声が掠れるほど泣いて、時間をかけて辛うじて涙を止めた文也は、なんとか電車に乗って家路についた。歩いている間にも、もう桜の家から御浜駅に歩くこともないんだなと思うと、景色が滲んだ。人目も気にせず腕で目元を拭い、鼻をすすって奥歯を噛み締めた。
 住宅が立ち並ぶ閑静な橘(たちばな)町。変哲のないマンションの五階に帰った頃には、すっかり陽は傾き、どこかでヒグラシが鳴いていた。
 泣き腫らした文也の横顔に、母親は食事を促さず、作ったばかりの夕飯にラップをかけた。
 文也の父親は、単身赴任で県外に住んでいる。転勤が決まった時、父はついて来て欲しそうな顔をしていたが、妻子に無理強いはしなかった。文也も、桜や颯介のいる学校を離れるのは絶対に嫌だと主張した。既に中学二年生になっていた息子の心情を尊重し、彼には小学生の頃に一度転校を経験させている負い目を感じ、両親は父親だけ県外に出ることを選択した。
 母と息子しかいない家の中は、今は随分と静まり返っている。足音さえも憚られる静寂が満ちている。
 自室に戻ると力を振り絞って布団を敷き、文也は倒れ込んだ。もう一生分泣いた気がするのに、まだ熱い雫が瞼の隙間から零れてくる。彼女が若くして亡くなった悲しさや悔しさが溢れてきて、嗚咽が漏れる。大好きな彼女の死に目にも会えなかったことを思い出し、強く目を閉じ、咽び泣く。

 泣き疲れて眠ってしまうなんて、思い出せないほど久々のことだった。
 目を覚まし、ぼんやりしながら、天井の照明を見上げる。泣きすぎたせいで瞼が腫れぼったい。起き上がる気にもなれないまま、文也はただ仰向けに横たわる。
 これからどうすればいいんだろう。
 思考の霧はなかなか晴れない。霞がかった景色に、自分一人だけ取り残されているような気がする。桜がいれば、いつだって景色は色鮮やかだった。彼女を中心に、あらゆるものが新鮮で輝いて見えた。だから今は、灰色に燻った世界でどうやって生きていけばいいのか、それさえわからなくなっている。
 ズボンのポケットに手を入れ、貰ったばかりのお守りを取り出した。組み紐の先に、小さな鍵と、小さな桜貝。桜を守ってくれるんじゃなかったのか。そう文句を言いたい半面、彼女がいつも大切に持っていたこれが、自分のてのひらにある悲しみが押し寄せる。洗って磨いたのだろう、貝殻はきらきらとして美しい。まさか、自分が拾ったこの桜貝が、再び自分の手元に戻ってくるだなんて、微塵も思わなかった。
 お守りを枕元にそっと置き、反対のポケットからスマートフォンを出した。スイッチを押し、光る画面で今が午後の十時を過ぎていることを知る。四時間以上寝ていたことに、随分と疲れていたのだと気が付いた。
 それでも起き上がる気力がなく、寝転がったまま指を滑らせアルバムを立ち上げ、写真を見返す。滅多に写真など撮らないから、枚数は少ないし、貰いものも多い。桜は恥ずかしいからと言って、記念の写真以外は、あまり撮らせてくれなかった。
 薫子が送ってくれたのが、直近の写真。
 海辺の公園で、四人で撮った記念写真。三人掛けのベンチに無理に四人で座り、窮屈ながらもみんな笑っている。この時に戻れたら、桜に忠告ができるのに。そんな仕方のないことを思う。
 そして、自分と桜、二人だけの写真が五枚。ピースをしたり、万歳をしたり。不器用な自分は笑って写真に写るのが苦手だが、この日はうまく笑えていたように思う。桜は言わずもがな、いつも通りの可愛らしい笑顔だ。
 ほんの先月のことを、何年も前の出来事のように感じながら、文也は最後の写真をじっと見つめた。
 触れるだけのキスの写真。後ろには紫陽花が咲いている。この時の緊張は凄まじかった。心臓が破裂して壊れてしまう気がした。こうでもしないと本当に前進しないからと、後に颯介たちは言っていた。後押しがありがたい反面、このカップルには永遠にかなわないなと思った。
 幸せだったのに。あんなに幸せだったのに。文也は枕に頬を押し付けたままため息をつき、途方に暮れる。これから桜のいない日常が待ち受けているのに嫌気がさす。
 アルバムを閉じようと指をスライドさせたとき、ぽんと通知が届いた。画面の上に一行、「新着メッセージがあります」。文也は何も考えず、その一文に触れてリンクを立ち上げた。
 トップ画面に、やり取りできる相手のアイコンが並ぶ。未読のメッセージが届いている場合、その相手のアイコンが緑色の枠で囲まれ、一番上に現れる仕組みになっている。
 今しがたメッセージを送ってきた相手を確認し、思わず「えっ」と声を漏らして目を見開いた。
 桜の花びらの写真。それを丸く切り取ったアイコンが緑の枠に囲まれ、新着メッセージがあることを表している。
 あり得ない、不具合だろうか。不思議に思いながら、アイコンに触れてみる。
 saku:久しぶり。今日は来てくれてありがとう。
 飛び起きて、メッセージを凝視した。人違いかとも思ったが、「saku」の名前を使い、桜の花びらをアイコンにしている人物は、彼女しか登録されていない。現に、亡くなる数日前までのやり取りが、同じ画面にそのまま残っている。
 saku:いつの間にか、すっかり夏になったね。
 目の前で、次のメッセージが追加される。
「なんだ、これ……」
 顔が引きつり、声が掠れる。頭が混乱する。確かに、桜は亡くなった。死んでしまったのだ。リンクを使うことなど出来るはずがない。
 saku:今年の夏も暑いのかな。
 呆然と画面を見つめていた文也だったが、ふつふつと怒りが込み上げてきた。どう考えても、これは誰かのいたずらだ。それもかなり悪質な。月城文也がこれ以上なく悲しんでいることを知っている者が、天方桜になりきってメッセージを送っている。ふざけんな、と文也は呻いた。
 ふー:誰だ、おまえ。
 打ち込んで待っていると、すぐに返事がくる。
 saku:誰って、私だよ。
 ふー:だから誰だよ。
 saku:覚えてるでしょ、桜だよ。
「いい加減にしろ!」
 怒鳴りつけ、興奮のあまり息を切らす。ひどすぎる、と思った。まるで桜が生きているかのように振舞って、知らない誰かは自分をからかっている。怒るのはまさに相手の思うツボだろうが、冷静でなんていられない。
 誰かがこの様子を見て笑っているはずだと、窓に寄って外を確認する。五階の高さだから、一戸建ての家からでは覗けないだろう。それならマンションか。斜向かいに見える八階建てのマンションに目をやる。こちらには部屋のベランダではなく玄関のドア側が向いているから、廊下に出て双眼鏡でも使わない限り、そうそう覗き見は出来ない。そして今、電気の灯る廊下には人っ子一人姿はない。
 不気味に思いながら、それでもカーテンを閉めた。手元でスマートフォンが振動する。
 saku:ごめん、びっくりさせて。
 saku:でももう遅いから、大きな声はだめだよ。
 絶句し、やがて唇を軽く舐めた。相手は、さっき自分が怒鳴ったことを知っている。まるでこの部屋にいるかのような言い草だ。
 気味が悪くなり、スマートフォンを布団に放り投げた。この様子も誰かに見られているのだろうか。寒気を覚えて部屋を出た。