昔住んでいた家には、大きなグランドピアノがあった。
まだピアノを習いたてだった律は、今は亡き母と少し足の高いトムソン椅子を半分分け合って、覚えたての『きらきら星』を共に奏でる。
律は、隣に座る母を見上げる。
うっすらと口元に笑みを浮かべる母の、眼差しを律はもう、思い出せない。

今住む家に、あのグランドピアノはもう、無くなってしまった。
母が亡くなった後、父は妄執にでも憑りつかれたように徹底的に、『音楽』を排除した。母が残した『音楽』は父の手によってすべて消されてしまったのだ。ただ、ひとつを残して。
それを律が見つけたのは、本当に偶然だった。高校一年の、冬のことである。
普段は入ることもない父の書斎に、参考資料を探しに入った律は、壁にずらりと並ぶ本の中で、奥へ奥へ隠すように押し込められたそれを、見つけた。
古びた、カセットテーププレーヤーだった。
開閉ボタンを押すと、ぱっと勢いよく蓋が開いた。中には、一枚のカセットテープがすでに入っていた。カセットテープの側面には茶色く黄ばんだシールが貼りつけられているが、劣化して文字を読むこともできない。ゆっくりと親指でそれをなぞると、律はなぜか鼻の奥がつんとして泣きたくなってしまう。
律は、イヤホンを耳に挿して、再生ボタンを押す。じじじ、とノイズが数秒。自然と律は瞼を閉じていた。
そうして、流れ始めたその曲は───

はっと、目が覚めた。薄く開いた瞳には、常夜灯の薄ぼやけた明かりすら眩しくて、律は目を細める。何度か浅い呼吸を繰り返して、ようやくここが自分の部屋で、自分のベットだと思い出す。律は時々、数年住むこの家を知らない家のように思えて、自分がどこにいるのか分からなくなってしまうのだ。ようやく鼓動が一定のリズムを取り戻したころ、律はふと、リビングの方から足音がすることに気が付いた。
スマホで時刻を確認すると、夜中の3時過ぎだった。この時間帯に物音を立てるのは、滅多に顔を合わせない同居人だけである。
律は重い体を起こして、部屋のドアを開けた。
「すまん、起こしたか」
「……おかえり、父さん」
「ああ、」
ただでさえ精気の薄い父は、以前顔を合わせたときより一層濃い隈をこさえて、栄養もクソもないようなカップ麺に薬缶で沸騰させたお湯を注いでいる。
二人暮らしになってから、これといった会話を父とした記憶が律にはない。仕事の都合で、ほとんど家には帰ってこない父との、話題の種も当然のことながら、ない。だから、父とテーブルを挟んで座ったのは、ただ何となく、である。黙々と、レンジで作ったホットミルクを飲みながら、ぼんやりと消えていく湯気を眺めていると、父はいつも通りのぶっきらぼうな口調で話しかけてきた。
「学校はどうだ?」
「あー……まあ、ぼちぼち」
「そうか」
父から続く言葉はなく、気まずい雰囲気が流れる。居心地の悪くなった律は、立ち上がり、早々にこの場を後にしようと、踵を返したその時だった。
「律、お前。──約束、破っただろ」
がしゃん、と手にしたコップが床に落下した音がした。

*
長いようで短かった冬休みが終わり、各々学校での課題テストを終えた金曜日。
透花たち『ITSUKA』のメンバーは、『アリスの家』に集合していた。2月に投稿する予定の、新曲の打ち合わせである。しかし、そこに一番重要な人物の姿が無かった。
透花は、何度目かスマホで時間を確認して、首を傾げた。予定時刻からすでに40分は経過している。
「律くん、遅いね」
「今朝いきなり、打ち合わせ場所変更してほしいとか自分から言っといて、遅刻するとか何様だよ。連絡も寄越さないし。よし、来たら、絞めるか」
「いいね! あたしも混ぜてよ」
本当にやり兼ねない殺意の籠った目つきで、準備運動を始める纏とにちかを横目に、透花は再びスマホの通話を繋げる。3、4コールほど続いて、やっぱり出ないか、と通話を切ろうとした、その時である。
「ごめん、遅れた!」
勢いよく開かれたドアから、待ち人は現れた。右頬を覆うように、大きなガーゼを貼り付けて。その場にいた全員が、律の顔を見て目を見張る。その刺すような視線で、律は思い出したようにはっと我に返り、頬を押さえた。
「あっ、いや……これは、」
絶妙に目を泳がせるその素振りが、ますます訳あり感を漂わせてくるから、無粋に疑問を投げかけられる度胸のない者は、口を噤む。その中で唯一、口を開いたのは、メンバー最年少の纏である。しれっと、いつも通りの口調で律以外の誰もが思ったワードを発した。
「痴情のもつれ?」
「ちげーよ!!!」
全力の全否定が『アリスの家』に響き渡った。


「はぁあああ!!?? 家出したぁあああ!!??」
纏とにちかが、互いに合わせたように声を荒らげた。いい加減、弁解することに嫌気がさした律は、テーブルに頬杖を突きながら、「だから、さっきからそう言ってんだろ」と、やさぐれた返事をする。
「お父さんと喧嘩したからって、なんでそんな急に?」
透花の問いかけに、律は歯切れ悪く口籠る。軽く息を吐いて、律は事の発端を説明することにした。
「音楽やってるのが、バレたから」
「は? それだけ?」
単純すぎる理由に纏は肩透かしを食らう。
「まあ、普通はそうだろうけど、うちは特殊っていうか……そもそも俺が、『Midnightblue』で作曲してたの、父親にバレるとやばいからなんだよね」
「やばいって?」
「これ見りゃ分かるでしょ」
端的に、そして最も分かりやすく、その異常性を示すように、律は自分の右頬を指さした。軽く顔を引き攣らせている纏たちの反応は、律の予想通りだった。
「あの人、音楽のこと嫌悪してるから、俺がやってることなんて気が付かれるわけないって高括ってたんだけど……ほら、この前の炎上騒動で、ネット上に結構野外フェスの動画回ってただろ? たまたま見かけて再生したら、あらびっくり画面端に俺の息子が映ってるー、しかもピアノ弾いてる! みたいな、ね」
「……私のせいで、すいません」
顔を青くした佐都子が頭を下げると、律はあっけらかんとした様子で笑った。
「緒方さんのせいじゃないよ。いつかはバレてたから。それで昨日の夜、口論になって、殴られて、家出するって決めたってわけ。これからも音楽続けるとか言った日には、今度こそ右頬だけじゃ収まんないだろうしね、あの人は。……だから、しばらくは漫喫とかで過ごそうと思って、学校から帰って家で一式着替えとか、家出するって置手紙とか色々準備してたら、遅れた。状況説明、以上! 何か質問は?」
律は、ぱん、と両手を叩いて空気を一新しようとするが、重苦しい空気が払えるはずもなく。静まり返った中で、その沈黙を破ったのは透花だった。
「叔父さんを頼る、とかはできないの?」
「それだけは絶対無理」
律の返事は、数ミリの余地すらないほどの全否定だった。
「俺が家出して、あの人がまず思いつくのが『Midnightblue』だ。てか、それだけしかない。ここで叔父さんを頼ったら、俺は今以上に叔父さんに迷惑かけるから無理」
「でも」
「心配してくれて、ありがとな。でも、俺は大丈夫だから。ほら、打ち合わせ始めようか!」
空気を切り替えようと、いつになく声を張り上げた律を横から遮るように、纏は言った。
「ひとりいるだろ」
なぜか、纏がこちらを見ている、と気づいた透花は首を傾ける。
「家出先にはうってつけの場所」
纏の言葉を頼りに思考を巡らせ、透花が纏が何を言わんとしているのか、徐々に理解する。それに比例するように冷汗がだらだらと額から流れ始めた。
「ま、まさか……」
恐る恐る問いかけた透花に、纏は無慈悲な満面の笑みで答えた。
「夕爾んとこなら、家出先としては、最適でしょ」


雨宮律の家出計画は、即日決行された。
もっとも優先すべき最重要ミッションを達成すべく、律と纏は『Midnight blue』の向かいにあるチェーン店の牛丼屋の立て看板で身を隠し、様子を伺っていた。
店内に続く階段から、見覚えのあるバーテン服を着た疲れ切った顔の男が上がってくる。男はしきりに欠伸を繰り返しながら、そのまま律たちから背を向けた方向へ歩いていく。
「たぶん、コンビニに煙草買いにいくとこだ」
「今しかないな、行くぞ律」
律と纏は頷き合って、そそくさとコソ泥のように店内に忍び込んだ。
彼らの目的地は、律が作業部屋として使っている元リハーサル室である。最重要ミッションとは、作曲するための機材を叔父である和久がいないうちに回収することだった。
薄暗い部屋の隅で、律と纏は機材を持ち出すための荷造りに奮闘していた。キーボード、オーディオインターフェース、ヘッドフォン、各種配線コードをひとしきり鞄にぶち込んだ纏が、PCの前でもたつく律の尻を軽めに蹴とばす。
「おい、10分経つって! 何もたついてんだよ! もう戻ってくるぞ!」
「クソ、データが重すぎて全然転送できん!」
「ちゃんとクラウド管理しとけやボケカス!」
纏から正論すぎる激が飛ぶ。杜撰なデータ管理のつけが今になって回ってくるとは、と律は自分を呪いたくなった。ようやく転送完了の文字を確認した律と纏は、両手いっぱいに機材を抱えて部屋と飛び出した。
「何やってんだ! 行くぞ!」
「ちょい待って、一応メモを……」
バーカウンターに置かれているペーパーナプキンを一枚取り、ボールペンで文字を書きなぐる。急かす纏の後ろに続き、律は『Midnight blue』のドアをくぐった。2段飛ばしで階段を駆け上がり、その場を後にしようとした、その時だった。
「……ん? 律と、纏じゃねえか」
背後から、聞き慣れた声がして、律と纏はぎこちなく後ろを振り返る。店隣に設置された簡易の喫煙所で煙草を吹かす叔父、和久の姿がそこにはあった。
「なんだぁ~? 二人してそんなでっけえ荷物抱えて。わはは、夜逃げでもすんのかよ」
概ね、正解である。
「そ、そんにゃわけないだろ!?」
律の返答に、纏は思わず頭を抱えたくなった。叔父の怪訝な顔つきを見て、律はますます頭の中が混線状態になっていく。咥えた煙草を指に挟んで、叔父は自分の右頬を指で刺した。
「律、お前そのガーゼどうした? 怪我したのか?」
「そ、それは」
「それに、その荷物、」
やべ、と顔面に書き殴ったような挙動不審を見せる律に、纏はすかさず助け舟を出した。
「すいません、これから『アリスの家』で打ち合わせがあるんです。この荷物、この前あげた新曲の慰労会用に買った飲み物とか、お菓子とかですよ。よかったら見ます?」
いつもと変わらぬポーカーフェイスで、すらすらと言葉が出るところは、まるで詐欺師のようだ。叔父に疑問を問いかける余地を与えず、纏は続ける。
「透花たち待たせてるんで、僕らはこれで。ほら、行くよ」
「わ、分かった」
既に背を向けて歩き始めた纏に続くように、律は方向を変えた。一歩、踏み出そうと踵をあげたその時である。
「おい。ちょっと待て」
「……な、なんだよ」
「忘れんうちに、渡しとく」
今更呼び止められるとは思わず、律の肩が勝手に跳ねる。
首だけ後ろを振り返ると、叔父は何かを探すように手当たり次第に胸や腰にあるポケットを探り、ああ、と何かを見つけたのか声を上げた。律の前に、差し出されたのは掌に収まるサイズの上等そうな紙切れが一枚。
律がその紙を受け取る寸前。叔父は律にだけ聞こえるよう、顔を寄せた。
「───」
それを少し遠くから見ていた纏は、一瞬、律の瞳が揺れ動いたのを見逃さなかった。一言、二言何かを伝え終わると、叔父はすっと身を引いた。律は何も言わず、そのままぐしゃりとその紙を握り潰して、乱暴にポケットの中に突っ込んだ。
「じゃ、打ち合わせ頑張れよ」
手を振る叔父に背を向けて律は、纏さえ追い抜いて歩き出す。ワンテンポ遅れて、纏は律の後に続く。数センチほど高い律の顔を見上げて、纏は問う。
「さっきの、何だったの?」
「…………ただの、買い物リスト」
「ふぅん」
つくづく律は嘘が下手クソだ、と纏は思った。


『しばらく家出します。父さんが来ても、知らないって言ってください。迷惑かけて、すいません』
カウンターに置かれた、ペーパーナプキンに書き殴ったその汚い文字を読んで、和久は薄々気が付いていた状況をすべて察した。機材が置かれた律の作業部屋は既にもぬけの殻となっていた。考えるまでもなく、二人が抱えていたあの大荷物がそれだったのだろう。
こういう思い切りの良さは確かに姉譲りだ、と苦虫を嚙み潰したように笑った。
「ったく、姉貴も反省しろよ」
額縁に飾られた今は亡き姉の写真を眺めながら、和久はもう一度煙草に火をつけた。


『Midnight blue』で必要な機材を回収した纏と律は、透花たちの待つ駅へと直行した。
透花を含め、佐都子とにちかも改札口前で談笑しながら、待っているのが見える。近づく律たちの影に気が付いたにちかが、おーいと声を上げて両手を大きく振る。駆け足でその輪に近づくと、透花が首を傾けた。
「無事に回収できた?」
「まあ、何とかね」
「じゃあ、いったんここで解散か。透花ぁ、さぼんなよ!」
佐都子がにししと悪戯っぽく笑う。負けじと透花も「佐都子もね」と返事を返す。その横で何か言いたげにプルプル震えていたにちかが、辛抱たまらん感じで勢いよく透花の両手を掴み、苦渋に満ちた表情で透花を真っ直ぐ見つめる。その勢いに透花は思わず片足だけ一歩後ろに下がる。
「すーーー……っごく! あたしも行きたい、行きたいけど……! でも、メメ先生に迷惑かけるの、嫌だから、我慢する。弁える読者で居たいし、負担もかけたくないから」
「う、うん」
「だから、代わりにもし……、伝えられたら、でいいから。言ってほしい。先生の漫画で、あたしは救われましたって」
透花は目を見開いて、それから口元を綻ばせながら強く頷く。
「うん。伝える、絶対。約束する」
その言葉を残し、透花たちは電車に乗り込んだ。


夕刻を知らせる防災無線のチャイムが遠くから聴こえてくる。
目的地であるツルミ写真館は、透花たちの家の最寄り駅よりもさらに2駅先にある、廃れた商店街の一角にある。透花の母方の実家であり、曾祖父の代から続く歴史ある写真館だ。透花が中学生の頃、祖父が亡くなって今は透花の母の兄、つまり伯父が営んでいる。
お泊りセットとMV制作に必要な機材を両手に抱えた透花は、浮かない顔で何度目かわからない問いかけを、涼しい顔で横に立つ纏にした。
「……やっぱり、わたし、いなくても」
「何言ってんの。ここまで来て」
「う。だって、でもさ、」
「もう聞き飽きた」
「せめて纏くんも泊まろうよ……、ねっ?」
「僕一応中学生だし。親の許可が下りるわけないでしょ」
「この裏切り者ぉ!」
都合の悪い時だけ中学生設定を持ち出して、纏は縋る透花の手を振り払った。今更ごねたところで、どうにもならないと分かっていても、透花は抵抗したくなってしまう。
「ほら、もう見えてきたよ」
「ああ、あれか」
透花はいよいよ覚悟を決めなければならないときが来た、と暴れる心臓を押さえるよう胸の前に手を置いて、大きく深呼吸をした。
「……なにこれ」
纏の困惑する声に、透花と律は互いに顔を見合わせた。

『諸事情により、休業中です。』
そう掲げられた張り紙を前に、透花たちは立ち往生していた。窓ガラスから店内を覗き込むと、夕方だというのに明かり一つ付いていない。そのせいで壁一面に飾られた写真が少し不気味だった。窓から顔を離した律は、首を横に振った。
「駄目だ。誰もいなさそうだ」
「あークソ、事前に連絡入れてあったのにアイツ! 待って今、鬼電するから」
乱暴にスマホをタップして、纏はそれを耳に当てた。透花と律が纏を挟むようにして、スマホに各々耳を近づける。数コール音の後、荒いノイズ音が電話口から聴こえてくる。
「オイ、夕爾お前どこにいる───」
「───ここだァアアア!!」
「うわぁあ!?」
「きゃ!」
突如背後から、耳を塞ぎたくなるほどの声量が透花たちに襲い掛かる。思わず耳を押さえて縮こまった3人は、数秒後、笑いを堪えるような息遣いが聞こえてくることに気付いて、振り返る。
夕暮れの赤に照らされる透き通るような白髪に、透花に似た少し藍色がかった瞳。ついに堪えきれなくなったのか、からから豪快に笑う姿はまるで少年のようだ。目じりに溜まった涙を指で掬い取って、彼は顔を上げた。
「はー、笑った笑った」
「……お前な」
「おいおい、会って早々説教は無しだぜ?」
纏の苦言すら何のその。軽くあしらって、彼、笹原夕爾はにっと人懐っこく笑う。
「待ってたぜ、非行少年! それに、」
夕爾の視線がすっと、律から自分に移動したことに気付いて、透花は思わず逸らしてしまう。しかし、夕爾は薄く笑って、言葉を続けた。
「久しぶり、透花」
「…………、うん」
それが透花にとって、数年ぶりとなる、兄夕爾との邂逅だった。


「一昨日くらい? 伯父さんが知り合いの農家から送られてきた米運ぼうとして、ぴたーって固まって。俺が慌てて救急車呼んだらどうも、ぎっくり腰だと。それで急遽、写真館は休業中になったってわけ」
休業の張り紙に至った経緯を語りながら、夕爾は先を歩く。律たちが泊まる場所は、ツルミ写真館───ではなく、ツルミ写真館と隣接する床屋との間にある、大人一人が通れるほどの細道を通って、その先にあった。
「お前らラッキーだぜ? 今、ちょうど大学4年の奴らが地元戻って、ツルミ荘には俺以外下宿してないから、実質貸し切り」
細道を抜けると、そこにあったのは、ひと時代前へとタイムスリップでもしたのかと思わせるほど古い民家だった。その庭に咲く雪椿には、霜が降ってより一層幻想的な雰囲気を作っていた。苔の生えた石畳の上を慎重に歩く。夕爾は手慣れた様子で、ポケットから取り出した鍵を引き戸に差し込み、ごりっと音を立てて開けた。
数十年ぶりにツルミ荘に足を踏み入れた透花は、妙にそわそわしながらあたりを見回す。それは律も同じのようだった。
手荷物をすべて廊下に置き、ひと呼吸置いた纏がすくっと顔を上げた。
「よし。僕はこれで一旦帰るよ」
「え、もう帰っちゃうの?」
「帰ってまだやらないといけない仕事も残ってるし」
「そっか……」
「また明日、様子見に来るよ。伝えなきゃいけないこともあるしね」
纏がわざわざ聞かなくても分かるほどには、透花の顔に不安の二文字が書かれていた。後ろ髪を引かれるような思いで、纏は透花に背を向ける。
「おい」
「なんだよ、って、っわ」
纏は、ちょうど視線の先に立っていた律の肩を強引に組んで引き寄せた。バランスを崩した律の耳がちょうど、纏の口の高さに合わさる。律にだけ聴こえる声量で纏は囁いた。
「言っとくけど、抜け駆けしたら殺す」
「しねぇよッ!?」
纏に何か囁かれた律が、弾かれた様に顔を赤らめて纏を突き飛ばすから、蚊帳の外になっていた透花は瞬きを何度か繰り返す。しかし、その二人の様子を同じく見ていた夕爾は、ああ、と何か察しがついたらしくぽんと手を叩いて、名案だとばかりに提案した。
「よければふたり、相部屋にする?」
「「結構です!」」
今度は透花も沸騰するほど顔を赤く染めて、律と声を揃えて全否定したのだった。


目を開けたら、そこには知らない天井があった。いつも目を覚ました時の感覚とは違う、本当に知らない家の天井だった。
吊り下げの照明から、切り替えする紐の先がぐるぐると回っている。畳独特の、井草の匂いがした。再び微睡の中へ落ちようとしていた律を覚ますように、頭上でメッセージの通知音がぴこん、と鳴った。手に取って確認すると、通知の相手は纏だった。
『大事な話があるから、今日の昼そっちに行く』
律は、か細く息を吐き出しながら、スマホを放り投げる。雑音が多すぎて、頭の中で羅列していた音符はまだあちらこちらに飛び散っている。
この曲につけるタイトルを、まだ、律は決められずにいた。

「メジャーデビューの打診が来てる」
纏の口から発せられたその台詞は、淡々としていた。
午後3時より少し前。
ツルミ荘の共有スペースであるリビングには、腹の奥底を圧迫するような重い空気が流れる。言葉を失ったまま呆然とする透花と律を置き去りにして、纏は、向かいに座るふたりにスマホの画面を向けた。そこには、纏とその担当者とのメールでのやり取りが表示されていた。付け加えるように、纏は続けた。
「ちゃんとした大手レコード会社だよ。詐欺とかではないのは確認してある」
一呼吸置いて、纏は猫のような真意を伺う瞳をふたりへ向けた。
「大事な話って言うのは、『ITSUKA』のこれからのことだ」
「これからの、って」
透花は膝にのせた手を握りしめて、纏に問うた。
「3月5日で『ITSUKA』は解散するのか、それとも続けていくのか」
メンバーの誰もが頭の片隅にはあっても決して口には出せずにいた、重大な選択肢を纏は容赦なくふたりに突き付けた。
「にちかと、佐都子には昨日の夜にもう話してある。その上で、僕らは選択権をふたりに委ねると決めた。だから……、透花、律」
ゆっくりと二人の顔を往復して、纏は静かに口を開く。
「ふたりが、決めて。だって、『ITSUKA』は、ふたりが始めたことだから」
刻々と迫るタイムリミットを告げるように、振り子時計の鐘の音が響き渡った。

律は『劣等犯』の作曲時以降、一度も聞かなかった、母の曲を聴く。
律にとってそれは、儀式だったはずだ。自分は間違っていないはずだ、と再確認するための。けれど、今はそんなことはどうでも良くなってしまった。燃え盛っていた怒りも、痛みも、一時の感情に過ぎなかったからだ。
(だったら……、なんで、俺は、)
縁側の床が氷のように冷たくて、心の奥まで凍っていくようだった。耳につけたイヤホンを巻き込んで、律は膝を抱えて丸くなる。右手にあるぐしゃぐしゃの紙屑を、じっと見つめ、何度目か分からないため息をついた。煩雑な感情が律の頭の中を乱していく。
(どうして俺は、まだ、)
ぴとり、と人肌よりも温かい何かが、律の指に触れる。僅かに顔を上げると、白く湯気の立つマグカップを両手に持った透花が、律の顔を覗き込むように首を傾げた。
「ココア、飲む?」
「……あ、ああ。ありがと」
律は慌てて右手をポケットに突っ込んで、差し出されたマグカップを受け取る。耳につけたイヤホンを外しているうち、透花が律の隣に腰を下ろして、真剣な顔で息を吹きかける。揺れる湯気とともに、優しい甘い香りが漂ってくる。
夜のツルミ荘は、まるで外の喧騒が嘘のように粛然としている。まるで、この世界にいるのはふたりだけなんじゃないかと、錯覚するくらい。
「……何、聴いてたの?」
先に沈黙を破ったのは、透花だった。
「母さんの曲」
「『Midnight blue』?」
「うん。透花も、聴く?」
「いいの?」
律は返事の代わりに、イヤホンの左側を透花に差し出した。戸惑いがちに透花の白くて細い指がそれを取る。一瞬、透花の熱が律の指先に触れてどきりと心臓が跳ねた。ふたりでイヤホンを分け合って、『Midnight blue』をスマホで再生する。タイトルの通り、真夜中の夜を思わせる、儚く、途切れそうな旋律に律は耳を澄ませる。
「ねえ、律くん」
「……ん?」
「律くんは、どうしたい?」
透花の問いに主語は無かった。けれど、律は透花の言わんとすることすぐさま理解する。口を開くが、声は出なかった。ひゅう、と乾いた喉の音がする。そうして、ようやく出た返答は情けないほど曖昧なものだった。
「……分からない」
律の無責任な言葉に、透花は特に怒るわけでもなく、そっか、と短い返事をした。
「透花は?」
「わたしは……、わたしは、まだ、描き足りない。だから、描き続けたいって、今はそう思うよ」
「……すごいな、透花は」
「どうして?」
「俺は未だに、分からないままだ」
曖昧にしていた選択を前に、長い間立ち尽くしている。自分で自分の感情が理解できない。どうしたいのか、何をしたいのか、思考が行ったり来たりを繰り返している。それではいけないと分かりながら、選ぶことを躊躇い続けていた。
「……はー、生きるのってムズくない? ゲームみたいに、セーブしてやり直しできたらいいのに。決まったストーリーに沿って進めていくだけだったら、こんなに悩むこともない」
「確かに」
くすくす、と小鳥が鳴くように透花が笑って、それから、律の方へと首を傾けた。
「でも、何もかもやり直しができたら、きっと世界はちょっとだけつまらなくなる。だって、『創作』は何もかも満たされた人間からは、生み出せないから」
深い青の瞳が、すうっと細くなる。いつも律が透花にやるように、小さな掌を律の頭にのせて優しく撫でる。
「律くんにもきっと、見つかるよ。探してた答えが」
分かったら一番最初に教えてね、と透花は最後にひと撫でして離れていった。
その手を追いかけて掬い取る資格は、まだ、律にはない。


音楽が嫌いだった。
感傷に浸らせるような音楽も、前向きにさせる音楽も、傷ついた心に寄り添う音楽も、明日の未来を綴る音楽も、夢を描く音楽も。ラブソングなんて聴いただけで吐き気がした。
この世界が、音楽のない世界だったら良かった、と思っていた。
かつて、雨宮律は音楽を憎んでいた。
今はもう、自分がどう思っているのかすら分からない。
何故なら、律が追い求めていた答えはもう随分前に分かってしまったから。
割れんばかりの喝采と、肌に纏わりつく熱気。人々の歓喜に満ちた視線の中、律は得体の知れない充足感に愕然とした。熱さに反比例して、全身が粟立った。そして同時に、律は理解してしまったのだ。言い逃れのしようがないほど、思い知らされたといってもいい。その事実を直視すぎるには痛すぎて、受け止め切るにはあまりに脆すぎた。
(ああ、そっか)
律は、固く目を閉じて、その現実から遮断した。
(だから、母さんは───)

「……みや、おい、雨宮!」
はっと、律は我に返った。
顔を上げると、頭に白髪の見えるジャージ姿の教員が教壇の前で腕組していた。その後ろの黒板には進路ガイダンスの文字がでかでかと書かれている。いつの間にか、律の目の前には『進路希望調査』と太字で書かれたA4用紙があった。
ここは学校で、今は冬休み明けの進路ガイダンス中だということを、律はようやく思い出す。
「すいません」
律が軽く頭を下げると、教員はあからさまに大きくため息をついて、再び説明をし始めた。
これからの人生を決める重要な選択だからとか、よりよい大学に入れば大企業に就職できるとか、自分のやりたいことをちゃんと決めなければ将来露頭に迷うとか、耳にタコができるほど聞かされた、説教じみたもっともらしい言葉は、特急列車みたいに律の耳を通り過ぎていく。
「3年後、5年後、10年後の自分を想像して、悔いのない選択をするように」
その言葉だけが、唯一、律の耳に残った。

ガイダンスを終えた生徒はみな、家路を急ぐようにマフラーやコートを羽織って教室から去っていく。その人混みに紛れるように、同じように律も教室を出る直前、呼び止められた。首だけ振り返ると、薄縁の眼鏡をした男が立っている。担任だ。
「なんですか?」
妙に歯切れ悪く、目線を泳がせながら担任は顎を摩る。
「ああ、いや。今朝、雨宮のお父さんから連絡があってな」
ぴくり、と僅かに律の肩が跳ねる。
「息子はちゃんと学校に通ってるか、って言われてな」
「……そうですか」
自宅に残した置手紙には、学校には通うから余計な事をしないでくれ、と書き連ねたことを律は思い出す。その確認のためにわざわざ学校に連絡したのだろう。ご苦労なことだった。
「もし、何か悩んでることがあるなら、いつでも言ってくれ。相談に乗るから」
「ありがとうございます」
「ただし、俺に出来ることはそこまでだ。あとは、お前が親御さんと話し合わなきゃどうにもならん。まあ、お前の成績だったらどこの大学でも狙えるだろうから、話し合えば解決できるさ」
「いい大学に入ることが、正解ですか? それが、悔いのない選択なんですか?」
担任の面食らった表情を見て、律はしまったと思った。呼び止められないよう、そのまま頭を下げて、そそくさと教室を後にした。

その日は、まったくと言っていいほど睡魔がやってこなかった。
家出騒動を抜きにしても、律の作曲のペースは明らかに落ちていた。『創作』において、切っても切れない関係、所謂スランプという奴だ。曲を作り始めて初めてスランプのドツボに嵌っていた。続きの歌詞が書かれることのないネタ帳も、まったく変わらないPCのピアノロール画面も、いい加減に見飽きて、律は頭を掻きまわしながら床に転がった。
ふと横を見れば、鞄の中から件の用紙がはみ出ているのが見えた。その端を引っ張りだそうと手を伸ばして、途中で止まる。
「何してんだ、俺は……」
何もかも中途半端。『ITSUKA』のことも、父のことも、進路のことも、だ。何もかもに嫌気が差して、いっそこのままどこか遠くにでも逃げ出してしまいたくなる。
「なんて、できるわけないけど」
嘲笑うように薄く瞼を閉じた律の視界に、ふっと、影が落とされた。続いて降ってきた声は、随分と明るかった。
「おーおー。青春してんな、非行少年?」
瞼を開けると、律の視界に蛍光灯の明かりで照らされた白髪が映り込む。律の顔を上から覗き込むように腰を屈める男の姿が、そこにはあった。
「笹原、さん?」
「笹原さんは、ちょい仰々しいな。夕爾でいいぜ。俺も律でいいか?」
「……どうぞ」
律が起き上がると、夕爾はすっと曲げていた腰を戻した。
ツルミ荘にやってきた初日以来、あまり見かけなかった夕爾の登場に律は少なからず緊張する。何せ、透花から今日は自宅に戻ると連絡があった。つまり、ここにいるのは律と夕爾の二人だけだ。
「珍しいですね、この時間に帰ってくるの」
「まあ、今日はたまたまな」
「夜遅くまで何を?」
「ナイショ」
「……そうですか」
これ以上深堀できる仲ではないから、律はそこで会話を終わらせるしかなかった。
「じゃ、ほどほどに頑張れよ~少年」
律の肩を軽く手で叩いて、夕爾は踵を返した。すると、夕爾が片手に抱えていた紙の一枚がすり抜けて、落ちる。
「夕爾さん、何か落としました、……よ?」
夕爾を呼びかけながら、その落ちた用紙を律は拾い上げて───目を瞬かせる。振り返った夕爾が無言で、すぐさまその紙を律から奪い取った。紙の隔たりを失った律の前に、じとりと睨みを聞かせる眼がふたつ。
「見たな?」
それは、端的に、しかしどこか圧力のある問いだった。
「ええと、」
「見ただろ」
「見てな、」
「見ただろ」
「……はい」
律はすぐさま白旗を挙げた。誤魔化す暇すら与えてくれなかった。
「すいません、見るつもりは」
「いや、俺の不注意だから別に謝る必要ない」
律の記憶が正しければそのA4用紙に描かれていたのは───コンテ、ではなくネームというのだろう。漫画的に言えば。そしてそれはおそらく、透花が待ち続けている物語の続きだということは、夕爾の過剰な態度から察するに余りあった。
勝手に見てしまったという居た堪れなさに顔を伏せる律を他所に、ぐるる、と腹の虫が一つ鳴った。思わず律は自分の腹を押さえた。なぜこんな絶妙に悪いタイミングで鳴るのか。
しかし、その音を皮切りに夕爾の締まりのない笑い声がした。
「なあ」
「……はい」
「今から付き合え」
「へっ? どこに?」
戸惑う律に、夕爾はにんまりと悪い笑顔を浮かべた。語尾にハートマークをたっぷり付けて。
「ちょっとイケないとこ」


表面に浮かぶ健康に悪そうな油を、遠慮なくレンゲですくう。食欲を誘われる、醤油の香りに律は思わず胸が躍った。
「おうおう、俺に感謝して遠慮なく食え? 替え玉は2回までな!」
律の向かいに座った、景気よく割りばしを割った夕爾が、少年みたいに笑う。しかし、目の前のラーメンを啜る前に律は確認しなければいけないことが一つある。
「……もしかして、ちょっとイケないとこって、ここですか?」
「当たり前だろ? ド深夜ラーメンは重罪だぞ! 下手すりゃ捕まるぜ~?」
捕まるわけねえだろ、なんて突っ込みを律はぐっと飲み込む。夕爾はにやにやしながら目を細めた。
「はっはーん? 一体どんな想像をしたんだ、お兄さんに言ってみ? ほれほれ」
「箸で指さないでください」
「この思春期むっつり少年め」
「誰がむっつりか!」
「は~やっぱうめー。ほら、さっさと食わねえと冷めちまうぞ?」
完全に夕爾のペースだ。
まったく悪びれる様子もなく、麺を啜る夕爾の旋毛を見ながら、律はため息をつく。これからはこの人の言うことは容易に信じまい、と心に誓うように律は両手を合わせてから、ラーメンを食べ始めた。

「食った食った~」
色褪せた赤の暖簾をくぐって、律たちはラーメン屋を出た。温まって熱いくらいの身体にちょうどいい冷たい風がひゅうひゅうと吹いている。
息を吐くと、真っ白な靄が澄んだ夜空に溶けていった。数歩前を行く夕爾の足元に視線を落とし、律も同じくらいのスピードで歩く。
夜風に乗って、夕爾の声が流れてくる。
「旨かったか?」
「まあ」
「はは、可愛くねえの」
ぴたり、と夕爾の足が止まった。律の足も続いて止まる。振り返った夕爾の表情は、暗がりの呑まれてよく見えなかった。
「付き合ってくれた礼に、人生相談にでものってやろう。なんていうか、人生の先輩として?」
「……そんな年離れてないですよ」
「はは、減らず口を。家主に盾突いてもいいのか~?」
それを言われると、律はもうぐうの音も出ない。
「ん、そうだなー。何でも、3つ、質問に答えてやるよ」
律の前に立てられた3本の指。どうやら、向こうは折れる気はなさそうだった。律はひとつため息をついて、再び歩き出す。
「じゃあ、質問です」
「どうぞ?」
「夕爾さんはどうして、漫画を描こうと思ったんですか?」
少しだけ考えるような素振りをして、さらり、と夕爾は言った。
「モテたくて」
「…………………………は?」
たっぷり時間をかけて、彼の言葉を飲み込もうとしたが、嚙み砕くにはあまりに固すぎて喉には通らなかった。思わず隣を振り返った律の視線と、夕爾の視線が合う。なんでそんな純粋な瞳をしてんだ、と律は突っ込みたくなった。
「ええ!? 逆にモテたい以外なくね?」
「ないです」
「はいダウト! つーか漫画描く奴より音楽やってる奴の方が、女にモテたいって下心しかねーだろ!! それ以外の動機で音楽はじめる奴なんかいねえわ!」
「偏見酷すぎません?」
「じゃあ、自分は一切の下心なく100%純粋に音楽やってるって言えんのか? お? 神に誓って言えんのか? ほれ、俺の目を見て言ってみ?」
夕爾は真実を白日の下に示さんとする探偵が如く、律の眼前にやってくる。
「ぐっ……下心はな…………な、くはないです」
「ほれみろ~!」
律はがくっと肩を落とした。なぜだか物凄く負けた気分だった。意気揚々と再び律の前を歩き始める夕爾の背中を、律は恨みたらしく睨んだ。
「で、結果はモテたんですか?」
「よし。次の質問をしろ」
その返答だけで、結果は分かった。律はふっと、軽く笑って次の質問を考える。ふと、頭に件のネームのことが思い浮かんだ。
「じゃあ、質問ふたつ目。続きを描くつもりは、ありますか」
「今は、ないよ」
即答だった。希望を持たせる暇すら与えてはくれなかった。
「あれは、単なる気まぐれさ。たまたま流れてきた動画のMVにちょっと触発されちまっただけだ。柄にもなく」
「きっと、喜びますよ」
誰よりも続きを待ち望んでる人たちを、律は知っている。あえて名前を出すまでもなく、夕爾も同じく彼らを思い浮かべたのだろう。少しだけ苦しそうに笑った。
「いつ描かれるかも分からない続きのために、大事なファンをぬか喜びさせるなんて、漫画家としてそんな半端なことはできねえよ」
「そう、ですか」
「だから、あいつらには内緒な。ラーメンは口止め料ってこと」
「……分かりました」
律が頷くと、夕爾は少しだけ安心したようにくしゃりと笑った。そうして、律の胸に拳をとん、と一つ置いた。
「ありがとな」
「何がですか?」
「『創作』を聞いて、俺はまたペンを持つ気になれた。だから、ありがと」
その言葉が、何よりも律の心に響いた。
顔を逸らし、小さく息を漏す。少しでも油断したら、視界が揺らいでしまいそうだったから。誤魔化すみたいに、律は皮肉を吐く。
「……それは、透花に直接言った方がいいんじゃないですか?」
「ぶぁか。兄の沽券に関わんの!」
いつの間にか軽口のやり取りすらできるようになったところで、ツルミ写真館の看板が数メートル先に見えてきた。
この問答も、そろそろ終わりが近づいてきた、ということだ。
「最後の質問です」
「ああ」
律は立ち止まって、閉じた瞳をゆっくりと開く。少し先で立ち止まった夕爾が、こちらを振り返る。
「夕爾さんは、『創作』のためなら、死ねますか」
その瞬間、時が止まったみたいに、しん、と静まり返った。
絡まった目線だけは逸らさなかった。真意の読み取れない透花に似た藍色の瞳が、すっと細まる。皮膚を突き刺すような鋭さがそこにはあった。
「それは、『創作』を投げ出した俺に対する当てつけのつもりか?」
その返答に律は、すぐさま自分の質問が最低な当てつけだというのことに気が付いた。
「あ、いや、そういうつもりじゃ、」
「今の俺には、耳に痛いな。その質問は。……ああ。いいよ、別に怒ってねえから」
ひらりと手を返して、夕爾は唇で薄く笑った。夕爾の一言で肩を撫でおろした律を横目で見てから、そのまま空を仰ぐ。その横顔は、あまりに儚くて一度瞬きをすれば、跡形もなく消えてしまいそうだった。
「『創作』のために死ねるなら、本望だとさえ思ってた。……けど、俺には結局、出来なかった。命までは賭けられなかった。あっち側に行ける人間じゃなかったんだ」
自嘲的な笑いを残して、夕爾の視線がすっと律の方へ向けられる。
「律、お前はどっちだ?」


ツルミ荘にやってきて、2週間がたつ。
右頬を覆っていた白いガーゼを外して、律は鏡に映る自分を見た。指先で触れても、痛みはなく、殴られた形跡なんて元々無かったのではないかと思うほど、元通りだった。
ゆっくりと深呼吸をする。気合を入れるように、両手で思いっきり頬を叩いた。
「……よし」
鏡越しに映る自分の顔は、幾らか大人になったように見えた。

「透花、ちょっといい?」
いつの間にか、律と透花の定位置になっていた縁側に顔を出すと、案の定、透花が鉛筆を走らせているところだった。呼びかけられた透花が、こちらを見上げた。顔にかかった黒髪を耳にかけながら透花は、律のスペースを開けるように少し横にずれる。遠慮なくそこに腰を下ろす。
「透花に一番に、伝えようと思って」
「うん」
「俺の答えを」
勝手に手が震える。寒さではなく、緊張で。生まれてきて初めて、こんなにも心臓を握りられるような緊張感を味わう。心いっぱいに溜まった不安を振り払うように、律は顔を上げ、透花を見る。僅か数十センチ先で、透花の深く青の瞳が煌めく。
「俺は───」
プルルルル、プルルルル。
今まさに律の口から答えが出かかったその瞬間、鳴り響いたのは、電話の着信音だった。絶望的なタイミングだった。口から出かかった言葉を仕舞うべきなのか分からず硬直していた律に、透花は苦笑しながら、律のポケットをちょこんと指さす。
出ていいよ、の合図だとすぐに理解する。
「……ごめん、すぐ終わらせるから」
舌打ちしたい気持ちをぐっと堪え、乱暴にポケットからスマホを取り出して、表示を見る。通話の相手は、『和久叔父さん』だった。律が家出してから一度も掛けてこなかった叔父からの電話に、律は一抹の違和感を覚える。親指で通話アイコンをタップして、スマホを耳に当てた。
「もしも、」
『律か!?』
律の言葉を遮って、珍しく焦りを語尾に滲ませた叔父の声がする。後ろから、カチカチ、とウィンカーが一定のリズムを刻んでいる。どうやら、車でどこかに向かっている最中のようだ。
『いいか、落ち着いて聞いてくれ』
「……なに?」
『晴彦義兄さんが倒れた』
呼吸が、止まった。頭のてっぺんから足のつま先まで体中の血が抜けたみたいに、力が抜ける。スマホの重さすら耐えれずに、次第に腕が落ちる。
『職場近くの大学病院に運ばれたらしい。それ以外の詳しいことは分からん! お前もすぐに来れるか!? ……律? オイ、律!?』
電話口から叔父の怒号にすら近い剣幕が聞こえてくるが、律は呆然としたまま思うように体が動かせない。だというのに、頭の中では曖昧な記憶の中に残る母の顔がコマ送りで流れていく。律は知っている。人間というのは、あまりに呆気なく死ぬのだと。
視界が掠れて何も見えなくなる寸前、誰かが律の右手を握りしめた、強く。瞬きを繰り返しながら、その手の先を辿るように律は顔を上げる。
「───すいません、電話代わりました! 透花です!」
透花だった。いつの間にか抜き取られた律のスマホで、電話口の叔父と話し合っている。
「はい、はい、分かりました! すぐ、向かいます!」
すぐさま電話を切った透花が、律の腕を引っ張り上げる勢いで立ち上がった。地獄の底で、目の前に足らされた蜘蛛の糸に縋る人間は、果たしてこんな気持ちだったのだろうか、と律は繋がれた手に力を込める。
「なんだ!? どうした!?」
ただならない騒ぎを聞きつけた夕爾が、足音を立てながらリビングにやってくる。透花が矢継ぎ早に事情を話す。すると、夕爾は表情を硬くして頷いた。
「分かった、店前に社用車回す! すぐ乗り込め!」
「律くん、行こう!」
繋がれた手に引かれるように、ツルミ荘を出て、透花とともに律は車の後部座席に乗り込んだ。病院に向かう道中、隣に座る透花の手から伝わる体温だけが、唯一、律を現実に繋ぎとめる糸だった。


「……はい?」
「ですから、雨宮晴彦さんなら、先ほど検査が終わって会計済まされたようですよ?」
「倒れたって聞いたんですが」
「過労と軽い栄養失調だそうです。雨宮さんから連絡はなかったですか?」
言葉を失ったまま立ち尽くす律たちを横目に、受付の女性は次の方、と後ろの客を呼び寄せる。律と透花は、押し出されるような形で受付の列から離れた。
エントランスホールから病院の外に出ると、容赦なく冷たい風が吹きつける。未だ顔を伏せたまま、無言の律から感情はなに一つ読み取れない。何か声をかけなければ、と切迫感に追い詰められて、上擦った声で透花は話しかける。
「ええと……大事にならなくて、よ、かったね?」
「……ああ」
「あああれかな? 律くんのお父さん、連絡するの忘れちゃったんだよ。きっと!」
「……ああ」
「おおお叔父さんもそろそろ来る頃かなぁ?」
「透花」
「ひゃい!」
透花は裏返った声と共に肩を跳ねさせた。恐る恐る隣を見やると、律が人差し指で透花の額を弾く。そして、空気よりも軽くふっと笑った。
「いいよ、気遣わなくて」
「……ご、ごめん」
「なんで透花が謝んの。俺の方こそ、付き合わせてごめんな」
「そんなの、全然」
「ここに居たら風邪ひくし、もう、帰ろうか」
「……うん」
「夕爾さんにもさ、お礼言っとかないとな。ジュースくらい買ってくか。あのひと、苦いの大丈夫? コーヒーとかでもいいかな? あ、ちょうどいいとこに自販機あるな」
透花と繋いだ手を引いて、自販機の方へ踏み出した足は、一歩目で止まってしまった。何故なら、その自販機の前に立つ人影に、律の方が先に気付いたからだ。咄嗟に背を向けようとしたが、もう遅かった。
「律、か?」
無事を知るまでは、会わなければと切に願っていたのに、いざその姿を目の前にして、律は心の底から後悔する。2週間ぶりに再会した父の姿は、玉手箱でも開けたのかと思うほど、やつれ切った姿で立っていた。
「お前、どうしてここに……、いや、今はそんなことどうでもいい」
額に手を当て、疲労を込めたため息を父は一つ付いた。ゆるりと顔を上げ、律を見やる。あの夜と同じ、律を強く詰責する目だった。
「今までどこにいた」
「……言わない」
「なんだと? ふざけてるのか?」
「ふざけてんのはどっちだよ」
「どういう意味だ」
は、と律は乾いた笑いを零した。
「今まで散々放置してたくせに、今更父親面すんなって言ってんの」
吐き捨てるように呟いた言葉で、父は分かりやすく狼狽した。これ以上同じ空気を吸っているのも苦痛だった。今、口を開けば一体どんな残酷な言葉が飛び出してくるか分からない。辛うじて堰き止めていた感情にブレーキの掛けられなくなるのが、怖かった。
律は、握った手に少し力を込める。
「もう、行こう。透花」
「う、うん」
律と父の顔を伺い、透花は躊躇いがちに頷く。少し痛くなるくらいの力で透花の手を引き、律は再び歩み始めた、その時。
「──待て、律ッ!」
咄嗟に律の腕を、父が掴んできた。瞬間。背中を嫌悪感が走り抜け反射的に腕を振り払うが、不快な熱は律の腕に纏わりついたまま離れない。
「いい加減、目を覚ませ! 音楽なんてやって何になる!」
「……」
「約束しただろう!? 忘れたのか!?」
忘れるわけがない、忘れられるものか、と律は吐き出したい言葉を堪え、歯嚙みする。
「音楽のせいで、奏は死んだ。たかだか、音楽なんぞのために! 奏は俺たちを捨てて、音楽を選んだんだぞ!?」
その叫びは、ほとんど泣いているようにすら、聴こえた。
「いいから……もう戻ってこい、律。今なら、許してやるから」
律は、かさついた父の手をもう一度、振り払う。今度は、簡単に解けた。肺には痛いほどの冷たい空気を吸い込んで、律は静かに答える。
「戻らないよ」
父の表情が、次第に怒りを滲ませていく。
「まだ、曲を完成させてないから」
ぱあん、と乾いた音が響いた。どうやらまた右頬を叩かれたらしい、ということだけは理解した。あの夜と同じ痛みが、口の中まで広がっていく。
あの時と違うのは、状況を把握できるくらいには律が冷静だったことだ。顔を上げると、興奮で肩を上下させた父と目が合う。殴られたのは律の方なのに、一瞬父は苦しそうに顔を歪ませた。けれど、すぐ怒りに満ちた表情へと変わる。
「これ以上俺を失望させるな! つまらん感情で自分の将来を棒に振る気か! いいか、お前はまだ子供だ! 子どもは、親の言うことには黙って従ってればいいん──がッ!」
その刹那、だった。
瞬きをすれば見逃すほどの短い一瞬、父は文字通り吹き飛んだ。横から飛んできた拳で。
短いうめき声とともに、よろめいた父の身体は自販機に激突してそのまま沈み込む。状況を飲み込めない。それは父も同じようで、何度も目を瞬かせながら、律ではなく、その横へ視線を向けた。
「と、透花?」
「……ごちゃ、」
「え? ちょ、と、透花!?」
繋いだ手とは逆の手を握りしめたまま、荒く呼吸を繰り返す少女がそこにはいた。律の静止を振り切り、透花は父の襟首に掴みかかった。そして、大きく胸を上下させ叫んだ。
「ごちゃごちゃごちゃごちゃ、うるッせーーーんだよ!!」
「ぁ、」
「いいから黙って曲を聴け!! たかだか音楽だなんて決めつけんのは、その後にしろぉ!!」
静寂が3秒ほど続いた。
頭に血が上っていた透花は、ようやく我に返った。そして自分がとんでもないことをしでかしたことを理解する。慌てて掴みかかった手を放して、後ろに数歩下がる。なぎ倒した父がよろめきながら、自販機を支えに立ち上がろうとしている。顔は見えないが、空気で分かる。怒髪冠を衝く程の怒りをひしひしと感じる。
そして、修羅の顔が表を上げる瞬間、咄嗟に律が声を上げた。
「逃げるぞ!」
「へっ?」
戸惑う透花の腕を強く引っ張り、律は一目散に走り出す。
駆け出した律たちを追いかける足音は、しなかった。


どれほど、走ったのだろうか。
当てもなくただがむしゃらに律たちは走り続けた。追いかける足音もないのに。すでに病院の建物すら見えなくなるほど遠くまでやってきた。透花はいよいよ、息が続かなくなって、背中越しに呼びかける。
「はあ、はあ、り、律く……も、もう限界! す、ストップぅ!」
透花のギブアップ宣言で、ようやくスピードが緩み、律の足が止まった。ずっと繋ぎっぱなしだった手と手が離れる。透花は手を膝について、ぜーぜーと呼吸を繰り返した。酸欠だった脳に酸素を送り込んで、冷静さを取り戻した。ついでに先ほどの犯した失態の記憶も蘇ってくる。
「……あのう、律くん」
恐る恐る、透花は律の袖を引っ張った。律は腕を組んで、俯いたまま何やら深刻そうな雰囲気を纏わせている。透花は、上がった体温が急激に下がるのを感じた。勢いよく頭を下げる。
「ご、ごめんなさい!!」
「ふ、」
「わたしが出しゃばったばっかりに! どどどどうしよう!?」
「っく、」
いよいよ肩を震わせ始めた律を見て、透花はさらに顔を青くする。
「今からでも、戻って、」
「ふっく、く、ははっはっはははははははははっははは!!」
「え?」
それは大爆笑だった。腹を抱えて、何なら目に涙まで浮かべて。
「ははっは、なあ見た? あの、間抜けな面! はーやば、涙出てきた」
「……怒ってないの?」
「へ? なんで?」
きょとんとした顔の律が、首を傾げる。
「だって、わたし、律くんのお父さんにいきなり殴りかかったんだよ!?」
「ふはっ、やめて。また思い出して笑っちゃうから!」
目尻に溜まった涙を拭いながら、律は溌剌とした様子で胸を張る。
「あの瞬間、すっげえスカッとした!」
それは、遥か頭上にある青天井を背景にしても遜色ないほどの、晴れやかな笑みだった。
「いいから黙って聴け、かぁ。ふふ、うん。うん、そうだった。俺、ずっとそう言ってやりたかったんだ。いざ父さんを前にすると、声が出なかったけど」
「律くん、」
「ありがとう、俺の代わりに言ってくれて」
「……お礼言われるようなことじゃないよ。殴っちゃったし」
「いいよ、俺だって殴られたし。しかも二回も! なら、一発ぐらい殴っても神様だって見逃してくれるでしょ」
透花は、自然な動作で指先で律の頬に触れる。触れた瞬間、いて、と律は呻き声を挙げながら眉を顰めた。
「また、赤くなってる。帰って冷やさないと。待ってね、今お兄ちゃんに連絡、」
「透花」
スマホを取り出すために離れそうになった透花の手を、律は縋るように手を重ね合わせ、そのまま頬に寄せた。触れたところがやけに熱くて、その熱が伝染していくように透花の顔が徐々に赤く染まる。声も紡げないのか、口をパクパクさせている。
律は、逃がすつもりはない、と意志を伝えるように強く、手を握りしめて言った。
「今から、駆け落ちしよう」
え、と小さく漏らした透花の言葉は、乾いた風によって攫われてしまった。


「よく漫画とかアニメとかでさ、話の途中で敵方に寝返る裏切りキャラって、いるじゃん?ああいうのって、何かしらのそうせざる負えない理由があって、それを心の中に秘めたまま主人公と敵対するのがセオリーで、大体死んじゃった後とか死ぬ間際にそのキャラの心情が分かる、とか。あとは、映画とかで、余命幾ばくかの彼女が最後に振り絞った力で残した手紙を読んで、彼女の思いを胸にそれでも明日も生きていく、みたいなラストとか。……そういう展開を、期待してた」
ガタン、ゴトン、とレールのつなぎ目を通過する音がする。
「音楽は世界を救える───、それが、母さんの口癖だった。だから、俺は、証明したかったんだ。音楽なんかで世界が救えるわけがない、って。それを証明した後で、俺は母さんの墓の前でさ、言ってやりたかった。『ほら見ろ、音楽なんかで救えるわけがないじゃないか。所詮そんなものために、命を懸けた母さんは大馬鹿者だ! 俺たちを捨ててまで選んだ事を地獄で一生後悔すればいい』、って。……本当はさ、音楽とか、世界とか、どうでも良かった。単なる理由付けに過ぎなかった。俺はただ、母さんが間違ってたんだって、自分に言い聞かせるための理由が欲しかったんだ」
教科書を音読するように、淡々とした声音で語り続ける。
「あの頃の記憶は、あんまり無いんだけど……母さんは、たぶん、病気のせいで上手く歌えなくなってた。一刻も早く治療しなきゃいけないって状況で、母さんは頑なにそうしなかった。治療したら、もう声が出なくなっちゃうとか、今まで通り歌えなくなっちゃうとか、けど治療したところで手遅れだとか、まあきっと、そういう理由だろうね。……父さんと母さんが、そのことで何度も喧嘩してたの、何となく覚えてるから」
膝の上に置いた白い梅の花束に触れると、包装紙がくしゃりと音を鳴らす。
「3月5日が母さんにとって、最後のステージになった」
次第に電車が減速していく。終着駅はもう、すぐそこだった。

電車を降りたのは、透花と律のふたりだけだった。
寂れた無人駅から、夕暮れの火に染まった海がよく見えた。次第に、水平線に呑まれていく太陽に向かって水面上に一本の光の道が続いていた。
ふたりは、堤防沿いを、止まりそうなほど遅い足取りで歩く。
「父さんは、許せなかったんだ。俺たち家族と音楽を天秤にかけて、音楽を選んだ母さんのことも。母さんをそうさせた音楽のことも」
初めて律が父の涙を見たのは、母の葬儀の時である。幼い律の両肩に手を置いて、父は言った。
「『いいな、律。もう二度と、音楽はやるな。絶対に』───なんてさ、言いたくなっちゃうよね、そりゃ。だから、俺が父さんに隠れて音楽してること、心んどこかでずーっと罪悪感あった。そのせいで、父さんに殴られても何一つ反抗できなかった。父さんの気持ち、痛いくらい分かるから」
触れた右頬が、ちりっと痛む。
「音楽を始めたての頃は、母さんの気持ちが知りたくて仕方がなかった。もし死者の言葉が聴ける機械でもあったなら、俺は迷わずこう言う。なんで、俺たちを選んでくれなかったの、って」
いつの間にか潰れてしまったのかシャッターの降りたタバコ屋の角を曲がれば、もうすぐ、目的地に到着する。じゃりじゃり、と玉石を踏み鳴らしながら歩く。
「でもさ、もう……答えは、分かった。あの日、あの時、ステージに立った瞬間に」
それは、あまりに単純な答えだった。
「歌いたかったからだ。命懸けてでも」
律は、向き直る。墓石を前にして、あの住み慣れない家のリビングで、いつも通り母の遺影に話しかけるみたいに、律は言う。
「……久しぶり。母さん」

16歳の誕生日に亡き母から手紙が届くとか、偶然出会った母の知人から母の本当の気持ちを知るとか、そういう都合の良い優しい展開を、期待していた。最後の人生で息子に自分の音楽を残してやりたくてとか、心の奥底では音楽を選んだことに罪悪感をもっていたとか、そういう綺麗な理由が欲しかった。家族を捨てるだけの立派な理由があったと、想いたかった。
『───夕爾さんは、『創作』のためなら、死ねますか』
夕爾に問いかけた最後の質問を、律は思い出す。
つまりは、そういうことだ。母は、『創作』のためなら、死ねる人間だった。夕爾の言うところの、あちら側の人間だった。
綺麗な理由なんて、立派な理由なんて、あるわけがない。
単純なことだ、母は家族よりも音楽を優先した、身勝手な人間だった。ただそれだけ。それを知った時、律は失意の底へ落ちた。そして、同時に身勝手な母を惨たらしく責め立てることは、出来ないと悟った。何故なら、それは。
「きっと、俺も同じことをする」
肌を刺すような風が吹いて、供えられた梅の花びらが揺れた。
「俺が母さんの立場だったら、家族とか、未来とか、全部かなぐり捨てて、ステージに立つ。……俺も、『創作』のためなら死ねる人間だった。母さんを責めることなんてできない、大馬鹿者だよ。親子そろってこんな馬鹿ばかりなんだから、父さんに合わせる顔がないよね」
両手を合わせ、顔を上げた律は、振り返った。
「ちょっと寄りたいところがあるんだけど、いい?」
透花は少しだけ悲しそうに、うん、と頷いた。

「ここは?」
「俺の前の家」
昔住んでいた家は、控えめに言って酷い有様だった。
季節の花が彩っていた庭は、煤ぼけた草木が律たちの腰の高さまで生え、外壁には毛細血管のようにツタが張り巡らされている。キーケースにつけられた、メッキの禿げた古めかしい鍵をドアに挿すと、ごり、っと音を立てて開く。
電気も通っていないから、薄暗いうえ、廊下を歩くたび埃が舞って息苦しくなる。
「あ、あったあった」
一番奥の部屋にそれは、まだ残っていた。もぬけの殻となった部屋の中で、異様な存在感を放っていた。埃がかった白いシーツを取り払うと、律と透花は二人そろってせき込む。
シーツの下に隠れていたのは、グランドピアノだった。試しに人差し指で適当な鍵盤を弾いてみると、籠った音が鳴る。
「あはは、ひっでえ音」
「そうなの?」
「うん、調律とか一切してないからね。透花、こっち座って」
トムソン椅子の片側半分に腰を下ろした律は、余ったもう片方を手で叩いた。透花がおっかなびっくりといった感じで座る。
「透花、『きらきら星』弾ける?」
「弾いたことない」
「いいよ、教えてあげる。はいまずここに指置いて。ド、ド、ソ、ソ、」
「ド……ド、ソ、ソ」
「いいじゃん、上手い上手い」
「へへ。続きは?」
ものの数分ほどで、透花は『きらきら星』を弾けるようになった。楽しそうに歌いながら、拙い指先で鍵盤に触れるさまは、どこか幼いころの律の姿を思わせた。最後の一音が部屋に鳴り響いて、すぐに静寂に包まれた。
透花が顔を上げる。律は、透花から目を逸らさずに口を開いた。
「『ITSUKA』は、3月5日で解散するよ」
深い青い瞳が大きく見開かれる。石を投じた水面のように透明な膜がゆらゆらと、揺れる。
「そ、だね……うん、……そう、だよね」
「自分勝手で、ごめん」
「ううん、何となく、分かってたから」
「これ」
律はポケットから取り出したくしゃくしゃの紙を透花に差し出す。透花は、覚束ない指先でそれを受け取る。もとは上等そうな一枚の名刺だったのだろう、透花の知らない名前が明朝体で書かれている。
「母さんが昔音大でお世話になってた恩師だって、叔父さんがくれたんだそれ。今は、海外の大学で先生やってるんだって」
律は、静かに続ける。
「たまたま叔父さんの店に来たんだってさ。俺が作曲してるってことを叔父さんから聞いて、動画見てくれた。それで……その人が、こっちに来て音楽を一から学んでみないかって、誘われてる」
伏せられていた透花の顔が、すっと上がる。泣きたいのを我慢する子供みたいに、唇をぎゅうっと結んで、堪えているのが分かった。
「俺は、行くよ」
透花は何も言わず、ただ律の胸にとん、と額を寄せた。必死に声が震えないようにと喉の奥を締め付けるような声がする。
「答え、見つけたんだ」
「うん」
「そっかぁ。よかった、よかったけど……やっぱり、さみしいな」
「うん、俺も。別れのキスでも、しとく?」
「……ふふ、ばか」
「ええ、だめ?」
「また、わたしと『創作』するって、約束してくれるなら。いいよ」
「……する。神に誓って」
「破ったら、纏くんにチクってやる」
「それは怖いな。死んでも守らないと」
互いに見合わせて、少し笑った。どちらともなく近づいた唇が、静かに重なり合わさる。
初めてしたキスは、少しだけ苦くて、しょっぱかった。
多分、青春が食べられるならこんな味がするんだろうと、律は思った。


背伸びして頼んだブラックコーヒーは、飲めたものではなくて、一口飲んだだけで放置したままだった。2階の窓側の席からは、スクランブル交差点を行きかう人たちがよく見える。しばらく、ぼうっとその様子を眺めていると、ふと、テーブルの上に置いてたスマホが震える。確認すると『クソ律』の文字が表示されていた。纏は画面をタップして、耳に当てる。一言目に言う台詞はもう、決めていた。
「締め切り遅れの謝罪なら受け付けねーぞ」
『ちッげーよ!』
相も変わらず憎たらしい恋敵の声音は、最後にあった日よりも幾らかマシになっていた。
「で、何?」
『あの日の回答、しようと思って』
「ああ」
電話口から、覚悟を決めたような息遣いが聞こえる。
『3月5日で解散したい』
「分かった」
纏は二つ返事で了承した。
『…………エッ? それだけ?』
肩透かしでも食らったのか、律は声を裏返してそう言った。
「それ以外になんか言うことある?」
『いや、そうだけど、そうなんだけど! もっとぉ、こう! あるだろ!?』
「もし解散しないってなったら、それはそれで困るんだよね」
『は? なんでだよ?』
「今さっきメジャーデビューの話、蹴ってきたところだから」
『は……、はぁああああああああああ!?』
「うるさっ」
音が割れるほどの大声に纏は思わず顔を顰めて、耳からスマホを離す。
『おま、俺らに決めろとか言ってたやん!』
「だって別に、メジャーデビューしたところであんまメリットないし。無意味に行動制限されるし、つまんないしがらみばっかり課されたら、『ITSUKA』の良さが無くなるでしょ」
『まあ、確かに』
「それに、お前らにはさ、最後までらしくあってほしいと思ってんの。だから、責任もって僕が最後まで、創りたいもの創らしてやるよ」
『……じゃあ、纏を敏腕プロデューサーとして見込んで頼むんだけどさ。父親に俺の曲を聴かせて、説得したいんだ。何かいい案ある?』
「音楽を嫌悪してる人間に?」
『そう』
はあ、とひとつ大袈裟にため息をついて、纏は考える。そんな簡単に思いつくわけもない。
「案ねー……」
ただ、何気なく視線を巡らせる。そうして、纏の視線はとある一点に集中する。午後三時をお知らせします、と仰々しく頭を下げるアナウンサーの声がした。






約1か月ほどお世話になった部屋を、透花はぐるりと見渡す。なんやかんや長い間滞在したから、初めてツルミ荘を訪れたときよりも鞄が二つ増えた。
「荷物まとめたか~?」
ひょいと、開いたドアの隙間から顔を覗かせた白髪が揺れる。
「今終わったところ」
初めはぎこちなかった兄、夕爾との会話にも慣れた。
「じゃあ、ちょっと時間、いいか?」
「え? うん、いいけど。どうしたの?」
「これ、渡そうと思って」
振り返った透花の前に差し出されたのは、数冊の古びたスケッチブックだった。随分と使い古されていて、オレンジと黒の表紙には細かい擦り傷がたくさんついている。透花はそれを両手で受け取って、1ページ捲る。細かいパーツごとのデッサンやメモ、構図に合わせたポーズを何枚にも渡って描き綴られていた。
「お前、昔から手描くの、苦手だろ。MVもちょっと誤魔化してた」
「うっ、分かる?」
「バレバレ」
夕爾の言う通り、透花は背景の次くらいに手を描くのが苦手だ。
「これ、俺が今まで描き溜めてたデッサンとか構図の資料。役に立つと思う、多分」
「……くれるの?」
「バーカ」
「あうっ」
両手が塞がっているのをいいことに、夕爾が軽く透花の頭にチョップを食らわせる。
「貸すだけだ」
「ええ」
けち、と口を尖らせようとした透花を遮るように、夕爾はにっと少年のように笑った。
「俺が必要になったら、ちゃーんと返してもらうぜ。それまでは貸してやる。分かったか?」
透花は、胸の前に持ったそれをぎゅうっと大事に抱きしめる。声が震えてしまいそうになるのをぐっと堪え、透花は何度も頷く。
「……うんっ、うん! ちゃんと、返す」
「よろしくな。……じゃあ、そんだけだから」
「あ、お兄ちゃん!」
透花の肩を優しく叩いて、部屋を出ようとした夕爾を慌てて引き留める。
「わたしの友達から、伝言頼まれてたの」
「……俺宛に?」
思い当たる節もないのか、夕爾は首を傾げる。透花は、底抜けに明るくて笑顔のよく似合う彼女の口調を真似しながら言う。
「メメ先生の漫画を読んで、救われたから、ありがとう! って」
夕爾の瞳の奥が、流れ星が夜空に消える瞬間みたいに、眩い煌めきが弾けた。我に返った夕爾が、すぐさま踵を返す。そして、部屋を後にする直前、呟いた。
「続き楽しみにしといて、って伝えといて」
少しだけ、言葉の端が震えていた。



『明日の夜21時、駅前のスクランブル交差点のところで待ってる』
家出してから一切連絡の取れなかった息子から送られてきたメッセージが、それだった。
仕事を早めに切り上げて晴彦は、指定された場所へ向かう。金曜日の夜は、随分と活気に溢れていた。仕事上がりのサラリーマンやOLが、スクランブル交差点を渡って繁華街に流れていく。
「あ、すいません」
肩がぶつかって、咄嗟に謝ってきたのはまだ年端も行かない高校生だった。そこで、ようやく晴彦は気づく。この遅い時間帯にしては随分と若い子が、交差点に集まっている。そしてみな、一応にスマホを掲げて、何かを待ちわびるように上を見上げている。
21時、約束の時間の10秒前。
集まった人間たちが一斉にカウントダウンを始める。
さん! にー! いち! ぜろ!
───その瞬間、晴彦は弾かれた様に顔を上げた。ビルに設置された巨大モニターから流れてきた、カセットテープを再生する音。擦り切れて、絞り出したようなか細い声は、よく耳を澄まさなければ、何度も耳にした晴彦でさえ初めは気が付かなかった。
(奏の、声だ)
割れんばかりの喝采が、鳴り響く。足早に道行く人々すら、足を止めてその音楽に聴き入る。
その曲は、返歌だった。奏へ向けた愛の歌だ。怒りと、憎しみと、失望と、それすら飲み込むほどの愛と罪悪感と覚悟が込められている。いいから黙って曲を聴け、と見知らぬ少女に殴られた右頬が疼く。年甲斐もなく、胸がかっと熱くなって、大きく開いた穴が満たされていく錯覚にすら陥る。
心地の良い余韻を残して、ついに曲が終わる。
その瞬間、真っ暗な画面に映し出された曲名は───『ミッドナイトブルー』。奏が一番好きだった曲と同じタイトルだった。


「父さん」
父さん、だなんて呼ぶ人間はこの世にひとりしかいない。晴彦は、その呼び声のする方へゆっくりと振り返る。
人混みの中で、唯一目があったその人は、律だった。
情けない顔をしているだろう自分とは対照的に、律の瞳に一切の揺るぎはない。奇しくもその瞳と同じ色した人間を晴彦は知っている。いつの間に、こんな目が出来るようになったのだろう、と晴彦はようやく気付く。子供が成長するのは、瞬きするよりも早いのだと。
「どうよ? 感想は」
「……ああ、そうだな」
一つ呼吸を置いて、晴彦はぎこちなく笑った。
「最高だったよ」
それが、降参の合図だった。


ITSUKA@ituka_official
いつもITSUKAを応援していただきありがとうございます。
ITSUKAは3月5日をもって、解散します。
これまでお付き合いいただき、大変ありがとうございまいた。
3月5日に、配信サイトにて解散ライブを実施します。