秘かに思いを寄せていた陸上部の先輩から告白されたのは、総体の県大会が終わって、先輩が部活を引退してからのことだった。

「俺の彼女になってくれたら嬉しいな」
「えっ、私? 私がですか!?」
「高跳びに一生懸命だし、笑顔が最高にかわいいし、ずっと好きだったんだ」

 先輩の1学年下で2年生の私は、先輩が部室を片付けにきたその日も部活に参加していた。
 でも、部室から荷物を抱えながら出てきた制服姿の先輩を見つけて……
 途端に、大粒の涙がボロボロこぼれて、練習どころではなくなってしまった。
 先輩は中学時代、全国大会にも出場した地元では有名な短距離走の選手だった。
 でも、膝を壊して、高校では故障との闘いになってしまって……
 最後の総体も、かろうじて地区予選は通過できたものの、県大会の一次予選で敗退となってしまった。

「好きな陸上をここまで続けられて幸せだったな」

 県大会の帰り道、淋しげにそう呟いた先輩の笑顔に、私はこっそり泣いた。
 あのとき、先輩はもちろん、他の誰にも泣いてしまったことは気取られなかった。
 それなのに、この日はとうとう我慢し切れなくなってしまった。
 わんわん泣いてる私に、陸上部のみんなだけじゃなくて、サッカー部員や、グラウンドの対角線にいる野球部員まで驚いている。

「おい、ど、どうした?」

 先輩が私に駆け寄って、話しかけてきた。

「だって、だって、先輩が……」
「静かな場所に移動して少し話そうか?」

 先輩は、両手で持っていた荷物を左腕に抱え直すと、右手で私の手首をつかんだ。
 それから顧問の先生の方を向いて言った。

「ちょっとだけユウナのことをお借りします。話を聞いてくるんで」
「ああ、よろしく頼んだ」

 いきなり泣き出した私の対処に困っていたであろう先生は、快く送り出してくれた。


 私は先輩に引っ張られて、体育館の脇に連れてこられた。

「一体どうしたんだよ? 何があった?」

 私はここまで歩いてくる間に少し落ち着いていた。

「だって、先輩が引退してしまうから……」
「うん。それで?」
「……『それで』って言われても……以上ですけど……」
「なんだー」

 先輩が大きなため息と同時に大きな笑顔になった。

「よかったー。何事かと思った」

 『何事』って、とーっても大事(おおごと)じゃない。だって、先輩に会えなくなるんだから。

「俺が引退するのがそんなに淋しいの?」

 私は小さく頷いた。

「これって、俺、期待していいの?」

 期待? 何を?
 私が首を傾げると、先輩は手に持ってた荷物を地面に置いた。
 先輩、なんだか嬉しそう……?
 それから、先輩の右手が私の左手を、先輩の左手が私の右手を優しく包んだ。

「オレの彼女になってくれたら嬉しいな。ずっと好きだったんだ」

 先輩が私のこと好きだったなんて……
 想像もしなかった。
 こんなしあわせなことが私に起こるなんて、まるで夢みたい。
 実感はなかった。
 それでも、私は先輩の彼女になった。
 そして先輩は私の彼氏になった。
 私にとって初めての彼氏だった。

 
 その日から、電車通学の私と先輩は、学校から乗り換え駅までいっしょに帰ることにした。
 私が部活してる時間、先輩はいつも自習しながら学校に残って、帰宅時間を合わせてくれた。

「学校なら分からないことがあっても、すぐに職員室へ聞きに行けるから」

 何でもないことみたいに言い訳してくれる先輩、大好き。

「ユウナ、手をつないでもいい?」

 先輩が私に『オレの彼女になってくれたら嬉しい』と言ったあの瞬間から、私の右手も左手も全部、先輩のものになった。
 それなのに私に確認してくれるところも大好き。
 初めて手をつないでいっしょに帰った日はドキドキしっぱなしだった。
 たぶん先輩も同じだったんだと思う。
 だって、手をつないでから、私だけでなく先輩までひと言もしゃべらなくなったから。
 手をつなぐのが当たり前になってしまった今では、逆に空っぽの手が寂しいぐらいなのにね。


 試験期間中の部活がない日には、ファミレスや図書館で私も先輩といっしょに勉強した。
 2年生までは教科書の内容に沿った勉強だけれど、3年生は大学受験を見据えた演習問題が中心になる。だから『難易度もググッと上がる』らしい。

「デートらしいデートもできなくて、ごめんな」

 先輩はそう言ってよく謝ってくれたけれど、そんな必要はなかった。
 先輩といっしょにいられるなら、ファミレスで勉強だろうと、最上級に贅沢な時間になるんだから。
 普段の先輩はたいていニコニコしてる。
 でも勉強中は、あの陸上競技会のときと同じ、キリッとした真剣な表情を見せてくれる。
 そんなときの先輩は何度見てもドキッとしてしまう……
 ……ん?
 んんん? 
 先輩、何してるんだろう……?
 眉間にシャープペンシルのキャップ部分を押し当てて、グルグル円を描いていた。
 私の視線に気が付いて、先輩がシャープペンシルをパッと顔から離した。

「先輩、今何してたの?」
「何……何だろうなー。改まって聞かれると困るかも。数学とか物理の問題を解こうとする、でも難しくてどっから掘り進んでいけばいいか分からない……そういうときってさ、じーっと問題文だけ読んでてもヒラめかないんだよなー」

 先輩がシャープペンシルの代わりに、今度は右手の人差し指を眉間に当てた。

「そういうときって、脳みそ柔らかくしたくなって、こう……マッサージ?」
「眉間をマッサージすると、脳みそが柔らかく、なる……?」
「……気がするし、解法や式を思い付いたりすることも、実際にけっこうある」

 先輩が不思議ちゃんな発言するの、初めて聞いたかも。
 初めて先輩をかわいいって思った。
 でも、そんな先輩もやっぱり大好き。
 私も先輩の真似をしてみた。
 人差し指を眉間に当てて、さっき先輩がやっていたようにグルグルグルグル……

「こんな感じ?」

 眉間を回す。
 柔らかくなーれ、私の脳みそ。

「うーん、脳みそを頭の中で回転させてるみたいな……」
「そう、そんな感じ。分かってくれる?」

 先輩は、イタズラが見つかった小学生みたいに笑った。
 それ以降、悩んでる先輩が眉間をグルグルしてるところを幾度となく見かけた。
 またやってる……
 その度に、笑いをこらえながら、私も自分の眉間をグルグルさせた。


 いつものように手をつないで帰っていたとき、以前から気になってた質問を投げてみた。
「先輩、聞いてもいい?」
「うん、いいけど?」
「先輩の志望大学ってどこ?」
「あー……」

 先輩は少し言いにくそうにした。

「……第一志望がA大。で、第二がB大。滑り止めにC大とD大も受けるつもり……」
「えっ、関西の大学ばっかり……」

びっくりして、涙声になってしまった。

「うん。第一志望は元からA大だったんだ。そうしたら、『いっそのこと関西の大学だけ受けてほしい』って親に頼まれて……」
「どうして?」
「俺が中2のときから、父さんが関西に単身赴任してるんだ。もうこっちには戻らないで、定年まで関西にいることになりそうなんだって。それに父さんも母さんも関西出身だから、『それなら家族全員で関西に戻りたい』って言われた」

 先輩、卒業したら、遠くに行っちゃうんだ。
 周りにだって、遠方の大学を志望してる人たちがいっぱいいるのに、どうして今まで先輩にその可能性を考えてこなかったんだろう……
 先輩からはそれっきり何も言ってこなかったし、私からもそれ以上は聞かなかった。
 でも、あのとき、もっと突っ込んで話をしていたらよかったのかな?
 『淋しい』って本音を言えばよかった?
 あるいは、『私は遠距離でも平気だよ』って強がればよかった?
 どうするのが正解だったかなんて分かるはずもないのに、思い出すたびに考えてしまう。


 先輩は『デートらしいデートもできなくて、ごめんな』ってよく言っていたけれど、私たちはホントにデートらしいデートってしたことがなかった。
 先輩は国立大学を志望していたから、共通テストに、二次の前期試験、それからもしものときに備えて後期試験の対策もしていた。
 受験科目がとにかく多いから、たくさん勉強しないといけないことは、来年度受験生になる私にも分かり切っていたことだった。
 だから、私から先輩をデートに誘うってことはしなかった。
 何より、毎日、短い時間だけどいっしょに帰って、たまにいっしょに勉強して……それが楽しくてしあわせで。
 先輩と校内で偶然すれ違ったりしたときに、お互い小さく手を振り合うあの数秒間も大好きだった。
 そんな時間があったから、受験生の先輩にワガママを言おうって気は起きなかった。
 でも振り返ってみると、特別な場所に行かないで日常生活の延長線だけだったから、私たちはツーショットの写真すら撮ってなかったんだな……。
 手元にあるのは陸上部のみんなで写っている写真だけ。
 

 年が明けると共通テストに、私立大学の入試、それから国立の前期試験、と怒涛の試験ラッシュが始まった。
 大事な時期を前に先輩が体調を崩さないように……って、私はやっぱり遠慮して、クリスマスも初詣も誘うことをしなかった。
 でも、『クリスマスの代わりに』って、2学期の終業式の後、先輩がカフェに連れていってくれた。
 途中下車して行ったそのカフェは、外観から内装、食器に至るまで、全てがとってもかわいかった。
 先輩自身が好きなんじゃなくて、私が好きそうな雰囲気のお店を選んでくれたんだろうな。
 先輩はニューヨークチーズケーキ、私はガトーショコラを注文して、分けっこしながら食べた。

「こんなことぐらいしかできなくて、ごめんな」
「こんなにしてくれて、ありがとう」

 紛れもなく本心だった。
 そうそう、あのとき食べたケーキの写真だけは残っている。
 ケーキじゃなくて、先輩を撮ればよかったのにね。


 3学期に入ると、入試を受けるために、先輩が学校を欠席する日がポツポツ出てきた。
 そういうときは、陸上部の中で電車通学のメンバーと久し振りに帰った。
 女子でキャッキャッとおしゃべりしながら帰るのも楽しかった。
 ただ、つないでいない手だけは落ち着かなかった。
 けれど、3年生が自由登校になってからも先輩は学校に来ていたから、いっしょに帰れる日は相変わらずいっしょに帰れた。

「授業は自習だから、家にいるより学校に来て勉強した方が集中できていいんだ」

 先輩はそう言っていた。
 でも、先輩は私と帰る時間を大切にしてくれていたから、そのために登校していたんだと思う。
 これは自惚れじゃなくて、絶対そうだったって自信がある。


 国立大学の前期試験が終わって間もなく、3月に入った。
 その初日に卒業式が執り行われた。
 在校生は式に出席できない。
 でも陸上部の伝統で、陸上部の1、2年生は、卒業式を終えて校舎から出てくる先輩を待ち構えていて、花を贈る。
 基本、同じ競技の後輩から先輩に花を渡す。だからフィールド競技の私は、フィールド競技の選手だった先輩へ渡す係……のはずだった。
 けれど、私と先輩が付き合ってることを、陸上部員の全員が知っていた。
 だから、みんなが気を利かせてくれて、私から短距離走だった先輩に渡せることになった。
 卒業式を終えて卒業生がパラパラと出てきた。
 私たちは見逃さないように、その中から陸上部の先輩を探した。
 続々と先輩たちが現れて、花が渡されていく。
 まだかな……
 あっ、先輩! 来た!!
 先輩が玄関から出てすぐの瞬間、私の目は先輩の姿を捕らえた。
 先輩は、陸上部ではない人たちといっしょだったけれど、私たちを見つけると、私たちのところまで走って来てくれた。

「卒業おめでとうございます」

 私は花を先輩に差し出した。

「ユウナ、ありがとう。みんなもありがとう。これからがんばれよ」

 先輩は簡単にそう言うと、花を受け取って、さっきの人たちと正門の方へと消えてしまった。
 あっさりしたものだった。
 けれど先生たちが散り散りに立っていて、卒業生たちに早く帰るように促していたんだから仕方ない。
 それでも、先輩は私から花を受け取るときに、私の手をわざとキュッて握ってくれた。
 それに去り際、少しだけ振り返って、小さく手を振ってくれた。
 どちらもほんの数秒のことなんだけど、いいの。
 先輩からの気持ちを十分に受け取れた。


 卒業式から5日後、先輩からメッセージが届いた。『第一志望に合格した』って。
 私はすぐさま『お祝いさせてほしい』って返信したんだけれど、先輩はとても忙しいらしかった。
 友達との送別会や合格祝いに顔を出しつつ、家の片付けと引っ越し準備を大急ぎで進めていたそうだ。
 先輩が受験してる間にも、先輩のお父さんとお母さんは物件を探していて、3月中に関西に転居することが決定していた。
 その間、在校生の私は普通に学校があったから、先輩と会えない淋しさを抱えつつも、淡々と日々を過ごしていた。
 けれど終業式の前日、『明日、何時ぐらいに帰れそう?』、先輩からそんなメッセージが送られてきた。
 それに続いて、『その時間に正門前で待ってる。久し振りにいっしょに帰ろう』って。
 やっと先輩に会える!
 私は有頂天だった。


 いる! ホントに先輩がいる!!
 正門のそばで立っている先輩を見つけて、私は駆けていった。

「せんぱーい! 合格おめでとう」
「ありがとう。受かってホッとした。元気そうだな。それにしても、ユウナ、足速くない? 短距離に転向してもいけそう」

 先輩があんまりにも真面目な顔して言うから、冗談なのか、それとも本気なのか、さっぱりだった。

「今日も手をつないでいい?」

 そんなのいいに決まっている。確認するまでもない。
 このときの先輩はゆっくりとした動作で、丁寧に私の手を握った。
 そのことには気付いてたし、どうしたんだろう? とも思った。
 でも先輩に会えて、私はすっかり浮かれポンチになっていた。
 そのせいで、久し振りに会えて先輩も嬉しいって思ってくれてるのかな? もしそうなら私も嬉しいな……って程度にしか思わなかった。


 今日は寄り道しないのかな?
 先輩はいつも以上に遅く歩いたけど、私の期待とは裏腹に、そのまま駅の改札をくぐってしまった。
 もっといっしょにいたかったな……
 そうならそう、と自分の口から言えばよかったのに。
 言ったところで、結果は同じだったかもしれない。だけど、少なくとも後悔は残らなかった。
 タイミングよくやってきた電車に乗った。いつも以上に発車音を大きく感じた。
 どんなことを話したかな?
 『いよいよ次は私が受験生だ』とか、
 『入試本番って緊張した?』とか。
 先輩のほうからは、『ユウナは何学部に行きたいの?』とか……
 そんな会話をしたのは覚えてる。


 そうして乗り換え駅に着いて、私だけ電車から降りた。
 いつも通りに電車を振り返って、『またね』って手を振ろうと、笑顔で先輩を見つめた……その瞬間、

「明日、引越しなんだ。今までありがとう」

 私の頭では処理できなかった。ううん、処理するのを拒否したのかも。
 私の手は中途半端な高さのままで止まってしまった。
 私の顔は笑ったまま固まった。

 ジリリリリリ……

 電車のドアが目の前で閉まった。
 先輩が徐々に遠ざかっていく。
 見えなくなっても、私はずっと電車を見つめ続けた。

 今までありがとう……

 今までありがとう?

 今までありがとう???

 先輩がそう言った意味を理解できなかった。
 頭の中で何度も反芻した。
 だったら、先輩に電話するなりして確かめればよかったのに、それもできなかった。
 往生際が悪くて臆病な私は、先輩から連絡が来るのをずっと待っていた。


 4月になり、私は最終学年になった。
 先輩は大学のキャンパスを歩いてるんだろうな。
 ゴールデン・ウィーク、もしかしたら先輩が会いに来てくれるかも……そんな期待をしたりもした。
 でも先輩から連絡は来なかった。


 私は総体を終え、部活を引退し、本格的に受験勉強を始めた。
 夏は受験の天王山らしい。
 でも天王山ってどこの山? 登るのが大変な険しい山ってこと? って思ってたら、そういうことじゃないんだね。
 けれど天王山のことなんて、どうだってよかった。それよりも先輩に会いたかった。
 夏休みの間も、来ない連絡をずっと待ち続けた。


 季節はあっという間に移り変わった。
 紅葉がきれいな時期になって、もう先輩から連絡が来ることはないんだ……と、ようやく悟った。
 先輩は今頃、関西弁を話す女の子と手をつないでいるのかもしれない。
 突風が落ち葉を巻き上げた。

「きゃっ!!」

 私は落ち葉の渦に巻き込まれた。
 その瞬間、ふと奇妙な思いが湧き上がってきた。
 私と先輩って、ホントに付き合ってたんだっけ……
 しあわせ過ぎたあの頃って現実だった?
 私、長い夢でも見てたんじゃない?
 あの日々が現実か夢かに関わらず、受験は刻々と迫って来ていた。
 先輩のことばかり考えてないで、勉強をしないと……


 その夜、志望大学の過去問に取り組んだ。
 難しいな……
 でも、これが解けないことには受からないよね……
 うーん…………
 それは完全に無意識の動作だった。
 私はシャープペンシルのキャップを眉間に押し当てた。
 あっ、分かった! この問題の解!!
 その瞬間、私は自分の眉間をグルグル回してたことに気付いた。
 問題文に雫がボタボタ落ちた。


 また春が来た。
 春というのはまだ肌寒いけれど。
 私は関西ではない地方の大学に進む。



 END