二日後の休日、文也は桜の家を訪ねた。桜のことを忘れられず、もう一度だけ線香をあげさせてくれと頼むと、律子は快諾してくれた。
「あの、これ……」文也が母親から預かったクッキーの箱を手渡すと、「気なんて遣わなくていいのに」と恐縮する。
「うちの母さん、今日は仕事だけど、また今度挨拶しに来たいって言ってました」
「ありがとう。いつでも来てくれて構わないから。桜は本当に幸せものね」
遺影の前でそう言う彼女に、まさに今、同じ部屋に桜がいることを伝えたくてたまらない。だが桜は、母親には自分のことを教えない方がいいと言った。会いたいのはやまやまだが、そう簡単に信じてはもらえないだろう。文也に対してあらぬ疑惑を立てられたくないし、仮に信じたとして、連絡を取れるのが母親である自分ではないといって悲しんで欲しくない。そんな桜の思いには、文也も納得した。
線香をあげ、鈴を鳴らし、遺影の前で手を合わせるが、一体誰に挨拶をしているのか少し不思議な気がする。桜はこの中にはいない。同じ部屋で、自分の写真に手を合わせる文也を見て、くすくす笑っているのかもしれない。
手を下ろし、視線を下げて気が付いた。そばには変わらず、桜が使っていた物が並べられている。その中には、彼女が生前使っていたスマートフォンもある。
「あの、このスマホ……」
話しかけると、後ろの座卓で茶を入れていた律子が「ああ、桜の」と微笑んだ。
「これ、まだ使えるんですか」
「使おうと思えば使えるはずだけど……桜が使ってた形跡を残しておきたいから、そのままにしておこうと思って。解約して電話が出来なくなっても、データは残しておくつもり」
それは正しい判断である気がして、文也は頷いた。こうして家に保管しているならば、桜のスマートフォンを使って赤の他人がいたずらしているという線はゼロになる。その確信が持てる。通信機能を失くしても、中にある写真や動画はそのまま残るはずだから、それを残して彼女の生きた証とするのだろう。
そう思ったところで、文也は急に恥ずかしくなった。恐らく桜も、薫子から送られてきた自分たちの記念写真を保存しているはず。その一枚で、自分たちはキスをしている。恋人同士だから不自然なことではなくとも、写真として彼女の肉親に見られていると思うと、むず痒くて恥ずかしい。
促されるままに移動して、渡したばかりのクッキーを二人で食む。世間話の最中、それとなく話題を出すことにした。
「そういえば、小一の頃、犬を拾ったことがあったんですけど」
思い出した風に、文也は律子に切り出した。九年も前のことだが、律子は懐かしそうに思い出にふける。
「懐かしいわね。桜が拾ってきた柴犬のことでしょ」
「確か、そうだったと思います」あのふわふわは、きっと柴犬。「あの犬って、どこに貰われてったんですか」
「ええとね……うちから役場に行く途中の、宗像さんってお家だったかしら」
その名前は初耳だった。たとえ田舎の小さな町であっても、子どもの立場では全ての家を把握し、記憶することはできない。
「むなかたって、どういう字ですか」
「少し珍しいかしら、宗教の宗に、銅像の像で、むなかたって読むの」律子は指先で、宗像という文字を座卓の天板になぞる。それを文也は覚え込む。
「その宗像さんって、おばさんの知り合いだったんですか」
「ううん。犬の里親を探してて、知り合いの伝手で教えてもらっただけ。杉ヶ裏でも、それまで全然交流のない方だったの」
「その人、今も連絡とったりとかは」
「あの子犬を譲ってから、一度も連絡してないわね。電話番号もメモしてたはずだけど、二回も引っ越したからもう見つからないし。……どうして気になるの」
連絡先はわからない。そのことへの落胆を隠し、文也は少しだけ嘘を吐く。
「そういえば、桜が気にしてたなって思い出して」まるで生前のことのように。「また帰ることがあったら行ってみようって、話してたんですけど」
「そう。桜が」
「それで、出来れば俺だけでも行けたらって思って」
「文也くんには、いろんなこと、話してたのね」律子はすまなさそうに眉尻を下げた。「でも、ごめんね。これ以上はわからないの」
「いえ、その……すみません」
文也の謝罪に首を横に振り、彼女は座卓の隅にあるティッシュ箱から一枚取り出し、目元に当てる。大事な一人娘が亡くなってまだひと月も経っていない。その名を口にして涙が出てしまうのは当然だろう。
「あの子が死んじゃったのはね、わかってるの。この目で見たんだから」
涙を拭い、彼女は微笑んだ。
「でも、なんでかしらね。まだ近くにいる気がするの。優しい子だから、心配させてるのかしらね」
零れる涙を目にし、文也は何も言えなかった。
帰り道、文也は何度か「桜」と口にした。だが彼女から返事はなかった。
夜になっても変化はなく、もう寝ようと横になった時分、「今日はおつかれ」と桜のメッセージが届いた。彼女は今、母親のそばにいるそうだ。
ふー:おばさん、大丈夫か。
saku:うん。少し寂しくなっただけみたい。でも今晩はここにいるよ。
律子にとって桜はただ一人の家族で、それは桜にとっても同じことだ。たった一人の母親が心配なのだろう。
ふー:やっぱり母親には、桜の気配がわかるんだな。
saku:どうかな。もしそうなら、姿が見えてもいいのにね。悲しいなあ。
可愛く絵文字をくっつけ、桜は続ける。
saku:みんな私に心配かけて。こんなんじゃ、私、いつまでたっても浮かばれないよ。
思わず文也は笑ってしまった。本当は桜が一番寂しがり屋のくせに。そんな彼女はやっぱり可愛くて仕方が無い。
おやすみと送って、おやすみと帰ってくる幸せ。それを噛み締めて、文也は瞼を閉じた。
「あの、これ……」文也が母親から預かったクッキーの箱を手渡すと、「気なんて遣わなくていいのに」と恐縮する。
「うちの母さん、今日は仕事だけど、また今度挨拶しに来たいって言ってました」
「ありがとう。いつでも来てくれて構わないから。桜は本当に幸せものね」
遺影の前でそう言う彼女に、まさに今、同じ部屋に桜がいることを伝えたくてたまらない。だが桜は、母親には自分のことを教えない方がいいと言った。会いたいのはやまやまだが、そう簡単に信じてはもらえないだろう。文也に対してあらぬ疑惑を立てられたくないし、仮に信じたとして、連絡を取れるのが母親である自分ではないといって悲しんで欲しくない。そんな桜の思いには、文也も納得した。
線香をあげ、鈴を鳴らし、遺影の前で手を合わせるが、一体誰に挨拶をしているのか少し不思議な気がする。桜はこの中にはいない。同じ部屋で、自分の写真に手を合わせる文也を見て、くすくす笑っているのかもしれない。
手を下ろし、視線を下げて気が付いた。そばには変わらず、桜が使っていた物が並べられている。その中には、彼女が生前使っていたスマートフォンもある。
「あの、このスマホ……」
話しかけると、後ろの座卓で茶を入れていた律子が「ああ、桜の」と微笑んだ。
「これ、まだ使えるんですか」
「使おうと思えば使えるはずだけど……桜が使ってた形跡を残しておきたいから、そのままにしておこうと思って。解約して電話が出来なくなっても、データは残しておくつもり」
それは正しい判断である気がして、文也は頷いた。こうして家に保管しているならば、桜のスマートフォンを使って赤の他人がいたずらしているという線はゼロになる。その確信が持てる。通信機能を失くしても、中にある写真や動画はそのまま残るはずだから、それを残して彼女の生きた証とするのだろう。
そう思ったところで、文也は急に恥ずかしくなった。恐らく桜も、薫子から送られてきた自分たちの記念写真を保存しているはず。その一枚で、自分たちはキスをしている。恋人同士だから不自然なことではなくとも、写真として彼女の肉親に見られていると思うと、むず痒くて恥ずかしい。
促されるままに移動して、渡したばかりのクッキーを二人で食む。世間話の最中、それとなく話題を出すことにした。
「そういえば、小一の頃、犬を拾ったことがあったんですけど」
思い出した風に、文也は律子に切り出した。九年も前のことだが、律子は懐かしそうに思い出にふける。
「懐かしいわね。桜が拾ってきた柴犬のことでしょ」
「確か、そうだったと思います」あのふわふわは、きっと柴犬。「あの犬って、どこに貰われてったんですか」
「ええとね……うちから役場に行く途中の、宗像さんってお家だったかしら」
その名前は初耳だった。たとえ田舎の小さな町であっても、子どもの立場では全ての家を把握し、記憶することはできない。
「むなかたって、どういう字ですか」
「少し珍しいかしら、宗教の宗に、銅像の像で、むなかたって読むの」律子は指先で、宗像という文字を座卓の天板になぞる。それを文也は覚え込む。
「その宗像さんって、おばさんの知り合いだったんですか」
「ううん。犬の里親を探してて、知り合いの伝手で教えてもらっただけ。杉ヶ裏でも、それまで全然交流のない方だったの」
「その人、今も連絡とったりとかは」
「あの子犬を譲ってから、一度も連絡してないわね。電話番号もメモしてたはずだけど、二回も引っ越したからもう見つからないし。……どうして気になるの」
連絡先はわからない。そのことへの落胆を隠し、文也は少しだけ嘘を吐く。
「そういえば、桜が気にしてたなって思い出して」まるで生前のことのように。「また帰ることがあったら行ってみようって、話してたんですけど」
「そう。桜が」
「それで、出来れば俺だけでも行けたらって思って」
「文也くんには、いろんなこと、話してたのね」律子はすまなさそうに眉尻を下げた。「でも、ごめんね。これ以上はわからないの」
「いえ、その……すみません」
文也の謝罪に首を横に振り、彼女は座卓の隅にあるティッシュ箱から一枚取り出し、目元に当てる。大事な一人娘が亡くなってまだひと月も経っていない。その名を口にして涙が出てしまうのは当然だろう。
「あの子が死んじゃったのはね、わかってるの。この目で見たんだから」
涙を拭い、彼女は微笑んだ。
「でも、なんでかしらね。まだ近くにいる気がするの。優しい子だから、心配させてるのかしらね」
零れる涙を目にし、文也は何も言えなかった。
帰り道、文也は何度か「桜」と口にした。だが彼女から返事はなかった。
夜になっても変化はなく、もう寝ようと横になった時分、「今日はおつかれ」と桜のメッセージが届いた。彼女は今、母親のそばにいるそうだ。
ふー:おばさん、大丈夫か。
saku:うん。少し寂しくなっただけみたい。でも今晩はここにいるよ。
律子にとって桜はただ一人の家族で、それは桜にとっても同じことだ。たった一人の母親が心配なのだろう。
ふー:やっぱり母親には、桜の気配がわかるんだな。
saku:どうかな。もしそうなら、姿が見えてもいいのにね。悲しいなあ。
可愛く絵文字をくっつけ、桜は続ける。
saku:みんな私に心配かけて。こんなんじゃ、私、いつまでたっても浮かばれないよ。
思わず文也は笑ってしまった。本当は桜が一番寂しがり屋のくせに。そんな彼女はやっぱり可愛くて仕方が無い。
おやすみと送って、おやすみと帰ってくる幸せ。それを噛み締めて、文也は瞼を閉じた。