から生えてくるところを想像すると大地がいとしくなる。よし、大地を讃頌(さんしょう)しよう」
「……おばかっ」

 咲花は立ち上がり、原稿を京也の前でびりびりと破いて床に捨てた。
 
「絶望しました。京也様。今後はあなたの仕事はありません! 契約違反に基づく補償と損害賠償請求をさせていただきますから、覚悟することね!」
 
 咲花が憤然と店を出て行く。その後ろを、執事があわてて後を追いかけていく。
 
「失礼いたします、お邪魔いたしました――お嬢様、お嬢様。お待ちください……」

 店内には微妙な空気が数秒訪れた。

(あ、あら? これって、京也様がピンチなのでは?)
 
 もちろん、京也は咲花から仕事を切られても、訴えられても痛くもかゆくもなさそうだ。なにせ、その正体は天狗皇族なのだから。
 そう思う一方で、目の前でコーヒーを滴らせる京也には人間らしい哀愁のようなものがあるように桜子には見えた。色眼鏡の奥の瞳は、間違いなく咲花の言葉を残念に感じているように見えたのだ。

(それに、本の続きは? 続きを待っているたくさんの人がいるのでしょうに)  

「京也様……!」
 桜子はハンカチを取り出し、京也の髪や額、帽子の水気(みずけ)を拭った。
 
「頭からコーヒーをいただくというのは、新鮮な体験であった。目が醒める心地がした……あれ? これは現実化?」
「熱くなかったですか? 帽子、脱いだほうが……」
「代わりに頭にマフラーを巻いてみようか。不審度が上がるぞ――ところで桜子さん、なぜここに。ここはどこだ? 俺は今起きているか?」
 
 京也はコーヒーをかけられて原稿を破いて捨てられても、あまり気にしていないようだった。と、いうか、夢と現実の境目にいる。

「これは現実です。京也様は原稿を渡しにお店に来られて、わ、私は、京也様のお供でお店にいます……」
「会いたくて来た、とは言ってくれないのか?」
「っ!」

 物欲しそうに言われて、桜子は赤くなった。京也はそんな桜子に「さっきのは結局、夢だったのだろうか」と首をひねりつつ、咲花が出て行った扉を見た。
 
「彼女、続編どうするのだろう。まあ、他にもゴーストライターがいる様子だし、なんとかなるのだろうか」
「ほ、他にもいらっしゃるのですか」
 
 京也は恐ろしいことを言いながら、「桜子はどう思う」と意見を求める。
 
(どう思う、とおっしゃられても……?)
 
 桜子は原稿を複雑な気分で拾い上げた。原稿は破かれて、ボロボロだ。

「あの……さきほどのお話ですと、ご依頼内容を無視してご自分の書きたいことを書いてしまったと……」
「まあ、そうなる」

 意見を求める視線に、桜子はどきどきした。
 これが羅道だったら、機嫌を悪くすることを恐れてなにも言えないところだ。
 けれど、京也は意見を言っても怒ったりしない。聞いてくれる。そんな確信が桜子にはあった。
 
「お仕事なのですし……お相手の方にお願いされた内容を書いたほうがよいのでは」
「そうだな。二世乃さんに頼まれた内容とは違うな、喜ばないであろうな、と頭の隅で理解していた気がする」
  
 事実を確認していくと、京也は決まり悪そうな顔になった。

「まあ、普段から好みの不一致みたいなところはあって、こういうのは今回が初めてでもないのだが……どちらが悪いかといえば、俺が悪い。うん……書き直すか」
 
 万年筆を執ると、京也は新しい原稿をテーブルに広げて手を動かし始めた。文字が原稿用紙を埋めていく。周囲には、「書き直すらしいぞ」と見世物のように見物する客たちが集まった。

「あ……私は、咲花様に事情をお話してみますね」
 
 桜子は捨てられた原稿を持ったまま、中田夫妻に断りをいれてから店の外に出た。

 京也は怒らなかった。ちゃんと聞いてくれた。
 それに、それに。

「二世乃さんは、なあ。悪い方ではないのだが、正直、合わないところがあるのだよなあ」
「あちらさまもそう思っていらっしゃると思いますよ、京也様。お互い様という言葉をご存じですか~?」
「犬彦はなぜそんなにめかし込んでいる?」
「あっ、これは……エスコオトするのにふさわしい衣装をと思い……」
「え、す、こ、お、と?」
 
 聞いている感じ、咲花とは特別な関係ではなさそうだ。
 
「あるじさま、おもったこといって、えらかった!」

「もみじちゃん、ありがとう」

 もみじの声に微笑み、桜子は心に誓った。

(京也様が書かれるなら、私はその原稿がちゃんと受け取ってもらえるように咲花さんを説得するわ)
 
 お世話になった恩返しのようなものだ。そう思えば、桜子の胸にはいくらでも勇気が出てくる気がした。