思い出に浸る彼女につられそうになるが、しばらくして文也は家から視線を剥がした。
「それじゃ、役場まで行くか」
「その途中に、宗像さんの家があるって話だよね」
「引っ越してなかったらな」
田舎道を再び歩き始める。六年ぶりの杉ヶ裏は、想像していたよりも変わっていなかった。中に住む人は自分たちのように変化しているだろうし、現に一軒家のあった場所がアパートになっているのも見かけた。それでもこの町は、桜と二人で遊びまわった昔の風景を容易に思い起こさせた。
颯介に昔のことを語りつつ、町役場に向けて注意深く表札を辿って歩く。山本、五十嵐、墨田……。きょろきょろして歩く二人の横を、虫かごと虫取り網を持った小学生たちが走り去っていく。
記憶が確かなら、役場まであと百メートル程度。もしかして道が違うのかもと若干不安に思い始めた文也は、思わず声を上げた。
「あった!」
一軒家の門に、確かに「宗像」の表札がかかっていた。それを見た颯介もほっとしている。
二人でそっと門の中を覗く。庭にはプランターや鉢植えが所狭しと並び、多くの植物が青い葉を茂らせている。それを見て疑問が湧く。こんな庭で犬を飼えば、下手をすれば鉢をひっくり返しかねない。リードを引っかけるかもしれない。赤いミニトマトを食べるかも。犬は注意深くしつけられているのか、それとも家の中で飼われているのか。想像はしたくないが、実はもう飼われていないのか。
様々な可能性を考えていると、ポケットのスマートフォンが振動した。
saku:こっちも宗像さんだよ。後ろのお家。
桜の言葉に二人は同時に振り返る。向かい合う家の表札も「宗像」だ。
「もしかして、親戚なのかな」
颯介が呟く。見つからないどころか、複数の「宗像」が見つかるとは。門の奥、玄関先には名前らしき表札もかかっているが、それではわかるはずがない。一体どちらが探している宗像なんだ。
「フミ、こっちも」
更に隣の家を颯介は指さす。少し大きなその家にも同じ表札。親戚同士、固まって住んでいるのか。
「マジか……」
困ったな、と口にしながら文也は颯介に近寄り、その家を覗き込む。立派な御影石の表札には白字で宗像の文字。引き戸の上部には、「宗像重三」と名前付きの表札。厳格そうだとイメージを抱きつつ、庭を見渡す。
途端、犬の吠える声が耳を打ち、文也と颯介はびくりと身体を震わせた。縁の下から出てきた犬が、軒下に繋がれたままわんわんと大声で吠えている。茶色の毛皮を持つ立派な柴犬。こいつだ、と直感した。
番犬は怪しい人物に向けて大きな声で吠え続けている。文也は堪らず、唇に人差し指を立てて「しー!」と合図をするが、犬にそんなものが通じるはずがない。このままでは騒ぎになりかねないと焦る。近隣住民に説明を求められると厄介だ。
二人で「しー!」と繰り返していると、がらりと引き戸が開き、中から老人が姿を現した。「うるさいぞ、ムギ」飼い主らしき老人が言うと、犬は吠えるのを止めた。しかし興奮しているのか、ふさふさの尻尾を振っている。
「なんだ、おまえらは」
年の頃は七十を過ぎているだろう、文也と颯介よりも少し身長があり、がっしりとした体つきの色黒の老人。農業を営んでいるのかもしれない。眉間には深く皺が寄り、白いひげを生やしている。
「あっと、その」
じろりと睨まれ咄嗟に台詞が出てこない文也に代わり、颯介が返事をした。
「僕、小戸森颯介っていいます。驚かせてしまってごめんなさい。犬を探しに杉ヶ裏に来たんです」
「犬?」
「多分、そちらの犬です」やっと文也も言葉を返す。「知り合いが昔、犬を譲ったって言ってて、その里親を探してて。……あ、俺、月城文也です」
「確かにムギは、貰いもんだが……」
この老人が宗像重三だろう。彼はムギというらしい犬をちらりと見、再び文也たちに視線をやる。「おまえたち、その話は本当か」
「本当です。椎名さんから聞きました……今は天方さんですが」椎名は、杉ヶ裏に住んでいた頃の桜の名字だ。「俺、子どもの頃に杉ヶ裏に住んでで、そこの娘の桜ともよく遊んでたんです」
椎名という苗字を覚えていたのだろう。重三は顎に手をやる。
「今更何と言われようと、ムギは返せんぞ」
「いえ、返して欲しいとかじゃなくて、元気にしてるのかが気になって……。桜が、引っ越した後も子犬のことを気にしてて、それで代わりに調べようと思って」
「本人は来ていないのか」
まさにそばにいる、などとは言えない。予め打ち合わせていた話を颯介が説明する。
「桜ちゃん、今は病気で入院してて。元気になったら一緒に探しに行こうって言ってたんです。でも、退院の目途が立たなくて。それで代わりに、写真の一枚でも撮って来れたらって話になったんです」
桜が死んで、その幽霊から話を聞いて……だなんて真実を話せば、確実に信用してもらえない。門前払いかもしれない。だから心苦しくとも、生きている桜から託された体にしようと話し合っていた。
「椎名さんの家の子か……確かに、病気がちだとは聞いたことがあるな」
半信半疑でも思い当たるふしがあるせいか、信の方に心を傾けてくれたらしい。「家には上げられんぞ」と、門を開けてくれた。
安堵しながら、文也と颯介は、短く刈られた芝生を歩いて犬のそばに近寄った。ムギという名がぴったりの、綺麗な小麦色の柴犬だ。人懐こく尻尾を振り、二人を見上げている。
「噛まないですか」
「知らん。ムギに聞け」
重三の台詞に少々恐れながらも、文也は膝を折り、そっとムギの頭に触れた。嫌がる素振りもなくムギはしきりににおいを嗅いでいる。隣にしゃがんで背に触れる颯介にも尻尾を振って、人懐こく愛想を振りまいている。なんとも可愛らしい。
膝に身体を押し付けてくるので、文也はその顔を両手でわしゃわしゃといじくってやる。ムギはいっそう喜んでその手をぺろぺろと舐めた。犬の毛皮はほんのりと草のにおいがする。
その濡れた鼻がズボンのポケットをつつくのに気づき、右手を入れてスマートフォンを取り出す。ムギは機械本体ではなく、その先のにおいに尻尾を振っているらしい。
「覚えてるのか」
驚いて、問いかけてしまう。揺れる尻尾が何よりの答えに思えた。
「それはなんだ」
「これは、桜から……」貰ったと言いかけて、咄嗟に言葉を変える。「預かってるお守りです」
ほう、と思わず重三も感心したようだった。ムギは間違いなく、桜のお守りに反応している。九年も前に自分を拾った恩人のことを、今も律儀に覚えているらしい。
「犬は三日の恩を三年忘れんと言うが、ムギはその通りだな」
「賢いね。きみは、桜ちゃんのことをずっと覚えてたんだ」
颯介もムギを褒め、その頭を撫でてやる。ムギが舐めないよう、手でそっとお守りを包みながら、「すごいな」と文也も口にした。
「それじゃ、役場まで行くか」
「その途中に、宗像さんの家があるって話だよね」
「引っ越してなかったらな」
田舎道を再び歩き始める。六年ぶりの杉ヶ裏は、想像していたよりも変わっていなかった。中に住む人は自分たちのように変化しているだろうし、現に一軒家のあった場所がアパートになっているのも見かけた。それでもこの町は、桜と二人で遊びまわった昔の風景を容易に思い起こさせた。
颯介に昔のことを語りつつ、町役場に向けて注意深く表札を辿って歩く。山本、五十嵐、墨田……。きょろきょろして歩く二人の横を、虫かごと虫取り網を持った小学生たちが走り去っていく。
記憶が確かなら、役場まであと百メートル程度。もしかして道が違うのかもと若干不安に思い始めた文也は、思わず声を上げた。
「あった!」
一軒家の門に、確かに「宗像」の表札がかかっていた。それを見た颯介もほっとしている。
二人でそっと門の中を覗く。庭にはプランターや鉢植えが所狭しと並び、多くの植物が青い葉を茂らせている。それを見て疑問が湧く。こんな庭で犬を飼えば、下手をすれば鉢をひっくり返しかねない。リードを引っかけるかもしれない。赤いミニトマトを食べるかも。犬は注意深くしつけられているのか、それとも家の中で飼われているのか。想像はしたくないが、実はもう飼われていないのか。
様々な可能性を考えていると、ポケットのスマートフォンが振動した。
saku:こっちも宗像さんだよ。後ろのお家。
桜の言葉に二人は同時に振り返る。向かい合う家の表札も「宗像」だ。
「もしかして、親戚なのかな」
颯介が呟く。見つからないどころか、複数の「宗像」が見つかるとは。門の奥、玄関先には名前らしき表札もかかっているが、それではわかるはずがない。一体どちらが探している宗像なんだ。
「フミ、こっちも」
更に隣の家を颯介は指さす。少し大きなその家にも同じ表札。親戚同士、固まって住んでいるのか。
「マジか……」
困ったな、と口にしながら文也は颯介に近寄り、その家を覗き込む。立派な御影石の表札には白字で宗像の文字。引き戸の上部には、「宗像重三」と名前付きの表札。厳格そうだとイメージを抱きつつ、庭を見渡す。
途端、犬の吠える声が耳を打ち、文也と颯介はびくりと身体を震わせた。縁の下から出てきた犬が、軒下に繋がれたままわんわんと大声で吠えている。茶色の毛皮を持つ立派な柴犬。こいつだ、と直感した。
番犬は怪しい人物に向けて大きな声で吠え続けている。文也は堪らず、唇に人差し指を立てて「しー!」と合図をするが、犬にそんなものが通じるはずがない。このままでは騒ぎになりかねないと焦る。近隣住民に説明を求められると厄介だ。
二人で「しー!」と繰り返していると、がらりと引き戸が開き、中から老人が姿を現した。「うるさいぞ、ムギ」飼い主らしき老人が言うと、犬は吠えるのを止めた。しかし興奮しているのか、ふさふさの尻尾を振っている。
「なんだ、おまえらは」
年の頃は七十を過ぎているだろう、文也と颯介よりも少し身長があり、がっしりとした体つきの色黒の老人。農業を営んでいるのかもしれない。眉間には深く皺が寄り、白いひげを生やしている。
「あっと、その」
じろりと睨まれ咄嗟に台詞が出てこない文也に代わり、颯介が返事をした。
「僕、小戸森颯介っていいます。驚かせてしまってごめんなさい。犬を探しに杉ヶ裏に来たんです」
「犬?」
「多分、そちらの犬です」やっと文也も言葉を返す。「知り合いが昔、犬を譲ったって言ってて、その里親を探してて。……あ、俺、月城文也です」
「確かにムギは、貰いもんだが……」
この老人が宗像重三だろう。彼はムギというらしい犬をちらりと見、再び文也たちに視線をやる。「おまえたち、その話は本当か」
「本当です。椎名さんから聞きました……今は天方さんですが」椎名は、杉ヶ裏に住んでいた頃の桜の名字だ。「俺、子どもの頃に杉ヶ裏に住んでで、そこの娘の桜ともよく遊んでたんです」
椎名という苗字を覚えていたのだろう。重三は顎に手をやる。
「今更何と言われようと、ムギは返せんぞ」
「いえ、返して欲しいとかじゃなくて、元気にしてるのかが気になって……。桜が、引っ越した後も子犬のことを気にしてて、それで代わりに調べようと思って」
「本人は来ていないのか」
まさにそばにいる、などとは言えない。予め打ち合わせていた話を颯介が説明する。
「桜ちゃん、今は病気で入院してて。元気になったら一緒に探しに行こうって言ってたんです。でも、退院の目途が立たなくて。それで代わりに、写真の一枚でも撮って来れたらって話になったんです」
桜が死んで、その幽霊から話を聞いて……だなんて真実を話せば、確実に信用してもらえない。門前払いかもしれない。だから心苦しくとも、生きている桜から託された体にしようと話し合っていた。
「椎名さんの家の子か……確かに、病気がちだとは聞いたことがあるな」
半信半疑でも思い当たるふしがあるせいか、信の方に心を傾けてくれたらしい。「家には上げられんぞ」と、門を開けてくれた。
安堵しながら、文也と颯介は、短く刈られた芝生を歩いて犬のそばに近寄った。ムギという名がぴったりの、綺麗な小麦色の柴犬だ。人懐こく尻尾を振り、二人を見上げている。
「噛まないですか」
「知らん。ムギに聞け」
重三の台詞に少々恐れながらも、文也は膝を折り、そっとムギの頭に触れた。嫌がる素振りもなくムギはしきりににおいを嗅いでいる。隣にしゃがんで背に触れる颯介にも尻尾を振って、人懐こく愛想を振りまいている。なんとも可愛らしい。
膝に身体を押し付けてくるので、文也はその顔を両手でわしゃわしゃといじくってやる。ムギはいっそう喜んでその手をぺろぺろと舐めた。犬の毛皮はほんのりと草のにおいがする。
その濡れた鼻がズボンのポケットをつつくのに気づき、右手を入れてスマートフォンを取り出す。ムギは機械本体ではなく、その先のにおいに尻尾を振っているらしい。
「覚えてるのか」
驚いて、問いかけてしまう。揺れる尻尾が何よりの答えに思えた。
「それはなんだ」
「これは、桜から……」貰ったと言いかけて、咄嗟に言葉を変える。「預かってるお守りです」
ほう、と思わず重三も感心したようだった。ムギは間違いなく、桜のお守りに反応している。九年も前に自分を拾った恩人のことを、今も律儀に覚えているらしい。
「犬は三日の恩を三年忘れんと言うが、ムギはその通りだな」
「賢いね。きみは、桜ちゃんのことをずっと覚えてたんだ」
颯介もムギを褒め、その頭を撫でてやる。ムギが舐めないよう、手でそっとお守りを包みながら、「すごいな」と文也も口にした。