にゃんこ甘味店を救い、真実を知った日。
「ご褒美をもらい損ねた……いや、それどころでもないか」
皇宮に着いた京也は桜子を撫でて、「おやすみ」と挨拶をした。
「今日は一緒に出かけることができて嬉しかった。きみが嫌でなければ、また出かけよう」
赤い欄干の橋を並んで渡って、月を背負うようにして京也が微笑む。
「俺は数日取り込むが、桜子さんは自由に過ごしてほしい」
その言葉通り、そのあと数日間、桜子は京也と会うことはなかった。
* * *
何回聞いたかわからないくらい、同じ言葉を聞かされる。毎日、毎日。
「京也様はお仕事が忙しくて、寝食も忘れて励んでいらして。本日もお会いできないのだそうですよ」
「そう……」
ちょっと、寂しい。
けれど、そんな風に思ってしまう自分への戸惑いもある。
桜子はキヨに髪を結ってもらい、リボンをつけてもらいながら、なんとなく溜息をつきたい気分でいた。
キヨが周囲をきょろきょろと見てから、声をひそめる。
「桜子様。ご存じですか? でも、本日は京也様はにゃんこ甘味店にお出かけのご予定なのですよ」
「そうなの?」
「ええ、ええ。あやかし族の車夫が予定を話して準備をしていましたからね」
キヨはコソコソと提案してくれる。
「桜子様の行動は自由なのでしょう? ご一緒してはいかがですか」
桜子はまじまじとキヨの顔を見た。キヨは、母親のような保護者感のある笑顔を浮かべている。
「キ、キヨさん」
「待っているだけではなく、ちょっとした好機を逃さずにお会いする……最近の女性は、私が若い頃よりも積極的だと聞いています。『命短し、想い人には強気で押しかけよ乙女!』という言葉もあるというじゃないですか」
「そ、そんな言葉ある?」
行き先は桜子様が働かれていたお店ですし、と言いながら、キヨは桜子に上品な緑色のワンピースを着せてくれた。やわらかい生地のベレー帽と革靴をあわせると、洗練されたモダンガールという印象だ。ふわふわの筆で頬に薄紅をさし、淡くて自然な口紅で唇を色づかせ、キヨは「とっても可愛いですよ」と鏡を見せてくれた。
さあさあ、と背中を押されて部屋の外に出れば、犬彦がちょうど文箱を抱えて通りかかるところだった。
「あっ、桜子様。わぁ、洋装がとてもお似合いで! かわい……あ、あっ」
頭を下げた拍子に、犬彦が持っていた文箱がぽろっと落ちて、紙がひらりと落ちる。
「犬彦さん、こんにちは。京也様がお店に出かけられると聞いたので、もしよかったらご一緒したいと思って……あら?」
足元に落ちた紙を拾った桜子は、目を丸くした。
『名を惜しむ私は、今日もあなたのことを秘めていますの。自分の罪深さを嘆きつつひとり寝る夜の希望といえば、あなたの素晴らしく頼もしさ。次お会いする日を待ち焦がれていますから、次こそはどうぞ私を落胆させないで。必ずよ。それでは、例のお店で。咲花より』
咲花からの手紙だ。
しかも、これは――
(こ、恋文……⁉︎)
「あわわ、それはお仕事のお手紙でございますからして、はい! 忘れてください! 忘れてくださぁい!」
犬彦があわてて紙を取り上げ、駆けていく。
「……」
桜子はその背中を見て、キヨに視線を移した。キヨは文面を見ていなかったようで、「どうしたんです? なにか不穏なことが書いてあったんですか?」と心配そうにしてくれる。
「ううん。なんでもないの」
キヨに心配をかけてはいけない。桜子は首を振り、京也の部屋を訪ねた。いつも部屋に籠っているのに、京也はいなかった。もう出発したあとなのだ。
(京也様は、二世乃咲花先生に会いに行ったのよね?)
お仕事だ。そう思う一方で、「単なるお仕事であんなお手紙を?」という思いも湧く。
(私、どうしちゃったんだろう。なんだか、……やだ)
しょんぼりしている。そんな気持ちを抱えながら、桜子はとぼとぼと自分の部屋に戻ろうとした。すると、ひょっこりと犬彦が柱の影から顔を出す。
「さ、桜子様!」
「あ、犬彦さん」
チョコレヱト色の髪を揺らして近寄ってきた犬彦は、服を着替えていた。それも、夜会にでも出かけるような西洋衣装だ。
大きなリボンつきのドレスハットに、首元に大きなリボンと、白いジャボ。シックなベストに後ろが長いテールコート、膝の見える半ズボンに、リボンのついた編み上げブーツ。細身の杖をついていて、西洋人形や小さな貴公子といった雰囲気の、格好良さと可愛さが同居した姿だ。
犬彦はちょっと必死過ぎる感じの真っ赤な顔をして、ぺこんと頭を下げた。
「さ、さ、さきほどは! ボクがやらかしました! 京也様とおでかけなさりたいとおっしゃっていたのに、逃げてしまって! ボクが『いけない』と気づいたときには時遅く、京也様は気づかずに外出なさっていまして」
「あ、いえいえ、あの、……み、見てはいけないものを見てしまって、すみません……っ!?」
桜子がおろおろと言うと、犬彦はキッと涙目で見つめてきた。
「あれは、ただのお仕事のお手紙でございますから!」
「あっ、は、はい」
「代わりに、お店までボクがエスコオトいたしますので! まいりましょう!」
犬彦はそう言って、桜子を外に誘った。
外にはうしまるが人力車と一緒に待機している。白い前髪で目元は隠れているが、口元は笑顔だ。ニカッと笑った歯が白い。
二人乗りの人力車に座って、赤いひざ掛けをかけてもらい、移り変わる景色を鑑賞していると、犬彦は「二世乃というお姉さんは、悪いお姉さんではないのですが、ちょっと調子に乗っているなとボクなどは思うのでございます」と小声で教えてくれた。
「そうなの」
「ええ、ええ。まあ、京也様も困った方ではございますが、あちらも濃ゆい性格のお姉さんで! 変人同士で気が合うのかもしれませんが、……あっ、色恋の意味ではないのですよ⁉︎」
ぺらぺらとしゃべってから、犬彦はちょっと焦ったような照れたような顔をした。
きつね耳がぴこぴこと落ち着きなく動いていて、可愛い。
「ボク、色恋はあまりまだわからないのでございます」
恥ずかしがるように言って、犬彦は微妙な声色になった。
「でも、桜子様とおでかけしていると、デートってこんな感じかな、とも思ったり――アッ、これも失言でございますね⁉︎ い、今のは、内緒にしてくださいまし!」
初々しい風情で照れたりあわてたりしている犬彦は可愛くて、桜子はそっと声をひそめた。
「もちろん、内緒にします。ええと……私も、色恋はあんまりわからないのです」
秘密を共有する温度で視線を交わしたところで、人力車が停まる。
目的地である『にゃんこ甘味店』に着いたのだ。
「ご褒美をもらい損ねた……いや、それどころでもないか」
皇宮に着いた京也は桜子を撫でて、「おやすみ」と挨拶をした。
「今日は一緒に出かけることができて嬉しかった。きみが嫌でなければ、また出かけよう」
赤い欄干の橋を並んで渡って、月を背負うようにして京也が微笑む。
「俺は数日取り込むが、桜子さんは自由に過ごしてほしい」
その言葉通り、そのあと数日間、桜子は京也と会うことはなかった。
* * *
何回聞いたかわからないくらい、同じ言葉を聞かされる。毎日、毎日。
「京也様はお仕事が忙しくて、寝食も忘れて励んでいらして。本日もお会いできないのだそうですよ」
「そう……」
ちょっと、寂しい。
けれど、そんな風に思ってしまう自分への戸惑いもある。
桜子はキヨに髪を結ってもらい、リボンをつけてもらいながら、なんとなく溜息をつきたい気分でいた。
キヨが周囲をきょろきょろと見てから、声をひそめる。
「桜子様。ご存じですか? でも、本日は京也様はにゃんこ甘味店にお出かけのご予定なのですよ」
「そうなの?」
「ええ、ええ。あやかし族の車夫が予定を話して準備をしていましたからね」
キヨはコソコソと提案してくれる。
「桜子様の行動は自由なのでしょう? ご一緒してはいかがですか」
桜子はまじまじとキヨの顔を見た。キヨは、母親のような保護者感のある笑顔を浮かべている。
「キ、キヨさん」
「待っているだけではなく、ちょっとした好機を逃さずにお会いする……最近の女性は、私が若い頃よりも積極的だと聞いています。『命短し、想い人には強気で押しかけよ乙女!』という言葉もあるというじゃないですか」
「そ、そんな言葉ある?」
行き先は桜子様が働かれていたお店ですし、と言いながら、キヨは桜子に上品な緑色のワンピースを着せてくれた。やわらかい生地のベレー帽と革靴をあわせると、洗練されたモダンガールという印象だ。ふわふわの筆で頬に薄紅をさし、淡くて自然な口紅で唇を色づかせ、キヨは「とっても可愛いですよ」と鏡を見せてくれた。
さあさあ、と背中を押されて部屋の外に出れば、犬彦がちょうど文箱を抱えて通りかかるところだった。
「あっ、桜子様。わぁ、洋装がとてもお似合いで! かわい……あ、あっ」
頭を下げた拍子に、犬彦が持っていた文箱がぽろっと落ちて、紙がひらりと落ちる。
「犬彦さん、こんにちは。京也様がお店に出かけられると聞いたので、もしよかったらご一緒したいと思って……あら?」
足元に落ちた紙を拾った桜子は、目を丸くした。
『名を惜しむ私は、今日もあなたのことを秘めていますの。自分の罪深さを嘆きつつひとり寝る夜の希望といえば、あなたの素晴らしく頼もしさ。次お会いする日を待ち焦がれていますから、次こそはどうぞ私を落胆させないで。必ずよ。それでは、例のお店で。咲花より』
咲花からの手紙だ。
しかも、これは――
(こ、恋文……⁉︎)
「あわわ、それはお仕事のお手紙でございますからして、はい! 忘れてください! 忘れてくださぁい!」
犬彦があわてて紙を取り上げ、駆けていく。
「……」
桜子はその背中を見て、キヨに視線を移した。キヨは文面を見ていなかったようで、「どうしたんです? なにか不穏なことが書いてあったんですか?」と心配そうにしてくれる。
「ううん。なんでもないの」
キヨに心配をかけてはいけない。桜子は首を振り、京也の部屋を訪ねた。いつも部屋に籠っているのに、京也はいなかった。もう出発したあとなのだ。
(京也様は、二世乃咲花先生に会いに行ったのよね?)
お仕事だ。そう思う一方で、「単なるお仕事であんなお手紙を?」という思いも湧く。
(私、どうしちゃったんだろう。なんだか、……やだ)
しょんぼりしている。そんな気持ちを抱えながら、桜子はとぼとぼと自分の部屋に戻ろうとした。すると、ひょっこりと犬彦が柱の影から顔を出す。
「さ、桜子様!」
「あ、犬彦さん」
チョコレヱト色の髪を揺らして近寄ってきた犬彦は、服を着替えていた。それも、夜会にでも出かけるような西洋衣装だ。
大きなリボンつきのドレスハットに、首元に大きなリボンと、白いジャボ。シックなベストに後ろが長いテールコート、膝の見える半ズボンに、リボンのついた編み上げブーツ。細身の杖をついていて、西洋人形や小さな貴公子といった雰囲気の、格好良さと可愛さが同居した姿だ。
犬彦はちょっと必死過ぎる感じの真っ赤な顔をして、ぺこんと頭を下げた。
「さ、さ、さきほどは! ボクがやらかしました! 京也様とおでかけなさりたいとおっしゃっていたのに、逃げてしまって! ボクが『いけない』と気づいたときには時遅く、京也様は気づかずに外出なさっていまして」
「あ、いえいえ、あの、……み、見てはいけないものを見てしまって、すみません……っ!?」
桜子がおろおろと言うと、犬彦はキッと涙目で見つめてきた。
「あれは、ただのお仕事のお手紙でございますから!」
「あっ、は、はい」
「代わりに、お店までボクがエスコオトいたしますので! まいりましょう!」
犬彦はそう言って、桜子を外に誘った。
外にはうしまるが人力車と一緒に待機している。白い前髪で目元は隠れているが、口元は笑顔だ。ニカッと笑った歯が白い。
二人乗りの人力車に座って、赤いひざ掛けをかけてもらい、移り変わる景色を鑑賞していると、犬彦は「二世乃というお姉さんは、悪いお姉さんではないのですが、ちょっと調子に乗っているなとボクなどは思うのでございます」と小声で教えてくれた。
「そうなの」
「ええ、ええ。まあ、京也様も困った方ではございますが、あちらも濃ゆい性格のお姉さんで! 変人同士で気が合うのかもしれませんが、……あっ、色恋の意味ではないのですよ⁉︎」
ぺらぺらとしゃべってから、犬彦はちょっと焦ったような照れたような顔をした。
きつね耳がぴこぴこと落ち着きなく動いていて、可愛い。
「ボク、色恋はあまりまだわからないのでございます」
恥ずかしがるように言って、犬彦は微妙な声色になった。
「でも、桜子様とおでかけしていると、デートってこんな感じかな、とも思ったり――アッ、これも失言でございますね⁉︎ い、今のは、内緒にしてくださいまし!」
初々しい風情で照れたりあわてたりしている犬彦は可愛くて、桜子はそっと声をひそめた。
「もちろん、内緒にします。ええと……私も、色恋はあんまりわからないのです」
秘密を共有する温度で視線を交わしたところで、人力車が停まる。
目的地である『にゃんこ甘味店』に着いたのだ。