二日後、桜はむくみはだいぶとれたと言った。来てもいいということだったので、放課後に文也は再び病室を訪れた。完全に戻ってはいないが、いつもより少し丸みのある顔も可愛らしい。他愛のない話が途切れた頃、文也は切り出した。
「一昨日さ、駅でおばさんに会ったんだ。桜の母さん。それで、移植の話聞いたよ」
「お母さん、何勝手に話してるの」
 呆れ顔をする桜に、「まあまあ」と文也は続ける。
「そんで、桜がおばさんの手術を嫌がってて、他にドナーもいないって聞いたんだ。だからさ」
 拳で、軽く自分の胸元を叩く。
「俺の腎臓、桜にやるよ」
 ぽかんと、小さく口まで開ける桜。驚いても可愛いなあと文也は思う。
「な、いい話だろ」
「……ふー、あのね」子どもに言い聞かせるように、桜は説明する。「知らないかもしれないけど、生きてる人だと、親族からしか貰えないんだよ。そうはいっても、ふーは他人でしょ」
「だからさ、親族ならいいんだろ」
 まだ彼女は気づかない。だから文也ははっきりと言う。
「俺が桜と結婚したら、ドナーになれる」
 桜は目をいっそう丸くする。台詞を何度も頭の中で繰り返し、理解に励んでいるのが表情でわかる。
 親族しか桜を助けられないなら、親族になればいいのだ。それは自分の願いとも一致している。桜が好きで、一緒になって、そのうえ移植も可能になるなんて、こんなに良い話はない。
「何言ってるの、ふー」そんな彼とは打って変わって、桜は呆れ顔をする。「付き合ってもないのに、変なこと言わないでよ」
「なら、まず付き合おうぜ。そんで二十歳になったら結婚して移植する。な、最高だろ」
「あのね、移植が目的なら、きっとそれは不可能だよ。血が繋がった親戚でも適合しないことがあるんだから。そうでない人なら尚更無理だって」
「移植も目的だけど、俺はもともと桜が好きで、結婚したいんだよ。それに大丈夫だって、俺なら絶対に適合する」
「なにその自信」根拠のない台詞に、思わず彼女は笑う。「それでも、仮に奇跡が起きて適合したとしても、ドナーに何のリスクもないわけじゃないんだよ」
「リスクなんて知るかよ。俺は、桜のためならなんだってする。死んだっていい」
「もー、重たい」
 桜は相変わらず、文也と付き合う気はなさそうだった。立ち上がって力説する文也に、大仰にため息を吐く。
「なんだよー。そもそも、覚えてるか、桜」
「覚えてるって、なにを」
「昔さ、ちっさい頃、大人になったら俺と結婚するって言ってたんだぜ。桜の方も」
 幼い頃、文也は小さな町に住んでおり、家の近所に暮らしていたのが桜だった。来る日も来る日も田舎町を駆け回り、日が暮れるまで一緒に遊んでいた。その頃に桜は、大きくなったら結婚したいと言ってくれたのだ。
 当時のことを、今も文也は鮮明に覚えている。
 だが、桜は違うらしい。
「覚えてないよ、そんな昔のこと」何言ってるの、とばかりに笑う。「昔って、杉ヶ裏(すぎがうら)に住んでた頃でしょ。そんな小さい頃のプロポーズなんて、本気にしちゃ駄目だよ」
 確かに、桜の言う通りだろう。何もわかっていない子ども同士の約束なんて、果たせると思う方が間違っているのかもしれない。
 だが、文也は少し寂しくなる。少なくとも、自分は今も、そしてあの頃も本気だったのだ。おもちゃだったが、指輪を渡したことも覚えている。聞きかじった知識でそれを左手の薬指にはめてあげると、桜も喜んでいた。大切にすると言ってくれた。
「そうなのかなあ」
 だが、その指輪もいつの間にか外してしまっていた。学校につけていくと怒られるからと桜は言っていたし、自分も納得した。桜自身も、あの頃は本気だったとしても、その気持ちは次第に薄れてしまったのかもしれない。
「そうだよ」
「でも、俺はずっと本気だからな」
「はいはい」
 パイプ椅子に座り、不満そうな文也。そんな彼を上手にあしらう桜。二人はすっかりいつもの関係に戻っていた。