呆然とした気持ちで病院を出て駅に着き、少しだけ頭の中が整理できた頃、電車がやって来た。それに乗り、手すりを掴んで立ったまま、文也は猛烈な後悔に襲われた。
 なんて自分勝手だったんだ。息を吐いて、電車の壁に額を押し付ける。桜は以前から、手足がむくめば夏でも長袖の服を着て隠していた。それが顔に出てしまった時は、「嫌だなあ」と悲しそうに言った。
 桜の身体にどんな変化が出ても、自分の気持ちには微塵も影響しない。世界で一番、桜が好きなのだ。彼女が彼女である限り、桜そのものを愛しているのだ。
 だが桜本人は、自身が嫌う自分の姿を、誰かに見られたくなかった。相手が慣れた文也であっても、「嫌だなあ」と思う自分の顔を見てほしくなかった。文也がどれだけ好きだと口にしても、桜が「嫌だ」と思う感情は別物なのだ。
 それなのに、気にしない気にしないと言って食い下がって、挙句の果てには桜に声を荒げさせてしまった。これを後悔と言わずして何と言おう。
 自分の馬鹿さ加減に呆れ果てる文也は、やがて電車を下りた。
 改札を抜け、帰宅ラッシュにはまだ早い駅前をとぼとぼ歩く。
「あら、文也くん!」
 自分の名前を耳にし、のろのろと顔を上げる。そして目を丸くした。
「おばさん?」
 向こうから小さく手を振って歩いてくるのは、桜の母親である、天方(あまかた)律子(りつこ)だった。まだ四十前で細身の彼女は、心労のせいかどこか影を背負っているように見える。だが、その影が一つの魅力に思えるような、整った顔立ちをしていた。顔の造形がきっちり遺伝したんだな、と文也は思っている。
「偶然ね。帰るところ?」
「そうです。……でも、なんでこんなとこに」
「仕事で少し寄るところがあったの。もう家に帰るけどね」
 彼女はスーツ姿で鞄を肩に下げている。なるほど、どう見ても仕事帰りの格好だ。
「文也くん、いつもありがとう。桜のこと、気にかけてくれて」
 礼を言い、律子は深々と丁寧に頭を下げた。
「いやいやいや。そういうのいらないですから」慌てて手を振って頭を上げてもらう。「俺が桜を好きでやってるだけなんで」
「こんなに好きでいてくれる男の子がいるなんて、あの子も本当に幸せものね」
 その言葉が心に静かに刺さる。ほんの少し前に、幸せにするどころか桜を傷つけてしまった。感謝されるいわれなどない。
「あの……桜の容体って、どうなんですか」
 文也はずっと気になっていたことを尋ねた。彼女に直接聞いても、いつも「大丈夫」と返される。桜を信じていないわけではないが、母親から見た彼女の容体を知りたかった。
「……最近ね、あまり良くないみたいなの」律子はこめかみに手を当てる。「せっかく、高校に入れたところだったのに。可哀想に……」
 悲痛な言葉に、文也も落ち込む。そうだ、高校にもようやく慣れて友人もできたところなのに、こんなのあんまりだ。
「透析も、時間とられますしね」
「そうよね。早退もしなくちゃいけないし」ため息交じりに言う。「移植すれば、もっと楽になれると思うんだけどね」
「移植?」
 初めて聞く話に、文也は繰り返した。
「あら、聞いてなかった?」律子は説明する。「腎臓移植してうまくいけば、透析もしなくてよくなるから、ずっと生活が楽になりますよって話だったの。でもあの子、したくないって言って」
「どうして」
 そうだ、腎臓は移植できる。これまで考えが及ばなかったが、「移植」という言葉は唐突に現れた希望のように思えた。
「お母さんの身体に傷をつけたくないって。馬鹿よねえ。娘の辛い顔を見るぐらいなら、腎臓の一つや二つ、なんてことはないのに」辛そうに微笑む。「でも本人が拒むのに、無理矢理手術するわけにもいかないから……」
「その、死んだ人から貰うっていうのは、出来ないんですか」
 確かそんな話を聞いたことがある。良いことを思いついたと思ったが、律子は首を傾げた。
「それがね、長い間待たないと、順番が来ないらしいの。十五年、だったかしら」
「じゅう……」
 文也は絶句する。十五年といえば、今まで自分たちが生きてきた年月とほぼ等しい。それだけ先の未来など、想像すら難しい。
「じゃあ、他に移植してくれる人とか」
「ドナーは親族じゃないとなれないんだけど、旦那の居場所なんてもう分からないし。親戚とも疎遠だったから……。ほとんど会ったこともない桜のために手術を受けてくれる人なんて、見つからなくて」
 チャンスがあるのに、それを活かせないだなんて。桜が苦しんでいて、それを助ける権利があるのに拒否するだなんて。桜が大好きな文也は憤る。
「移植を随分勧められたんだけど、桜が渋るから、取り合えず透析に移りましょうってことだったの。もしも気持ちが変わったら、手術をしましょうって」
「その、移植って、親戚しかできないんですか」
「生体移植は、倫理的にね。誰彼構わずってわけにはいかないみたい」
 とても良いことを思いついた。
 文也は、自分の考えに心臓が高鳴るのを感じる。これで桜は助かるかもしれない。