食べれるだけ、食べなさい。リビングに居た母がそう言って寝室に引っ込む。夕飯を食べに出てくるのを待っていてくれたらしい。あれこれと詮索されないことが、ありがたい。
 テーブルについて、皿のラップを外し、箸を取る。サバの味噌煮をほぐし、白飯と共に少しずつ口に運びながら考えるのは、先ほどの奇妙な現象のことだった。
 桜の真似をして、一体誰がメッセージを送ってきているのか。
 彼女のスマートフォンを触れる人物として、まず思い浮かぶのは母親である律子だ。
 しかしとてもじゃないが、文也には彼女がそんな真似をする人間だとは思えなかった。つい数時間前にも、律子が桜のために泣いているのを目にしたばかりだ。母娘二人きりの生活で、いつだって二人は互いを大事に思いやっていた。母親が死んだ娘になり替わって、娘の幼馴染にメッセージを送るなど、あまりに不可解で非常識だ。物理的な可能性が高いのは彼女だが、そんな気の触れた行動を取るとは思えない。
 大きな声はだめだよ。あのメッセージは相手が声を荒げたことを知らなければ送れない。
 それならば、自分の母親か。部屋から漏れた声を聞いていた可能性はある。
 しかし即座に、文也はその考えを打ち消した。機械音痴で、息子や夫に教えられてようやくネット通販を覚えたばかりの母が、他人のアカウントを乗っ取る真似など出来るはずがない。もし母が犯人であれば二重の意味で驚愕するが、動機もなければ技術的にも不可能だ。
 もやもやが胸の奥に滞留して、食欲はまるでない。なんとか白米を一膳平らげたが、半分残った味噌煮も、手つかずのほうれん草の和え物も、再びラップをして冷蔵庫にしまった。中では、小鍋に入った味噌汁が冷えている。
 茶碗を洗い、しんとした室内を移動して、風呂場でシャワーを浴びる。少しだけ温度を下げた湯にあたると、未だにぼんやりしていた思考が僅かに目を覚ます。服を着替えて髪を乾かしながらあらゆる可能性を模索したが、どれもしっくりこない。納得できる可能性は、一つだけ。
 あれが本当に、天方桜だったら。
「ばかじゃねーの」
 呟きは、ドライヤーの音にかき消えた。それこそ納得できやしない。死んだ人間がスマホをいじってるっていうのか。あり得ねえだろ。
 桜に会いたいあまり、都合の良い夢でも見ているのでは。今まさに、夢の中にいるのでは。そうも思ったが、食べたばかりの味噌煮の甘みも、シャワーの水滴が皮膚にぶつかる触感も、髪を乾かすドライヤーの熱感も、あまりにリアル過ぎる。夢で味わえるものではない。
 どこか緊張しながら自室に戻った。部屋の様子は何一つ変わらず、丸まった毛布の上には投げっぱなしのスマートフォンが乗っている。
 布団の上にあぐらをかき、それを手に取り、ボタンを押す。通知が一件。「新着メッセージがあります」。
 リンクのトップ画面で確認する。もちろん、送信者の名前は「saku」。意を決し、そのアイコンに触れる。
 saku:明日も学校だね。そろそろ終業式かな。
 口元に左手を当て、右手の機器を見つめる。これは桜じゃない。桜は死んだのだ。そう自分に言い聞かせ、それでも現実を否定する文を打ち込んだ。
 ふー:本当に、桜なのか。
 少しの間が空き、返事が来る。
 saku:そうだよ。
 ありえない。桜は死んだ。通夜も葬式も終わった。今日は線香をあげに行った。もうどこにもいない、はずだ。
 ふー:それなら、おまえは今、どこにいるんだ。
 あの世だとか天国だとか、そうした話は詳しくない。それでもこの事態が普通でないことは理解できる。
 睨みつける画面が表示する一文を見て、びくりと身体を震わせた。
 saku:ふーの部屋。
 咄嗟に、周囲に視線を巡らせる。もちろん、自分以外の人がいるはずもない。六畳間に人が隠れるスペースはなく、立ち上がって押し入れも開けてみたが、当然だれもいない。
 saku:そんなに怖い顔しないでよ。
 もしかして、隠しカメラでもあるのか。それとも本当に、桜の幽霊が近くにいるとでもいうのか。
 ふー:なら、机の上には何がある。
 saku:数学の参考書とノート。宿題、やりかけなのかな。
 壁に背を当てている学習机を睨みつける。今日の午前中に、課題をやりかけていてそのままだ。科目は数学。
 あそこに桜が立っているのか。ますます混乱していると、スマートフォンからの通知音。
 saku:私も信じられないよ。だって、死んじゃったんだもん。
 騙されるもんかと腹に力を入れるが、その相手も手口も見当がつかない。途方に暮れて、布団の上に戻って座り込む。
 ふー:杉ヶ裏にいたとき、桜の隣の家が飼ってた猫の名前は。
 なりすましも、これで尻尾を出すはずだ。文也はそう思ったが、返事が来るのは早かった。
 saku:ココ。三毛猫の女の子。
 思わず呻いた。幼い頃の自分たちを可愛がってくれた隣人は、ココという名前の三毛猫を飼っていてよく触らせてくれた。穏やかなメス猫。このことは、仲良しの颯介にさえ話しておらず、恐らく両親も覚えていない。記憶に残っているのは、何度もココと遊んだ自分たちだけだろう。
「嘘だろ……」
 saku:嘘じゃないよ。
 まるで自分の声を隣で聞いているかのような返事。まさか本当に、桜の幽霊がこの部屋にいるのだろうか。
 saku:やっぱりふーには、私が見えないの?
 もう何度目かわからないが、部屋の中を再度見渡す。見飽きるほどに見慣れた自分の部屋。そこには自分以外の影さえない。
「見えない」ふと思い、いるはずのない桜に問いかける。「俺の声、聞こえてるのか」
 saku:聞こえてるよ。全部見えてる。でも、ふーは私の声が聞こえないし、姿も見えないんだね。
 ごく自然な彼女の話し方に、恐ろしさは少しずつ薄れていった。ただただ混乱してしまう。
「どういうことだよ。桜、スマホ持ってるのか」
 思わず、桜と呼びかけてしまう。
 saku:持ってる。リンクが入ってて、ふーの名前だけが残ってる。
 それで今、文也と連絡が取れているそうだ。
 どう考えても、他人のなりすましと捉えるべきだ。しかし相手は、二人しか知り得ない情報を持ち、文也の言動を言い当てる。なにより、その話し方が桜そっくり、いや、桜そのもので、数えきれないほどやり取りをした文也でさえ違和感を覚えない。
 saku:ふー、いっぱい泣いてくれてたね。嬉しかった。
 相手はそんなことを言ってくる。まるでその現場を目にしたかのように、文也が先ほど号泣したことを言い当てる。
 あまりに不思議で疑問は尽きないが、いつの間にか恐怖はすっかり消え去っていた。