【12】それから.
すべての話を聞き終えて、だけど僕は何一つ言葉をかけられずにいた。
何を言えばいいのか、第一声をいつあげればいいのか、分からなかった。
「とりゃ」
「ちょっとちょっと……何するんですか急に」
「いやー、声出す機会を逸してるのかなーと思って」
それはそうなんだけど……。
つままれた鼻をさすりながら、一口、コーヒーをすすった。
あの後僕たちは、近くのコーヒーショップに立ち寄り、カウンター席に並んで座りながら話をした。正確には四季宮さんが身の上を話し、僕がその話を聞いていた。
四季宮さんの過去は、想像していたよりもずっとずっと壮絶で、今こうして彼女が笑えていることが奇跡だと思うくらいだった。
「真崎君は、大人になったんだね」
「何の話ですか?」
「ううん、なんでもない」
四季宮さんは静かに首を振って、
「うらやましいな」
ぽつりと、つぶやいた。
僕のどのあたりをうらやましいと思ったのかは分からない。グラスに入ったアイスコーヒーをくるくるとマドラーでかき混ぜる彼女の真意を、僕は読み取れない。
だけど、そのセリフには既視感があった。
少し記憶を巡らせて、修学旅行の夜、織江さんのもとに向かう御影を見て、僕が呟いたのと同じ言葉だと気づいた。
あの時はまだ、何をうらやましいと思ったのか、ちっともまったく分かっていなかったのだけど……今にして思えば、僕は御影たちのような、明確なゴールがある関係を羨んだのだろう。
御影が素直になれば、円満に幸せになれる。そんな単純明快な道筋の上を歩く二人を、うらやましく……もしかしたら少し、妬ましく思ったのかもしれない。
行先の見えない道を歩くことに、不安を感じる。
きっと同じなんだ、僕も、四季宮さんも。
だったらもしかしたら……僕の言葉も届くかもしれない。
「四季宮さん、僕は自分の幻視がずっと嫌いでした」
「……うん」
「だけど四季宮さんが幻視のことを素敵だって言ってくれたから、僕はちょっと見方が変わったんです」
いつだって彼女は、僕の幻視を否定しなかった。
いいなあとか、素敵だね、とか、そんな風に肯定的に捉えてくれた。
「そして実際この幻視は、四季宮さんを助けるために、二回も役に立ちました」
一度目は、クリスマスパーティーのあの夜。
僕が四季宮さんの手をひいて、テラスに向かって走った様をみて、銀山さんは僕に情報を与えてくれた。
二度目ついはさっき。屋上から飛び降りようとする四季宮さんを、すんでのところで助けることができた。
幻視なんて能力、あっても意味がないと思っていた。
たった六十秒先の未来が視えるだけのささやかな異端に、なんの期待も抱いてはいなかった。
だけど、その幻視の力で変えた未来が、銀山さんの気持ちを動かしたり、四季宮さんの死を救ったりして。
ほんの少し先の未来を変えることが、無意味ではないと僕は知った。
「きっと、些細なことで未来は変えることができるんです。先の見えない道でも、あらがえないような未来でも、少しだけ頑張ることで、結末を変えることができるかもしれない。――だから四季宮さん」
僕は言う。
「一緒に戦いませんか?」
「……え?」
「もし、四季宮さんが、現状にあらがいたいと思っているのなら。もし……その意志があるのなら、一緒に立ち向かってみませんか?」
四季宮さんは視線を落として答える。
「……ダメだよ。私は……あらがえない」
「でも、気持ちはあるんですよね?」
同じだった。
僕も彼女を救いたいと思いながら、だけど明確なビジョンがないから、足を踏み出すのをためらっていた。気持ちだけが先走っただけの、前のめりな状態で走り出すなんていけないことだと思っていた。
きっと、四季宮さんもそうだ。
現状を打破したい。立ち向かいたい。
そう思ってはいても、自分が戦う姿を想像できないから、こうして最初の一歩が踏み出せずにいるのだろう。
正解がない道の上を歩くのは怖い。
真っ暗な闇の中を、ただ一人、ランタンも持たずに前に進み続けるのは至難の業だ。
でも、二人なら。
二人でいることができるのならば。
その恐怖もやわらぐと思うんだ。
「僕はとても頼りないですし、臆病ですし、腑抜けてますし、何のとりえもない、本当に冴えないやつです。だけど――」
僕は下唇を噛んで、四季宮さんから視線を外す。
目を見て言えるだけの度胸は、まだなかった。
「し、四季宮さんの幸せを願う気持ちとあなたを助けたいって気持ちだけは誰にも負けないつもりです」
からりと、グラスの中で氷が鳴った。
四季宮さんはマドラーに手を添えたまま、固まったように僕を見ている。
数秒が経って、数分が経って、僕は段々と恥ずかしくなってきた。
なんで何も言わないんだろう。
もしかしたら、僕はとても見当違いなことを言ったんじゃないだろうか。
そんな不安が脳裏に浮かび始め、そわそわと指を動かし始めた時。
「もう一回言って?」
「え?」
「早口で聞こえなかったから、もう一回、言って?」
「それはちょっと……」
「お願い、真崎君」
四季宮さんは僕の手を握った。
「ゆっくり、もう一度、言葉にして欲しいんだ」
彼女は言う。
「咀嚼するみたいに、噛んで含んで、舌の上で転がして……それで、大切に、大切に、言葉を紡いで欲しいんだよ。だって、きっと私は――その言葉で、救われるから」
僕は。
四季宮さんの真摯な瞳にあてられて。
彼女の切実な声に背中を押されて。
彼女の言う通り、もう一度、同じ言葉を口にした。
句読点を、しっかりと打って。
「四季宮さんの幸せを願う気持ちと、あなたを助けたいって気持ちだけは……。誰にも、負けないつもりです」
今度はゆっくりと、しっかりと、言葉を区切って、四季宮さんに伝わるように、彼女の目を見て言った。
四季宮さんは、
「そっか……。うん……うん……。ありがとう、真崎君」
泣きながら、だけどこれまで見た中で一番、とびっきりの笑顔で、応えた。
「それじゃあ私も……頑張らなくちゃね」
※
そうして紆余曲折を経て、様々な寄り道をして、ちょっとした困難を乗り越えて、ようやくスタートラインに立った僕たちだったけれど。
思いのほかあっさりと、決着はついた。
翌日、僕たちはまず銀山さんのところに向かった。
もちろん、特に策があるわけではなかった。
今回の一件に関わっている人間の中で、一番まともに話が通じそうな相手が銀山さんしかいなかったというだけの話だった。
四季宮さんが連絡を取ると、今日は出勤しているという話だったので、いつも彼女が通っているという病院で待ち合わせをして、話をした。
銀山さんは開口一番、こう言った。
「いやはや、まさかこうなるとは思わなかったよ」
「えっと……どういうことですか?」
僕が問うと、大層愉快そうに、彼は続けた。
「なんだ、知らないのかい? これだよ、これ」
銀山さんは自分のスマートフォンを取り出すと、SNSアプリを立ち上げて、一本の動画をタップした。
瞬間、
『四季宮茜ぇええええええええええええええええええええええええええええ!』
僕の声が、部屋の中に響き渡った。
「え、これ、なんですか?」
「またずいぶん人が多いところで叫んだみたいじゃないか。面白がった人が撮影して、投稿。そのままあっという間に拡散されて、今じゃブログとかまとめサイトとかにも出回ってるみたいだよ」
「これが、ですか?」
「そ、これが」
「め、めちゃくちゃ私の名前とか入っちゃってるじゃないですか……!」
なんなら最後の方は、僕の手を取って走り出す、四季宮さんの姿までばっちり映っていた。
あの時動画を撮っていたのは何も一人だけではないらしく、あらゆる角度から撮られた動画が、いくつもアップロードされていた。
「それがいいんだよ。今じゃ病院の関係者ですら、この動画のことを知ってる人がいるくらいだ。茜ちゃんが珍しい苗字だったことも幸いしたね」
そこまで言われて、僕は気付いた。
「もしかして――」
「ああ、父さんの耳にもばっちり入った。世間体を気にする小心者だからね。『銀山先生の息子さんが結婚されるという四季宮さんって――』なんて言われたら、尻尾を巻いて逃げ出すだろうよ」
依然愉快そうに、銀山さんは言う。
「いや、けしかけたのは僕だけどさ。まさかここまで大胆なことをするとは思わなかったから、僕は昨日の夜からすごく気分がいいんだよ。うん。若者っていうのは、こうじゃないとな」
自分もそんなに歳をとっていないだろうに、ずいぶんと年寄りみたいなことを言う。
「一応、僕からも父さんに念押ししておくよ。まあ今回の件は、破談になったと思っておいて間違いない。頑張ったね、二人とも」
なんだか銀山さんがすごくいい人に見えてきて、僕は釈然としない気持ちのまま頭を下げた。そんな僕を見て、銀山さんは楽しそうに言った。
「しけた顔するなよ。僕の評価は変えなくていい。藤堂君が動かなければ、僕は何もするつもりがなかった。事なかれ主義のクソ野郎だと、思っていて間違いないよ。ただまあ――」
そして四季宮さんの顔をちらりと見て、優しく笑ってこう締めくくった。
「これ以上、茜ちゃんが悲しむ姿をみなくて済むのは、とても嬉しいんだ」
こうして、ある種あっけなく、銀山さんとの結婚の話は破談となった。
なんだか拍子抜けするくらいあっさりとした幕切れで、実感がわかなかったくらいだ。
その後僕たちは、四季宮さんの家に向かった。
結婚の問題は解決したが、家庭の問題は解決していない。
四季宮さんを精神的に縛り付けていたお父さんと、暴力を振るっていたお母さんとは、話をつけなくてはならないと思っていた。
だけどこちらも――とてもすんなり解決した。
理由は、四季宮さんのお母さんだ。
「ごめんね茜、今まで、本当にごめんね……っ!」
家に帰るや否や、お母さんは四季宮さんに抱き着いて、涙ながらに謝罪をした。
四季宮さんがなだめ、ようやく落ち着いて話せるようになると、お母さんはとつとつと語り始めた。
クリスマスイブの夜。四季宮さんがホテルから逃げ、連絡も完全につかなくなった時、お母さんは銀山さん一家やお父さんの前で、全てを洗いざらいに告白したという。
自遊病のこと、自分か恒常的に暴力を振るっていること、家庭内の歪さを。
それらを語ったのち、お母さんは四季宮さんとの結婚をどうか諦めて欲しいと懇願したそうだ。
「あなたが逃げ出してくれたことで、ようやく踏ん切りがつくなんて……ほんと、情けない親でごめんね……」
お母さんはさらに、自分が暴力を振るっていたことを保健所に自白するつもりだと言った。
「私は……いえ、私とあの人は、罰を受けなくちゃいけない。大人として、あなたに自由な道を与えることが出来なかった、その責任を果たさなくちゃいけないの」
そこから先の話は、家庭の込み入った話になると思ったから、僕はお暇することにした。
僕がついて行ったのは、四季宮さんの身に危険があるかもしれないと、もしかしたら彼女がちゃんと本音を言う前に、おびえてしまうかもしれないと思ったからだった。
だけど四季宮さんは、お母さんと静かに、穏やかに話すことができていたから。
僕は必要ないと、そう判断した。
こうして、全ての事態は収拾した。
とてもとてもスムーズに、なんの障害もなく終わったので、僕たちの葛藤は一体何だったのだろうと、思ってしまいそうになる。
だけどよくよく考えてみれば、もともと歪な歯車の上で成り立っていた舞台だったのだ。
大人たちの欲望でギトギトと脂ぎった歯車は、だけど四季宮さんという子供が負担をうけることで、耳障りな音を立てながらも、それでもどうにか回っていた。
だけど今、四季宮さんは立ち向かう勇気を得て、一つ、大人になったから。
歯車のサイズが大きくなって、大人たちの欲望を押しのけられたから。
上に乗った舞台は、あっけなく崩れ去ったのだろう。
もし、そのちゃぶ台返しに、僕の意志も少し噛むことができていたならば――それは少し、愉快なことだと思った。
怒涛のような一日から数週間が経った。
四季宮さんとは連絡を取っていなかった。
身内のごたごたで忙しいだろうし、「何かあればいつでも連絡してください」とメッセージは送っておいたから、便りの無いのは良い便りということで、僕は普段通りの生活を過ごすことにした。
とはいえ、気になる物は気になる。
受験本番を来月に控え、最後の調整に入っていた僕は、けれど一日に何度もスマホを確認して、意味もないのに起動したり、メッセージアプリをオンにしたりして、そわそわと彼女からの連絡がないかを確認していた。
「――っ!」
丁度スマホを手に取った瞬間、メッセージが届いた。
四季宮さんだ。
瞬時に心拍数をあげた心臓を必死になだめながら、僕は彼女からのメッセを読む。
内容はこうだ。
『連絡が遅くなっちゃってごめんね。色々とバタバタしてて。でも、大丈夫。万事順調……とまでは言えないけど、無事に話し合いは進んでるから。詳しい内容は、長くなっちゃうし、暗くなっちゃうかもだから、ここには書かないでおくね。私が今回メッセージを送ったのは、真崎君に伝えたいことがあったからなんだ。あのね、真崎君。私――』
『来週、引っ越すことになったの』
すべての話を聞き終えて、だけど僕は何一つ言葉をかけられずにいた。
何を言えばいいのか、第一声をいつあげればいいのか、分からなかった。
「とりゃ」
「ちょっとちょっと……何するんですか急に」
「いやー、声出す機会を逸してるのかなーと思って」
それはそうなんだけど……。
つままれた鼻をさすりながら、一口、コーヒーをすすった。
あの後僕たちは、近くのコーヒーショップに立ち寄り、カウンター席に並んで座りながら話をした。正確には四季宮さんが身の上を話し、僕がその話を聞いていた。
四季宮さんの過去は、想像していたよりもずっとずっと壮絶で、今こうして彼女が笑えていることが奇跡だと思うくらいだった。
「真崎君は、大人になったんだね」
「何の話ですか?」
「ううん、なんでもない」
四季宮さんは静かに首を振って、
「うらやましいな」
ぽつりと、つぶやいた。
僕のどのあたりをうらやましいと思ったのかは分からない。グラスに入ったアイスコーヒーをくるくるとマドラーでかき混ぜる彼女の真意を、僕は読み取れない。
だけど、そのセリフには既視感があった。
少し記憶を巡らせて、修学旅行の夜、織江さんのもとに向かう御影を見て、僕が呟いたのと同じ言葉だと気づいた。
あの時はまだ、何をうらやましいと思ったのか、ちっともまったく分かっていなかったのだけど……今にして思えば、僕は御影たちのような、明確なゴールがある関係を羨んだのだろう。
御影が素直になれば、円満に幸せになれる。そんな単純明快な道筋の上を歩く二人を、うらやましく……もしかしたら少し、妬ましく思ったのかもしれない。
行先の見えない道を歩くことに、不安を感じる。
きっと同じなんだ、僕も、四季宮さんも。
だったらもしかしたら……僕の言葉も届くかもしれない。
「四季宮さん、僕は自分の幻視がずっと嫌いでした」
「……うん」
「だけど四季宮さんが幻視のことを素敵だって言ってくれたから、僕はちょっと見方が変わったんです」
いつだって彼女は、僕の幻視を否定しなかった。
いいなあとか、素敵だね、とか、そんな風に肯定的に捉えてくれた。
「そして実際この幻視は、四季宮さんを助けるために、二回も役に立ちました」
一度目は、クリスマスパーティーのあの夜。
僕が四季宮さんの手をひいて、テラスに向かって走った様をみて、銀山さんは僕に情報を与えてくれた。
二度目ついはさっき。屋上から飛び降りようとする四季宮さんを、すんでのところで助けることができた。
幻視なんて能力、あっても意味がないと思っていた。
たった六十秒先の未来が視えるだけのささやかな異端に、なんの期待も抱いてはいなかった。
だけど、その幻視の力で変えた未来が、銀山さんの気持ちを動かしたり、四季宮さんの死を救ったりして。
ほんの少し先の未来を変えることが、無意味ではないと僕は知った。
「きっと、些細なことで未来は変えることができるんです。先の見えない道でも、あらがえないような未来でも、少しだけ頑張ることで、結末を変えることができるかもしれない。――だから四季宮さん」
僕は言う。
「一緒に戦いませんか?」
「……え?」
「もし、四季宮さんが、現状にあらがいたいと思っているのなら。もし……その意志があるのなら、一緒に立ち向かってみませんか?」
四季宮さんは視線を落として答える。
「……ダメだよ。私は……あらがえない」
「でも、気持ちはあるんですよね?」
同じだった。
僕も彼女を救いたいと思いながら、だけど明確なビジョンがないから、足を踏み出すのをためらっていた。気持ちだけが先走っただけの、前のめりな状態で走り出すなんていけないことだと思っていた。
きっと、四季宮さんもそうだ。
現状を打破したい。立ち向かいたい。
そう思ってはいても、自分が戦う姿を想像できないから、こうして最初の一歩が踏み出せずにいるのだろう。
正解がない道の上を歩くのは怖い。
真っ暗な闇の中を、ただ一人、ランタンも持たずに前に進み続けるのは至難の業だ。
でも、二人なら。
二人でいることができるのならば。
その恐怖もやわらぐと思うんだ。
「僕はとても頼りないですし、臆病ですし、腑抜けてますし、何のとりえもない、本当に冴えないやつです。だけど――」
僕は下唇を噛んで、四季宮さんから視線を外す。
目を見て言えるだけの度胸は、まだなかった。
「し、四季宮さんの幸せを願う気持ちとあなたを助けたいって気持ちだけは誰にも負けないつもりです」
からりと、グラスの中で氷が鳴った。
四季宮さんはマドラーに手を添えたまま、固まったように僕を見ている。
数秒が経って、数分が経って、僕は段々と恥ずかしくなってきた。
なんで何も言わないんだろう。
もしかしたら、僕はとても見当違いなことを言ったんじゃないだろうか。
そんな不安が脳裏に浮かび始め、そわそわと指を動かし始めた時。
「もう一回言って?」
「え?」
「早口で聞こえなかったから、もう一回、言って?」
「それはちょっと……」
「お願い、真崎君」
四季宮さんは僕の手を握った。
「ゆっくり、もう一度、言葉にして欲しいんだ」
彼女は言う。
「咀嚼するみたいに、噛んで含んで、舌の上で転がして……それで、大切に、大切に、言葉を紡いで欲しいんだよ。だって、きっと私は――その言葉で、救われるから」
僕は。
四季宮さんの真摯な瞳にあてられて。
彼女の切実な声に背中を押されて。
彼女の言う通り、もう一度、同じ言葉を口にした。
句読点を、しっかりと打って。
「四季宮さんの幸せを願う気持ちと、あなたを助けたいって気持ちだけは……。誰にも、負けないつもりです」
今度はゆっくりと、しっかりと、言葉を区切って、四季宮さんに伝わるように、彼女の目を見て言った。
四季宮さんは、
「そっか……。うん……うん……。ありがとう、真崎君」
泣きながら、だけどこれまで見た中で一番、とびっきりの笑顔で、応えた。
「それじゃあ私も……頑張らなくちゃね」
※
そうして紆余曲折を経て、様々な寄り道をして、ちょっとした困難を乗り越えて、ようやくスタートラインに立った僕たちだったけれど。
思いのほかあっさりと、決着はついた。
翌日、僕たちはまず銀山さんのところに向かった。
もちろん、特に策があるわけではなかった。
今回の一件に関わっている人間の中で、一番まともに話が通じそうな相手が銀山さんしかいなかったというだけの話だった。
四季宮さんが連絡を取ると、今日は出勤しているという話だったので、いつも彼女が通っているという病院で待ち合わせをして、話をした。
銀山さんは開口一番、こう言った。
「いやはや、まさかこうなるとは思わなかったよ」
「えっと……どういうことですか?」
僕が問うと、大層愉快そうに、彼は続けた。
「なんだ、知らないのかい? これだよ、これ」
銀山さんは自分のスマートフォンを取り出すと、SNSアプリを立ち上げて、一本の動画をタップした。
瞬間、
『四季宮茜ぇええええええええええええええええええええええええええええ!』
僕の声が、部屋の中に響き渡った。
「え、これ、なんですか?」
「またずいぶん人が多いところで叫んだみたいじゃないか。面白がった人が撮影して、投稿。そのままあっという間に拡散されて、今じゃブログとかまとめサイトとかにも出回ってるみたいだよ」
「これが、ですか?」
「そ、これが」
「め、めちゃくちゃ私の名前とか入っちゃってるじゃないですか……!」
なんなら最後の方は、僕の手を取って走り出す、四季宮さんの姿までばっちり映っていた。
あの時動画を撮っていたのは何も一人だけではないらしく、あらゆる角度から撮られた動画が、いくつもアップロードされていた。
「それがいいんだよ。今じゃ病院の関係者ですら、この動画のことを知ってる人がいるくらいだ。茜ちゃんが珍しい苗字だったことも幸いしたね」
そこまで言われて、僕は気付いた。
「もしかして――」
「ああ、父さんの耳にもばっちり入った。世間体を気にする小心者だからね。『銀山先生の息子さんが結婚されるという四季宮さんって――』なんて言われたら、尻尾を巻いて逃げ出すだろうよ」
依然愉快そうに、銀山さんは言う。
「いや、けしかけたのは僕だけどさ。まさかここまで大胆なことをするとは思わなかったから、僕は昨日の夜からすごく気分がいいんだよ。うん。若者っていうのは、こうじゃないとな」
自分もそんなに歳をとっていないだろうに、ずいぶんと年寄りみたいなことを言う。
「一応、僕からも父さんに念押ししておくよ。まあ今回の件は、破談になったと思っておいて間違いない。頑張ったね、二人とも」
なんだか銀山さんがすごくいい人に見えてきて、僕は釈然としない気持ちのまま頭を下げた。そんな僕を見て、銀山さんは楽しそうに言った。
「しけた顔するなよ。僕の評価は変えなくていい。藤堂君が動かなければ、僕は何もするつもりがなかった。事なかれ主義のクソ野郎だと、思っていて間違いないよ。ただまあ――」
そして四季宮さんの顔をちらりと見て、優しく笑ってこう締めくくった。
「これ以上、茜ちゃんが悲しむ姿をみなくて済むのは、とても嬉しいんだ」
こうして、ある種あっけなく、銀山さんとの結婚の話は破談となった。
なんだか拍子抜けするくらいあっさりとした幕切れで、実感がわかなかったくらいだ。
その後僕たちは、四季宮さんの家に向かった。
結婚の問題は解決したが、家庭の問題は解決していない。
四季宮さんを精神的に縛り付けていたお父さんと、暴力を振るっていたお母さんとは、話をつけなくてはならないと思っていた。
だけどこちらも――とてもすんなり解決した。
理由は、四季宮さんのお母さんだ。
「ごめんね茜、今まで、本当にごめんね……っ!」
家に帰るや否や、お母さんは四季宮さんに抱き着いて、涙ながらに謝罪をした。
四季宮さんがなだめ、ようやく落ち着いて話せるようになると、お母さんはとつとつと語り始めた。
クリスマスイブの夜。四季宮さんがホテルから逃げ、連絡も完全につかなくなった時、お母さんは銀山さん一家やお父さんの前で、全てを洗いざらいに告白したという。
自遊病のこと、自分か恒常的に暴力を振るっていること、家庭内の歪さを。
それらを語ったのち、お母さんは四季宮さんとの結婚をどうか諦めて欲しいと懇願したそうだ。
「あなたが逃げ出してくれたことで、ようやく踏ん切りがつくなんて……ほんと、情けない親でごめんね……」
お母さんはさらに、自分が暴力を振るっていたことを保健所に自白するつもりだと言った。
「私は……いえ、私とあの人は、罰を受けなくちゃいけない。大人として、あなたに自由な道を与えることが出来なかった、その責任を果たさなくちゃいけないの」
そこから先の話は、家庭の込み入った話になると思ったから、僕はお暇することにした。
僕がついて行ったのは、四季宮さんの身に危険があるかもしれないと、もしかしたら彼女がちゃんと本音を言う前に、おびえてしまうかもしれないと思ったからだった。
だけど四季宮さんは、お母さんと静かに、穏やかに話すことができていたから。
僕は必要ないと、そう判断した。
こうして、全ての事態は収拾した。
とてもとてもスムーズに、なんの障害もなく終わったので、僕たちの葛藤は一体何だったのだろうと、思ってしまいそうになる。
だけどよくよく考えてみれば、もともと歪な歯車の上で成り立っていた舞台だったのだ。
大人たちの欲望でギトギトと脂ぎった歯車は、だけど四季宮さんという子供が負担をうけることで、耳障りな音を立てながらも、それでもどうにか回っていた。
だけど今、四季宮さんは立ち向かう勇気を得て、一つ、大人になったから。
歯車のサイズが大きくなって、大人たちの欲望を押しのけられたから。
上に乗った舞台は、あっけなく崩れ去ったのだろう。
もし、そのちゃぶ台返しに、僕の意志も少し噛むことができていたならば――それは少し、愉快なことだと思った。
怒涛のような一日から数週間が経った。
四季宮さんとは連絡を取っていなかった。
身内のごたごたで忙しいだろうし、「何かあればいつでも連絡してください」とメッセージは送っておいたから、便りの無いのは良い便りということで、僕は普段通りの生活を過ごすことにした。
とはいえ、気になる物は気になる。
受験本番を来月に控え、最後の調整に入っていた僕は、けれど一日に何度もスマホを確認して、意味もないのに起動したり、メッセージアプリをオンにしたりして、そわそわと彼女からの連絡がないかを確認していた。
「――っ!」
丁度スマホを手に取った瞬間、メッセージが届いた。
四季宮さんだ。
瞬時に心拍数をあげた心臓を必死になだめながら、僕は彼女からのメッセを読む。
内容はこうだ。
『連絡が遅くなっちゃってごめんね。色々とバタバタしてて。でも、大丈夫。万事順調……とまでは言えないけど、無事に話し合いは進んでるから。詳しい内容は、長くなっちゃうし、暗くなっちゃうかもだから、ここには書かないでおくね。私が今回メッセージを送ったのは、真崎君に伝えたいことがあったからなんだ。あのね、真崎君。私――』
『来週、引っ越すことになったの』