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「じゃ、これでホームルーム終わりだ。お前らー寄り道しないで帰れよー。部活のやつはほどほどに頑張れ」
気怠そうな担任がそそくさと教室を出ると、それまで静かだった教室が途端に騒がしくなる。特に喋る予定がある友達は、今日はいなかったので、賑やかに会話に花を咲かせるいくつかのグループを縫って廊下に出る。
大人しく帰ることにした。流石に昨日の今日で、図書室に行く気にはなれない。
冷静になって考えると、どう考えても昨日の僕は変人だ。突然、口説きまがいのセリフを吐き、そしてあろうことか、重ねたのだから、きっと、名も知らない彼女の僕への印象は最底辺に振り分けられただろう。
かと言って、一人で寄り道をするような気の利いた場所が、この小さな街にあるかと言われれば、思わず唸ってしまう。
「おーい、実笠! お前にお客さんだぞー!」
不意に幸田に呼び止められ、振り向く。爽やかフェイスに似合わないニヤついた表情で手を振っている幸田の横には、昨日最悪な出会い方をしてしまった彼女がポツンと立っていた。
「じゃ、俺は部活行くからなー」
僕の肩をわざとらしく小突き、幸田はそそくさと去っていく。恥ずかしさと気まずさで、できることなら見なかったことにしてそのまま帰りたかったが、流石にそうはいかない。
図書室以外で見る彼女は、まるで僕と同じように空気を演じているように感じた。極力、人から距離をとるようにしているというか、自分は元からそこにある石ころですよ、とでも言わんばかりの仕草。
それでも、やはり整った顔立ちとすらっとしたスタイルに何人もの男子生徒の目線が向いている。
半空気な彼女が、完全空気である僕に一体何の用なのだろう。まさか、昨日の出来事が本当に口説く行為と勘違いでもされてしまったのだろうか。
「えっと、僕に用でも……?」
彼女は小さく頷く。
「昨日の話、詳しく聞きたくて」
立ち眩みがした。僕の予想通り、昨日の出来事の続きだった。
「いや、あれは本当に口説くとかじゃなくて、なんていうのかな、できれば気にしないでいただけると助かるんだけど」
彼女は僕の必死の抵抗などまるで聞いていないようで、周囲を見回し、踵を返した。
「場所、変えましょう。ここじゃ、人が多くて落ち着いて話せないもの」
てっきり、校内で人気の少ない場所に移動するだけだと思ったが、彼女は校門を出て、街の中心部に向かっているようだ。その少し後ろを僕は黙って付いて行く。
一度も振り向かないし、言葉も発さないので、僕と話したことなど忘れてしまって、ただ単純に帰路についているだけなんじゃないかと不安になる。
この街でもっとも人が多く滞留する駅を通り過ぎると、人とすれ違う回数が極端に減る。行き交う人の数に比例しない妙におしゃれで、だだっ広い通りに存在する、一軒の古びたカフェの扉を彼女は開けた。
カランコロンという木板の心地よい音と共に、豆を挽く香ばしい香りが鼻孔を刺激する。
「おや、琴音ちゃん。いらっしゃい」
マスターと思しき白髪のおじいさんに彼女は一礼すると、促されるわけでもなく、自ら一番奥の席に腰を据えた。
向かいに座ると、彼女と取り巻く空間に少しだけ息がつまる。僕らとマスターしかいない、アンティーク調の雰囲気で揃えられた狭い店内に、びっくりするくらい彼女は溶け込んでいた。まるで違う世界のように感じるこの場所は、彼女がいることで完璧な空間になっているのではないかとさえ思う。
「琴音ちゃんがお友達を連れてくるなんて珍しいねぇ。琴音ちゃんはいつものでいいね? お友達は何にする?」
彼女に一瞥をくれる。しかし、彼女はマスターに小さく頷くのみで、一言も発さない。
「じゃあ、同じもので」
マスターは柔和な笑顔で注文を受け取ると、カウンターの奥へと戻って行く。
「篠原くんって、本当に赤い糸というものが眼に見えるの?」
何の前触れもなく、彼女は唐突に切り出した。彼女的にはここまで来て、ようやく話せる状況になったということだろうか。それとも、人前であまりこの話をしたくないという僕の意を汲んでくれたのだろうか。
どちらにせよ、僕が本当に口説いたわけではないと、彼女は判断してくれたということだ。
彼女の好奇心と疑心の眼差しから目を背け、テーブルの木目に視線を這わせながら答える。
「見えるよ。大抵の人は胸元から一本の赤い糸が伸びているんだ」
「そして、その糸がどこかの誰かさんと繋がっているというわけね」
「そういうこと。信じてもらえそうなことは語れないけどね」
胸元に目線を送る。僕からは一本の糸が、窓ガラスをすり抜けて外へと伸びている。
「それで、どうしてその話を突然私にしたの?」
その言葉に僕は無言を貫いた。正確にはどう返したものか分からずに沈黙を招いてしまった。
「まぁ、考えられるとすれば三つね。一つ目は、実は赤い糸が見えるなんてのは全くの嘘で本当に口説くため、二つ目は、篠原くんの糸と私の糸が繋がっているから、三つ目は、私がその赤い糸関係で他人と違う何かを持ち合わせているか、もしくは糸が見えないか」
それまで表情という表情はつくらないでいた彼女が、いたずらに微笑む。
「そうだね。正解は二番。僕の糸は君と繋がっている」
彼女の的確すぎる推理に、僕は迷わず返す。結果的に見れば、やっぱりただの告白みたいな感じになってしまったが、これが彼女を傷つけずに済む回答だと思った。
「嘘ね」
そして彼女もまた、迷わずに僕の意見を否定したのだった。
「どうして嘘だと思うの?」
彼女は僕の胸の中心を指差し、ゆっくりとその指を上にあげて行く。胸から肩へ、口へ、そして目まであげると、ピタッと止めた。
「さっき、私が篠原くんと私の糸が繋がっているからと仮説を言った時、篠原くんは一瞬だけ窓の外を見た。つまり、篠原くんの糸は私に向かってじゃなくて、ここにいない誰かさんと繋がっているんじゃないかと思ったの」
「うわぁ、凄すぎて何も言い返せない」
「ということは、正解は三番目ね」
「そういうことになるね……」
少しばかりの申し訳なさを感じる僕とは裏腹に、彼女は表情一つ変えずに「そう」とだけ呟いた。
「辛くないの? いや、辛いと言うか不安じゃないの? 運命の糸に問題があるってことは、将来そういうことで他人と違うってことになるんだけど」
「そういうことって?」
「それは……恋愛とか、結婚とか」
「それなら、別に怖くない。私、恋愛とかしないと思うし。たぶん、結婚もしない。というか、無理」
彼女は視線を下げ、小さく咳払いをする。
「それは、男性恐怖症とかそういうやつ?」
「だとしたら、篠原くんと話してないよ」
何となく、これ以上は踏み込んではいけないと感じた。少なくとも、会話をするのが二回目の相手に、誰しも自分の恋愛観など語りたくはないだろう。
「まぁ、もう言ってしまうけど、君からは赤い糸が見えないんだ。他の人はほぼ全員糸があるのに、君は糸を持っていない。糸を持たない人は年に一人見かけるか、どうかなんだ。だから気になって無意識に声をかけてしまった。本当にただの好奇心で、申し訳ないとは思ってる」
彼女は不思議そうに少しだけ首を傾げた。
「でも、それだと運命の相手がこの世にいない人の糸はどうなるのかしら。例えば、もう亡くなっているとか、まだ生まれていないとか」
僕は先ほどの彼女を真似て、指を使ってその答えを示した。
「なるほど、天に向かって伸びてるのね。なんだか、ロマンチックね。人は皆、天から授けられて、天に戻って行くってことになるものね。もちろん、この話が篠原くんの妄想でないのだとしたらのお話だけどね」
「どうして、妄想じゃないって思えるの? きっと、僕が君の立場なら頭のおかしいやつだなって思うはずだけど」
彼女は少し考えるように視線を彷徨わせる。
「うまく言えないけど、信じた方が退屈じゃなさそうでしょ? ネッシーとか宇宙人とかも、いないって頭ごなしに否定するよりも、本当にいるかもしれないと思った方が絶対に楽しいよ」
「納得できるような、できないような……」
少し意外だった。図書室での彼女は、静かで、妙に態度も大人びているように見えるから、先ほどのロマンチック発言もそうだが、実は思ったよりも好奇心旺盛なのかもしれない。
「それに、篠原くんみたいに特別な能力みたいなものを持った人の話、他にも聞いたことあるよ。一生に一度だけ、五秒間どんな願いも叶えることができるって能力。面白そうでしょ?」
「うーん、どうだろう。五秒間だけって、何ができるのかな。しかも、一度きりなんて」
「確かに五秒間だけっていうのがポイントよね。そんな能力を持った人はきっと、いつまでも使いどきを悩んでしまいそうね」
沈黙が流れる。きっと彼女も僕と同じく、五秒間の使い道を考えているのだろう。
漂う静寂を破るように、白いシャツに黒ベストのカチッとした服装のマスターが、曲がった腰でティーカップを二つ盆に乗せて来た。
「はい、お待たせ。ゆっくりしていってね」
年配の方特有の暖かい表情を浮かべて去って行くマスターを目線で追う。
視線を卓に戻すと、高級そうに見えるアンティークのティーカップに注がれた白い湯気が立ち上る珈琲が二つ。どう見ても、高校生という立場には似つかない代物だ。
彼女は角砂糖を三つティーカップの中に溶かす。
僕が見ていることに気が付いたのか、彼女は自ら告白する。
「私、甘党なの」
そして、僕の返事を待つこともなく続けた。
「私に赤い糸が無いのはきっと、人を愛することも、愛されることも、完全に諦めているからだと思う」
「それって……」
「よく、私もう独身でいいとか、人なんて絶対に好きにならないって言ってる人いるけど、そういう人たちにも赤い糸は見えるのよね?」
一つ、小さく頷く。
「そういう人たちって、口では愛する人をつくりませんとか言ってるけど、結局心のどこかでは少なからず、人を愛することへの関心とか、愛される期待を持っているから赤い糸があるんじゃないかしら。でも、私は違う。私は人を心から愛することは今後一度たりとも無いだろうし、愛されてはいけない人間だと思ってるから」
彼女の無表情がやけに刺々しい。嫌悪感を発しているというよりは、まるで自分を守る為にバリアを張っているように見える。
「人を愛せれば、愛されれば、砂糖なんてなくても珈琲は苦く感じなくなるのかしら」
胸元の赤い糸がふわりと揺れる。
「それは、どうだろう」
僕は角砂糖を四つ手に取り、ティーカップに落とし込んだ。
「僕も甘党だからね」